2016年3月23日水曜日

生けるみことば

これもまた、万軍の主のもとから出ることで、そのはかりごとは奇しく、そのおもんぱかりはすばらしい。(イザヤ28・29)
 
 目に見えないしずくで言い争ってはいけない。なぜなら、それは目に見えるにわか雨ではないからである。主はにわか雨を主のぶどう園に与えるのがほんとうに必要だったら、にわか雨を送られるだろう。しかし、主は別の形のご自身のことばを送られるので、あなたは主がそのことによってあなたがほんとうに求めているものを供給されるからだと、絶対的な確信を持つことができるはずだ。

 あなたはなぜそうなのかを見ることはできない。だから私は説明できるふりはしない。けれども、そのことはいったい何が問題となるのだろうか。主は主のぶどう園に水を注ぐのにどんな方法が良いか知っておられる。あなたが大変おぼろげに思い出したり、把握することができないで読んだりする、主のこういうことばは、喪失を回復する意図はない。

 それらのことばは、あなたが選びたいものとは全く違ったやり方に過ぎないが、あなたの魂に主ご自身の働きを今もなしているのだ。やがてそれらは新しい朝の光の中で輝くであろう。そして、あなたは新しく出発し、恐らくはひどくぐにゃっと垂れ下がっていたいのちの葉がその茎につながって、大層よみがえらされ、再びどれだけしっかりとくっついているかを不思議に思っている自分自身を発見することだろう。

私の心のうちにはすべてが沈黙している。私はあなたが聞いておられたことを知っている。
私はあなたの前に祈りをささげ、あの祝福された天の都へ私を導くあなたのことばに信頼する。主は(依然としてあらゆる私の道を選ばれる)そこでは星明かりが日中に溶け入るように、信仰が幻のうちに溶け入る。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-23-words-which-work/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97247です。今日の本文も難解であった。特に詩は難解である。篤と上記の原文に当たられたい。

第3章 声と筆によって(13)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 同じ精神で、フランシスは74年と75年にほとんど致命的であることが明らかになってしまった腸チフス熱の重症後の再発を神様の恩寵の特別なしるしとみなした。病気の初期において彼女は「試練にあって主に栄光を」帰せなかった。なぜなら「私は力をすっかり失った後、うめき、叫び、治癒を切に求めることなしには痛みに耐えることができなかった」からであると言い、それらのことを悲しみ、フランシスは病気の再発は神様の赦しの証拠であり、何度も「繰り返される課題」を学ぶ神様のやさしさに触れる機会であると思った。
 私たちが扱うこの限りある文章では我が国(イギリス)や海外の双方で広範囲に親しまれかつ愛されたフランシス・ハヴァガルの名前でなされた旋律豊かな詩から抜粋することは不可能だ。二三の彼女の作品に言及することで満足せねばなるまい。) 

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