2016年3月9日水曜日

来なさい。そうすればわかります

ようこそ!※

来なさい。そうすればわかります(ヨハネ1・39)

 主イエス様は最初にそうおっしゃいました。それはバプテスマのヨハネから主が神の小羊であると聞いていた二人の弟子たちに言われたことばです。弟子たちはイエス様についてほんの少ししか知りませんでしたが、ついて行ったのです。恐らく弟子たちは話しかける勇気さえもなかったのでしょう。しかし「イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て」(1・38)おっしゃったのです。その時、彼らは主に、どこにお泊まりですかと聞いたので、主は「来なさい。そうすればわかります」とおっしゃったのです。

 次にピリポが言いました。ピリポはキリスト御自身をすでに知っていました。それでただちに友であるナタナエルに話をし、「来て、そして、見なさい。」(1・46)と言いました。あなたはまだそう言われていないのですか。おお、「来て、そして、見なさい。」。救い主の栄光ある、愛ある顔をよく見て、主がどんなに愛ある尊い救い主であるかを知りなさい。あなたを受け入れ祝福するためにどのように備えてくださっているかを来て知りなさい。主があなたのために何をなしてくださったか、あなたをどのように愛し、ご自身を与えてくださったか、さらにあなたのためにどのように生き、苦難をなめ、血を流され死なれたかを味わいなさい。

 来てごらんなさい。主があなたに与えられた賜物がどんなものであるかを。それは赦しであり、平安であり、主の御霊、主の恵み、主の喜び、主の愛です。
 
 来てごらんなさい。主が住んでおられるところを。主は来られ、あなたとともに住み、あなたの心をご自身の住まいとしてくださるために準備していてくださるのを知りなさい。おおー、私があなたに「来てごらんなさい」と説得さえできたなら。他のどんなものもそんなに栄光ある美しいものを見ることは出来ないでしょう。

 あなたは来たくないのですか。あなたが来てしまえば、あなたはピリポのように「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。」(ヨハネ1・45)またパウロのように「イエスのことは見ています。」(ヘブル2・9)と言うことができるなら、あなたは誰か他の人に「来てごらんなさい」と言わないでしょうか。

 あなたはすべての人もまた主のところに来て欲しいと思うでしょう。そして人々にあなたが人々を連れて来るように命令する主のみことばをいただくことでしょう。「これを聞く者は、『来てください。』と言いなさい。」(黙示22・17)

しーっ、いと聖き歌が銀の鈴音の翼に乗り 
私たちのいにしえからのやさしい平安な物語が
前方にただよう
主が来られる、代々の願望が待ち焦がれていた
私たちのくさりを身につけ、私たちの喜ばしい解放を勝ち取ろうとして。
私たちの驚くべき喜びは、そのような祝福ある知らせを聞いて
「 主のところに来なさい、そうすれば主はあなたに安らぎを下さるでしょう」
ということばで飾られる

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-9-come-and-see/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97233です。青字の詩の部分は全く難解で、でたらめな訳になってしまった。原文をお確かめいただきたい。
第2章 光彩(14)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 フランシスは音楽会でずっと歌を歌い続けてきたが、聴衆の拍手がもたらす喜びが自らの霊的な成長を妨げないかと危惧していた。それゆえ健康を害してこういうコンサートに出られなくなる時、それは神様から来たしるしだと受けとめた。彼女ははっきり言っている。「キリスト者であることを全面的に告白した人の中でも、私が長年を通じて経験してきたほどには恐らく、誰も、もっとはっきりしない恐れや疑い、罪、さまよう心の歴史を経験した人はいなかっただろう」
 フランシスの姉であり、伝記作者であるマライア・V・G・ハヴァガルのこういう告白に関するコメントは次のようなものである。「深いトンネルを通り、時には陰気な深みに陥ることすらあったが、そのあとにはしばしば絶えず新しくされるいのちの水の尽きることのない泉の供給を受けている。このようにして私の妹は疑いと意気消沈を何度も重ねた。それは彼女が他の人を元気づけ、暗やみの中で神様の深い教えを明らかにすることができるためであったのだ」

※昨日は火曜学び会、午後は79歳で召された知人のI兄の葬儀だった。考えて見れば、昨日少し触れたK兄のところに、I姉は昨年末お見舞いに行ってくださったのだった。こうして主にある者同士のつながりは天にまで及ぶ尽きないものであることを覚える。
 今日は家庭集会だった。おまけに雨だった。雨のため、来たいと思われた方も来られなかったようだ。しかし、主のみことば、証しは連日、私の心を捕えて離さない。今日の証者が最後に紹介されたみことばの一つを書いておく。「主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。」イザヤ58・11このみことばは先のハヴァガルの経験と呼応していると言えないだろうか。) 

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