2013年1月30日水曜日

彼は私たちを愛しておられます

日光駅二階貴賓室シャンデリア
イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。(新約聖書 黙示録1・5後半〜6)

忠実な聖徒たちのこの賛美の詩歌は、突然ヨハネの口から出てきました。それは、私たちが彼の御名を告白することであり、彼の贖いに対して私たちに負い目があることを告白することです。このようにして彼を告白することは、彼を拒絶したこの世から私たちを分離させます。このことはまた私たちを彼へと結合し、私たちを彼の弟子また証とします。

「私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」(ヘブル13・15)

彼の御名を告白することと主を賛美することは、聖徒たちの最も卓越した働きです。ここで描写されているものは、主イエスと教会との間の親密な関係ではなく、むしろ裁き人としての彼の栄光ですが、それにもかかわらず、主を真に賛美する声を上げないわけにはいきません。この理由により、私たちは裁きを恐れません。私たちは、彼が「 私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放」ってくださったことを、知っています。

彼は「私たちを愛し」てくださいます! そうです。彼は私たちを愛されます。原文では、「愛する」は現在形であり、これは彼が今わたしたちを愛しておられることを意味します。「解き放ち」は、原文では過去形であり、これは彼が私たちを罪から解放してくださったことを意味します。

彼が今私たちを愛しておられることを、私たちはどのようにして知るのでしょうか? 私たちがそれを知るのは、彼がご自身の血によって私たちの罪を洗い清めてくださったからです。彼の現在の愛は、彼の過去の働き、すなわち血を流し、罪を洗い清めてくださったことによって量られます。私たちはみな、このようにして量られなければなりません! 他のいかなる方法も信頼できません! あなたの移り変わる感覚や経験を用いて、主の愛を量ってはいけません! 彼は今私たちを愛しておられます。それは、過去彼がご自身の尊い血を流され、私たちの罪を洗い清めてくださったという理由にほかなりません。

だれが、主の尊い血の価値をすべて知り尽くすことができるでしょうか? 私たちは、いつもこのことを覚えておかなければなりません。もし人が「役に立たない者」や「実を結ばない者」となるなら、それは彼が「自分の以前の罪がきよめられたことを忘れ」たからです(2ペテロ1・8〜9)。私たちが救われた時に得た恵みを覚えることは、私たちを主イエス・キリストを知る知識において成長させます。

私たちが持っているものはただ罪だけであるというこのことを、どうか主が私たちに認識させてくださいますように。しかしながら、彼は私たちを愛し、私たちを清めてくださいました。過去の洗い清めと、現在の絶え間のない愛のゆえに、神に感謝します! 私たちは主に感謝します。なぜなら、彼は愛してくださるからです。なぜなら、彼はご自身の血を流されたからです。なぜなら、彼は私たちを愛し、ご自身の血を流すまでに至ったからです!

私たちが彼の愛を見ることができるのは、彼がご自身の血を流して、私たちの罪を洗い清めてくださったことを通してだけでなく、彼が「私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった」からでもあります。

(『啓示録を黙想する』ウオッチマン・ニー全集第4巻36〜38頁より。聖句の引用に当たっては原著と異なり新改訳聖書にあわせた。なおウオッチマン・ニーは「黙示録」は「啓示録」であって、啓示であるゆえに無視すべき本ではない。心を開いて神のみことばを直裁に受けとり、吟味すべきだと勧めている。彼24、5歳の作品?)

2013年1月28日月曜日

100年のロマンに想う

2007.1.18 撮影
今朝の東京新聞朝刊に「JR日光駅 100年のロマン」と題する記事が一面に載った。記事によると、この建物は1912年(大正元年)にそれ以前の駅舎を大改造して木造二階建ての洋風の駅舎として生まれ変わり100年後の今日に至るということだが、これまでその設計者は不明だったそうだ。ところが昨年の11月にひょんな機会に郷土史家の手によりその建築家が明らかになったという記事だった。

6年前の1月、親戚の葬儀に出席するため、日光駅に降り立ち、記念に撮っておいた写真を早速引っ張り出してみた。人っ子ひとりいない殺風景な写真は私にとってお蔵入りになるはずであったのだが・・・。けれども振り返って見ると、この駅は決して馴染みのない駅ではない。5、60年前中学校の修学旅行で日光に初めて降りたのは多分この駅だ。改札口には関東では唯一の親戚に当たるおじさんおばさんが出迎えに来てくださっていた。同級生の手前、晴れがましくもあり、恥ずかしくもあったが、一行と別れ、そのおじさんおばさんに家まで連れられて行った道中の何とも言えないぬくもりを昨日のことのように覚えている。

それだけではない。これと言って何の取り柄もなかった私が糊口を教職に求めたのも元はと言えば、この親戚の家のご養子さんの口聞きがあったからである。しかも当時は今日ほど教師に対する世間の目は厳しくなかった。ましてや退職金の減額騒ぎだの、体罰云々、いじめの横行とか何やかやと問題になる現行の世相とは隔世の感があった。日々厳しくなって行く世相の中で、古から続く建築物の謎の設計者が明らかになったと新聞が報ずるのも故なしとはしない。現在を断ずるに、過去を懐かしみ、未来に希望を見出すのはどうすることもできない人間の性(さが)であろう。

ところで謎の設計者とは明石虎雄氏で鉄道院に所属し、設計に携わったのは20代で、「完成から数年後、工務店を営む父親を助けるため退職して故郷の愛媛県へ戻った。その後、病に倒れ、30代で他界した」とあった。歴史の中に埋もれてしまいかねない人物を見出したというロマンである。もともと大正時代の雰囲気を今に伝える遺産で、私がもう一つの駅である東武の駅からわざわざJRのこの駅にまで足を伸ばして撮影しようとしたのもその記憶があったからである。知らずして撮影していた年(2007年)に近代化産業遺産の認定を受けたとも書いてあった。

話は変わるが、いのちとは何だろうか。「神は魚と鳥を創造されました(創世記1章21節)。水そのものが魚を生み出すことは不可能です。同じように地が鳥を生み出すことも不可能です。魚と鳥は神によって創造されて、水と地上に置かれました。両方ともいのちを持っています(21節)。それらはいのちの形において異なるだけです。・・・魚や鳥の外側の形はそれぞれ異なっていますが、内側のいのちの原則は同じです。水に住む魚は水の「中に」いのちがあることを示します。地の鳥は「地上に」いのちがあることを示します。もともと水も地も死んでおり、そこにはいのちはありませんでした。しかし、形こそ異なっていますが、神は多くの生き物を創造して、そこに置かれました。これは非常にはっきりしています。」(『創世記を黙想する』ウオッチマン・ニー著99〜100頁)

私たちは人がいのちあるものとして、しかも神の似姿として創造されているがゆえに、このような駅舎というひとりの人による造型物にも心をひかれるのであろう。明石さんの1912年の設計意思が形あるものとして今も実在するところに100年のロマンを感ずるゆえんがある。

しかし、そもそも人は創造主自身の作品である。この作品である人のいのちは、神さまという創造主ご自身に心が向いていて始めて生ける神様との交流ができ、いのちの喜びを味わうことができる。しかし、罪がそれを不可能にしている。その私たちを救うために主イエス・キリストは地上に人となり、十字架にかかられた。人類誕生以来、この神さまの愛の呼びかけは変わることがない。100年のロマンを凌駕する圧倒的な真実がここにある。主イエス様を信ずる生活こそ過去の克服、未来への真の希望を与える建設的でかつ現実的な今の生き方でないだろうか。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(新約聖書 ヨハネ3・16)

2013年1月26日土曜日

私には、資格はありません。

百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。 あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてくださ い。(新約聖書 ルカ7・6〜7)

ローマ軍将校の家での、興奮の瞬間が伝わって来ます。

私はそのようすを、こんなふうに想像するのです。ひとりの使いが走り込んで、息もつかずに報告します。「あなたは長老たちをイエスのもとに送って、病気のしもべのことを頼んでもらったのですね。ええ、彼らはうまくやってくれました。あなたの功労を証明し、あなたには資格があると・・・。」

百人隊長がことばをさえぎります。「何と言ったって? イエスにしもべを助けていただく資格が、この私にあるというのか?」「そのとおりです。」使いの者は大きくうなずきました。

すると隊長は血の気のうせた顔をして、そばにいた友人たちに振り向いて言いました。「頼む! イエスのところへ走ってくれ。私にはとても、イエス御自ら来ていただく資格なぞない、と言ってくれ。」

「私には、資格はありません。」

町の長老たちは「彼は充分資格のある人です!」と言いました。彼の上司らに尋ねたとしたら、彼らも同じように請け合ったことでしょう。「やつは実に立派な軍人だ」と。

しかし、本人は「私には資格がない」と言います。神の光に照らして自分を見た人だけが、言い得ることばです。自分が神のことをどう考えるか、ではなく、「神は私をどうごらんになるか」と問う者だけに、言えることばです。

「神は私をどうごらんになるか」—我々もそのように問うべきです。そして、答えは聖書にあります。すなわち、我々は神の御前に何ら誇るところはない、「我々はみな罪人だ」と。

ここまで来た人は、十字架につかれた、罪人の救い主、イエスに自らをゆだねます。

主よ! 我らに、自分の心のさまを見せてください。
                    アーメン 

(『365 日の主』1月26日の項目から引用。 ウオッチマン・ニーはその「創世記を黙想する」という作品の中で、人の堕落の淵源はすでに創世記1・2にあると指摘します。そして次のように語ります。「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあった」! これはすべての罪人の真実の姿です。多くの人が自分の状態に無知であるとは、何と哀れなことでしょう!・・・神が創造された人は、もともと正しかったのです。しかし、人はその状態を失いました。「ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである」・・・今や神の前での人の状態は、・・・「神のいのちから遠く離れ」・・・「善を行なう者はいない」「義人はいない、ひとりもいない」。何と哀れでしょう! ところが、人はそれでも彼らの知識、知恵、教育、文化を誇ります。もし人が、自分たちは「形なく」、「むなしく」、「やみ」であると悟るなら、彼らは祝福されるでしょう。)

2013年1月24日木曜日

自分の力の限界を知る人

ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。(新約聖書ルカ7・2)

自分の力の限界を思い知らされた男が、ここにいます。それは実につらい経験でしょう。

彼は強大なるローマ軍の将校です。占領軍将校として、大きな権力を握っておりました。多くの人が彼をうらやんだことでしょう。なぜなら、権力への願望は、人の心に深く根ざしているからです。

おそらく百人隊長も、権力の味を愛していたことでしょう。すぐこのあとのところで、ちらっと、そのことを口にしています。「私にも部下がおりまして、彼らは私のことばに従います」と。けれども同時に「私も権威の下にある者です」ということばのうちに、我々は、権力の限界をそれとなく語る彼の気持ちをうかがい知ります。

さて、しかし、彼は人間の力の及ぶ、恐るべき、本当の限界にたどり着きました。死が彼の家に到来したのです。死! その前には、いかなる力も終止符を打たねばなりません。

聖書を知る人は、他の箇所にも、人間の力の限界に触れている記事を思い浮かべるでしょう。ローマ人への手紙には、こうあります。「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています」(7・19)。

聖書は我々の妄想を徹底的に捕えます。死における我々の限界、また、悪しき心の無力さを暴露します。

この無情な認識を避けて通ることをやめようではありませんか! はっきりした自覚を持って、自分の限界を見つめましょう。そうすれば—この百人隊長のように—我々は「天においても、地においても、いっさいの権威が与えられた」お方、イエスのもとへと導かれます。

主よ! あなたは我らを、その限界を越えて、死を越えていのちへ、罪の奴隷から神の子どもの自由へと、お導きになることがおできになります。 
                           アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳1月24日の項目より引用。私たちは同胞十人をテロ活動の犠牲で失う経験をした。2011年11月28日の当ブログの「大統領の祈り」http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2011/11/blog-post_28.htmlを想い出した。)

2013年1月15日火曜日

キリストを尋ねる罪人(2)

いただいた賀状より
いまかりに、わたしが一万ドルもするような非常な値うちのあるダイヤモンドをなくしたとしましょう。会堂にはいる時はポケットにあったのに、説教を終えた時にはポケットにありません。しかも、会堂のどこにもないのです。そのような時、見つけた人にあげますと言ったらどうでしょう。どんなにみなさんは真剣になるでしょうか。説教のことよりダイヤモンドのことを考えています。それを見つけさえすれば、一瞬にして貧乏から抜け出ることができます。死ぬまで人のせわにならないで生きて行けるのです。ああ、だれもかれも、じきに恐ろしいほど真剣になるでしょう。

同じように人々がキリストを求めるようにできたらと思います。ダイヤモンドよりも、もっと値うちのあるものを差し上げたいのです。救い(永遠の生命)は、この世界のあらゆるダイヤモンドよりも尊くはないでしょうか。

人々は眠っているようです。地獄の外にはとびらがないのを忘れているようです。そこにはいってしまえば、出ることはできません。神があなたを呼びさまし、自分の魂のことに真剣なものとしてくださるように願っています。人々は、わたしたちが真剣であり夢中であり燃えたっていると話しあいます。教会が神に対し燃えあがってくれれば、この世は根底からゆり動かされることでしょう。神が眠っている教会を呼びさましてくださるようにしていただきたいと思います。

もっとも早く流れる水は、しばしばもっとも深くもっとも静かな水です。仕事をはじめてください。やがて声をはりあげる時がくるでしょう。隣人と交わり、キリストと天国について語りあいなさい。遠い所へ行って、永遠の死という暗黒に向かっている人をさがさければならないということはありません。急いで助けに行きましょう。

キリスト者になりたいとほんとうに願い、そのことに熱心な人々を見たいと思います。「キリスト者になりたいと思いませんか」という問に、「そうだね、なってもいいね」と答えているのを耳にすることがあります。なんともあきれたことではありませんか。そのことばを変えないかぎり、神の国にはいることはないでしょう。「わたしは救われたい」と心の奥そこから叫んでいただきたいのです。

ペンテコステの日、「兄弟たちよ、わたしはどうしたらよいでしょうか」という声が聞かれました。この人たちは真剣でした。そしてただちにキリストを発見したのです。三千人の人々が、一心に求めてキリストを見出したのです。富をさがす時のようにキリストを尋ねるなら、すぐにキリストを発見するでしょう。たしかに世界はどよめきの声をあげるでしょう。あしたの朝までに、綿類の値が一度に一割か二割あがってごらんなさい。婦人たちの間に動揺があるでしょう。また、新聞も、だまっていないでしょう。そして、それがあたりまえのことで、商業が健全な発展をしているといいます。

けれども魂の救いについて、熱心になり真剣になり始めると、「あんなに夢中になってなんと不健全なことか」と叫びます。しかも、何千という死に向かって急いでいる人のことを語ろうとしないのです。あわれな飲んだくれをごらんなさい。天に向けられたうめき声を聞きませんか。しかもなお神の教会は眠り続けているのです。そこかしこに道を尋ね求めているのに、まるで夢遊病者のようにふらふらしています。富をさがし、名誉を求めるように、人々がキリストを求めるのはいったいいつのことでしょうか。

(『失われた羊を尋ねて』46〜48頁より引用。ムーディーは、人はダイヤモンド、富には一生懸命になるが、キリストを求めようとしないと慨嘆しています。その原因は主によって救われた人々、「教会」が眠っているからだと言っています。しかし、さらにその根底には空中の権威を持つサタンの支配があるのではないでしょうか。サタンはイエス様に荒野で誘惑を三度繰り返しますが、その最後に、地上の栄華を与えるから、わたしを拝めと要求したことに触れて、ウオッチマン・ニーは「サタンはこの世のすべての王国とその栄華を捨てようとしましたが、人の礼拝を受けるのを捨てようとはしませんでした。・・・サタンの一生の目的は、多くの偶像や宗教の背後で、人の礼拝を受けることです。・・・サタンは神が人の礼拝を受けられるのを奪おうとします」と述べています。肝に銘じたい言葉ではないでしょうか。)

2013年1月14日月曜日

キリストを尋ねる罪人(1)

山茶花よ 天より受けよ 牡丹雪  ※
あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くにおられるうちに呼び求めよ。(旧約聖書 イザヤ55・6)

今まで、人の子が失われた人を尋ねておられるということについて記してきました。この章では別の面、つまり人間の側のことをとりあげて見ましょう。人がその魂について真剣になり始めると、神を求め始めます。そして彼らがすぐに神に会うということを、わたしは見てまいりました。熱心な罪人は救おうとしておられる救い主に会うのです。

エレミヤ書29章13節にはなんとあるでしょうか。

「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会う」

このような人々、つまりキリストを一心に尋ね求める人々がキリストを見出すのです。わたしは不熱心にあきあきし、うんざりしています。不熱心な人間を好む人はいないでしょう。なまはんかな調子で、愛する人に心を傾ける人はいません。主も喜びたまわないのです。もし主を尋ね求め、主を見出そうとするならば、一心にそれをしなければなりません。ほとんどの人がキリストを見出すことのできない理由は、一心に追い求めないからだと思うのです。自分の魂の救いについて、恐ろしいほど一心でないのです。

神は真剣です。人間の魂の救いについて真剣であることは、神のなされたあらゆることから証明できます。神はそのひとり子を与え、わたしたちのために死なせることによってそれをお示しになりました。神の御子は死にたもうた時、真剣でありました。カルバリこそもっともよくそれを示していることです。主は、わたしたちが、魂の救いという重大な問題にぶつかる時、真剣であるように求めておられます。神を一心に求めて発見できなかった人をわたしは知りません。

ある夜、ひとりの青年が求道者室で、自分は救われる値うちのないものだ、けがれて悪い人間だと考えている姿に接して、全く心が新しくされるようでした。彼は自分の魂に対し、必死であり真剣であるゆえに希望があります。彼は自分が無価値なものだと思っていました。神の鏡の中で自分を見つめていたのです。そうする時、人間は自分はつまらないものだと知るのです。

神より遠ざかっている人は簡単に知ることができます。そういう人は、自分のことをいつも価値のあるものとして語るのです。しかし、信仰の目を持って神を見る時、ひざをかがめ、ちょうどヨブのように、ああ、わたしはつまらないものだと叫ぶのです。その時、彼のよさというものはことごとく消えてしまいます。

自分の救いに熱心でありさえすれば、キリストをすぐに発見するのです。キリストをひきおろすために高い所にのぼる必要はありません。深い所におりて、キリストを引きあげる必要もないのです。あるいはまた、キリストを見出そうと遠い町へ行くことも必要ありません。今、キリストは、ひとりひとりのそば近くにおられるのです。

ある時、ひとりの人が青年に向かって、家にもどってキリストを見出しなさいと話しているのを聞いたことがあります。そのように言いたくはありません。家にもどる前に死んでしまうかもしれません。聖書を正確に読むなら、福音がキリストをあすまたは一時間あとに見出しなさいと言っているのではなく、「今」と語っていることがわかります。キリストは、今、救おうとしてひとりひとりのそば近くにおられるのです。もし、人々が救われるために神のもとにきて救いに真剣であるならば、その心のとびらに神の子を見出すでしょう。

(『失われた羊を尋ねて』D.L.ムーディー著湖浜馨編44〜46頁より引用。※朝、家人はいつもより暖かいと申しました。私は雪空だと言いました。ところが先程から朝降り始めた雨が雪に変わりました。牡丹雪のようです。この分で行くと結構積もりそうです。写真は中間報告です。)

2013年1月13日日曜日

どのようにして神のみこころを尋ね求めるか(下)

蝋梅に 亡き義母の愛 想い出す
心にえり好みを持たないということは、消極的になることを意味するのではありません。えり好みを持たないとは、自分自身の判断力を行使して、神のみこころを行なう決心をすることです。心にえり好みがないということは、人がもはや「欲すること」や「欲しないこと」を持たないことを意味するのではありません。それが意味することは、人が神のみこころに関してはっきりする前は、心はどの道も好まないかもしれませんが、彼は神のみこころを行なう決心をしており、いったんそれをはっきりと知れば、喜んでそれを遂行するということです。

自分自身の意志で自分の取るべき道を決定すべき時、「欲すること」と「欲しないこと」の選択を持つべきではありません。しかしながら、神のみこころと自分の意志との間で決定をする時は、「欲すること」と「欲しないこと」の選択をしなければなりません。すなわち、わたしたちは神のみこころを行なうことを「欲する」べきであり、自分自身の意志を行なうことを「欲しない」のであるべきです。わたしたちは、神のみこころを選択し、自分自身の意志を拒絶するべきです。それは、わたしたちが意志や選択を持たないということではありません。わたしたちはそれを持ちますが、わたしたちの意志と選択は、神のみこころを行ない、神の選択をすることです。わたしたちに選択が無いのではありません。わたしたちは自分の選択を持っています。しかしながら、わたしたちは、神が欲せられることを欲する選択をするのです。

簡単に言えば、主のみこころを尋ね求める第一歩とは、わたしたちの前にある道に対し、心の中で意図したり、拒絶したりせず、どれが神のみこころであるか、わたしたちにはわからないとすることです。しかしながら、同時にわたしたちの心は、神のみこころを行ないたいという態度を持ち続けるべきです。わたしたちは、進んで自分の意志を主のみこころに服従させるべきです。

わたしたちに神のみこころがわからない理由は、わたしたちがこの一つの点において失敗しているからです。主は、進んで彼の意志を行なう者たちに対して、ご自分のみこころを啓示することを喜ばれます。進んで神のみこころを行なおうとしない者たちについては、彼らが神のみこころを尋ね求めることは、虚偽です。ですから、彼らはそれを見いだすことができないのです。こういうわけで、もし心の中に先入観があるのなら、神のみこころを尋ね求めることについて語ることさえしないほうがよいのです。人は、まず主の力に信頼し、心の中にある好みを徹底的に対処するべきです。それから、主がそのみこころを自分に啓示してくださることを望むことができます。そうでなければ、たとえ彼がすべての手段を知り、すべての手段を尽したとしても、それらは彼にとって役に立たないでしょう。

今までわたしたちが言ってきたことは、わたしたちの側に関することです。もしわたしたちが神の要求を満たしたなら、彼はどのようにしてわたしたちにそのみこころを示してくださるのでしょうか? 彼がわたしたちにそのみこころを示してくださるのは、聖霊、聖書、環境によってです。聖霊、聖書、環境がすべてそろう時、わたしたちはこれこそ確かに神のみこころであると断言することができます。

わたしたちは、日常生活で起こるすべてのことにおいて、このようにして主のみこころを尋ね求めるべきです。わたしたちは、日常生活で多くの小さな事柄において、自分自身の意志に従って不注意に振る舞っています。大きな事柄がやってきてはじめて、わたしたちは主のみこころを尋ね求めようとしますが、その時、彼はわたしたちから遠く離れてしまっているかのように思われます。これも主のみこころのように思われるし、あれもまた主のみこころのように思われます。すべての道が正しい道のように思われます。

わたしたちは、多くの時間を費やして主のみこころを尋ね求めるかもしれませんが、見いだせません。ですから、わたしたちは大きな事柄だけでなく小さな事柄においても、主のみこころを尋ね求めるべきです。もしわたしたちの日常生活において、主のみこころを尋ね求める習慣があれば、特別な出来事が起こる時、主のみこころを知ることは困難ではないでしょう。わたしたちは、主のみこころを尋ね求めることにおいて熟達し、主のみこころを尋ね求める習慣を持つべきです。もしわたしたちがそうするなら、いつ何が起きようとも、何が主のみこころであるかがわかるでしょう。

しばしば、神はそのみこころをわたしたちに、すぐには啓示されません。御父は決して誤ることはありません。もし彼が、そのみこころをわたしたちに後で啓示するほうがわたしたちにとって益になると思われるなら、そうされるでしょう。そのような時、みこころを知らなければ行動しないという態度を、わたしたちは保つべきです。危険性は、わたしたちが動きたがることにあります。わたしたちは、主のみこころを知る前に動きたがります。主は、わたしたちが彼を待ち、彼と共にゆっくりと進み、彼のみこころがはっきりとわかった時にのみ、わたしたちの歩を踏み出すことを願われます。

残念なことに、わたしたちはしばしば、環境によってせき立てられ、性急に行動することを好みます。結果として、わたしたちはしばしば主のみこころの路線から外れてしまいます。わたしは、一つのことを確信を持って言うことができます。性急に成された十の事柄のうち八つは、主のみこころからではありません。主イエスが地上におられた時、彼が性急に事を成されたのは一つもありません。わたしたちは彼から学ぶべきです。わたしたちは、主のみこころがはっきりとする前は、軽率に行動すべきではありません。わたしたちは、何が主のみこころであるかを見いだすまでは、何も始めないよう決心すべきです。主と共に歩むことが、非常に遅くなることではありません。最も速く前進する方法は、ひざまずき主と共に進むことです。

どうか主がわたしたちに多くの力を賜わり、彼の御前で静まり、彼を待ち望み、尋ね求めさせてくださいますように。わたしたちがあまりにも速く行動してしまう罪を、主の御前で告白しなければならない時から、どうか主がわたしたちを救い出してくださいますように。どうかわたしたちが、今から後、わたしたちの自己を止(と)め、自己から離れ、単一に主のみこころを尋ね求めますように。

( 『 クリスチャン生活と戦い』ウオッチマン・ニー全集第一巻159〜163頁より引用。一部何度読んでもわからない箇所が一箇所あるが、今日の文章をとおして、二つのみことばを想起することができた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」マタイ16・24 小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。ルカ16・10)

2013年1月12日土曜日

どのようにして神のみこころを尋ね求めるか(中)

櫨(はぜ)の実に 引き寄せられて 鳥来(きた)る キャッチするは 迷カメラマン
わたしたちの心は、とても厄介なものです。しばしば、わたしたちは表面的には神のみこころを尋ね求めますが、内側では、自己の意志と先入観とで満ちています。わたしたちの大きな目的は、自分自身を喜ばせることです。しばしば、わたしたちはひざまずく時、「主よ、わたしにあなたのみこころを示してください。わたしは喜んであなたのみこころに従います」と自分の口では言います。しかし、心の中では、わたしたちは喜んでそうしようとはしないし、またそれに同意もしません。しばしば、わたしたちは自分の口ではこう祈ります。「父よ、あなたのみこころが行なわれますように。わたしはただあなたのみこころを尋ね求めます」。一見して、心は口に共鳴して、神のみこころを喜んで行なおうとしますが、わたしたちの心の最も深い部分には、別の意図があり、自分自身の意志を尋ね求めています。

もしこうであるなら、神のみこころを見いだすことはできないと思います。これは、偽りの尋ね求めです。見いだすことはないでしょう。「捜せ、そうすれば、見いだすであろう」という約束は、正直でない者たちに与えられているのではありません。もしわたしたちが、神のみこころを尋ね求めるのに純粋でないなら、神のみこころの啓示を受けることはないでしょう。わたしたちは自らを慰めて、「わたしはすでに神のみこころを得ました」と言うかもしれません。しかし、わたしたちが得たかもしれないものは、自分の思いの産物であり、まがいものの神のみこころです!

もしわたしたちが心の願いにより、ある事柄についてすでに決心をしているなら、主のみこころを尋ね求めても無駄でしょう。人がすでに自分自身の意志と願いとを持っている時、その祈りは無駄になるでしょう。たとえ彼が毎日祈り、請い求めても、それは役に立たないでしょう。ですから、わたしたちが主のみこころを尋ね求める時は常に、自己の意志や、先入観や、あるいは自分の存在の最も深い部分に隠された願いがあるかどうか、主にあって自分自身に尋ねなければなりません。わたしたちは、清い、汚れのない心をもって、主のみこころを尋ね求めなければなりません。そうでなければ、わたしたちが行なうことには、何の効果もないでしょう。

こういうわけで、二つあるいはそれ以上の道が自分の前にあり、一つの道を他の道よりもあなたが好む時、自分が好まない道を選択するよう主が言われたなら、あなたは喜んでその道を取れるかどうか、自分自身に問うべきです。もしあなたが、自分の好まない道を喜んで取ろうとしないのなら、あなたが主のみこころを尋ね求めても何の役に立つでしょうか?

いつであれあなたが岐路に立つ時、最上の方法はえり好みのない心を持つことです。これは偏りのない心を持つことであり、一つの道を好むこともせず、別な道を恐れることもせず、どちらの道も同じであると見なすことです。そうすれば、主がどちらの道をあなたに示されようとも、あなたはその道を取ることができるでしょう。もしわたしたちの心の中にえり好みがなければ、主は容易にわたしたちに彼のみこころを示すことができます。内側のえり好みとわたしたちが喜んで服従しようとしないことが、主のみこころに対する大きな妨げです。

(『 クリスチャン生活と戦い』ウオッチマン・ニー全集第一巻157〜159頁より引用。この文章を読んでいると、自分自身がいかに主の前に偽りの心をもって出ているかがわかる。改めて「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」詩篇139・23〜24のみことばの真実性を思わされた。それにしても「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」マタイ7・7の約束は正直でない者たちには与えられていないという主張は何たる慧眼であろうか。主に対して二心のない者を主は祝福される。この作品は1927年の発表であるから彼の24歳のときである。若い時からひたすらこの信仰に立つ者は幸いである。)

2013年1月11日金曜日

どのようにして神のみこころを尋ね求めるか(上))

ステンドグラス by Hirohiko.M at Isesaki
クリスチャンを最も悩ませる一つの問題は、どのようにして神のみこころを尋ね求めるかということです。わたしたちは、神をほかにして成された働きがすべて空であり、無駄な労苦であることを知っています。それらは、神の御前に数えられません。

わたしたちがここにいるのは、大きな働きをするためではなく、神の働きをするためです。多くの働きは、偉大で、すばらしく、有益ですが、わたしたちにとって神の働きではないかもしれません。わたしたちは、良いものがすべて神のみこころからであると思うべきではありません。もしわたしたちの働きが神のみこころから離れているなら、わたしたちが仕えている主は喜ばれないでしょう。

わたしたちは朝から晩まで忙しくするかもしれませんが、霊的領域においてあまり多くの益を収穫せず、その働きの結果としての神からの賞賛や報酬も受けないかもしれません。わたしたちは、命と働きにおいて、一歩一歩神のみこころを尋ね求めなければなりません。わたしたちは、何の感覚もない、だらしのない、愚かな働きをするべきではありません。

多くの時、わたしたちは聖書の学びにおいて、祈りにおいて、さらには福音の宣べ伝えにおいてさえも、主のみこころを尋ね求めることを忘れてしまいます。わたしたちはしばしば、なぜ福音を宣べ伝えているのかも考えずに、他の人に福音を宣べ伝えるかもしれません。わたしたちは主のみこころを尋ね求めていません。それにもかかわらず、わたしたちは宣べ伝え続けるのです! このような働きは、神の目にはほとんど価値がありません。それは役に立ちません。こういうわけで、どのように神のみこころを尋ね求めるかを知ることは、とても大事なことです。それは、すべてのクリスチャンが知らなければならないことです。

神のみこころを尋ね求める第一歩は、わたしたち自身の意見を捨て去ることです。わたしたちの先入観は、神がご自分のみこころをわたしたちに啓示するのを、しばしば妨げます。いったん人が何らかの先入観を持つなら、たとえ神がそのみこころを人に示そうとされても、おそらく彼はそれを聞くことができず、あるいはそれに気づくことさえできないでしょう。なおまた、たとえ彼が神のみこころに気づいたとしても、おそらくそれを行なうことはないでしょう。

わたし自身の経験では、わたしが神のみこころを理解できないのは、わたしがすでに自分自身の意志を持っている時です。しばしば、わたし自身の意図が、わたしの心の最も深い部分に隠されています。もしわたしが自分自身の意志を取り除かなければ、主のみこころを尋ね求めるのに多くの困難があるでしょう。わたしたちの自己の意志が取り除かれるなら、直ちに神はわたしたちに、彼のみこころを示してくださるでしょう。

神のみこころを知る前に、自己の意志が取り除かれなければならないという事実は、幾ら強調しても強調しすぎることはありません。この点は、最も重要なことであり、わたしたちが全き注意を払うのに値する事柄です。

(『 クリスチャン生活と戦い』ウオッチマン・ニー全集第一巻156〜157頁より抜粋。この文章を読んでいると、イエス様が私たち主を信ずる者に言われた次の警告のことばの真実性に改めて目を開かせられる思いがする。わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』マタイ7・21、23)

2013年1月10日木曜日

主よ、あなたの定めを知る者とさせてください!

私の住んでいる町は決して都会ではない。あちらこちらに存在する日本の平均的な田舎のまちが備えている土着の匂いがある。決して垢抜けはしていない。もともと田舎人である私にとって背伸びする必要がないから、至極気楽に住めるいいまちである。市役所に入ってみるとそれがよくわかる。決して所内がスマートに構成されていないからだ。恐らく町の政治は理念の追求によるよりも、まちの人たちの素朴な要求をそのまま満たすものとして俎上にのぼっては、その利害の調整は何らかの腕力の強さが幅を利かせて来たのでないかと想像する。

これらはきわめて何ら根拠のない私の独断である。こんなことを書き出したのは、市役所の前の川縁がどぶ川よろしく、川床の雑草は枯れるにまかされており、今の季節にはそこまでは手入れが行き届かないのか、あまりにも野放図のように見えたからである。そんな川を見るともなく見ながら歩いていたら、一羽の鳥に出会った。静かにひとりで潜んでいるかのようでそのまま通り過ぎてもよかった。でも持ち前の野次馬根性が頭をもたげて後戻りして野鳥の撮影に取りかかった。

カシャッと言うiPhoneの音に気づかないわけではない。たちまちその鳥は明らかにいつ飛び立ってもいい戦闘態勢に移ったのが見て取れる。こちらは何と言ってもそうはさせじとその都度4、5回シャッターをあわてて切りまくった。掲載の写真はその最後のものである。鳥はすぐその場から飛び立ち、何と今度は至近距離にある渡しの管の上にまたがったのだ。再び絶好のシャッターチャンス到来とばかり勇み込んだが、次の瞬間には空へと飛び立って行ってしまい、あえなくも当方の目論みは崩れた。その様子を反対側から来るご婦人が見ていたのだろう。「私が動いたがために(鳥を動かせてしまって)すみませんでしたね」と言われ、「コウノトリですかね」と言われる。私よりは年配のご婦人とお見受けした。

コウノトリとは赤ちゃんを運んで来るとかよく言われる文脈でしか知らない。けれども年配の方が言われるのだから、そうなのだろうと、家に帰って調べて見ると案の定、コウノトリそのものではなかったが、コウノトリ目のアオサギ属であった。決して見かけない鳥ではない。しかも都心とも言うべき市役所の前の川に潜んでいたのである。都心と言うのがはばかれるのが、わがいなかまちの実相である。しかし、ある面で鳥と共存できる世界を残していることは尊いと言える。

さて昨日の年賀状の絵解きであるが、キーは「ランドセル」である。三人の子どもたちのうちで、上の子が間もなくランドセルを脱ぐ時期がやって来る。中学生になるからだ。そしてこの三月までが、このような玄関先の風景が見られる最後だということで、そのシーンを是非定着しておきたかったと言われた。その上、みことばも原案はルカ23・42だけであったがご主人がそれだけでは希望がないと言われ、43節を付け加えたとおっしゃり、そのために主人の顔がさらに一部になったんですよ、と明るく言われたのだ。

見ただけではわからないことも説明を受けると、より意味が鮮明になる。ほんのわずかな出会いに終わったコウノトリ目アオサギ属ではあったが、河川の闖入者であるこの者を何と思ったであろうか。昨日お見舞いした方はその後直ぐ亡くなったということであった。福音を運ぶことができたのは幸いであったが、その方の心からの救いの叫びにこの者の伝えようとした福音は届いたのか、いささか自信がない。

空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない。(旧約聖書 エレミヤ8・7)

2013年1月9日水曜日

「きょう」という日は二度と来ない

いただいた年賀状から※
新年も今日で9日目。あっと言う間に時が過ぎ去る。年賀の便りも徐々に減って来て、もう二三日すればそれも全くゼロになることだろう。(※左側に紹介した年賀状にはさまざまな思いが込められている。そのことをお電話で掲載の許可を得る際にお聞きして知ることができた。あなたはこの賀状に込められている両親の思いをどのように汲み取られるだろうか。) 完全にお屠蘇気分はなくなり、ハレの時はとっくに終わり、一年365日の忠実な日々の積み重ねが年末に向かって再び延々と続く。今年は特に多くの日本人が景気の上向くことを期待しながらお祝儀気分でじっと政府の動向を模様眺めしているのが、いつもとは異なる年初の風景ではないか。

そんなありふれた一日であったが、今日は乞われて病院へひとりの方をお見舞いに行った。救急医療の医院であった。案内された部屋にはそれぞれベッドが4つほどあり、いずれも重篤の方々ばかりであった。私のお見舞いした方も人工呼吸器をつけておられ、それゆえに命が永らえておられる方だが、血圧は降下しており予断は許さない状況であった。

姪御さんが私の知人で、流感にかかってしまいどうしても自分が行けない、主人と同行して見舞っていただけないかとのご依頼であった。もとより何もできないが、みことばと主の救いを伝える最後のチャンスだと、依頼された方からの必死の思いが伝わって来た。一時間ほどの距離であったが、結果的には逡巡することなく行けて良かったと思う。

昨日の火曜の学びでは「用意ができているの」「愚かか、賢いか」「備えあれば憂いなし」という題でマタイ25・1〜13がテキストであった。主イエス様の救いはこの世の命を越えた永遠のいのちにある。だからキリスト者は決して死を悲観視しはしない。死は天の御国への入り口であるからである。それよりも大切なことは、自らのうちに主とお会いすることのできる希望があるかどうかである。(賀状のみことばは有名なイエス様とともに十字架につけられた犯罪人とイエス様との最後の会話の証言である。)

主イエス様は十字架にかかられ死なれたが三日目によみがえられた。そして今も目に見えないが生きておられ、再びすべての人々の前に姿を現される。それを「再臨 」と私たちは言っている。それは聖書が預言していることだし、イエス様ご自身が言われて必ず実現することだが、問題はその時日はだれにもわからないところがミソと言えばミソである。「きょうかもしれない」と再臨の日を待ち望んで、いつも生きることはこの世の生死をこえた喜びの生涯となる。それは、終わりなき永遠を目指した生死を越える生き方である。

瀕死のご主人に、主イエス様の十字架による罪のあがない、そして死が終わりでないことをお話し、宗教に囚われている奥様であったが、私の語りかけを拒まれることもなく、同行したご主人と私との祈りの輪の中に加わってくださっていた。もう意思疎通はかなわない。しかし、よく耳は聞えていると言われる。その方の耳元でていねいに福音を伝えたつもりである。もちろん家に帰ってからああ言えば良かった、こう言えば良かったと反省はする。しかし、根本は主がなさることで、私たちには何もできない。

新年早々、このようにしてひとりの方のお見舞いをとおして早くも死を目前にしたのは、まさしくケースは違うかもしれないが、「備えあれば憂いなし」である。主がなさることにはひとつとして無駄がないことを知る。

ここまで書いてきて、そう言えば朝、知人からやはり義兄が亡くなったのでふるさとに帰らねばならない、でも福音を伝えてきましたから義兄はきっと天国へ行っていることでしょう、という電話を受けたことを思い出した。死は間近である。それと同じくらい、主イエス様が来られるのは間近い。死が先か、再臨が先か、主のみことばから外れずに生き続けたいものだ。

そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。(新約聖書マタイ25・1〜10)

油とは「聖霊」である。主イエス様の来られるのを「きょうかも知れない」と待ち望むことができるのは、これすべて主の前にへりくだる者の内に住んでくださる聖霊の力による、と悟る。 

2013年1月6日日曜日

「きょう」は2013年最初の礼拝日

今日は今年始めての礼拝に参加した。そのあとの福音集会で、司会者の方が礼拝で朗読されたみことばについて証してくださった。それは朗読される聖書のことばをとおして大いに恵まれ、自分もいつの間にか朗読に加わっていたという内容であった。以下はその方の証にしたがったみことばの紹介である。最初に読まれたみことばは次のものであった。

神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。・・・それは、今の時にご自身の義を現わすため・・・(ローマ3・25〜26)
もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。(1コリント15・19〜20)

これらの朗読箇所をとおして、「今」主があなたを恵もうとされているみわざに目を留めなさいと呼びかけられた。

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。(哀歌3・22〜23)

そしてその呼びかけは「朝ごと」に新しいと気づかせられる。

私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。(詩篇90・10〜11)
祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。(詩篇65・2)

主の御怒りの対象でしかない自分だがそのままあなたの前に出ます、と告白しているうちに自分にも次のみことばが与えられた。

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。(1テサロニケ5・10、23〜24)

どんなにみじめで罪深くっても贖い主である主は必ず聖なる者として導いて下さると確信するまで高められた。しかも、そのあと駄目押しするかのように次のみことばが語られた。

きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。(ヘブル3・13〜15)

そうこうしているうちに初めから通算すると計11名の方がみことばを次々朗読されたが、最後は「あなたは生きたみことばを語ってくださいます」という感謝の祈りで閉じられた。それは自分の思いを言い表わすものだったと語られた。(話の構成上省略せざるを得なかったが、これ以外に朗読されたみことばは1ヨハネ4・10〜15、テトス2・11〜14、ローマ8・28、ヨブ33・24、27〜30などであり、それぞれ励まされるみことばの数々であった)

実は大晦日の晩から元日の朝にかけて私が願ったのは、「今年はみことばにもっと深く親しむ者でありたい」ということであった。そして元旦にはそれにふさわしいみことばが与えられ、心から感謝した。しかし、それだけでなく、早速「きょう」の礼拝をとおして今度はみんなで同じ思いに満たされたことはさらなる喜びであった。そして福音集会では「みことばを実行する人になりなさい」とヤコブ1・18〜25から新たなみことばのチャレンジ・本質となるみことばをいただいた。主は私たちがいい加減なところで妥協するのでなく、走ることを望まれ、祝福しようとなさっているのだ。最後に引用されたみことばの一部を紹介しておく。

みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。(ヤコブ1・22、25)

2013年1月5日土曜日

獅子は牛のように、わらを食べ

題名「ぼくもおとうさんのようになりたい」 Picture by Emi.Y
あれは小学校低学年のことだと記憶する。友だちの家に遊びに行ったときのことである。太田川(小さな小河川を地元ではそう呼んでいた)に一本の橋が渡してあった。人独(ひと)り渡れるか渡れないかの橋であった。友だちはそれぞれ足下を気にしながらも何とか向こうへ渡ることができた。ところが私ひとりは足がすくんで渡る気になれず取り残されてしまった。橋の下を見ては落ちはしないかと気になったからだ。その後どうしたかは覚えていない。ただ、そっち方面が遊び場所だとわかると、友だちに誘われてもきっと行かなくなったように覚えている。自らのうちに絶対できないことがあるというのは幼心にもつらいことであった。

 学校では体育が苦手でその時間がないほうが良いとどれだけ願ったことか。草野球だけが楽しみだった。ところが中学になる頃バスケットをはじめとする球技が体育の正課に加えられるようになってから興味が出て来た。さらに高校になるともはや小学校で経験したような跳び箱や鉄棒を始めとする基礎体力を養う、からだの発育を伸ばす目的の種目が姿を消し、次から次に球技が続いてほっとした。バレーボールなどではサーヴがうまく決まるやり方が自然と身についたりして嬉しくなった。それに比べるとボールを指で瞬発力よろしく跳ね上げるのは下手であった。でもそれなりに友だちと一緒にプレーできるようになった。

 そのうちに幼いころのあの足のすくむ思いや様々な苦手の体育種目もいつしか忘れるようになっていた。そんな中でもただひたすら走るマラソンは好きな種目のひとつになった。これは中学の先生が雪道を上半身裸で素足で走らせてくれた猛特訓のおかげであった。けれども中学の頃、父が結核になり、同じお医者さんに診察を受けた時、「針金のような足だな」と言われた。顔から火が出るほど恥ずかしかったが、そういう「劣等意識」を絶えずからだの面で持ち続けて来た。ところが、70歳を目前にして体重が普通の人に比べるとはるかに少なく50台で肥満からはほど遠く50年近く体重はコンスタントである。同年齢の人々からはうらやましがられることもままある。これまた不思議なことである。

 思わず自らのからだ談義をしてしまったが、現在私には六人の孫がいるが、遺伝は隔世遺伝だと聞いたことがある。だから私のこのDNAを受け継ぐ孫たちが出て来てもおかしくはないと思っている。もっとも孫となれば四分の一の確率だから、そう気にすることもない。けれどもそれぞれの孫を見ていると私に似ていると思う孫もいないではない。どのようにしてその劣等意識を乗り越えて行くのかを思うとちょっぴり可愛そうな気もするが、振り返って見れば人生はすべて塞翁が馬だ。災いと思われることもいつ幸いになるかもわからない。

 しかも私は自己のからだの劣等意識だけでなく、同時に自らのうちに巣食うどうしようもない悪の性質を心の内に認めざるを得なくなっていた。そのような私を捜し出して救ってくださる主イエス様に後年出会うこととなったのである。27歳のときである。イエス様はすべての人間の持つアダム以来のDNA(=罪)をご自身のからだを十字架に釘付けにしてまで、赦しの愛を注いでくださったことを婚約者を通して知らされた。そしていつの間にか、私も自らのうちにこの主を信ずることによる自由を体験させていただくようになり、いつしかからだを始めとする様々な劣等感、言いようもない罪責感からも解放された。

 だから、どんなに自らの生まれながらの性質や体質をのろおうともそこには必ず脱出道があることを私は聖書より教えられて来た。それは「塞翁が馬」にはるかにまさるすばらしい人生の真理である。創造主である主が私たちに気づかせようとされている主にある「いのち」の道である。

 正月、昨日の話題主の姉にあたる女の子が昨年の作品を見せると言って、何枚か画用紙の絵を持って来た。実は冒頭の絵はそのひとつである。またしても大胆な絵に度肝を抜かれた(昨年の11月30日のブログのカット絵は同じ彼女の作品であるhttp://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2012/11/blog-post_30.html)。これは一部は小学校時代絵ばかり描いていた私のDNAによるもののようにも思えるが、そうでない面もある。私にはそのような大胆さはないからである。聞くと、ライオンの子どもの写真をもとに学校で模写したのだということだった。しかし、考えてみると二人の姉妹とも造型の教室に通っているのだ。その先生の指導の賜物であることに思い至った。

 最初こそライオンなんてどうしてそんな恐ろしいものを題材にするのかと思っていたが、何度も見ているうちに愛嬌すら感じるようになった。そして以下のみことばを思い出した。

先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。(旧約聖書 イザヤ65・16後半〜17、25)

 いつの時代どんな人間(大人であろうと子どもであろうと)も内側には自分ではどうすることもできない矛盾をかかえていて、それに固執する限り、その悩みは尽きないのではなかろうか。しかし、一たび主の救いにあずかり、主を仰ぎ見ることを知れば、それはすべて産みの苦しみに過ぎないことを知ることができる。必ず主にある新しい天と新しい地が創造されるからだ。今年一年あらゆる人々とともにひたすらその時を待ち望む者でありたい。

2013年1月4日金曜日

ようこそ!パンダの遊園地へ。

今春には小学校二年生になる女の子がいる。彼女に新春早々、パンダの遊園地に招待された。誰よりも先に入場するという最高待遇を受けたのは私とその母親の二人であった。入場する前にはそれぞれ腕に鈴の鳴る腕環をつけてくれた。先ず、私が入場した。ところが入場する際に、ペットボトルのふたにパンダを乗せて入場するのだが、入り口でその遊園地の支配人である女の子の注意があった。

「もし園に入って、中国人が来てパンダを盗りに来て取られたら鈴を鳴らしてください 。もとに返されます」

遊園地の中にはいると、早速見えたのは右側の滑り台仕掛けの遊具であった。昇って降りて来ると、さっと手が伸びてパンダが盗られてしまう。一瞬何が起こったのかわからないでうろちょろしていると、「鈴を鳴らしてください」とその支配人の声がかかる。あわててその指示に従うと、パンダがもどってきた。次はさらに左奥手に観覧車が見える。これにも乗せてもらった。降りるとまたしてもパンダをさっと奪って行く。あわてて鈴を鳴らす。うまい具合に今度はすぐにパンダが返って来た。

遊園地のしきたりに慣れた頃、最後にシーソーの台が見えた。それに乗って無事門を出た。ところが支配人が宣(のたま)う。さっきは遊園地の仕掛けの説明を忘れましたので、もう一度最初からやり直してください、と。その説明とは、はいるときにカードを渡すのでそれを受け取り、遊園地内の絵探しもやって欲しいということだった。園内には一番二番とふたつの隠し絵があるという。

改めて再入場すると、確かに地面に隠し絵があった。滑り台の下あたりにハートが描いてあって一番と書いてあったのだ。ところが二番もシーソーの下にあったのだが、やはりハートであったので、おかしいなと思いながらもカードにそのとおり描いて、それぞれの遊具で遊んで退場すると出口でカードがチェックされた。二つとも正解であった。ご褒美としてパンダのキャラメルを数個もらった。この間、15分程度であったろうか。大いに楽しませてもらった。

もともとこの遊園地は女の子が姉と一緒に家内が使えなくなったCDやCDケース、包装の切れ端や緩衝材をあてがい、工作を始めさせたことによる。上の小学4年になる女の子はいつも通り、巧みにこれらを使いながら造型を手がけていた。それに対してこの下の子は遊園地を作ると言い出してびっくりさせられたが、できあがりもすばらしかったので褒めてあげた。ところが、てっきりそれで終わりだと思っていたが、まさかその先があるとは思いもしなかった。

それにしてもいったいなぜパンダの遊園地か、最初はわからなかったが、出口でパンダの菓子を沢山ご褒美としていただいて始めて合点が行った。振り返れば、二人が来るというので、最近中国から一時帰国された方がくださったパンダの絵の描いたお菓子を用意しておいた。それが一気にこの女の子の夢を膨らませたのだろうか。確かに、パンダのお菓子は数も多く、この幼い魂に圧倒的な影響を与えたのだと思う。それにしてもその女の子がそのように想像を逞しくして遊園地を作り、そこへ家族全員を招待するとは!実は、私のあとでは、台所で忙しく働いている家内もかつぎだされ、姉も動員された。

ちなみに以前はこの女の子は消防士になりたいと言っていたが、新春には開口一番サッカー選手になりたいと言ったのだ。しかし、この分で行くと、将来は遊園地の企画立案をまかせてもいいようだ。この女の子のアイデアと夢を傷つけてはならないと切に思わされたが、主の助けなしには何事もなし得ないことを肝に銘ずる。

さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。(新約聖書 マルコ10・13〜16)

2013年1月3日木曜日

罪人を尋ねなさるキリスト(9)

いただいた新年の賀状から Picture by Kouko.K
アダムの堕落と失われたことによって、神の愛はひき起こされました。神はアダムがエデンの園にいた時、彼を愛しておられるとはおっしゃいませんでした。彼の堕落、彼の罪がそれを引きだしたのです。数年前、シカゴに、マンチェスターから来たひとりの友がいました。彼はこの町、多くの住民がいて、鉄道の中心地、材木市場、豚肉の市場、穀物の市場のあるこの大きな町に深い興味を持っていました。マンチェスターにもどってから、シカゴのことを友だちに話そうとしました。しかし、誰も興味を持つものはいませんでした。遠く離れた町のことなど、人々は聞きたいと思いませんでした。

ある日、シカゴの町が火事だという悲しいニュースがはいりました。すると、それまでも誰も興味をもたなかったシカゴの町への関心がにわかにたかまりました。次々にはいるニュースを彼らはのがさずに読みました。とうとう、シカゴの町が焼きつくされたという知らせがはいると、十万の市民が家々から出て来て、誰もが深い関心を示して、同情の涙を流しました。そして、進んで救援金をおいて行きました。ある人は、被災者のために何百ドルものお金をおいて行きました。マンチェスターの愛を、そしてロンドンの愛を、リバプールの愛をひき起こしたのは、シカゴの「惨禍」であったのです。わたしはその恐ろしい火災の時に、シカゴにおりました。すばらしい財産家が、所有していたものを、すっかり失ってしまうのを見ました。あの日曜日の夜寝る時、彼らはシカゴでもっとも金持ちの人々だったのです。次の朝、彼らは無一物になっていました。けれども、涙を流している人には会いませんでした。

しかし、リバプールが一万ドルを、マンチェスターが五千ドルを、ロンドンでは今救援を集めているというニュースがシカゴの町に伝わり、救援の手がさしのべられていることがわかると人々の心はくだかれてしまいました。人々の泣いている姿に会いました。シカゴの人々に示された愛がその心をうちくだいたのです。

同じように、神の愛は、今日、あらゆる人の心をうちくだくのです。キリストがこの世にくだり、わたしたちのために死なれたのは、愛のゆえでした。愛がキリストを父の王座から離れさせ、この世にくだり、失われたものを尋ね出し、救わせたのです。

ここで、キリストが尋ね求めているということを信じない人のために、どのようにしてキリストが尋ね出されるかを語るのはよいことでしょう。

ある夜、わたしは求道者のへやにひとりの男を見つけました。主は、ずっと前なくなった信仰の深い姉の祈りをとおして彼に語りかけていました。彼女の祈りは答えられました。彼は頭の上から足の先までブルブルふるえながらそのへやにやって来たのでした。わたしは彼に救いの計画について話しました。涙がほおを伝わり、とうとうキリストを救い主として受けいれました。

人の子は、この若者を姉の祈りと死によって尋ね出されたのです。みなさんの中には、あなたの魂のために一晩中祈り続け、今は天に召された敬虔で祈り深い母を持った方もいるでしょう。おかあさんと手をとって、かしこで会いたいと思いませんか。神の子がおかあさんの祈りと死を通じてあなたを尋ねているのです。また、ある人々は、説教壇で涙を流し、キリストのもとにゆくようにと祈ってくださる忠実な牧師さんを持っているかたもあるでしょう。また、心をさぐられるような説教を聞いたことがあるでしょう。真理が深く心の中にせまったこともあるでしょう。さらに、涙が両ほおを伝わったこともあるでしょう。それは、キリストがあなたを尋ねておられるからなのです。

また、キリストのもとにゆくように熱心にすすめてくれる敬虔で祈り深いクリスチャンの先輩を持った人もいるでしょう。おそらくまた、あなたのまわりに回心した若い人がいて、その人に語りかけられ、キリストのもとに行くようにささやかされたことのあるかたもあるでしょう。それは、神の子があなたの魂をさがし求めておられるからなのです。さらに「永遠をどこですごすべきか」と言ったような題のトラクトを受けとって、心が動かされたこともあるでしょう。神の子があなたをさがしておられたのです。

病床にあって、考え黙想するチャンスをもった時、みんな寝ているのに自分だけ眠れないといった静かな夜のひととき、天国の世つぎにならなければならないという考えに心が占領される経験を持った人はおおぜいいるでしょう。子どもを墓に葬ったかたもいるでしょう。これも神の子があなたの失われた魂をさがしておられるのです。子どもの死に直面した時、あなたは神を愛し、神に仕えると約束しました。その約束を守っているでしょうか。神の子があなたをさがしておられたのです。あなたの愛情が、天に向けられるように、神がその子を召されたのです。

友よ、心のとびらを開いて、天から訪れた客を迎えなさい。もう、そのかたを拒んではなりません。「今度は、ほかのところへ行ってください。都合のよい時に、わたしがあなたをお呼びしましょう」などと言わないでください。今を都合のよい時にしなさい。今を救いの時としなさい。神の賜物を受け、心のとびらを開いて言いなさい。

「どうぞ、この心のすみまでおはいりください」と。

(『失われた羊を尋ねて』40〜43頁より引用。大晦日から昨日まで「喜びの集い」に参加してきました。そこでも何度か話し手が、語られる中で涙を流され、一瞬言葉が途絶えることが印象的でした。それも60歳、70歳を優に満ちた方々なのです。いずれも神の子が失われた自分を尋ねてくださった恵みを思い出しての感動ぶりでした。神の子の愛はいつも新たにして普遍的です。一年365日様々なことがあることでしょう。でも神の子の愛はすでにひとりひとりに十分であるとの証を心の中に蓄えて下山してきました。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」ローマ8・32

2013年1月2日水曜日

罪人を尋ねなさるキリスト(8)

浅間山山麓 2013.1.2
ルカによる福音書の15章に、何が書いてあるでしょうか。ひとりの羊飼いが、羊の群を導きながらもどってきて、さくの中に入れています。羊のはいって行くのを、一匹、二匹、三匹と数えている姿が見えるようです。
「おや、百匹のはずなのに、まちがえたのかもしれない」
そしてもう一度数えなおします。「九十九匹だ。一匹迷ってしまったにちがいない」

彼は、「ほっておけば、もどってくるだろう」とは言いませんでした。そうです。彼は尋ね求めるのです。山の奥深くにはいってさがし、とうとう迷った羊を見つけだしました。肩に羊をのせて家にもどってまいります。羊が羊飼いを見つけたのでしょうか。いいえ、羊飼いが羊を見つけてつれもどったのです。羊飼いは、羊を見つけて喜びました。もちろん、羊は大喜びでさくの中へもどって行きました。けれどもそれ以上に喜んだのは羊飼いでした。彼は友だちを呼び集めて申しました。
「わたしといっしょに喜んでください」

次には、銀貨をなくしたひとりの婦人の話がでてきます。たぶん、誰かが彼女に借りたお金の銀貨十枚をわたしたのでしょう。夜になると、ポケットからお金を取り出して数えます。
「おや、九枚しかない。十枚のはずなのに」
もう一度数えなおします。「九枚しかない。どこにおいたのだろう。あれから外に出なかった」

ポケットの裏側をあけて見ると、あながあいています。その婦人はお金がポケットへもどって来るまで待っていたでしょうか。いいえ、彼女はほうきを取り、あかりを照らして、ていねいにさがします。長いすやテーブル、いすなどの家具をみな動かして見つけるまで、すみからすみまでをていねいにさがします。彼女がそれを見つけた時、誰が喜ぶでしょうか。一枚の銀貨でしょうか。いいえ、それを見つけた婦人です。

こういうたとえ話を用いて、キリストがお話しになっている偉大な真理は、神が尋ね求めておられるということです。キリストがまず人々を見出すのです。

ある夜、ひとりの若者が、自分はあまりにも罪が深くて救われていないのだと言います。どうしてでしょう。キリストは、そういう人を求めておいでになったのです。
「この人は、罪人を受け入れ、共に食事をしている」

ここで彼らがキリストに対してなした唯一の非難は、キリストが悪人を受け入れているということでした。しかし、実はそういう人こそ、キリストが喜んで受け入れようとされる人々なのです。自分は罪人なのだと認めることが、なされなければならないすべてなのです。もしそうすれば、救い主を持つことができるのです。罪が深ければ深いほど、救い主を必要とします。自分の心はかたくななのだとおっしゃるかもしれません。よろしい、それならキリストにくだいていただきなさい。自分ではできません。心がかたくなであればあるほど、キリストを必要とするのです。心がきたなければきたないほど救い主を必要とするのです。罪が黒い山のように立ちふさがっているならば、イエス・キリストの血がすべての罪からきよめてくださるということを思い出してください。キリストの血がおおいかくせないほどの大きな、きたない、くさった深い罪はないのです。ですから、もう一度、この昔ながらの福音を申し上げましょう。

「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」

(同書38〜40頁引用)