2012年11月30日金曜日

あなたは何に支配されていますか

小学校三年の女の子の作品
悪者は自分の悪によって打ち倒され、正しい者は、自分の死の中にものがれ場がある。(旧約聖書 箴言14・32)

「なぜ正しい人は恐れなく死ねるのか、その理由をご存じですか」—青年たちに、そう尋ねたことがあります。

そして、素晴らしい答えを聞くことができました。ひとりがこう言ったのです。「それは、その人が日々の死に慣れているからです。」

主イエスに属する人は、地上にある間、死の修練を積みます。

神が彼らの最愛のものを取り上げてしまわれる—すると、彼らは「どうぞ」と申し上げるのです。神が彼らの願いや計画を、インクで抹消なさる—すると彼らは、つぶやかずに、自分の心を死なせます。

確かに、聖書はイエスの弟子たる者に関して、不気味なほどに大いなることばを語ります。すなわち、「(彼らは)自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまった」と言うのです(ガラテヤ5・24)

我々には、十字架に死なれたひとりの主がおいでです。主に従う者は、「私」を死に渡すことを、日々学びます。彼は死の修練を積みます。

それゆえ、真のクリスチャンにとって、息を引き取ることは、さほどのことではないのです。

さて、しかし、きょうのみことばには、それ以上のことが語られています。ラテン語訳聖書ウルガタには、実に的を得た訳し方がされています。「正しい人は死ぬときにも望みがある。」そうです。主イエスにつく者とは、死よりよみがえった方を主とする人です。それゆえ、彼には生ける望みがあります。そして死に臨んでも、このことを知っています。—「わがふるさとはかしこにあって/そこには御使いの軍団がおり/大いなる主を賛美する・・・」

もうひとつ、付け加えることがあります。泰然と死を迎え得る人は、また泰然と生きる人でもある、ということです。

主よ! あなたの死といのちにあずかり得ることを感謝します。
                         アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳 11月29日の項目から引用。二三日前、小学校1年と3年の女の子がいつも寝る前に祈っていることを知った。姉が言うには妹は随分長いこと祈っている、と言う。聞いてみると「死なないように」と祈っているということであった。このブッシュ氏の記事を読む前は、ほー素晴らしいじゃない、やはり死の恐怖を解決するお方に子どもと言えども祈らざるを得ないのだと得心していた。しかし「死なないように」とは私もふくめて人間すべてがもっている己の欲に支配されている罪そのものであることがわかり、複雑な思いにとらわれた。「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。・・・ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」ヤコブ1・14〜16、21。自分自身をふくめて幼きこどもたちの霊の眼が開かれ、真底イエス様に頼れるように祈り続けるしかないと思わされた。)

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