2012年11月7日水曜日

三泊四日(結)

イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」 (新約聖書 マルコ2・17)

天に召されたリンデ
 今回の入院は病変があるのに過去五年間ほど放ったらかしにしておいた結果である。それは一つには場所が場所だけに恥ずかしいということと手術は嫌だと言う二つの思いがあったが、その頑固な思いがくつがえされたのは、病人であるのに丈夫な者と偽っている馬鹿さ加減を家人に指摘されたからである。それで、意を決して10月22日に病院に赴いた。お医者さんは触診の後、これは間違いなく鼠蹊ヘルニアですと言われ、手術を望まれるなら日を取りますよ、と言ってくださり、明日にでもと言われたが、10日後の11月1日にしていただいた。


 入院して、病院内でお医者さんを始め様々な分野の人々が一人一人の病を治すためにいかに働いておられることか、その労働の一端に触れることができた。手術室の入り口までは初めからお世話いただいた看護士さんに連れられて歩いて行くが、手術室で外科チームに引き渡される。あとはベッドに乗せられ、様々な機器が天上から階下まで用意されている堅牢な部屋を通過し、麻酔医の先生と対面した。先生から問われるままに受け答えする。患者をリラックスさせるための質問もあり、現場の慌ただしい言葉が飛び交う中「あれーそんなものがまだ用意できていないんだ」とかすかに思いながらも、いつしか全身麻酔が効いてきたのだろう。眠りについた。だから肝心の外科医の先生のお顔は知る由もない。手術が終わると名前を呼ばれ意識が戻ると、ベッドに乗せられたままで、病室に戻された。

 ベッド数が何床あるのか確かめなかったが看護士さんは足早に動き、目一杯働いておられる。その上、厳しい夜勤もある。交替勤務のローテーションは円滑に回転して行く必要がある。鼠蹊ヘルニアのような軽度のものから生死を争う重病人を抱え、細心の注意を払いながら医療体制は組まれている。やはり尊敬せざるを得ない労働の現場の一つだと思う。一方、肉体の瑕疵の治療もさることながら、聖書の次のみことばが示すように心の問題がある。

人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。(旧約聖書 箴言18・14)

 まことに医療現場におられる方々の気苦労が思いやられる。患者さん方の死からの解放を求める声は怨嗟の声となって集中するであろうからである。

 ひるがえって冒頭の聖句は希代の名言だと思う。なぜなら私は病気を持ちながら逃げ回っていたからである。本当はお医者さんに治療してもらわなければならない存在であったのに、体面をはばかって手術を伸ばしに伸ばしていたからである。だから私が病人であったのに、お医者さんのところに行かなかったように、自らが本当は神様の前で正しくないと知っていながらイエスさまのところに行かない人は自らを偽って正しいと主張していることになる。私の鼠蹊ヘルニアに対する長年の態度がまさしくそうであった。

 まことのお医者さんであるイエスさまこそ、ひしがれた心を癒すことの出来る唯一のお方である。なぜなら、私たちの病の果てである死を十字架刑で甘受されただけでなく、死から三日後によみがえったお方であるからである。

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、 死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2・6〜7) 

 世界全体が大きな病院のようなものだ、と言う。だから、この病院にはまことの医者が必要である。神の前の債務という罪を唯一解決できるお方、その名医はイエスさまだけである。 また、まことの医者を知っている人が必要である。20歳という若さで、死を直視して喜んで召された看護士リンデの「人格者とはなにか」というメモにもう一度耳を傾けたい。(『実を結ぶ命』66頁より)

人格者とは、何のために生き、何のために死ぬかを知っている人。
人格者とは、神に対する自分の罪と債務を認め、それを告白できる人。
人格者とは、単なる人間的なものに動かされず、真理をたずね求める人。
人格者とは、感謝されなくても、へりくだって奉仕できる人。
人格者とは、他の人の中に良いものを見い出す人。
人格者とは、死を直視することのできる人。

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