2012年11月3日土曜日

あなたは何に価値を置くか?

見渡す限り続くぶどう棚 ドイツ国内 2010.10
東京名物神田古本市も間もなく終了することだろう。開催中、一日短時間だが覗いてみた。やはり残念ながら私の欲しい本は一冊もなかった。一軒だけ神田で有名なキリスト教図書を扱う本屋も覗いてみたが、無いことはないが、極めて微々たるものだ。その上、この書店は高いので有名だ。だから手出しはしない。ところがキリスト教古書を目録で送ってくる別の書店のものが今日届いた(内訳1040冊)ので、目を通して見たが、やはり物の見事に一冊も無い。こうなると私が求めているものが間違っているのか、一般にキリスト教徒と言われる人と基準が違うのであろう。

ただ一つだけその間の事情を説明するかのような鍵になることばが聖書にある。

家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。(新約聖書 1ペテロ2・7)

このみことばは旧約新約にともに出てくる大切な表現である。捨てられた石はイエスさまを指す。多くの方がキリスト教書で求められるのは学問的な裏付けのあるものや、無教会を標榜する内村鑑三関係のものであったりする。こういうものは神田古本市にも存在する。そして需要が多いだけに値段も結構いい値段をつけている。でも普段よりは安いから人々は買って行く。しかし私の求めるものは、学問でもなく、信仰する人たちの社会的立場が信仰の根拠となる書かれた人を当てにする本ではない。あくまでも捨てた石であるイエスさまをはっきり証しする本である。これらは人間が捨てるものである。だから見つからないのは当然と言えば当然だ。見つかる場合にはそれこそ需要は少ないから二束三文の形で手にし、私のような者はその僥倖にあずかることとなる。

数年前、そうして手にした『暁の待望』という小冊子(多分10円か、50円だったと記憶する)の一文を下に紹介する。

一頭の若い雄羊は朝ささげ、他の一頭の若い雄羊は夕暮れにささげなければならない。これは、主の前、会見の天幕の入口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことのない全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。(出エジプト29・39、42)

朝に献ぐる常燔祭なる燔祭(民数28・20〜23)のほか献ぐる罪祭はただキリストのみのひな型であります。また、感謝祭は私どもと私どもの神に献ぐる物とに関した意味を持つのでありますが、燔祭はキリストと私どもと両方に関わった意味を持っておるのであります。

燔祭の取り分けきわだった点は、それが全部祭壇の上にのせられ、その全体が火となって神の聖前に昇り往く点にありました。他の祭物は時折携え来られたのでありますが、朝の燔祭は日毎、携え来らるべきでありました。それがその一日の神への奉仕の始めであったのであります。

しかしてクリスチャンもまた、毎朝、その燔祭を携え来るべきはずであります。どういう意味でありますか。即ち、毎朝、己が罪のために献げられし神の小羊に眼をそそぎつつ神に近づき来ります。また、いかにイエスが自らを全き燔祭として神に献げ給いしかを眺めつつ、自らもまたかくなすべきであることを学ぶのであります。

私どもはその死においてキリストと一つであります。また私どもの生涯も主のそれの全き模倣でなければなりません。しかも同じ霊は私どもの衷にも宿り給います。さればこそ私どもは、キリストの功ある壇の上に、神に悦ばるる聖き活ける祭物として自らを横たえて神に献ぐるは当然のことであります。すなわち自らを全く神にまで犠牲となし奉るのであります。

クリスチャンよ! 毎朝この犠牲を成し果たすは大なることであります。栄えあることです。福祉なる一日の秘密であります。御霊の火はかかる犠牲の上にこそ降りたまいます。心を静め、ただ我一人ある中に、充分時を取ってついに内心に確かめられなさい。『わが祭物は壇上にあり、聖父は悦びてこれを受け入れ給う。火はこれを焼き尽くしたまえり』と。

以上が私の価値とする文章である。この小冊子はアンドリュー・マーレー(1827〜1917)が召された後の最初の刊行物The Morning Watchの小島伊助氏による昭和8年(1933年)の邦訳である。文体が古めかしいので、捨てられたのだろう。しかし私は親しいある方から長い文章とともに「私たちに出来ることはただ憐れみを受けること、憐れみを受けることだけです」とメールをいただいた。上述の文章は憐れみを受けた者だけが文体は古めかしくも価値あるものとみなす文章でないだろうか。このような文章が全部で30個ある。おいおい紹介することにしたい。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。(1コリント1・27〜28)

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