2016年3月31日木曜日

もっとも必要とされることをなす用意


わたしに何をしてほしいのか。(ルカ18・41)
あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい(ピリピ4・6)
 
 道端にすわっていた、たった一人の盲目の乞食。けれども、ナザレのイエスは彼が叫んだとき、お立ちになったままだった。その乞食は群衆をかきわけて手探りで近寄ることができなかった。しかし、イエスは乞食に命令された。近くに連れて来てもらうように。主はなぜその貧しい男が叫び出したかをご存知であったが、主は彼に話させたかった。そこで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」と。

 その中にすばらしい約束を包むすばらしい主の問いだ!なぜなら 、神様の権能ある御子はこの貧しい盲目の乞食が求めていることは何でもなさる用意があったからである。彼はどのように求めたか。先ず何よりも彼自身が最も求めたということだ。彼が求めなければならないと考えたことでなく、誰かが彼に求めるように教えたことでもなく、他の人が求めたことでもなく、ただ彼が求めたことであった。

 次に彼はすぐに奇跡を求めた。ふさわしいかどうか、ナザレのイエスはどのようにそれをするのか、あまりにも大仰なことので直ちに求められないかどうか、人々が彼を大胆過ぎると考えるかどうか疑問をもって立ち止まりはしなかった。彼は自らが求めるものを知っていて、ナザレのイエスができることを信じていた。だから求めたし、それで十分だった。

おお、やさしいお方。
おお、権能あるお方、決して追い払われることがない
罪人や悩める者を、あなたは今日でも同じお方だ
愛においても、力においても同じ、
あなたは依然として待っておられる 
身許に来る多数の人々をいやすために。
そうだ「思う者は」(マタイ16・25)来たれ!

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-31-ready-to-do-what-is-most-needed/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97255です。

4章 ただあなたのために(5)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 1872年には登頂する彼女がスノードン※の山頂にいることを知る。彼女に言わせるとウエールズはスイスと比べて「バラのそばの忘れな草」ほど劣ってはいない。彼女のお気に入りの山の句は「おお、主よ、私たちはあなたに感謝をささげまつる。あなたのお名前近くあるものは、あなたのすばらしき作品であることを宣言しています。」※イングランドとウエールズの境にある山
 1873年にはフランシスは再び彼女の愛するスイスに今度は友だちであるスネップ夫妻と彼らの娘のエミリーと一緒に戻った。ちょうどこの訪問の間に彼女の高揚せる精神と体活動の喜びはあわや悲しむべき大惨事に導かれそうになった。彼女は凍れるスロープをすべり、折にかなって慎重さが必要な興奮をもたらす「制動滑降」に完璧な情熱を燃やしたが、彼女とガイドは底なしの断崖に真っ逆さまに落とされたのだ。二人のいのちを救ったのはスネップ氏の沈着冷静さであった。
 1874年にはスイスがフランシスの姪と他の友人たちを仲間に加えての彼女の再び再訪問の地とされた。「ファウホルンの日没」ということばの絵はこの旅路の期間、故郷に「回覧する手紙」の逸品となったが、余りにも長文なのでここに引用するわけにはいかない。

※昨日、読み終えた本の表紙絵である。一人でも多くの人にこの作品を読んでいただきたいと思わずにはおれなかった。2012年に亡くなった囚人写真家ポーランド人ブラッセのアウシュヴィッツ収容所内の生活を再現したノンフィクションの作品である。最後の最後、この本が記す次の言葉は重い。「善良の神だろうと写真家だろうと、一人の女を心の底から幸せにはできないということを忘れてはならない」。しかし、敢えて言いたい。聖書の神は「思う者は」〈マタイ16・25〉「来たれ」と今日も呼びかけておられる。) 

2016年3月30日水曜日

忠実なこと

わずかなものに忠実(マタイ25・21、23)

 二タラントしか持たなかったが、それでもって忠実に商売したしもべは、五タラント持っていたしもべに語られたと全く同じ栄誉あるおことばをいただきました。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25・23)
 
 主イエス様があなたに対して、ほんとうにあなたに対してですよ、そう言われていることを耳にするとしたらそれはどういうことなのか考えてみなさい。おお、どんなに甘美で祝福あることばであることでしょうか。あなたに向けてそのような驚くべきやさしいことばがやさしい声で発せられるのをあなたはどのように聞くでしょうか。

 けれども事実、主はあなたにそう仰ることができるのでしょうか。あなたは「小事に忠実」ですか。主は誰にでも忠実であるようにわずかのものを与えておられるのです。だから主はあなたに対してもわずかなものを与えられたのです。

 あなたの「わずかなもの」とはまさしくわずかで小さいものです。けれども、主はあなたが忠実であることを期待しておられるのです。いったいどうあることが忠実なのでしょうか。

 その意味するところはあなたが最善を尽くすことです。あなたがお金でできる限りのことをイエス様のためになすことです。たとえあなたがほんの少ししか持っていなくてもです。時間もまたできる限り与えられた時間をささげることです。

 あなたはこのことにためいきをつき、自分がどんなに不忠実かと思うでしょう。あなたは自分を「良い忠実なしもべ」と呼んでくださる主に対してふさわしくないと知っているでしょう。

 しかし、ただちにやさしい主のところに来て主に不忠実さのすべてを許していただくように、そして今日忠実にしていただくように求めなさい。そうすれば、どんな小さなことでも「わずかなものに忠実」ということを思い起こすことが役に立つと悟るでしょう。

唯一の、おお主よ、あなたのやさしい愛のうちに
私たちを上なる完全な休息に憩わせてください
そして、毎日私たちを助けて
祈るたびにもっと近く生きられるようにしてください。
王にお仕えするのに心が冷たくならないようにしてください
正しく、忠臣らしく、気高く、真実で大胆でありますように
主よ、私たちがあなたのすばらしい恵みによって 
つねに主の側に、救い主のものとして守られますように

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-30-faithfulness/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97254です。今日の詩も訳出が困難であった。原文をお確かめください。
 4章 ただあなたのために(4)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
  私たちがさらに登ったとき、曙光がバラ色の光をミッシャーベル、ヴアイスホルンに射した。そしてMonte Leonもよみがえった。その光景はまさにバラが燃えるようで、繊細でありながら強烈であった。ヴアイスホルンはかつて私が見た地上のいかなるものよりはるかに完璧に愛らしく見え、栄光に満ちていた。マッターホルンの頂上がそのゴツゴツした岩壁に赤い光をとらえたときは、まるで火山のようであり、愛らしいと言うより恐ろしく見え、人に悪魔の考えを与えるものであった。悪魔は静かに栄光あふれ完全に純粋な聖なる天使からあとずさりして、なすすべもなく怒っているようで、その天使を地上の何かで代表させるなら夜明けのヴアイスホルンがそれにあたるのかもしれない」) 

2016年3月29日火曜日

私の神と私

神は、私について定めたことを、成し遂げられる(ヨブ23・14)

 このみことばが内包していることは驚くべきことだ。人は聖書の全書簡を現在と未来、見えるものと見えないもの、恵みと栄光を見るために読むべきだ。それらは主が私たちのために定められたことだからである。また、このみことばは「神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです」(エペソ2・10)ということをも含んでいる。

 それらの成就は私たちによるのでなく、主による。なぜなら主が「あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださる」(ピリピ2・13)からだ。また「私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから」(イザヤ26・12)だ。美しい昔の訳は主は「御手のうちにある目的を遂行される」と言っている。それは今日の私たちにとり、みことばを大変現実のものとさせるのではないだろうか。

「私の手にある」というまさにその事実、今日の自分特有のちょっとした働き、これが私が管理できない要因であり、私が自分自身の力を誤算して着手すること—これこそ私が主に「私のために」していただくように頼むことであり、その結果、主が成し遂げてくださることを確信し安心することなのだ。「正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にある」(伝道9・1)のだ。

全生涯の長きにわたって、私たちは内外にその必要を求めている
それは日ごとに生ずる必要、忍耐・知恵・力、そして恵みだ。
必要のすべては、とりわけイエス様を必要としている、
私たちは主を求めている。
そのあなたの必要を神様がすべて与えてくださるとは、
どんなに恵み深い主のお答えであろうか。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-29-my-god-and-i/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97253です。

4章 ただあなたのために(3)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 スイスからすぐ後に、フランシスはスコットランド高地地方を行き来した。その景色は彼女を大変喜ばせた。
 1871年にフランシスは再度友だちのエリザベス・クレイと一緒にスイスを訪ねた。二人は数週間続けざまのもっとも楽しい旅行を経験した。私たちの女流詩人は有頂天になってアルプスの夜明けと日の出を描写している。「私たちは太陽が出て来た時、ティンダル※の述べている"daffodil sky"を見た。東の空にまるで単なる通常の太陽の代わりに次には何か確かな天的なものがやってくるにちがいないかのように静かにして期待にそぐわない栄光ある光だった。南西には崇高な山々が白く全き清澄さをもって屹立していた。それはまるで眼下の深いローヌ川の渓谷が真っ暗で墓のようであったのとは対照的に、山々の上には青白くきらきら輝く月を伴って、よみがえりを待っているかのようだった。※ティンダルはhttps://en.wikipedia.org/wiki/John_Tyndallを参照のこと。) 

2016年3月28日月曜日

出し惜しみしない


私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ8・32)
 
私のものは、全部おまえのものだ。(ルカ15・31)

 主は愛する子どものために出し惜しみせず、彼らからは何も留保されない。そして私たちが今受け入れることができないものを主は私たちのために保持しておられる。主は私たちに「ひそかな所の隠された宝」(イザヤ45・3)を下さるが、やがてもっと与えられるであろう。栄光を讃えられた知性は主の叡智と知恵の宝で絶えず満たされることであろう。しかし、聖別された知性は主のために用いられるし、用いられねばならない、そしてそれは今や主のためにだけであることに注意したい。

なぜなら、神お一人だけのためにある唯一の働きは
喜びという終ることのない報い 
偉大な成功という見方からも崩壊する損害によっても 
影響も受けない報いを持つからだ 

日の下にあるすべては空しい 
なすことに喜びがあっても、完成される時、飽きが来る

なぜなら分析に注意を向ける人は少ない 
複雑な力のうちにある複雑な動機
それは一見していくつかの全く単純な道なのだが

まつわることのない一つのかせが驚かせるのだろう
恐らく、「真心」は知られることがないだろう
神だけに生きるささげられた生活を除いては

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-28-no-withholdings/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97252です。今日の箇所は依然として訳出の困難なところであった。原文をお確かめいただきたい。なお下のハヴァガルの名文も全くブログ氏の迷文となっていることを諒とされたい。

4章 ただあなたのために(2)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 かくしてフランシスはライン滝について次のように描写している。「ライン滝を見下ろせるとは何と魅惑に満ちていることか、そこには荒々しい急流が、ガラスのように透明な川面、岩棚を急ぎ流れ落ちる。その上、川の下には絶壁があり、そこはいかなる深さよりも深く、その暗部をしかとは見下ろせず、エメラルド色と雪が驚くばかりに混ざり合い染み込んでいるのだ。見上ぐれば、輝くばかりの大量の水が永遠に抗えられることなく下へ下へと完全な力の喜びをあふれるばかりにあらわしながら流れ下る。遠巻きには陽光の中で躍り上がりきらめく何百万という粉々にされたダイヤモンドを見る。そして再び見下ろせばそこには大水の上に大水が巨大に挑みかかっては踏み越え、その様は一層異様な偉観であり、水しぶきの雲の中に半ば隠されているのだ。」
 この旅の間、フランシスは子ども時代に抱いた夢と待望を満喫し、初めて雪山を見た。彼女は深く感銘を受けた。「私が今まで形あるものや地上で見たことのないものだった」とフランシスは書き続ける。「私にはこの世のものとは思えないものであり天的に見えた。・・・人は透明な金や水晶の海と幾つかの点ですばらしいつながりを持つ目に見えない天の都を、単なる雪や大理石を想像するよりも、このようなライン滝※を目に見える礎であると想像してもいいのではないだろうか。」
※ライン滝についてはhttps://en.wikipedia.org/wiki/Rhine_Falls を参照されたし。) 

2016年3月27日日曜日

万事はあなたのためです


あなたには関係がないのですか( エレミヤ哀歌1・12)

 これは大きな悲しみについて言われました。この悲しみはエルサレムとその民の上に起こった恐ろしい悩みを経験したすべての人の心に触れたはずです。 

 しかし、これはまた主イエス様が私たちのために飲まれた、また私たちが主の喜びの川から飲むことができるように自ら進んで飲まれた、はるかに恐ろしい悲しみの杯の典型でもあります。

 聞きなさい。なぜなら、まるで主があなたや私に「道行くみなの人よ。よく見よ。主が燃える怒りの日に私を悩まし、私をひどいめに会わされたこのような痛みがほかにあるかどうかを。」

 よく見てください。主のいのちの全体がどのようであったか、主は悲しみの人で頭を横たえる場所も持たず、主ご自身の兄弟たちは主を信ずることを拒み、意地の悪いユダヤ人たちは主を憎み、何度も何度も主を殺そうとし、その上、その恐ろしい苦痛が主の前にあった間も、なお主は知っておられました。

 よく見てください。ゲッセマネの園にいる主を、主は苦しみのうちにあって言われました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」(マルコ14・34)

 よく見てください。主はむち打たれ、つばきをはかれ、小羊として虐殺へと導かれ、十字架に釘づけられました。死にまで苦しまれ、恐ろしい痛みで渇きを覚え、それでも痛みをやわらげるために飲まれず、すべての苦しみの真中で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27・46)と言われました。

 私たちの主イエス・キリストが私たちを愛するために全うされた悲しみのような悲しみが何かあったでしょうか。あなたには関係がありませんか。

 あなたはそれを見ても関心はないのですか。あなたはまるで主が愛されもせず、苦悩をも味わわれなかったかのように、側を通り過ぎそのまま進み続けるのですか。おお、これからは無関係だとしないで、どんなことにも関心を持ちましょう。ゲッセマネをあなたの平安と喜び、あなたの力と歌にしましょう。心を愛と感謝で満たしましょう。あなたのために苦しまれ死なれた主のために生きようと決心しましょう。

私にとって飲むには満杯で恐れのある杯だ
あなたは終りまで飲み干され愛されたから
「主は苦しまれた」
救い主、あなたの愛はそのようだ
死にまでいたる、知る由もない苦悩の神秘さ
その唯一の基準は推し量れない
主よ、ゲッセマネの悲しみにより
私の震える愛を永遠にあなたの上に印してください 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-27-everything-for-you/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97251です。今日の詩は訳出に苦労した。半分デタラメだ。しかし、それにしては不思議なのが、今日、この地でメッセージするように導かれたのが「ゲッセマネ」であった。もちろん今日がイースターであることを意識してのメッセージだったのだが・・・ハヴァガルの霊想は時代を越えて素晴らしいと思う。彼女の祈りのカードを載せた。これぞイースターにふさわしいカードだ。〈その画面をクリックしていただけばさらに大きい図柄で見られる〉そう言えば、今日はこどもたちが礼拝に出席した全員に漏れなくイースターエッグをプレゼントしてくれた。うれしい!

4章 ただあなたのために(1)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 フランシス・ハヴァガルの生涯は天性の才能を豊かに授けられただけでなく、環境もまた多方面にわたってもっとも幸せであり、恵まれていた。彼女は多く与えられた者は多く求められると言う真理のお手本であった。彼女を大層豊かに祝福し、それゆえ、他の人に豊かに分与することを取り計らった主を失望させはしなかった。
 すぐれたキリスト者の親戚や友人、それに彼女の出かける所々で愛の賞賛をもって大事にしたあらゆる階層の人々に取り囲まれている特権に加えて、中下層階級の生活のあらゆる薄汚さや意気消沈する心配から完全に免れる強さや楽しい仲間としばしば旅をする機会を持っていた。
 少女時代にはすでに見たように、彼女は長期間ドイツに滞在する恵みにあずかり、何ヵ所かの興味ある場所を訪ねた。そのあとアイルランドの姉の家を続けて訪問した。しかしもっと大きなできごとはフランシスがスイスを初めて見たことだった。それは1869年の5月に義兄のクレイン氏と奥さん、長女と一緒に旅したところだった。いつものように彼女が見たいたるところの景色やその地でわきあがってきたあらゆる感情を日記に書き記した。彼女の表現のいくつかはことばによる描写の珠玉の作品になっている。 ) 

2016年3月26日土曜日

義務が喜びとなる時

兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。(2テモテ2・4)

 この聖句には目ざすべき、また試みるべき価値あるものがあります。私たちの救いの将である主イエスは、私たちが兵卒となるように選ばれたお方であります。だとすると、主は私たちに私たちの義務を果たすように、つまり仕え、従い、戦うようにと仰っただけでしょうか。いいえ、それだけではありません。主はもっと多くのことを仰っているのです。主は私たちに万物の上を照らす太陽の輝きのように存在する、希望や大変な輝き・喜びを与えると仰っているのです。 

 主は私たちが「主を喜ばせる」(4節)と言っておられます。親愛な救い主を過去に悲しませたことに対して、どんなことが嘆きとなったかを知っている者だけが、このことばがどんなに幸せなことばであるかを完全に知ることができるのです。心が冷たく、軽率で、罪深く主の愛を何度も何度も悲しませた私たちは、結局主を喜ばせることができると語られているのです。

 おお、もし私たちが主を愛するなら、私たちの心はその望みでまるで跳び上がらんばかりになることでしょう。恐らく私たちは考えたことでしょう。このことは私たちが天国に行くまでにはあり得ないと。しかし主ご自身のおことばは仰るのです。私たちは今「主をお喜ばせすることができる」と。

それなら手であろうと、ペンであろうと、声であろうと
どんな小さなご奉仕でも
もし主お求めになるのなら、成るのです 
私の選びの奉仕、そして私自身の願いからなる奉仕にせよ
奉仕の分け前にあずかることはそれほど難しくありません 
もしひとたび私が知るなら私はついていきます 
主のより賢明なご意志、お心にしたがって

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-26-when-duty-becomes-pleasure/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97250です。

第3章 声と筆によって(16)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 子どもたちをやさしく愛した人であるハヴァガルにとって、子どもたちを神様の祝宴にあずからせることなく置き去りにすることは我慢がならなかった。そのために書かれたLittle Pillows※とbeing Good Night Thoughts for the Little Onesは大変用いられた。Morning Bellsbeing Waking Thoughts for the Little もかなり発行され、Morning StarsNames of Christ for His Little Onesがすぐそのあとに続けて発行されたほどだった。Brueyという「キリストのための小さな働き人」と題する本はたいそう愛されたし、The Four Happy Daysは「Annie」という名前で女流作家であるハヴァガルが自らの子ども時代の経験、特に母の死にかかわることを描いている素敵な物語の作品である。
 賛美歌、聖歌、また無数の雑誌・ブックレット・文書に関しても、ハヴァガルの疲れを知ることのないペン先から次々編み出されたものであり、私たちはそのことに触れずに語り過ごすことの出来ないものである。また彼女の私的な手紙も膨大であり、個人宛に宛てた手紙の中には彼女の愛らしい態度や強い熱情、輝き、実際的な敬虔が最上の形でしばしば散見される。

※「小さな枕」と題してすでに大正4年に白井胤禄氏の手で訳されている。この本がどんなにすばらしいものであるかは一読されればわかる。英語はネットで読むことができるし、邦語は国会図書館のデジタルライブラリーから引き出すことができる。なお母の死に関わる証しは一連のこのThe Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappell のシリーズが終了次第引き続いて紹介したいと思っている。明日からはいよいよ最終章Only For Thee!である。) 

2016年3月25日金曜日

走るための競争

いっさいの重荷を捨てましょう(ヘブル12・1)

 もしあなたが競走したかったら、まずあなたが携行している荷物を全部脇に置くことでしょう。あなたには今日走るべきレースがあります。あなたの前にあるのは全レースのほんの小部分です。神様はあなたの前に「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠」(ピリピ3・14)というすばらしい褒美を置かれているのです。それは朽ちることのない冠です。あなたは重荷をどうするつもりですか。その重荷はあなたが競走するのを妨げるのです。

 ご承知のようにいくつかのものはあなたを妨害するように見えます。あなたはそれらを持ち続けますか、それとも捨てますか。 あなたは誰もがあなたを妨害すると知っているものを捨てるだけで、その結果あなたは他の誰にも知られなくてもあなた自身の意識でほんとうの妨害になると知っているものを保持するために小さいとは言えそれに利便を与えるのですか。

 私たちが愛玩するものを捨てるのは難しいように見えるかも知れません。しかし、おお、もしあなたがそれが捨てられる時私たちがどのように光を感ずるか、そして神様が私たちの前に置かれている競走を走るのにどれだけはるかに容易なのかを知ることができましたのなら、どんなにすばらしいことでしょうか。

キリスト者の標準を公開しなさい、しっかりとした恐れのない手で。
なぜなら、いかなる悪魔の軍団との妥協という青ざめた旗も
また、不幸や悪と休戦するという失神せんばかりのいかなる旗も
十字架の兵士たち、忠実で強い者たちを導くはずがないからです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-25-a-race-to-run/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97249です

第3章 声と筆によって(15)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 しかし、恐らく祈りの世界においてハヴァガルの散文の作品ほどその詩作品よりもはるかに馴染みを与えたものはないであろう。Kept for the Master's Useという小さな本は、ほとんど読者に思い出させる必要さえないのだが、F.R.H.自身の広く歌われた聖歌の12のカプレットを持ち、あらゆる宗派を越えて最も献身的な信者によって推賞されているキリスト者の古典である。My King, or Daily Thoughts for the King's Childrenほど広く読まれていない本はほとんどない。この作品と同じシリーズの三つの同類の本—Royal Commandments, Royal Bounty, Royal Responsesは旧約聖書の特にダビデ王の事蹟を扱う無数のほとんど知られていない章句についてもっともすばらしいぴったりした意味づけを示すものである。ハヴァガル嬢は主とキリストのしもべとの間の隠された言及を発見することにおいてすぐれた洞察力—時々人はその洞察力を彼女の創意工夫と呼びがちなのだが—を示している。The Royal InvitationStarlight through the Shadowsもまた彼女の一連のお気に入りの作品にやや似ているものである。) 

2016年3月24日木曜日

主のご用のために生かされて

F.R.H.の祈り※

それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。(ピリピ1・20)


 献身は宗教的な利己心のあらわれではない。もし献身が利己心にはまってしまうなら、献身は止む。私たちは私たちのいのちが生かされることを望む。しかし、それは私たちが幸せに感じ、さまよったあげく苦悩から救われ、神と人の力を得、すべての他の特権が献身とつながっているということではない。

 私たちはこのすべてを持つであろう。より低次元のものはより高次元ものにふくまれるからである。けれども私たちの真の目的は、キリストの愛に私たちが束縛されるのなら、これよりはるかにまさるものはないということであろう。すべてにあって「私のために」ではなく「イエス様のために」であり、私の安全ではなく主の栄光のためであり、私の満足でなく主の喜びのためであり、私が安息を見出すのでなく主が主のたましいの苦しみを見て満足されることだ。

 そうだ。主のために私は生かされたい。主のために生き、主の御用のために生き、主の証しのために生き、主の喜びのために生きることだ。主のために生きるとは、私のうちに主の光と美の小さな輝きを前面にあらわすことだ。主ご自身の方法で主の意志と働きをなすために生きる、主のために労苦し主がちょうど私を主の良しと見られることをしてくださるように生きることだ。

 もはや主以外のいかなるものも私を支配することなく、イエス様がすべてを所持されること—ほとんど十分ではないが、まことに、いかなる権利によっても分けられたり減らされたりはされない。これが、おお、主を愛するあなたではないか。これが価値ある生き方、価値ある待望、価値ある信頼ではないか。

「主はあなたの主である」
おお、私のもの。
たとえ他の神々が
過去に支配していたとしても、
今は私はあなたのお名前を知っている。
だからその偉大な音楽が唯一の鍵だ  
私のたましいは完全な一致に心震い
他の響きと調和し、偉大な音楽へと溶かされる
Blending with other notes but as they blend With this. )
おお、私のもの。
しかし、私はあえて言おうか。
失敗し、しばしば罪がなせる不一致、
調子はずれの弦に嘆きさまようのが私だ  
否認することはもっと大きな大胆さであろう
あなたが血をもって印された約束によって
私があなたのものであると私に明らかにされた時
「私のものではない」と言うことは

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-24-kept-for-the-masters-use/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97248です。今日の箇所も大変難しい文章であった。後半の詩は特に難しく、訳せないのでその部分は英文を併記した。

第3章 声と筆によって(14)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 The Ministry of Songはすでに指摘した通り、フランシスの最初の詩集であり1869年に出版された。この本に続いて一連の本、Under the SurfaceUnder His Shadowが出された。これらの本のすべては著者の霊的な啓示や霊感はもちろんのこと心の経験が前面に押し出されており、一人の批評家の解説によれば「真実と繊細さと美しさのともなう」ものだった。「それぞれの詩は」と有名な宗教週刊誌はUnder the Surfaceを述べて「いのちの歌であり、心の物語だ」と称した。誰もが著者の輝くばかりのいのちの喜びであった個人的な救い主へのその深い祈りをともに味わうことができる。これらの本の善い影響力はほとんど見積もりすぎることはない。なぜならこれらの本は何十万部の売れ行きにも達し、誰もが霊的に引き上げられることなしには読むことのできない本であったからである。)

※F.R.Hとは言うまでもなくフランシス・リドレー・ハヴァガルである。Behold thy King cometh unto theeと歌い上げるそのことばを口の端に上らせたい!絵はBaroness Helga von Cramm。) 

2016年3月23日水曜日

生けるみことば

これもまた、万軍の主のもとから出ることで、そのはかりごとは奇しく、そのおもんぱかりはすばらしい。(イザヤ28・29)
 
 目に見えないしずくで言い争ってはいけない。なぜなら、それは目に見えるにわか雨ではないからである。主はにわか雨を主のぶどう園に与えるのがほんとうに必要だったら、にわか雨を送られるだろう。しかし、主は別の形のご自身のことばを送られるので、あなたは主がそのことによってあなたがほんとうに求めているものを供給されるからだと、絶対的な確信を持つことができるはずだ。

 あなたはなぜそうなのかを見ることはできない。だから私は説明できるふりはしない。けれども、そのことはいったい何が問題となるのだろうか。主は主のぶどう園に水を注ぐのにどんな方法が良いか知っておられる。あなたが大変おぼろげに思い出したり、把握することができないで読んだりする、主のこういうことばは、喪失を回復する意図はない。

 それらのことばは、あなたが選びたいものとは全く違ったやり方に過ぎないが、あなたの魂に主ご自身の働きを今もなしているのだ。やがてそれらは新しい朝の光の中で輝くであろう。そして、あなたは新しく出発し、恐らくはひどくぐにゃっと垂れ下がっていたいのちの葉がその茎につながって、大層よみがえらされ、再びどれだけしっかりとくっついているかを不思議に思っている自分自身を発見することだろう。

私の心のうちにはすべてが沈黙している。私はあなたが聞いておられたことを知っている。
私はあなたの前に祈りをささげ、あの祝福された天の都へ私を導くあなたのことばに信頼する。主は(依然としてあらゆる私の道を選ばれる)そこでは星明かりが日中に溶け入るように、信仰が幻のうちに溶け入る。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-23-words-which-work/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97247です。今日の本文も難解であった。特に詩は難解である。篤と上記の原文に当たられたい。

第3章 声と筆によって(13)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 同じ精神で、フランシスは74年と75年にほとんど致命的であることが明らかになってしまった腸チフス熱の重症後の再発を神様の恩寵の特別なしるしとみなした。病気の初期において彼女は「試練にあって主に栄光を」帰せなかった。なぜなら「私は力をすっかり失った後、うめき、叫び、治癒を切に求めることなしには痛みに耐えることができなかった」からであると言い、それらのことを悲しみ、フランシスは病気の再発は神様の赦しの証拠であり、何度も「繰り返される課題」を学ぶ神様のやさしさに触れる機会であると思った。
 私たちが扱うこの限りある文章では我が国(イギリス)や海外の双方で広範囲に親しまれかつ愛されたフランシス・ハヴァガルの名前でなされた旋律豊かな詩から抜粋することは不可能だ。二三の彼女の作品に言及することで満足せねばなるまい。) 

2016年3月22日火曜日

神様の宝の宝庫への鍵

おまえは自分の作った物や財宝に拠り頼んだ(エレミヤ48・7)
 
 私たちを益するものは、主の良い宝から継続的に引き出されるものに過ぎません。それは「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識」(2コリント4・6)においてもそうです「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(2コリント4・7)

 私たちが他の人々を豊かにできるのはただ神様から与えられた宝をもってしかできません。他の人にひとことばをあげたいと思う時、通常、私たちが彼らにふさわしいと思っていることを投げかけるのでなく、主が私たちに新鮮に与えてくださった何かの宝を手渡すだけなら、もっと力をもってそのことばは来るようにみえます。

 主が私たちに宝の幾つかの輝ける断片を開かれる時、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ10・8)と言われていることを忘れないようにしましょう。また、「王の宝物倉を捜させ」(エズラ5・17)ないで、宝物を何かもっと別のところで開けようとして怠惰に待って立っていることがないようにしましょう。王の宝物倉こそ、宝物がしまいこまれ、私たちの王の法令や記録が見つけられる巻物の倉庫なのですから。

 それらはまことに隠された財産です。私たちは霊的な宝物の自分自身の倉庫を、記憶であろうと経験であろう恵みでさえも信じてはいけません。

主の愛が鍵、そして主の栄光が基準です
すべてを豊かにする恵みと知恵と光の
あなたには、この無限の宝が開かれるでしょう
あなたには、キリストのうちにある、まだ探し求められていない富が開かれているのです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-22-the-key-to-gods-treasure-house/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97246です。

第3章 声と筆によって(12)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 フランシスの作曲に関して、私たちがほとんど「逐語霊感」と呼んでいる彼女の強い感覚はあらゆる経験を積むことを可能にした。それは彼女が良いことであれ悪いことであれどんなことも等しく神様のご意志の秩序によるものだと信じて、完全に服従する精神の持ち主であったことと関係があった。
 このようにして、発行所で起きた火災によって六ヵ月の労作の結果が駄目になり、彼女が控えも、記憶を支えるメモも持っていなかった時、フランシスは自分が余りにも気をもんだので本を仕上げることができず(それはSongs of Grace and Glory〈恵みと栄光の讃美歌集〉の付録ではあったが)、彼女のもう一つの作品「own choosing and planning(自身の選びと計画)」を早めさせることだったのかもしれないと受け取った。その結果、彼女は神様が主のためにもっと根気強くこれらの賛美歌集を仕上げる別の機会を恵んでくださったことに感謝した。) 

2016年3月21日月曜日

七重の義認

律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。(ガラテヤ3・24)
 
 信仰によるこの栄光あふれる義認は七重の真理をふくんでおります。

1、「主の恵みによります」
 父なる神様の恵み、すなわち神様のもっともすばらしい名称の一つは、「イエスを信じる者」(ローマ3・26)が義とされることです。


2、「主の血潮によりて」
 そのたいせつな血潮は私たちのあがないと有効な救いと関連があります。そのあがない・救いは世界の基の据えられる始めから、ほふられる小羊のいのちの書に私たちの名前が書かれ、そのときから「新しい歌」(黙示5・9)のコーラスが天に満たされるまでであります。

3、「 一つの義の行為によって」「ひとりの従順によって」(ローマ5・18〜19)
 義の行為、従順によって、自由な賜物、永遠のいのちという、言葉で言い表わせない賜物—それどころか私たちのいのちであるキリスト御自身—により「すべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。」(ローマ5・18)

4、私たちの主イエス様のよみがえりによって
 主は私たちが義とされるために、再びよみがえられました。それは私たちの代理人であることの大きな証拠がまことに私たちのための完全な義を満たしたからです。 

5、「その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう」(イザヤ53・11)
 なぜなら、真の信仰は主を知る知識によって礎が据えられ、「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ること」(ヨハネ17・3)にあるからです。
 
6、信仰によって
 ただ神様のみことばを信じ、義に関する神様の方法を受け入れることです。 

7、みわざによって
 なぜなら、みわざは必要であり、信仰が単なる幻想や話しでなく、切っても切れない証拠であるからです。 

父なる神様の恵みによって、あなたがたは無条件に義とされます
それは死なれた主の血潮によって、買い取られた偉大なあがないを通してであります
主のいのちによって、あなたがたのために神様の命令が並外れて広範囲に実現されます 
主の栄光あるよみがえりによって、私たちの神様が証印を捺されるのです 
 
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-21-sevenfold-justification/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97245です。

第3章 声と筆によって(11)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 この二人の出会いの結果、互いのうちに楽しい文通が始まった。そしてその婦人がベアトリーチェ王女と昵懇の間柄であることを知らされた時、フランシスは長らく願っていた王室への仲介をとってもらうことに決めた。その本は快く受け入れられ、王女はお返しにその女流詩人、フランシスに自署した写真を贈った。それは王女もまたその詩を推賞していることの何よりも喜ばしい証拠であった。
 後年、フランシスより長生きした姉はフランシスの「9月」に関する一筆の中からの引用があるのを見て喜んだ。その引用が同じ王女によってヒースと秋の葉っぱのうちにリースで飾られた装飾模様の王女の芸術的な誕生日を記念する書物にあったからである。) 

2016年3月20日日曜日

心の中の孤独感を満たすためには

浅間山 明日春分  雪かむり

この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。(ヨハネ4・13〜14)

 まず、あなたはまた渇くことは全く当然だと知っています。地上であなたを満たす何かを見つけようとしても無駄だということです。次にイエス様はあなたに与え、あなたを満足させ、喜ばせる水をお持ちであるということです。三つ目は、あなたがこの水を飲み続ける限り絶えず満足し喜べるということです。四つ目は、あなたはそれを誰からも得られないし、またそれ以外のどんな他のものも得られないということです。イエス様がそれを与えられ、与えることの出来るのはイエス様だけだということです。五つ目にそのことはあなたに当てはまるに違いないということです。主が仰っているのは「誰でも」です。それはいかなる人でもという意味であります。

 そして主は仰る。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。」(イザヤ55・1)そしてさらに「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7・37)そして「わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」(黙示21・6)

あなたは、見出す
主のうちに、心の内にある「孤独感」を満たすもの
主のうちに、苦悩に対する、そして罪に対する即効的な解毒剤
主のうちに、心の中の言うに言われぬ必要に対する満足感
主のうちに、あなたが探し求めて来たすべてのもの、まことに人生の目標

 (今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-20-how-to-fill-an-aching-void/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97244です。

第3章 声と筆によって(10)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 ロンドンへの続く訪問の間、彼女はアマチュアのある音楽会の夕べに出席していた。一人のイタリヤ婦人が美しい歌声で歌うのに大変関心を持っていたからである。
 間もなくフランシス自身が歌うように招かれ、ヘンデル作曲のうちの一曲を演奏してから彼女の歌を仲間に披露するように頼まれた。彼女は「あなたは見たことのないお方を愛します」と「彼女はいつもたいへん喜んで歌った」という二曲を選んだ。その歌詞はみことば「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており」と喜びの規模を上げ、それから深まる愛情の感動すなわち「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」であったと姉は証言している。
 彼女がピアノを弾き終えるや、そのイタリヤの婦人は目に涙を一杯浮かべ、「ハヴァガルさん、私はあなたがうらやましい。あなたのことばと表情は私が持っていないものを持っていますね」とささやいた。 ) 

2016年3月19日土曜日

絶えず聖められよ

ハヴァガルが王女に差し上げたいと思った本

いつもあなたは白い着物を着(ましょう)伝道9・8
 
 いつもですか。どのようにしてそれが出来るんですか。白い着物はきれいに洗われても、またじかに汚れるのです。しかし神様は言われます。「いつもあなたは白い着物を着(ましょう)」と、主は不可能なことを行なうようには話されませんでした。あなたは着物を五分間とは白く保てないかも知れません。軽率な考えが着物の上に埃のようにやって来たり、悪い言葉が大きな黒いしみとなり、ずっと以前のいくつかの予期しない行動が泥沼に悲しくも落ち込ませるかも知れません。そしてあなたは悲しくなり恥ずかしくなることでしょう。

 しかし、なぜこのことはすべて何度も繰り返し起こるのでしょうか。私たちの愛する、長く苦しまれた救い主以外の誰も私たちに耐え、私たちのためにどんなことをするのも諦められないほどまで。なぜそうなのでしょうか。主の尊い血潮が私たちをすべての罪から私たちを聖めるのです。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(1ヨハネ1・9)恐らくあなたはこのことについて考えもしなかったでしょう。今日、このことをしていただくように主に信頼し、あなたがかつて過ごした日々の中でこんなに最も幸せな日があったか考えて見なさい。


そして主は私のためにこのすべてをなさる。
なぜなら悲しみのうちに木にかけられ
主はかつて罪人のためにかけられた
罪人の罪を拭い去るために
主は今も日々喜んでおられる 
主に信頼する者をきよくするために 
 
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-19-continually-clean/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97243です。

第3章 声と筆によって(9)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 もちろん、この聖別された若い才能ある人にとって、自分の詩や音楽が神様のお役に立ち祝福されることは深い喜びであった。フランシスは自らのものとなった高い栄誉をしっかりと受けとめた。「『イエス様のために歌うこと』は文字どおり、私にとっては私が愛する主からゆだねられた最大の個人的なまた直接の権能であるようだ。そのために与えられる機会はしばしば最も興味あるものであり、大変祝福されて来た。私の小さな詩『イエス様のために歌うこと』は個人的な体験に基づいている。」とフランシスは書いている。
 このつながりから言えば、フランシスの主のための働きの一例と関連するもので場違いのものはないのかもしれない。彼女の働きは絶えず完成され、一方では不思議に聞き入れられた祈りの結果であった。
 フランシス・ハヴァガルは親愛なるヴィクトリア女王の最も若い王女のために特に祈ることを習慣としていた。そしてある日、バロネス・ヘルガ・フォン・グラム※によるアルプスの花々や風景が美しく描かれた絵をともなう優雅に飾られた『Life Mosaic』の校正刷りの改訂する時、叫んだ。「おお、私はベアトリーチェ王女様にこの『Life Mosaic』を差し上げたいものだ!」
 しかし、フランシスが王女殿下に近づく手段は全然ないように思えた。だから彼女はそれを特別な祈りの課題にしていた。

 ※私たちはこの人の作品を次のサイトhttps://en.wikipedia.org/wiki/Helga_von_Crammで見ることができる。一見されよ。) 

2016年3月18日金曜日

主は永遠にあなたがたのために・・・

あなたがたのために貧しくなられました。(2コリント8・9)
わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。(ヨハネ17・19)
(彼らのために)その上の高いみくらにお帰りください。(詩篇7・7)
 
 私たちが主に求めることができる一切は、日ごとにおいて、また瞬間、瞬間においてもである。私たちに与えられる生涯は、小さなものであり、行ないにおいては現在、意志においては未来にすぎない。私たちが主にゆだねなかった過去に関する限り、それは余りにも遅過ぎて私たちは今それを主に与えることが出来ない。しかし私たちの過去は主に与えられなくても、主の過去は私たちに与えられる。おお、このことは何という大きな負債が私たちに示されていることであろうか。

 過去の永遠の薄暗い、ぼんやりとした深い時、「あるいは地と世界がかつて造られた」時に戻れば、父なる神様の傍らにいましたもうた主の神性はあなたがたにとってすべてであった。それはあなたがたのために目的を持ち計画を立て、あなたがたのために永遠のいのちの約束を受け入れ守るものであった。

 それから、この罪深い地で罪人の間にある33年間を過ごされた。私たちはそのことに十分思いを馳せることができるだろうか。すなわちゆっくりと流れた日夜の数々、重い足取りで歩まれた時間、決して急がされなかった分秒、それらは33年間の試みとへりくだりの集大成の瞬間の一つ一つであった。私たちすべては、どれほどゆっくりと時が経過して行くか知っている。それは苦悩と悲しみが近づき、私たちの主が私たちの弱さを免られたとみなす理由は一つもない瞬間・瞬間であった。

 それから、主の現在はあなたがたのためにある。今もなお主はとりなしをするために生きておられる。今もなお、主は「私を思って」くださり、今もなお「知って」おられ、「心配」し、「愛」してくださる。ですから、主の永遠にわたる全存在は「あなたがたのため」だと考えざるを得ない。父の名前を兄弟たちに永遠にいたるまで新たに伝えられ、すべての主の愛が折り畳まれることがない何百万年の時代にわたって。そのことを思い見よ。だから、私たちの貧しい小さな時間を主を礼拝するためにささげるのに躊躇することが何かあり得ようか。


主の働きすべてが終えられた、私たちは喜びをもって歌おう
イエス様は上られた。私たちの王に栄光あれ
祝福された地で主の子どもたちのために祈られる
彼らを栄光へと召し、彼らに恵みを送られる
主の輝かしい住まいを忠実な者、あなたがたのために備えて
イエス様はとこしえに生きておられ、なおも愛してくださる 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-18-his-eternity-for-thee/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97242です。

第3章 声と筆によって(8)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 フランシスは音楽について父の助言以上のやさしく愛ある助言や仲間を持たず、何もかも失くしてしまった。父の死後しばらくたったある朝、彼女は父がいたなら直ちに明確にしてくれたであろうと思う幾つかの難点に直面し当惑した。その時、彼女に次のみことばが光となって差し込んできた。「あなたはみなしごを助ける方でした」詩篇10・14このみことばはたちまちのうちに彼女を元気づけ、彼女が以後音楽作曲や詩作の双方において神様の助けを求める習慣になった。彼女は神様から直接送られるかのようにその思想や考えが導かれていった。

 「書くことは私にとって祈ることよ」と一人の友人に彼女は語った。「だって、私には自分の力では一つの聖句すら決して書けないのよ、小さな子どものように感ずるだけよ。こどもは一つ一つ文章を見上げ、『次どう言えばいいの』と言うでしょう。それと同じよ。私はどの行も主が私に与えたいと思われるものを求めるのよ、それはただ思想や力だけでなく一つ一つのことばもよ、もちろんリズムもよ。私は何度も何度も神様から直接答えをいただき、心がすっきりし、幸せ一杯になるのよ!」 ) 

2016年3月17日木曜日

動かす愛

というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。(2コリント5・1)
 
 あなたはキリストを愛していますか。もしあなたがほんとうに主を愛しているなら、確かなところあなたは主に明け渡し、主におまかせすることを決してためらわないでしょう。主はあなたを愛しておられますか。

 その質問はそのことを確かめる、より真実な方法です。というのは、それはキリストへの私たちの愛ではなく、私たちを取り囲んでいる私たちへのキリストの愛だからです。

 そしてこれが行動の要因であり、行動を維持する方式であります。蒸気機関は火が灯されない限り動きません。また火が消えても動きません。どれほど機械が完全であり燃料が豊かであっても冷たい石炭では動かすことも、動きを維持することもできないでしょう。

 主に、与えられる聖霊をとおして私たちの心に主の愛を及ぼしていただくよう求めましょう。そうすれば、日ごとの生活のあらゆる行動は終りなく、活力とさえなるでしょう。

主は小さな子どもたちをそのように愛されます。
かわいいエリックは主を愛しているでしょうか。
思うに、天使たちはエリックの上に虹の微笑みを投げかけているにちがいないでしょう。
それは彼自身よりももっと明るいでしょう。それはその答えが真実である証しです。
イエス様、親切で正しいイエス様。私を愛してください、そうです、私をも愛してください。 

 (今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-17-love-that-moves/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97241です。

第3章 声と筆によって(7)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 フランシスのピアノ演奏は天賦のものであり、歌を歌うことにかけても同様であった。ベートーベンを学んでいる生徒はかつて彼女の『月光』の演奏が「完全だ」と話したことがある。その彼女の記憶によるとフランシスはヘンデルを弾き通すことができ、ベートーベンやメンデルスゾーンの大部分は楽譜なしで演奏したということだ。
 父のW.H.ハヴァガル牧師は1870年のイースター週の木曜日の朝77歳で召された。全く思いがけない脳卒中であった。

 ”愛の最後の言葉もなかった。全く突然に悲しみが私たちの上に襲ってきた。しかし、上なるふるさとへの輝かしい移転は雲におおわれていて、さようならの影さえともなわなかった。主の最後の受難節の夕べは讃美と祈りで閉じられた。そしてそれから終ることのないよみがえり、イースターの歌が歌い始められた”

 父の死後ただちにフランシスは父の『ハヴァガルの聖歌集』を発行する準備に取りかかった。この本はのちに『恩寵と栄光の賛美歌集』と題するC.B.スネップ牧師の賛美歌集と一緒にされ、幅広く用いられた。そしてその完成に向かってフランシス自身も数曲の創作曲を寄せることになった。) 

2016年3月16日水曜日

みことばによって主を受け入れなさい。

民はユダの王ヒゼキヤのことばによって奮い立った。(2歴代誌32・8)
私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。(2歴代誌14・11)

 もし私たちが「わたしの恵みは、あなたに十分である。」(2コリント12・9)とか「いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28・20)と言われることばに絶対的な信仰を今も持っているなら、主が主のためになすように呼びかけておられるどんなことにもひやひやさせられることはないでしょう。主なる神のことばはまことに必要な瞬間に安心を与えることばではないでしょうか。たとえ私たちが不平等だと考えるような奉仕に厳しく縛られていても安心を与えるものです。
 
 私たちは時にはそうだと悟ることがあるのではないでしょうか。だとしたら、なぜいつもそうだと悟らないのでしょうか。私は主の約束のどこにも「時々」ということばを見つけることはできません。 もし私たちが「すべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8・28)ことや主が正しい道に伴ってくださると完全に信じているなら、事がうまく行かなくっても、またその道が私たちが最も真っ直ぐだと思っている道でないからといっても、悩むことはないでしょう。

 私たちは永遠のいのちを求めて王なるお方のみことばによりすがっているのです。なぜ日ごとのいのちのためにもそうしないのですか。主が完全な平安を仰っているなら、不完全な平安を意味されることは断じてないのです。ちょうど民がユダの王ヒゼキヤのことばに安心したように、私たちも王なる方イエス様のおことばに単純に信頼しましょう。

もし何かが私たちが意図しているように除かれたり変えられたりしたのなら
すべてのことは完全な益のために役立つにはふさわしくはないでしょう
私たちの計画はバラバラにはずされるかもしれません。しかし平安が与えられるのです。
神様がひとたび決められたことは私たちの最善よりはるかにすぐれているからです。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-16-take-him-at-his-word/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97240です

第3章 声と筆によって(6)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 姉のマライアは、自分が死ぬとき、自分よりは若い妹がまず召されるとばかり考えていたので、フランシスにピアノを弾いて歌ってもらいたいと始終望んでいた。しかし、妹が先に召されたので、マライアは痛みをともなう死に瀕した病にかかったとき、フランシスのこの愛らしい旋律の記憶を何度も大変異常な努力でもって思い返そうとしたのだが、中々難しかった。先に召された祝福された魂がこのようにしてあとに残された者の心と結ばれ、痛みをやわらげることが許されていたと想像することは空想のように思われるかもしれないが事実であった。

 補注:姉のマライアによるとこの時の曲はフランシスの手書きで記され、フランシスが死の数日前、何人かの音楽評論家に送ってくれるように頼まれたが、紛失して今はないということだ。 しかも彼女の耳朶にこびりついているすばらしい曲なのに、再現できそうにないということだ。セシリアという女性がもう一人いてその歌を覚えているはずだとも書いてい る。「失われた歌」としてマライアの自叙伝〈The Autobiography of M.V.G.Havergal〉の86〜87頁にはそのようなことがよりくわしく書かれている。) 

2016年3月15日火曜日

繁栄への道

あなたの土地から取れる初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。(出エジプト記34・26)
神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6・33)
 
 初穂は特別取っておかれねばならないものであります。このことは聖書をとおしてすべて有効であることがわかります。初穂が示唆されていることは、私たちの感謝に対する暗黙の訴えがあります。まさに初穂と言うことばは受け入れられたことの感謝であり、将来への恩寵であることを示しています。

「初穂の最上のものを、あなたの神、主の家」に携えることは、信仰あるイスラエル人にとって、神様が授けようとしておられるすべての豊かさに対する祈りを指すようなものでありました。また、そこには喜びあるものがつねに意味されているように見えます。「初穂の日」は喜びの日であるべきでした。(民数記28・26と申命記16・ 10〜11を比較してください)

 そこには忠誠に対する訴えもあります。私たちは私たちに増し加えられるすべてのものの初穂で主をほめあげるように命令されているのです。そしてそれは将来への道であります。なぜなら、次の言葉に「そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ」(箴言3・10)とあるからであります。この命令に最初に私の注意を向けさせた友人は、取っておくべき初穂、すなわち収入の最初の授かり物を神の働きのために割り当てることは、必ず残りのものに対する祝福をもたらし、このことが整然となされてきて以来、実際にそのようには初物がささげられない時よりも、初物がささげられた時の方がはるかに増えて行くようだと言いました。

 一方、私たちが初穂をあらわすことは特別に喜ばしい行為であるべきです。初穂は私たちと神様との聖別された関係の象徴であります。神様はご自身の意志のために私たちを真理のみことばによってお生みになりました。それは、私たちが主の被造物の初穂の一種たるべきものであるからです。 

 この光を初穂に投げかけるとき、このような私たちの従順さをあらわす小さな行為はどんなに甘美で神聖で豊かな象徴であることでしょうか。そして、どんなに初穂は私たちに天国にいる兄弟姉妹が、まるで王座の前で新しい歌を歌っているかのようにいることを思い起こさせることでしょうか。なぜなら、彼らは神様に対して、また小羊である方に対する初穂であるからです。

主を讃美するために聖別してください
祝福された天使はいかに更なる真実な祝福を携えていることでしょうか。
前奏曲はやわらかに、たとえどんなに明瞭であっても
聖別された音色は歓喜のあまり震えるのです
選ばれし聖歌隊も集まりましょう
そしてすぐにともに讃美しましょう
全宇宙が耳を傾けています

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-15-the-way-to-prosperity/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97239です。

第3章 声と筆によって(5)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 ヒラーはフランシスに一冊の練習本を推奨した。彼女はその本を何曲か作曲する前に念入りに読むことに決めた。もちろん彼女はアマチュアのやり方で以前は長年和音を学んでいたのであった。それは主に毎晩寝る前に彼女がたどりつくことができた主題に関するたくさんの論文を読んだり、眠りに陥る前に頭の中で繰り返し練習するというやり方であった。しかし、彼女が正規の「学的な道」を経ていないことを聞いた時のこの偉大な作曲家の驚きと懐疑は大いなる賞賛となっていたのだ。
 言うまでもないことだが、この才能ある音楽家でかつ詩人はすぐれたピアニストであった。彼女の姉は言っている。「よく妹は私のためにイザヤ12章を歌詞にして諳んじて朗誦してくれた。特にその三節の「あなたがたは喜びながら、救いの泉から水を汲む。」などはほんとうに水が流れるかのような音楽であった。声の調子は水が喜んで滴り落ちるきらめきがあり、その幻想は全く完全で、人の魂が喜びでもって生き生きとよみがえらされ、水しぶきをあびるような思いに満たされた。) 

2016年3月14日月曜日

畳まれることのない旗

あなたは、あなたを恐れる者のために旗を授けられました。(詩篇60・4)

 それでは、あなたの旗は何ですか、そしてあなたはその旗とどのように関わっていますか。と言うのは、もしあなたが神様を恐れる人の間におられるなら、神様はあなたにすでにそのことが明らかにされる旗をお授けになっているからです。

 旗を翻すことは大切なことを意味しています。先ず、あなたが翻す旗の持ち主に属しているのか、あるいは大いに関係があるのか、そして旗の持ち主を何ら恥かしく思わないことを意味しています。次に私たちが戦う備えがあり、その同じ旗のもとで戦っている他の人々を励ます備えもあることを意味しています。最後にそれは喜びを意味しています。ご存知のように旗は特別な日に吊るされ、凱旋の行進のために翻されるのです。

 ですから、私たちは私たちの神の御名によって今こそ旗を掲げましょう。

主は私たちを召された。主を恐れる子どもとして、
主ご自身が愛されるごくわずかな集まり、キリストの旗の下に行進する者として、
私たちは主を愛し、主を求めています。主の近くに侍ることを願っています。
そして、主の麗しい地の光の内に休息することを 。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-14-banners-unfurled/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97238です。

第3章 声と筆によって(4)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 教授は後にフランシスに話した。私はあなたの旋律のうちに大変な独創力を見たのでなく、あなたの和音の組み合わせに驚かされたのです、と。彼は述べた。「長期にわたり徹底的な学びと指導があったことを除いて、そのような主題の把握や和音の構成力を見出して非凡なものを感じた。私はもう諸手を上げて賞賛した。」
 教授はフランシスが生涯の仕事として音楽に身をささげるのに彼女の努力に見合う約束があるかどうかの助言を求めて尋ねられた時、「心からためらうことなく、あると言える」と答えた。) 

2016年3月13日日曜日

内に住まわれる主

主はシオンにおられないのか。シオンの王は、その中におられないのか。(エレミヤ8・19)

 王が来られるのを待ち望むことは、どんなに期待に満ちていることでしょうか、またどんな用意をしていいのでしょうか、どんなに緊張することでしょうか。多くの者は一目見んとして、数人の者には完全に見られ、お気に入りのごくわずかの者にはおことばが、このようにして花絵巻は夢のように過ぎ去って行くのです。権能ある方が来られます、しかし留まられることはないのです。

 しかし、私たちの王なる方はこのような来方では来られないのです。この方は来られても通り過ぎられず、「あなたのただ中に住む」(ゼカリヤ2・10)ために来られます。単に集合的な教会にだけでなく、個々の信者のうちにも住むためにです。

 私たちは祈ります。「いっしょにお泊まりください。」(ルカ24・29)それに対して主は三位一体の神として気品ある形でお答えになります。「わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14・23)この私たちとともに住まわれると言う気宇壮大な出来事さえも、主のへりくだりや主の身近に侍ることの完き驚異にくらべれば及ぶべくもありません。なぜなら、主がそのことを語られる次の時には主は「ともに」を「うちに」に変えられ、その時以来「私はあなたのうちに」「私は彼のうちに」「私は彼らのうちに」と語られるだけであるからです。
 
確かに、私はあなたとともにいます 
そのことを私に感じさせてください、愛する救い主
あなたが私とともにおられる大変尊いお方、
また大変身近におられることを知らしめてください 
今日、この厳かな瞬間、あなたご自身とともにいることを
すべての者が今も待ち望んでいます
あなたの赦し、あなたの臨在、あなたの平安で我が魂は満ち足りるでしょう。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-13-in-them/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97237です。

第3章 声と筆によって(3)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 フランシスが音楽作曲の上で素晴らしい賜物が与えられていると最初に気づいた正確な日付は明らかではないが、1860年から1865年の間のどこかであったことは明白である。
 1865年も終ろうとする日々を目前にして、フランシスはドイツの友人たちを再訪問した。そして自らの作品の良い点について、ドイツの音楽家ヒラーの意見を伺う機会を得た。このことは以前の講師であるシュルツ・ベルグ牧師の強い要請によるものだったが、彼女の気質にはひどく反するものだった。なぜなら彼女は控え目に告白している。「私はそのような方からは酷評以外には何もないことを予期していた」
 当時、父親と継母はボンに滞在していたが、継母はフランシスを伴って、この偉大な作曲家との面接を取り計らっていた。この作曲家は彼らを親切に受け入れ、黙って、その若い女性が彼の指図通りに従った主旋律の音域を試験し始めた。
 およそ四分の三ほど終った時、突然彼は尋ねた。「あなたはどんな指導を受けてきたのですか」「私は彼に話した」とフランシスは説明している。「ハザーレー氏が私の最初の6曲を選んでくれ、音楽的なことで難しい点は折りにふれ父に尋ね、一般的な音楽の話題も父としてきました。」ヒラー氏は言いました。「そのことについて私は何も心配していません」「私が聞きたいのはあなたはどんな正規の音楽コースを履修しどんな教授についたかということです」私は彼にその種のことは何もしていないのです、と言った。すると彼は私を厳しい顔で見つめて私が本当のことを言っているかどうかを確かめた上で、音楽の話題にもどって、「そうとしたら大変優秀ですよ」と言った。) 

2016年3月12日土曜日

熟慮

私は、私の前に行く家畜や子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり旅を続け、あなたのところ、セイルへまいります。(創世記33・14)

 ヤコブの家畜や子どもたちに対する思慮あふれる物語は美しい小さな一幅の絵であります。彼は一日でも彼らを過度に動かせたくなかったのです。「あなたもご存じのように、子どもたちは弱く、乳を飲ませている羊や牛は私が世話をしています。一日でも、ひどく追い立てると、この群れは全部、死んでしまいます。」(13節)とヤコブは言いました。

 ヤコブはエサウが期待することに合わせるのでなく、子どもたちや家畜が耐えられることに合わせてだけ動こうとしていました。「さあ、旅を続けて行こう。私はあなたのすぐ前に立って行こう。」(12節)とエサウは言いましたが、ヤコブはたくさんのものを携えていたので一日にどれだけ行けるかを正確に知っており、足並みをそろえるための熟慮だけをなしました。恐らく彼自身の不自由な大腿部※が「家畜の足」や「子どもの足」に対する配慮をさらに慎重にさせたのでしょう。

 その上、ヤコブは以前同じ荒野の旅を経験していました。(29・1)その時はまだ家畜も子どもたちもいなかったのですが、ヤコブは自らのその個人的な体験をとおしてその旅路の荒涼とした様や熱さ長さについてのすべてを知っていました。だから彼は言いました。「私はゆっくり行きます」と。
 
 あなたが一日にどれだけ通過し、移動して行くかをいかなるエサウも答えられない者であることを知るのは心がリラックスさせられることではないでしょうか。「彼ら」は知らないし、あるいは知っていても、弱さや後退を経験していないのです。恐らく彼らはあなたが、もっと良い働きをし悩みや悲しみにもっと勇敢に立ち向かって、もっと遠くへもっと早く達しないのを不思議に思うでしょう。

 そして、おそらくあなたは彼らが知らないということを知っているだけで、一語も発せられず傷つけられたと感ずることでしょう。それですから「弱い群れ」であるあなたの良き羊飼いに向きを変え、羊飼いなるお方があなたを覚えておられることを思い出しなさい。そのお方にすべてを打ち明けなさい。なぜなら「神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されて」(ヘブル4・13)いるからです。

私たちの父なる神様、あなたは御約束なさいました。
あなたはまことに知っておられます。
私たちの深奥の願いを、またたくさんの必要を
あなたの恵みの泉は決して涸れません
あなたの栄光のうちにある豊かさが供給されるからです
私たちの糧は与えられ、私たちの水も確かです
何物も洩れるものはありません
あなたのみことばは忍耐を教え
あなたのみことばは力であります

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-12-consideration/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97236です。
※言うまでもなく創世記32・22〜32の出来事である。私もまた1969年3月12日、47年前のこの日を忘れてはなるまい。2011年3月11日が国家的な大きな悔恨の時として人々に追想されるに従い、この5年間その日を忘れがちであった。当時無神論者であり、反キリストであった私に対して決定的とも言える主なる神からする上からの鉄槌が下された記念すべき日である。箴言23・13〜14。回心のきっかけとなったこの出来事から今日で47年目である。

第3章 声と筆によって(2)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより

 この若い女流作家は受け取った最初の小切手を全部主の御用のためにささげたのが特徴的であった。お金の大部分は父にあげたが、〈父はその愛を受け取っただけで、実際は小切手は受け取らなかったのだが〉この父は彼がいつも心にかけていた儀式上必要な目的物のあれやこれやに当てることをはるかに望んでいたが、残った分は同様な働きのために彼女の手で分けられた。
 しかし、この最初の成功の喜びは、鋭く迫って来る失望の前触れに過ぎなかった。それは文学上の成功が望まれなかったことでなく、過重な仕事の上での心労が弱い体には余りにも負担が大きかったからである。医者の命令は「彼女は詩を書くか生きるかどちらかを選ばなければなりません。どちらも選択することは不可能です」であった。
 それで9年間筆は断たれた。この待機中の中断の後フランシスは最初の本『The Ministry of Song(歌の使命)』を発行したおり、この遅れは自らの健康管理の失敗の結果でなく、神様のご意志の直接的な干渉の結果だったと考えた。「なぜなら、主は本当に実を結び、さらに私たちの内に主の働きをなす最善の時がいつなのかをご存知だからである」と語っている。)

2016年3月11日金曜日

王なるお方があなたを必要とされている

それをほどいて、引いて来なさい。・・・主がお入用なのです。(マルコ11・2、3)
 
 恐らく私たちは、「誰も私を必要とはしていない」というつまらない考えを持っていることでしょう。まことの王なる方ご自身が私たちを必要とされている時、私たちは決して再び暗やみを手探りする必要はありません。この必要は能動的な愛、幸福な愛、前進する愛、喜び、待望する愛からくるものです。それはイエス様の愛のもっとも強い説明です。同情やあわれみの愛にはるかにまさったものです。それは主の民を喜び楽しむものです。主の民は主がいるところに、今も、また常に、主とともにいるべきだという意欲(すなわち主のご意志が大きな力を発揮する)にある愛です。終ることがなく、分離を許すことのない愛です。すなわち対象物なしには行使し得ない愛です。

なぜ、あなたは主なしで行なおうとするのですか
主は呼んでおられます、何回も。
「わたしのところに来なさい、わたしのところに来なさい」と
おお、主の呼び声は空しく終るのですか
主は望んでおられます、あなたが主とともにいることを

あなたも主を求めないのですか
あなたは主なしには出来ないのです 
主は望んでおられます、実にあなたを望んでおられます

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-11-the-king-needs-you/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97235です

第3章 声と筆によって(1)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより

 私たちは長々とフランシス・ハヴァガルの内面的な霊的成長を子ども時代から成人に至るまで見てきたが、ここで向きを変えて彼女が知的な歩みをどのように歩んできたかに注目してみよう。
 彼女の本格的な雑誌で最初に認められることになる貢献は、彼女の良く知られた賛美歌「私はあなたにこの身をささげまつる"I gave my life for Thee"」であったようだ。それは1858年のドイツ訪問の間にその想が導かれたものだ。何気なく寛ごうと腰を下ろそうとした時、向かい側にあったそのキリストの受難の絵を通してであった。聖書がインスピレーションとなって彼女の心にひらめき、ただちに紙切れに書き留めた。しかし彼女は仕上がりに満足せず、火にくべた。しかしその紙が害なわれず飛び出したので、彼女はそのままにすることを決心した。ややあって彼女はそれらを父に見せた。父は大層気にいって、それらにふさわしい旋律「Baca」を書いた。
 これらの詩はその後、Good Wordsに登場し、編者からのリクエストに応える形で同一のペンからなるはるかに詩的な作品となる機会を招いた。)

2016年3月10日木曜日

一時的でなくとこしえに

主よ。御民のその心に計る思いをとこしえにお守りください。彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてください。(1歴代誌29・18)
 
 守られるべきものとは何だったのでしょうか。それは神様がすでにゆだねられたものです。なぜなら最初にそこに置かれるまでは、あなたはいかなる場所においてもひとつのものさえ維持できないのですから。

 民は王の「きょう、だれか、みずから進んでその手にあふれるほど、主にささげる者はないだろうか。」(5節)という訴えに答えました。この奉仕のあらわれとして民はすすんで喜んで主にささげました。彼らがささげたものは全部主のものでした。「御手から出たもの」(14節)でした。

 それでダビデ王は民が「このようにみずから進んでささげ」(14節)られるものは全部主のものであることを知っていたのです。この献身と喜びのすべては一日だけのものだったでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。ダビデ王は大きく御霊に満たされて私たちだけが霊的ないけにえをささげるまことの王であり、執り成し手であるお方を予兆して「主よ。御民のその心に計る思いをとこしえにお守りください。」(18節)と祈っています。

我が主よ、あなたはまことに私を覚えておられるのでしょうか
だから忘れません
おお、あなたのやさしさはいつまでも
あなたのとこしえに続く愛は今日も
甘美なとこしえの思い出の中で
私をじっと見つめ
私の愛を呼び覚まし、私のいのちを讃美へと引き上げてくださいます
あなたは「私はあなたを覚えています」という信仰をくださったからです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-10-not-for-time-but-for-eternity/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97234です。今日の詩の個所も好い加減な訳である。彼女の詩想を日本語に置き換えるのは至難である。それに比べると散文はふんだんな聖書語句が引用されているので訳しやすく恵まれる。これもひとえに彼女が聖書本文を暗唱していたから可能だったのだ。この彼女に類稀な才能を与えられた主をほめあげたい。

第2章 光彩(15)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 フランシスにとって一日に三回プライベートに祈るのが習わしであった。彼女は自分の聖書に一枚の紙を挟んでそこに注意深く整序した祈りの時間のそれぞれの主題を書いていた。早朝のデボーションの主題は主に霊的な賜物や恵みを求めたものであった。それに対して夕べのものは赦しや自らの罪深さを眺めてのものであり、朝の眠気の特別な弱さに抗するものであった。それは彼女の繊細な健康状態や休息の必要がそうさせるものだったからである。彼女が賢明にも夕べの祈りを自らの働き過ぎる傾向に抗する祈りに代えていたら、価値あるいのちはあるいは延ばされたのかもしれない。実のところ、彼女は弱い体を最大限に酷使していて、昔からのやさしい召使やまた疑いもなくたくさんの彼女を愛する人々を悩ませていた。というのは彼女は朝食が始まるずっと前にラテン語の本に取りつくは、半端の時間を惜しんでは仕事や勉強のために使い切っていたからである。
 だから彼女がしょっちゅう健康を壊し、「寝たっきり」になって怠惰な状態におかれることは自然の成り行きだった。せいぜいそれがいのちが引き受けなければならない憐れむべき状態だったのだ。) 

2016年3月9日水曜日

来なさい。そうすればわかります

ようこそ!※

来なさい。そうすればわかります(ヨハネ1・39)

 主イエス様は最初にそうおっしゃいました。それはバプテスマのヨハネから主が神の小羊であると聞いていた二人の弟子たちに言われたことばです。弟子たちはイエス様についてほんの少ししか知りませんでしたが、ついて行ったのです。恐らく弟子たちは話しかける勇気さえもなかったのでしょう。しかし「イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て」(1・38)おっしゃったのです。その時、彼らは主に、どこにお泊まりですかと聞いたので、主は「来なさい。そうすればわかります」とおっしゃったのです。

 次にピリポが言いました。ピリポはキリスト御自身をすでに知っていました。それでただちに友であるナタナエルに話をし、「来て、そして、見なさい。」(1・46)と言いました。あなたはまだそう言われていないのですか。おお、「来て、そして、見なさい。」。救い主の栄光ある、愛ある顔をよく見て、主がどんなに愛ある尊い救い主であるかを知りなさい。あなたを受け入れ祝福するためにどのように備えてくださっているかを来て知りなさい。主があなたのために何をなしてくださったか、あなたをどのように愛し、ご自身を与えてくださったか、さらにあなたのためにどのように生き、苦難をなめ、血を流され死なれたかを味わいなさい。

 来てごらんなさい。主があなたに与えられた賜物がどんなものであるかを。それは赦しであり、平安であり、主の御霊、主の恵み、主の喜び、主の愛です。
 
 来てごらんなさい。主が住んでおられるところを。主は来られ、あなたとともに住み、あなたの心をご自身の住まいとしてくださるために準備していてくださるのを知りなさい。おおー、私があなたに「来てごらんなさい」と説得さえできたなら。他のどんなものもそんなに栄光ある美しいものを見ることは出来ないでしょう。

 あなたは来たくないのですか。あなたが来てしまえば、あなたはピリポのように「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。」(ヨハネ1・45)またパウロのように「イエスのことは見ています。」(ヘブル2・9)と言うことができるなら、あなたは誰か他の人に「来てごらんなさい」と言わないでしょうか。

 あなたはすべての人もまた主のところに来て欲しいと思うでしょう。そして人々にあなたが人々を連れて来るように命令する主のみことばをいただくことでしょう。「これを聞く者は、『来てください。』と言いなさい。」(黙示22・17)

しーっ、いと聖き歌が銀の鈴音の翼に乗り 
私たちのいにしえからのやさしい平安な物語が
前方にただよう
主が来られる、代々の願望が待ち焦がれていた
私たちのくさりを身につけ、私たちの喜ばしい解放を勝ち取ろうとして。
私たちの驚くべき喜びは、そのような祝福ある知らせを聞いて
「 主のところに来なさい、そうすれば主はあなたに安らぎを下さるでしょう」
ということばで飾られる

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-9-come-and-see/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97233です。青字の詩の部分は全く難解で、でたらめな訳になってしまった。原文をお確かめいただきたい。
第2章 光彩(14)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 フランシスは音楽会でずっと歌を歌い続けてきたが、聴衆の拍手がもたらす喜びが自らの霊的な成長を妨げないかと危惧していた。それゆえ健康を害してこういうコンサートに出られなくなる時、それは神様から来たしるしだと受けとめた。彼女ははっきり言っている。「キリスト者であることを全面的に告白した人の中でも、私が長年を通じて経験してきたほどには恐らく、誰も、もっとはっきりしない恐れや疑い、罪、さまよう心の歴史を経験した人はいなかっただろう」
 フランシスの姉であり、伝記作者であるマライア・V・G・ハヴァガルのこういう告白に関するコメントは次のようなものである。「深いトンネルを通り、時には陰気な深みに陥ることすらあったが、そのあとにはしばしば絶えず新しくされるいのちの水の尽きることのない泉の供給を受けている。このようにして私の妹は疑いと意気消沈を何度も重ねた。それは彼女が他の人を元気づけ、暗やみの中で神様の深い教えを明らかにすることができるためであったのだ」

※昨日は火曜学び会、午後は79歳で召された知人のI兄の葬儀だった。考えて見れば、昨日少し触れたK兄のところに、I姉は昨年末お見舞いに行ってくださったのだった。こうして主にある者同士のつながりは天にまで及ぶ尽きないものであることを覚える。
 今日は家庭集会だった。おまけに雨だった。雨のため、来たいと思われた方も来られなかったようだ。しかし、主のみことば、証しは連日、私の心を捕えて離さない。今日の証者が最後に紹介されたみことばの一つを書いておく。「主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。」イザヤ58・11このみことばは先のハヴァガルの経験と呼応していると言えないだろうか。) 

2016年3月8日火曜日

聖潔・確信・喜び

雨降りて 水仙の群れ 彼の人ぞ※

あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。(ヘブル6・9)

 私たちの救いは三つの実際的な結果がともなうはずです。

(1)聖潔
 私たちは王の住まいにふさわしくないものは全部断固として捨てなければならないということです。「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」(2コリント7・1)

(2)確信
 無敵の将軍が砦のうちにいるなら、何を恐れる必要があるでしょうか。「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。」(ゼパニヤ3・17)主はまわりを取り囲む火の壁で、砦のただ中にある栄光です。あなたに触れる者は主の目にあるりんご〈ひとみ〉に触れることになります。(原文:he that toucheth you toucheth the apple of His eye.)

(3)喜び
 そうです。「心の底から、喜び勝ち誇れ。」(ゼパニヤ3・14)「シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。――主の御告げ。――」(ゼカリヤ2・10)


「わたしはあなたとともにいる。」(出エジプト記3・12)
父よ、私はそのことが真実であることを知りました。
あなたの誠実とあわれみに対して私はもう一度証印を捺し直します。
あなたの恵みは今までのすべての時にわたって私を守ってくれました。
あなたはまことに私の助けとなってくださったのです。
あなたの慈しみと愛を毎日毎時間見させていただくとは
何という奇跡であることでしょうか。 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-8-holiness-confidence-joy/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97232です。

※二泊三日の青春18切符の旅で少々疲れたので、ハヴァガルの伝記は休載させていただく。その代わり、昨日浜松でお交わりしたK兄の俳句三首。と思ったが、ご本人の許可を得ていないので載せられない。いずれも昨年10月20日召された、K兄をほぼ60年支えて来られた奥様の召天を詠んだものである。辞去した外は生憎の雨であった。しかし道端にこの水仙を見た。なぜか奥様である彼の人を思った。) 

2016年3月7日月曜日

結び目

堀川 名古屋市内※

私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。(雅歌6・3)

 信者が「私はあなたのもの」と言うのは単なるこだまに過ぎません。信仰が与えるきよさ、本然の声に近づくことにより受けたものです。そう、「あなたは私のもの」と言われることのこだまに過ぎないのです。それは権能あるお方の音楽の応答として聞こえてくるものです。御霊が備えられている心がそこにはあるからです。

 この天にある音楽の記録は決していかなる地上の岩にも起源はありません。神様が御子の霊を私たちの心に遣わしてくださり、私たちが「アバ、父よ」(ガラテヤ4・6)と叫ぶときだけなのです。油注がれてはいたがまだ正式に冠を授けられていない王がアマサイに会いに出かけて行き、御霊が彼に臨んで「ダビデよ。私たちはあなたの味方」(1歴代誌12・18)と言った時だったのです。

 だから、こだまの喜びのうちにある声を聞き逃してはなりません。耳を傾けなさい。そうすれば高きところから祭司としてとりなしをしておられる隠れた高きお方の声を聞き落とすことはないでしょう。「彼らはあなたのものだからです。わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。」(ヨハネ17・9〜10)

その時あなたの貧しい愛情を持ち出しなさい、そしてこの試みによって
隠された深みは見抜かれます、
あなたはあなたが主を一番愛していることを知っています
それは主のあなたに対する大きな愛の弱々しいこだまにすぎません
しかし、主の耳にはそれぞれの記録はやさしく記され、
そのハーモニーは真実に聞こえているのです。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-7-the-tie-that-binds/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97231です。

第2章 光彩(13)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 しかし、間もなく私たちは彼女が「たくさんの罪からなる怒りをともなう昔の困難な道に逆戻りした」ことを知る。「私が思うに」とフランシスは彼女の自伝の中で自らの内面生活を語る。「私のすべての悩みと疎外感の根っこにあった大きな問題は私が今も自分自身を神様に無条件に明け渡していないことにあり、このことが解決されない限り、私には平安は訪れないであろうということだ。私はそう確信している。私には悔い改めるべきことがあまりにもたくさんあるのだ。世間の友だちの意見を何よりも恐れること、そして世を愛すること、それに引き換え、何と天的な願い、愛においては冷やかであるかということだ」

 ※「神います 啓示の結び 連なりて 古え乗せて 堀川流る」日曜日、新しく知己を得た友人に昼食場所を案内されて歩いているうちにこの川の橋を渡った。思わずカメラに納めた。私の名古屋のイメージになかった場所だ。幼い時、象を見に、東山動物園に連れられて行ったこともある。何を隠そう、坂田昌一氏に師事しようとばかりに臨んだ大学受験で一敗地にまみれることになる初陣の地でもあった。そんな名古屋にこの歳になって一年に一回は訪れるようになっている。主のご計画は計り知れない。) 

2016年3月6日日曜日

私たちの保証

私自身が彼の保証人となります(創世記43・9) 

そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。(ヘブル7・22)

 ユダは父にベニヤミンを無事にエジプトから連れ帰ることを約束しました。彼はこのことを完全に約束しました。彼は言いました。「私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者となります。」(創世記43・9)そして父はユダが言ったようにすることを信じた。そのようにしてユダはベニヤミンの保証人になった。

 主イエス様は私たちの保証人です。主は私たちを無事に父の家に連れて行き、私たちの父とするために約束されます。主は私たちが主の栄光ある御前におらせることを約束してくださいます。私たちは主の御手のうちにあり、主の御手から神様は私たちを受け入れて下さいます。

 それでは、もし神が主を信頼しておられたのなら、あなたもまた主を信頼しないのでしょうか。どうしてですか。イエス様を信頼することをためらうのですか。あなたを天国に無事に連れて行くと誰か他の者が約束できるのでしょうか。

 ベニヤミンは恐らくエジプトからカナンにまで自力で行く道を見つけたかもしれません。けれどもあなたは、決して、決して自分で地上から天国へ行く道を見つけることは出来ないでしょう。そして主イエス様以外誰も決してあなたをそこへ連れて行くことはできないのです。

 ベニヤミンは兄が約束を守ることができるとは全く確信が持てませんでした。ユダは一人の人間に過ぎませんし、エジプトで殺されたかも知れないのです。ところがあなたは主イエス様が約束を守られると確信できるのです。なぜなら主は人であり神であるからです。それともあなたは神が約束を破られるとでも思うのですか。主が、信仰ある救い主が約束を破られるのですか。天地は過ぎ去ります。しかし主のことばは過ぎ去りません。ですから今主を信じなさい。そして主を信頼することを捨てて忠実な主の愛を決して不当にあつかわないでください。

しかし、未だに高い聖なるところからあの声が嘆願しているのです。 
主の一人の弱い子どもがこの地上で彷徨い歩いているのです。
未だに一人の飢え渇ける魂がきよさを分かってほしいと求めているのです。
救い主の愛ある心は全能の祈りの潮を注いでおられます
そうです。めいめいの身請けされた者が喜びと平安の己が家を獲得するまで
語られたことのない祝福の泉は決して決してやむことはないでしょう。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-6-our-surety/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97230です

第2章 光彩(12)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 1860年、ハヴァガル氏は15年間のウオーセスターのニコラス教会の奉仕を終えて、シャレーシルの小さな田舎の教区に移った。これは主に彼自身の健康上の理由であった。彼が教区に来て影響が出た最初の改善の一つは日曜郵便の廃止であった。これはフランシスがいつも多くのキリスト者が自分たちの責任を認識していないと鋭く感じていた疑問であった。「どんな仕事の慣習も、」と彼女は亡くなる前に簡潔に書いた。「郵便配達をふくんではいけない。そのことに気づかないのは正しくない。」
 ほぼこのころ彼女はついに自分がどうであったかを言うことができた。すなわち彼女は「大変な長年の期間自らをしばりつけた疑いとほとんど絶望のうんざりした拘束に負けてしまっていた。私は以前と同じ罪と誘惑を持っているが、以前よりももっとそれらに反抗しようとはしていない。それはしばしばむつかしい仕事のようである。しかし、私がなぜ救われていると知ることができなかったかということに反して、今ではキリストがもし皆のために死なれたのなら、なぜ私が救われないのかと言うことは出来ない。・・・キリストの死はまことに私の確信であり、私は一つの新しいことがらの甘さをじっくり味わっているのだ」) 

2016年3月5日土曜日

確かな守り手

弥生月 友に見せたし 桜花※

あなたを守る方は、まどろむこともない。(詩篇121・3)
私は信頼して恐れることはない。(イザヤ12・2)
あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。(詩篇91・5)
 
 主はあなたを暗やみの時間をとおしてずっと守られます。あなたを傷つけ失望さえさせるすべてのものから守られます。主はあなたを守られます。ただあなたの守り手であるお方がどなたかを考えなさい。すべてをなすことができ、すべてを見ることができる全能の神が主なのです。

 あなたはなぜそのような守り手と一緒にいながら恐れる必要があるのでしょう。「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。」(詩篇91・11)を知ることはすばらしいことです。しかし神ご自身が私たちを守ってくださると考えることははるかにすばらしい大きなことです。

 まるで主が私たちがそのことに大変確信を持ち、永遠にこれ以上恐れるのを弁解させないことを望んでおらるかのように、主は実に三度以上も「あなたを守る方は、まどろむこともない。」(3節)「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(4節)「主は、あなたを守る方。」(5節)と言われる。主はこれ以上何を言うことができるでしょうか。
 
主は暗やみで語られる。あなたは主の顔を見ることができないが、
かつて必要とされた天使たちよりも多くの、
あわれみ、赦し、愛、そして恵みを、
安全で聖なる安らぎのある多くの住まいについて語られる。

あなたは主とともに永遠にいて、完全にそしていつも祝福をいただく。
主があなたに暗やみで語られることを、
孤独な夜の時をとおしてのささやきを、
あなたは栄光ある讃美といつまでも続く光のうちに語るのだ。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-5-a-sure-keeper/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97229です。
第2章 光彩(11)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 恐らく、必要とされたことがらは聖書を間違わずに読み上げることであり、聖書と讃美歌を覚えることに全力をささげることであったろう。私たちはこういう初歩的で秩序だった日々において前例のない訓練は俄然困難なものと考えるべきであった。しかしこの若い教師は自らに言っている。「私は死に物狂いで困難な仕事をした。私の受け持ったクラスは当時日曜学校で最悪のクラスだったから。14年過ぎて唯一の小さい少数のものが希望となった」しかし、この体験が完遂された時、確実にフランシス自身のこども時代は過ぎ去った。

 ※繰り返した脳梗塞のため自力では行動できなくなって久しい友と出会ってもうかれこれ二年弱が経過する。昨年の今頃も友を訪ねた際に、この早咲きの桜並木を遠望し、近寄ってこのような写真を撮った記憶がある。しかしアングルは昨年とは違うと思う。友は私に披露した。「宮古、港では碇〈いかり〉は要らぬ。情け一筋船つなぐ。」と。三陸音頭(?)のセリフのようだ。そして私は「碇」ならぬ「怒り」を無視される主の愛を改めて紹介した。「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください」ミカ7・18〜19。友の顔面に喜悦が走った。二人のアングルは一致した! )

2016年3月4日金曜日

つき従うことの重要性

空の青 蕾描けり 古利根の 川面にたむろ 水鳥繁く※

ユダの人々はヨルダン川からエルサレムまで、自分たちの王につき従って行った。(2サムエル20・2)

 王様ご自身は王であることを隠して少数の忠実な従者と一緒に歩かれたが、従者たちの多くが帰ってしまい、もはやそれ以上歩かなかったということからすれば、より適切に言えば、来ることがつき従うことになるということは当たり前のことではないと言える。

 しかし、主の側からは、怒りや非難のことばは一語もなく、ただ主のやさしいくちびるから洩れ出た、限りない心の思いがあっただけである。 「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」(ヨハネ6・67)

 今日、私たちの耳にこの声を鳴り響かせましょう。もっとも真実な心からする忠誠と奉仕をさせまいとする誘惑の瞬間だけでなく、日ごとの仕事の全時間を通しても。 私たちのあまりにも安易な休息から積極的な進軍へ進ませ、遠く離れて従って行くのでなく主のあとにすぐ従って行き、私たちが「ダビデよ。私たちはあなたの味方。」という祝福された確信を、より大胆にまた高潔に「エッサイの子よ。私たちはあなたとともにいる。」(1歴代誌12・18)と言えますように。

あなたを信頼し、あなたのもとに憩います、
ああ親愛なる我が救い主、祝福された贖主。
地上に友なく、兄弟もなし、我が弱さ、我が欠乏、
我が悲しみを知る者は一人として。
私はあなたに呼ばわります、すべてをご存知のあなたに。
ああ親愛なる我が救い主、祝福された贖主、
あなたを信頼し、あなたのもとに憩います。 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-4-cleaving/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97228です

第2章 光彩(10)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 もちろん私たちの目下の素描の主題は一人の熱心な日曜学校の教師にあった。フランシスは彼女の日曜学校の生徒について日記のようなものをつけていた。彼女が大層愛した子どもたちについてであったが、日付が1846年から1860年に置かれているように、彼女が最初から、すなわち9歳から10歳の時にその教師としての立場をかなり責任あるものとして受け取っていたことをあらわしているものであろう。この年頃にあって幼い生徒を導こうとする人々の中で継続的に増進させる成果をおさめていたとは信じられないようにも思えるが、別の例では、近隣における小さな村々で、かなり早い年齢のもとで、その年ごろのよく訓練されたこども、特に聖職者の娘たちが教え始めていることが言及されていた。

 ※久しぶりに古利根川の土手を歩いた。様々な水鳥が足繁く川を行き交う。桜並木の中でこの一木だけが赤い蕾を見せていた。「水鳥に つき従いて 川歩む」)