2012年11月10日土曜日

主よ、私に純真な心を与えて下さい!

読者の方々。主イエスへの愛が、真のキリスト信者の行動の源であることを忘れないようにしましょう。主イエスへの愛が私たちに自分自身を忘れさせます。自分を裸にしても、主イエスの誉れを表わしたいとの願いは、信者の心の中にお働きになる神の御業の最もうるわしい実であると言うことができます。

「世の倫理が何でしょうか。
     ああ、血を流された小羊よ。
 あなたへの愛以上に崇高な倫理はありません。」

サウルが、ダビデそのものと彼の働きを見た時の気持ちは、非常に異なっていました。彼は、自分を忘れ、他の者が働きを成し遂げるのを見て喜ぶことを習ったことがありませんでした。このことをすることができるようになるには、恵みの働きが必要です。私たちはすべて、生来、ひとかどの人物になることや、重要な役割を演じることが好きであり、注目されることや、高く評価されることが好きなのです。サウルはそのような人物でした。

彼は自尊心の強い男でした。ですから彼は、「サウルは千人を打ち、ダビデは一万人を打った。」という、イスラエルの女たちの歌に我慢できませんでした。サウルは、自分が一番でなければ気がすまなかったのです。彼は、自分がゴリヤテの声を聞いて、どれほど震え上がったかを忘れていました。少々気が引けましたが、彼は自分が勇敢で雄々しいと思われたかったのです。

「その日以来、サウルは、ダビデを疑いの目で見るようになった。」(18・9)なんと恐ろしい目—ねたみと激しいしっとの目ではないでしょうか。私たち自身の手によって得られた実りを喜ぶのと同様に、他の人々の労力によって得られた実りをも、心から喜ぶことができるためには、まことの純真さと誠実さが必要とされます。もしサウルの心が、神の栄光と神の民の利益を求める思いで満たされていたならば、彼は自分とダビデに当てられた人の数の問題に心が煩わされることはなかったでしょう。

悲しいことに、サウルは自分の栄光を求めたのです。これが彼のねたみとしっとの原因だったのです。心がキリストによって完全に満たされることの結果である自己放棄からは、なんと神聖な休息、なんと真実な気品、なんと完全な心の静けさが流れ出ることでしょう。もし私たちが、キリストの栄光が現わされることを真実に求めているならば、キリストがそのために誰をお用いになっても気にすることはないはずです。

(『ダビデの生涯とその時代』C.H.マッキントシ著90〜92頁より引用。「舌を制御することはだれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています・・・・ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」ヤコブ3・8、4・7

0 件のコメント:

コメントを投稿