2012年11月24日土曜日

平安 ハーマン・ゴッケル

アーサーズ・シートに並走する岩山(エジンバラ郊外)2010.10.3
キリストこそ私たちの平和(新約聖書 エペソ2・14)

わたしのイカリを とこしえにささえる
ゆるぎもしない 礎(いしずえ)を
    わたしは見いだしました

救い主キリストの み傷のうちに
世の創造のさきから おかれ
天と地が 過ぎ去るのちにも
ゆるぎもしない 礎を
    わたしは見いだしました

地上の責め苦が わたしを押しやり
思いわずらいが 日ごとに増しても
むなしいこの世が わたしを悩まして
主にある平安を 奪おうとしても
わたしが ちりにかえってしまっても
    なお主の恵みに
      わたしはたよっていきます

主の大きな愛が
まことにわたしを
喜んでこの人生に耐えさせます
主がわたしの不安な心を お静めになるとき
どうして主のめぐみを 忘れられましょう
試練がたとえ なんであっても
    主の愛だけが
      わたしのいこいです

わたしの内なる安らぎがおかれている土台の「隅(すみ)のかしら石」は、これなのです。わたしは神との平和を持っています。そして神との平和を持つことによって、自分自身との平和を持っています。わたしは、人生のあらゆる変転にも処する内的な力を与えられたのです。

”わたしは、争いのさなかにあっても平和をもつ。もし物事がぐあいよくいかなくなったら、どうするだろう。もしキリストにあまりに忠実であるために、反対のあらしが吹きすさぶことにでもなったらどうだろう。もし人生の川面(も)が、敵意と迫害の猛烈なあらしでもみくちゃにされてしまったら、どうするだろう。しかし、あらしよ、荒れよ! わたしは、神との平和を持っている!”

どんなに大海の表面にあらしが吹きあれ、どんなに大波がのたうち、深い波の谷間ができようとも、海の最も深いところの岩屋は、表面であれ狂っているあらしのことを何も知りません。大海の底では、いっさいが静寂です。いっさいが穏やかです。それと同様なのが、キリストによって神との平和を見いだした人の心なのです。どんなあらしも、この心の内的平安を乱すことは不可能です。

わたしはいろいろな重荷のもとにおかれながらも、平安を得ているのです。キリスト者の人生には、問題は何もないと言ったら、ばかげています。だいいち、それはうそです。心にくい込んでくるような孤独の苦痛、病気の重圧、失望のにがい苦しみ、避けがたい死の冷たい触手—すべてこうしたものは、キリスト者の上にも、他の人同様に起こってきます。しかし、相違はあります。大きな相違です。信仰者は、キリストによって神との平和を持っていることを知っています。そして自分の創造主との平和を持つことによって、かれは悲しみや、病気や、死までが、自分に対する神の「恵み深い」ご計画の一部なのだとわかっているのです。そこでかれは、どんな重荷のもとでも、真実の平安を持って安心していられるのです。

神の御手に、「きのう」のいっさいをゆだねます。恵みによって神が自分をゆるしてくださることを知っているからです。神の御手に「きょう」をゆだねます。きょうもまた、神の恵みの日であることを知っているからです。そして神の御手に「あす」のすべてもゆだねます。いままでも「朝ごとに新しい」ものであった神のいっさいの恵みが(哀歌3・23)、あすもまたきょう同様に新しくなり、同様に確実なものとなって、すべてを満たしてくれることを知っているからです。「キリストとともに神のうちに隠されている」いのちの平安、それが信仰者の平安です(コロサイ3・3)

これが、キリストをわたしの平安と呼ぶ理由なのです。

(『イエスがわたしに意味するもの』柴田千頭男訳26〜30頁より抜粋引用)

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