2013年1月26日土曜日

私には、資格はありません。

百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。 あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてくださ い。(新約聖書 ルカ7・6〜7)

ローマ軍将校の家での、興奮の瞬間が伝わって来ます。

私はそのようすを、こんなふうに想像するのです。ひとりの使いが走り込んで、息もつかずに報告します。「あなたは長老たちをイエスのもとに送って、病気のしもべのことを頼んでもらったのですね。ええ、彼らはうまくやってくれました。あなたの功労を証明し、あなたには資格があると・・・。」

百人隊長がことばをさえぎります。「何と言ったって? イエスにしもべを助けていただく資格が、この私にあるというのか?」「そのとおりです。」使いの者は大きくうなずきました。

すると隊長は血の気のうせた顔をして、そばにいた友人たちに振り向いて言いました。「頼む! イエスのところへ走ってくれ。私にはとても、イエス御自ら来ていただく資格なぞない、と言ってくれ。」

「私には、資格はありません。」

町の長老たちは「彼は充分資格のある人です!」と言いました。彼の上司らに尋ねたとしたら、彼らも同じように請け合ったことでしょう。「やつは実に立派な軍人だ」と。

しかし、本人は「私には資格がない」と言います。神の光に照らして自分を見た人だけが、言い得ることばです。自分が神のことをどう考えるか、ではなく、「神は私をどうごらんになるか」と問う者だけに、言えることばです。

「神は私をどうごらんになるか」—我々もそのように問うべきです。そして、答えは聖書にあります。すなわち、我々は神の御前に何ら誇るところはない、「我々はみな罪人だ」と。

ここまで来た人は、十字架につかれた、罪人の救い主、イエスに自らをゆだねます。

主よ! 我らに、自分の心のさまを見せてください。
                    アーメン 

(『365 日の主』1月26日の項目から引用。 ウオッチマン・ニーはその「創世記を黙想する」という作品の中で、人の堕落の淵源はすでに創世記1・2にあると指摘します。そして次のように語ります。「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあった」! これはすべての罪人の真実の姿です。多くの人が自分の状態に無知であるとは、何と哀れなことでしょう!・・・神が創造された人は、もともと正しかったのです。しかし、人はその状態を失いました。「ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである」・・・今や神の前での人の状態は、・・・「神のいのちから遠く離れ」・・・「善を行なう者はいない」「義人はいない、ひとりもいない」。何と哀れでしょう! ところが、人はそれでも彼らの知識、知恵、教育、文化を誇ります。もし人が、自分たちは「形なく」、「むなしく」、「やみ」であると悟るなら、彼らは祝福されるでしょう。)

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