2016年3月18日金曜日

主は永遠にあなたがたのために・・・

あなたがたのために貧しくなられました。(2コリント8・9)
わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。(ヨハネ17・19)
(彼らのために)その上の高いみくらにお帰りください。(詩篇7・7)
 
 私たちが主に求めることができる一切は、日ごとにおいて、また瞬間、瞬間においてもである。私たちに与えられる生涯は、小さなものであり、行ないにおいては現在、意志においては未来にすぎない。私たちが主にゆだねなかった過去に関する限り、それは余りにも遅過ぎて私たちは今それを主に与えることが出来ない。しかし私たちの過去は主に与えられなくても、主の過去は私たちに与えられる。おお、このことは何という大きな負債が私たちに示されていることであろうか。

 過去の永遠の薄暗い、ぼんやりとした深い時、「あるいは地と世界がかつて造られた」時に戻れば、父なる神様の傍らにいましたもうた主の神性はあなたがたにとってすべてであった。それはあなたがたのために目的を持ち計画を立て、あなたがたのために永遠のいのちの約束を受け入れ守るものであった。

 それから、この罪深い地で罪人の間にある33年間を過ごされた。私たちはそのことに十分思いを馳せることができるだろうか。すなわちゆっくりと流れた日夜の数々、重い足取りで歩まれた時間、決して急がされなかった分秒、それらは33年間の試みとへりくだりの集大成の瞬間の一つ一つであった。私たちすべては、どれほどゆっくりと時が経過して行くか知っている。それは苦悩と悲しみが近づき、私たちの主が私たちの弱さを免られたとみなす理由は一つもない瞬間・瞬間であった。

 それから、主の現在はあなたがたのためにある。今もなお主はとりなしをするために生きておられる。今もなお、主は「私を思って」くださり、今もなお「知って」おられ、「心配」し、「愛」してくださる。ですから、主の永遠にわたる全存在は「あなたがたのため」だと考えざるを得ない。父の名前を兄弟たちに永遠にいたるまで新たに伝えられ、すべての主の愛が折り畳まれることがない何百万年の時代にわたって。そのことを思い見よ。だから、私たちの貧しい小さな時間を主を礼拝するためにささげるのに躊躇することが何かあり得ようか。


主の働きすべてが終えられた、私たちは喜びをもって歌おう
イエス様は上られた。私たちの王に栄光あれ
祝福された地で主の子どもたちのために祈られる
彼らを栄光へと召し、彼らに恵みを送られる
主の輝かしい住まいを忠実な者、あなたがたのために備えて
イエス様はとこしえに生きておられ、なおも愛してくださる 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-18-his-eternity-for-thee/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97242です。

第3章 声と筆によって(8)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 フランシスは音楽について父の助言以上のやさしく愛ある助言や仲間を持たず、何もかも失くしてしまった。父の死後しばらくたったある朝、彼女は父がいたなら直ちに明確にしてくれたであろうと思う幾つかの難点に直面し当惑した。その時、彼女に次のみことばが光となって差し込んできた。「あなたはみなしごを助ける方でした」詩篇10・14このみことばはたちまちのうちに彼女を元気づけ、彼女が以後音楽作曲や詩作の双方において神様の助けを求める習慣になった。彼女は神様から直接送られるかのようにその思想や考えが導かれていった。

 「書くことは私にとって祈ることよ」と一人の友人に彼女は語った。「だって、私には自分の力では一つの聖句すら決して書けないのよ、小さな子どものように感ずるだけよ。こどもは一つ一つ文章を見上げ、『次どう言えばいいの』と言うでしょう。それと同じよ。私はどの行も主が私に与えたいと思われるものを求めるのよ、それはただ思想や力だけでなく一つ一つのことばもよ、もちろんリズムもよ。私は何度も何度も神様から直接答えをいただき、心がすっきりし、幸せ一杯になるのよ!」 ) 

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