2013年1月5日土曜日

獅子は牛のように、わらを食べ

題名「ぼくもおとうさんのようになりたい」 Picture by Emi.Y
あれは小学校低学年のことだと記憶する。友だちの家に遊びに行ったときのことである。太田川(小さな小河川を地元ではそう呼んでいた)に一本の橋が渡してあった。人独(ひと)り渡れるか渡れないかの橋であった。友だちはそれぞれ足下を気にしながらも何とか向こうへ渡ることができた。ところが私ひとりは足がすくんで渡る気になれず取り残されてしまった。橋の下を見ては落ちはしないかと気になったからだ。その後どうしたかは覚えていない。ただ、そっち方面が遊び場所だとわかると、友だちに誘われてもきっと行かなくなったように覚えている。自らのうちに絶対できないことがあるというのは幼心にもつらいことであった。

 学校では体育が苦手でその時間がないほうが良いとどれだけ願ったことか。草野球だけが楽しみだった。ところが中学になる頃バスケットをはじめとする球技が体育の正課に加えられるようになってから興味が出て来た。さらに高校になるともはや小学校で経験したような跳び箱や鉄棒を始めとする基礎体力を養う、からだの発育を伸ばす目的の種目が姿を消し、次から次に球技が続いてほっとした。バレーボールなどではサーヴがうまく決まるやり方が自然と身についたりして嬉しくなった。それに比べるとボールを指で瞬発力よろしく跳ね上げるのは下手であった。でもそれなりに友だちと一緒にプレーできるようになった。

 そのうちに幼いころのあの足のすくむ思いや様々な苦手の体育種目もいつしか忘れるようになっていた。そんな中でもただひたすら走るマラソンは好きな種目のひとつになった。これは中学の先生が雪道を上半身裸で素足で走らせてくれた猛特訓のおかげであった。けれども中学の頃、父が結核になり、同じお医者さんに診察を受けた時、「針金のような足だな」と言われた。顔から火が出るほど恥ずかしかったが、そういう「劣等意識」を絶えずからだの面で持ち続けて来た。ところが、70歳を目前にして体重が普通の人に比べるとはるかに少なく50台で肥満からはほど遠く50年近く体重はコンスタントである。同年齢の人々からはうらやましがられることもままある。これまた不思議なことである。

 思わず自らのからだ談義をしてしまったが、現在私には六人の孫がいるが、遺伝は隔世遺伝だと聞いたことがある。だから私のこのDNAを受け継ぐ孫たちが出て来てもおかしくはないと思っている。もっとも孫となれば四分の一の確率だから、そう気にすることもない。けれどもそれぞれの孫を見ていると私に似ていると思う孫もいないではない。どのようにしてその劣等意識を乗り越えて行くのかを思うとちょっぴり可愛そうな気もするが、振り返って見れば人生はすべて塞翁が馬だ。災いと思われることもいつ幸いになるかもわからない。

 しかも私は自己のからだの劣等意識だけでなく、同時に自らのうちに巣食うどうしようもない悪の性質を心の内に認めざるを得なくなっていた。そのような私を捜し出して救ってくださる主イエス様に後年出会うこととなったのである。27歳のときである。イエス様はすべての人間の持つアダム以来のDNA(=罪)をご自身のからだを十字架に釘付けにしてまで、赦しの愛を注いでくださったことを婚約者を通して知らされた。そしていつの間にか、私も自らのうちにこの主を信ずることによる自由を体験させていただくようになり、いつしかからだを始めとする様々な劣等感、言いようもない罪責感からも解放された。

 だから、どんなに自らの生まれながらの性質や体質をのろおうともそこには必ず脱出道があることを私は聖書より教えられて来た。それは「塞翁が馬」にはるかにまさるすばらしい人生の真理である。創造主である主が私たちに気づかせようとされている主にある「いのち」の道である。

 正月、昨日の話題主の姉にあたる女の子が昨年の作品を見せると言って、何枚か画用紙の絵を持って来た。実は冒頭の絵はそのひとつである。またしても大胆な絵に度肝を抜かれた(昨年の11月30日のブログのカット絵は同じ彼女の作品であるhttp://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2012/11/blog-post_30.html)。これは一部は小学校時代絵ばかり描いていた私のDNAによるもののようにも思えるが、そうでない面もある。私にはそのような大胆さはないからである。聞くと、ライオンの子どもの写真をもとに学校で模写したのだということだった。しかし、考えてみると二人の姉妹とも造型の教室に通っているのだ。その先生の指導の賜物であることに思い至った。

 最初こそライオンなんてどうしてそんな恐ろしいものを題材にするのかと思っていたが、何度も見ているうちに愛嬌すら感じるようになった。そして以下のみことばを思い出した。

先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。(旧約聖書 イザヤ65・16後半〜17、25)

 いつの時代どんな人間(大人であろうと子どもであろうと)も内側には自分ではどうすることもできない矛盾をかかえていて、それに固執する限り、その悩みは尽きないのではなかろうか。しかし、一たび主の救いにあずかり、主を仰ぎ見ることを知れば、それはすべて産みの苦しみに過ぎないことを知ることができる。必ず主にある新しい天と新しい地が創造されるからだ。今年一年あらゆる人々とともにひたすらその時を待ち望む者でありたい。

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