2013年1月11日金曜日

どのようにして神のみこころを尋ね求めるか(上))

ステンドグラス by Hirohiko.M at Isesaki
クリスチャンを最も悩ませる一つの問題は、どのようにして神のみこころを尋ね求めるかということです。わたしたちは、神をほかにして成された働きがすべて空であり、無駄な労苦であることを知っています。それらは、神の御前に数えられません。

わたしたちがここにいるのは、大きな働きをするためではなく、神の働きをするためです。多くの働きは、偉大で、すばらしく、有益ですが、わたしたちにとって神の働きではないかもしれません。わたしたちは、良いものがすべて神のみこころからであると思うべきではありません。もしわたしたちの働きが神のみこころから離れているなら、わたしたちが仕えている主は喜ばれないでしょう。

わたしたちは朝から晩まで忙しくするかもしれませんが、霊的領域においてあまり多くの益を収穫せず、その働きの結果としての神からの賞賛や報酬も受けないかもしれません。わたしたちは、命と働きにおいて、一歩一歩神のみこころを尋ね求めなければなりません。わたしたちは、何の感覚もない、だらしのない、愚かな働きをするべきではありません。

多くの時、わたしたちは聖書の学びにおいて、祈りにおいて、さらには福音の宣べ伝えにおいてさえも、主のみこころを尋ね求めることを忘れてしまいます。わたしたちはしばしば、なぜ福音を宣べ伝えているのかも考えずに、他の人に福音を宣べ伝えるかもしれません。わたしたちは主のみこころを尋ね求めていません。それにもかかわらず、わたしたちは宣べ伝え続けるのです! このような働きは、神の目にはほとんど価値がありません。それは役に立ちません。こういうわけで、どのように神のみこころを尋ね求めるかを知ることは、とても大事なことです。それは、すべてのクリスチャンが知らなければならないことです。

神のみこころを尋ね求める第一歩は、わたしたち自身の意見を捨て去ることです。わたしたちの先入観は、神がご自分のみこころをわたしたちに啓示するのを、しばしば妨げます。いったん人が何らかの先入観を持つなら、たとえ神がそのみこころを人に示そうとされても、おそらく彼はそれを聞くことができず、あるいはそれに気づくことさえできないでしょう。なおまた、たとえ彼が神のみこころに気づいたとしても、おそらくそれを行なうことはないでしょう。

わたし自身の経験では、わたしが神のみこころを理解できないのは、わたしがすでに自分自身の意志を持っている時です。しばしば、わたし自身の意図が、わたしの心の最も深い部分に隠されています。もしわたしが自分自身の意志を取り除かなければ、主のみこころを尋ね求めるのに多くの困難があるでしょう。わたしたちの自己の意志が取り除かれるなら、直ちに神はわたしたちに、彼のみこころを示してくださるでしょう。

神のみこころを知る前に、自己の意志が取り除かれなければならないという事実は、幾ら強調しても強調しすぎることはありません。この点は、最も重要なことであり、わたしたちが全き注意を払うのに値する事柄です。

(『 クリスチャン生活と戦い』ウオッチマン・ニー全集第一巻156〜157頁より抜粋。この文章を読んでいると、イエス様が私たち主を信ずる者に言われた次の警告のことばの真実性に改めて目を開かせられる思いがする。わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』マタイ7・21、23)

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