2016年3月16日水曜日

みことばによって主を受け入れなさい。

民はユダの王ヒゼキヤのことばによって奮い立った。(2歴代誌32・8)
私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。(2歴代誌14・11)

 もし私たちが「わたしの恵みは、あなたに十分である。」(2コリント12・9)とか「いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28・20)と言われることばに絶対的な信仰を今も持っているなら、主が主のためになすように呼びかけておられるどんなことにもひやひやさせられることはないでしょう。主なる神のことばはまことに必要な瞬間に安心を与えることばではないでしょうか。たとえ私たちが不平等だと考えるような奉仕に厳しく縛られていても安心を与えるものです。
 
 私たちは時にはそうだと悟ることがあるのではないでしょうか。だとしたら、なぜいつもそうだと悟らないのでしょうか。私は主の約束のどこにも「時々」ということばを見つけることはできません。 もし私たちが「すべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8・28)ことや主が正しい道に伴ってくださると完全に信じているなら、事がうまく行かなくっても、またその道が私たちが最も真っ直ぐだと思っている道でないからといっても、悩むことはないでしょう。

 私たちは永遠のいのちを求めて王なるお方のみことばによりすがっているのです。なぜ日ごとのいのちのためにもそうしないのですか。主が完全な平安を仰っているなら、不完全な平安を意味されることは断じてないのです。ちょうど民がユダの王ヒゼキヤのことばに安心したように、私たちも王なる方イエス様のおことばに単純に信頼しましょう。

もし何かが私たちが意図しているように除かれたり変えられたりしたのなら
すべてのことは完全な益のために役立つにはふさわしくはないでしょう
私たちの計画はバラバラにはずされるかもしれません。しかし平安が与えられるのです。
神様がひとたび決められたことは私たちの最善よりはるかにすぐれているからです。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-16-take-him-at-his-word/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97240です

第3章 声と筆によって(6)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 姉のマライアは、自分が死ぬとき、自分よりは若い妹がまず召されるとばかり考えていたので、フランシスにピアノを弾いて歌ってもらいたいと始終望んでいた。しかし、妹が先に召されたので、マライアは痛みをともなう死に瀕した病にかかったとき、フランシスのこの愛らしい旋律の記憶を何度も大変異常な努力でもって思い返そうとしたのだが、中々難しかった。先に召された祝福された魂がこのようにしてあとに残された者の心と結ばれ、痛みをやわらげることが許されていたと想像することは空想のように思われるかもしれないが事実であった。

 補注:姉のマライアによるとこの時の曲はフランシスの手書きで記され、フランシスが死の数日前、何人かの音楽評論家に送ってくれるように頼まれたが、紛失して今はないということだ。 しかも彼女の耳朶にこびりついているすばらしい曲なのに、再現できそうにないということだ。セシリアという女性がもう一人いてその歌を覚えているはずだとも書いてい る。「失われた歌」としてマライアの自叙伝〈The Autobiography of M.V.G.Havergal〉の86〜87頁にはそのようなことがよりくわしく書かれている。) 

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