2016年5月31日火曜日

私たちの偉大な大祭司

「わたしは彼らのためにお願いします」(ヨハネ17・9)

 主は私たちのために執り成しをするために今も生きておられます。だからあなたが主に対して黙っているあいだも、主はあなたのために祈っておられるのです。もし主の御手があなたの上に置かれていてそのために祈ることが出来ないのなら、なぜあなたはこのことを嘆く必要があるでしょうか。その時、あなたの恵みに満ちた信仰ある高き所の大祭司はご自身のとりなしという純粋で香り高い高価な香油を差し出しておられるのです。

 しかし、もしあなたがもっと祈ろうと自らを鼓舞したいのに、あなたの心があなたをとがめ、自分は怠惰で冷たくなっていると知るなら、イエスが驚くべき長い苦しみの中で代わりに祈っておられたということを思い起こすのはあなたの心の琴線に触れずにはおかないことでしょう。主が「わたしは彼らのためにお願いします」(ヨハネ17・9)と言われた時、主は弟子たちのためにどんなに確信と力あふれた訴えを注ぎだされたことでしょうか。そして弟子のためにそのような全能の愛の息吹をわれわれが耳に入れさせていただくとは何という主の恵みでしょうか。

 もし、主がこれ以上何も言われなかったら、主はつねに同じ主であるので、この祈りのいくつかの反映された祝福のかすかな分け前を私たちに与えてくださるであろうと私たちはおずおずと推測したかもしれません。しかし、主は私たちがほとんど祈るには十分な大胆さを持てないだろうということを予期して言われます。「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」(ヨハネ17・20)あなたはその彼らのことばをとおして主を信じましたか。それなら、あなたは主があなたのために祈ってくださったということ、また一節一節とたくさんの祈りの中のその祈りをもとに「イエスは私のためにこのことを祈ってくださった」と言える明白で積極的な確信をもつことでしょう。

 そして主がいかなるこだまも私たちのところには降りることのない天国の賞賛の中心にいらっしゃるからには、私たちの変らざる態度にもかかわらず、この同じイエスが心のうちにいてくださることを一瞥するように許されているとは何ということでしょうか。「(罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、)神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8・34)それが主があなたのために今していてくださることです。

主は祈られる
しかし誰のために
ご自身のために
主は何も必要とされない
力も
平安も
赦しも
そこには罪のしみがない
しかし主が夜通し費やされた力ある祈りは
私たちのためなのだ
主ご自身の愛される者が
戦いの中で守られ
強くされるために
彼らすべてがささげられ完全にひとつにされるように
とこしえの喜びのうちに彼らが栄光ある花嫁となるように
主が一人で山に登られたのはこのためである
主がご自分の疲れた頭を休めることを拒否なさったのは
このためである
狐でさえも穴があり
鳥でさえも巣があるというのに
 
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-31-our-great-high-priest/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97316です。今日の箇所も大変難解な個所ばかりであった。読者諸兄のご助言を引き続いていただきたいところだ。) 

2016年5月30日月曜日

沈黙は金


静寂…、そして私は一つの声を聞いた。(ヨブ4・16)
知恵ある者の静かなことばは、(愚かな者の間の支配者の叫びよりは、)よく聞かれる。(伝道9・17)

 誰がしずくの落ちる音を聞きますか。私たちの「 無作法なきよめられていない耳」にとってその音楽をどんなマイクロフォンが聞き取ることができるのでしょうか。しずくは静かに染み出ます。私たちの神のことばもまさしくそうです。信頼の沈黙のうちにそれらはもっとも繁く聞こえてくるのです。

 その静けさの中で神の沈黙せる愛は露に似た交わりへと凝縮されるのです。読まれるのでもなく、聞かされるのでもなく、御霊の直接の力によってたましいに知らされるのです。ほとんどの場合、主はこのことを書かれたみことばから何かを思い出させるという身震いさせられることを通して行なわれるのです。そのみことばはすでに聞かされていたのですが今では以前聞いたことがなかったかのように新鮮な記憶となってひらめくのです。

 もし私たちが騒音やさわがしさ・喧噪の中にいつもいるならこんなことは期待できません。しかし主はできます。時々この「語りかけ」を喧噪や困惑の大変な混乱を通して送られます。主は台風のど真ん中に静かな所をつくりその場で私たちに語ることができるのです。しかしもっと通常なやり方は露が落ちるのにもっと広範囲な静けさを、悲しみや病の何らかの静かな所に私たちを別々に招くことによってつくられるのです。

 私たちがこのようにして荒野に導かれている自分を自覚する時、即座に露に注意しましょう。そうすれば見誤ることはありません。そうすれば私たちの不毛のさばくは喜び踊るものとなり、ばらのように花を咲かせることでしょう。熱く熟した収穫畑や私たちがかつて席をはずしたこぎれいな庭園よりもはるかにもっと有望な花を咲かせるでしょう。
 
歌がある
夜のもっとも孤独なしじまのうちに
流れるにすぎない

花がある
熱帯の灼熱の光の中では
成長できない

結晶がある
器が冷やされじっとするまでは
形造られることはない

結晶 花 歌
神様のみこころを示すものとして
それぞれ 与えられている 

2016年5月29日日曜日

宝物中の宝物を所持すること

赤勝て! 白勝て!※

王さまが無事に王宮に帰られて後なら、彼が全部でも取ってよいのです。(2サムエル19・30)

 それは王がまさしく(以前のようでなく)「心砕かれて、へりくだって」(イザヤ57・15)無事に王宮に戻られた時である。すなわち王がそこにご自分のものとなった者を住まわせるために(以前でなく)入って来られたとき、その者の心は王とだけただひとりいることに満足しており、いかなるツィバにも他のすべてを取らせるように用意している。なぜなら、宝物中の宝物として意識して所有する(王とひとりでいる)ことに比べれば、他のすべてのものは全然何物でもないように思えるからである。

 このことは王がほんとうに「王宮(ご自身の家)」でありたいと望まれた空っぽの魂に「無事に来られる」ことを知って、驚嘆すべき喜びが最初にわき上がる段階においてただちに達せられる時もある。また時には非常にゆっくりと、すなわち年々主の内住を益々知り、主はどんな環境にあっても私たちを全く満足させるに十分であると何度も繰り返し知る時もある。

 家の空になっている場所は次から次に満たされる。昔の望みはどういうわけか消え去り、古き野心もなくなった。この世の古い嗜好や興味がキリストを味わい関心を持つことに取って代わられる。主が日ごとに私たちの生活をますます真実に満たされる。私たちは「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損」と「思っており。」(なぜなら私たちはほんとうに知るからだ)その結果、主は私たちを「それどころか」「すべてのもの」(ピリピ3・8)を得る天に引き上げられるばかりの喜びへと導かれる。

愛する主よ、あなたが望まれるものを取ってください。
私はあなたにあってすべてのものを持っているからです
私自身の並々ならない大きな報酬 
それはあなた
あなたご自身です 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-29-possessing-the-treasure-of-treasures/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97314です。

今日の箇所もきわめて訳出するのに骨が折れた。ハヴァガルはダビデ王とメフィボシェテとの関係を根底に置きながら、主イエス様と私たちの関係を述べようとしているように思われる。2サムエル記13章以降の記事を丹念に読む必要がある。一方でハヴァガルはピリピ3・8のパウロの経験をこれにオーバーラップさせながら、今生きるキリスト者にその霊的な内容を伝えようとしているように思った。

※運動会は一気にクライマックスを迎える。得点発表の瞬間である。百の位から、アナウンスが始まる。全観衆の目は三階にあつらえられた臨時”電光掲示板”に注がれる。ともに「5」が掲示される。続いて、十の位のアナウンス。これまたともに「9」という数字が掲示される。一瞬ため息とも歓声とも思える声が会場を包む。続いて固唾をのんで、一の位の発表を待つ。最初に白から。出された数字は「3」である。次に赤組。「0」であった。かくして勝敗は決する。白組の勝ちであった。「わーっ」とばかり白組の歓声はひときわ高く舞い上がる。しかし一瞬の後、場内は互いの健闘を称え合う拍手に変った。
紅白に 別れ競いし 子どもたち 一つになりて 宴終りぬ」) 

2016年5月28日土曜日

昼夜あなたのうちにおられるキリスト

芝生の上での運動会※

わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます(ヨハネ14・23)

 「どのようにしてそんなことが可能か」と言わないで、マリヤのように「どうしてそのようなことになりえましょう。」(ルカ1・34)と言いましょう。たとえその流儀でなくとも、その神秘な方法は私たちが賛嘆する驚異を把握するために啓示されています。「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」(エペソ3・17)それはすんでのところで余りにも不思議なのであえて口に出すことができないのです。キリスト御自身、私の王が私のところへ来て、私のうちに入ってくださるのですから。私のまさしく心のうちに住み続けてくださるのです。

 終日終夜私がどこにいようとも私が何をしていようともほんとうに心のうちにいてくださいます。私の貧しくもふさわしくない心のうちに、このまさしく今の瞬間にもいてくださるのです。そしてこれだけが神ご自身の愛から流れた恵みが疑いの障害を壊した理由です。そして主を求め主を迎える信仰を与えてくださった理由です。ちょっと立ち止まってそのことに気づきましょう。
 
再びその聖なる波風が力をもって襲った
そしてめいめいの気弱な願いを
より強力な情熱にまで煽った

彼(ペテロ)は言った
私に、水の上を歩いてここまで来い、
とお命じになってください。」(マタイ14・28)
彼はそのままでやってきた、その記憶すべき夜に

見よ。戸の外で待っておられた王は
救うために、治めるために
そしてもはや出ては行かれないお方として
入って来られた  

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-28-christ-in-you-day-and-night/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97313です。短いが含蓄のあるハヴァガルの文章です。また訳しづらい文章の連続でした。想像を逞しくして訳しました。読者諸兄の賢明なご助言を切に請います。

※今日は各地で小学校の運動会が開かれた。私たち夫婦も孫から出席依頼を受けて出かけた。全校の子どもたちが伸び伸びとそれぞれ与えられた場で懸命に競技している姿に心洗われる思いがした。) 

2016年5月27日金曜日

とこしえに満たされる

メフィボシェテはいつも王の食卓で食事をした。(2サムエル9・13)
彼の生活費は、その一生の間、日々の分をいつも王から支給されていた。(2列王紀25・30)

 キリストにあって、求める魂をほんとうに満足させ、餓える魂が良いもので満たされるのは一時的な供給でなく永続的なものである。「  メフィボシェテはいつも王の食卓で食事をした。」「わたしに来る者」(ヨハネ6・35)は「決して渇くことがない」であって「(過去に)来た者」ではない。「主のもとに来なさい」(1ペテロ2・4)つねに近づき、決して離れないようにということである。なぜなら私たちは「主がいつくしみ深い方であることを味わって」(同2・3)おり、「築き上げられる」(同2・5)者であるからだ。

 もし私たちがほんとうにもっとも完全な意味で王の食卓につく賓客であるなら、すなわち、私たちがキリスト御自身から養われ、真実な本体のいかなる影によっても養われるということがないなら、私たちは満足させられるに違いない。ここに強力な厳しい試練がある。キリストは満足されねばならない。その時、もし私たちが満足していないのなら、それは私たちが全面的にキリストから、またキリストだけで養われていないからである。責任はなされる供給にあるのではない。「守護たちは、ソロモン王の食事の席に連なるすべての者たちのために、食糧を納め、不足させなかった。」(1列王4・27)とあるとおりである。

神はあなたを最後は失望させるために
待ちなさいとは
告げられなかった
黄金の約束、それは完全で偉大なものだ
すぐに朝が暗黒の地平線をふちどり金色に輝くように
あなたの心の願いは実現される
「耐え忍んで主を待て」(詩篇37・7) 

2016年5月26日木曜日

Free and Clear(無罪放免)


その請求は私にしてください。(ピレモン18)

 パウロはピレモンにもっとも美しい手紙を書いて頼んだ。あなたのもとから逃げ去ったオネシモを戻してやって欲しいと。その時彼はこう言った。「もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。」と。

 オネシモはピレモンにとって悪い奴隷であった。それでもとに戻り良いことをしようと思っても、以前損害をかけた分を払いたくなかったであろう。昔の負債は払いたくなかったであろう。それに彼は明らかにその負債を支払うものは何も持っていなかった。

 けれどもパウロはそれを全部払おうと申し出た。そうすればオネシモは受け入れられるから。「 もはや奴隷として」(16節)ではなく、奴隷以上の者、すなわち、「愛する兄弟として」。これはまさしく主イエス・キリストがなしてくださることの申し分のない図柄でないか。主は離れてしまった私たちのために主との間をとりなし、罪を犯した背きのためにもとりなしてくださるが、それだけでなく私たちが神様にどれだけ損害をかけたか、またその請求がどれほどのものかを完全に知っておられて、言われる。「その請求は私にしてください。」

 そして神様はその請求をイエス様にした。その請求は支払われた。血潮で支払われたのだ。主が 「私たちのすべての咎を彼に負わせた」(イザヤ53・6)時、イエスはあなたの罪すべてを見て知っておられた。そして言われた。「その請求は私にしてください。」おおー、何というすばらしい「私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛」(テトス3・4)であろうか。

支払うべき何物もない
負債はあまりにも大きい
あなたはその恐ろしい重荷をどう処理するのか
逃れ道はどのように用意されているか

支払うべき何物もない
しかしそれは支払われねばならない
イエス様の声が言われるのを聞きなさい。
「まことにあなたは
払うべき何物も持たない
すべて請求はわたしになされた
わたしはもうすでに全額支払った」

2016年5月25日水曜日

A Present Yield

絵:小早川宏※

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。(2コリント4・17)

 試みは長期にわたる普通の方法で自分たちを改善しようとするものだと私たちは考えますが、主は「結ばせます」(ヘブル12・11)とめいめいにおっしゃるのです。これを現在に適用しなさい。 今朝あなたに振りかかってきた特別ないらだち、耳に聞こえ、あなたの魂を悲しませるいらだたしいことば、今日主があなたになされた約束が期待はずれであったこと、軽くはあるが仕事を妨げる病気、あなたの心配の種になる人の存在、今日喜びでなく悲しみと思われるどんなことも「善を慕う願い」(2テサロニケ1・11)のうちに後になって結ぶ平安な実と一致します。もしあなたが邪魔さえしなければその種はまさに芽を出し成長するものです。

 もし私たちが主のお取り扱いに注意しようとするなら、私たちはすぐに、それぞれ個人個人が(主から)懲らしめを受けることとその後の結果との間にはもっともうるわしい一致と釣り合いがあることを見抜くことができましょう。このようにして注意もし期待もする習慣は何らかの新しい懲らしめが許されるとき、安らかな信頼への大変な励ましと大きな助けとなることでしょう。というのは、その時その懲らしめは新しい「その後」の前触れであり熱心さだと私たちはみなすだけでしょうから。

あなたの「その後」は何でしょうか
おお主よ
どれだけあなたのこどもは耐えねばならないのでしょうか
あなたは知っておられます
私がそのことを知らないのは良いことです
あなたの「その後」は来ます
私は何も話すことはできないが
あなたのみことばが確かであることは
知っています

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-25-a-present-yield/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97310です。今日の箇所も訳出に苦労した。自己の限界を感ずる。

※今日、「天と地の二人展」は終った。この作品は天におられる方の作品である。また今日は久しぶりに開かれた家庭集会の日でもあった。一人の方が昼、夜と二度のメッセージのご用をしてくださった。夜の家庭集会には高校時代の友人が集われた。感謝あるのみ。) 

2016年5月24日火曜日

主は来られた目的を実行されました

わたしは成し遂げました。(ヨハネ17・4)
 
 イエスの偉大な約束は「あなたがたのために」と最初になされたみことばの成就でした。約束は七倍の恵みが成し遂げられた事実にあります。主は来られました。そして主ご自身の声が到来の目的を与えるものでした。
 
 「あなたのみこころを行なうために」(ヘブル10・9)すなわち律法を成就するために。「罪人を招いて、悔い改めさせるために」(ルカ5・32)「失われた人を捜して救うために」(ルカ19・10)「(信ずる者が)いのちを得、またそれを豊かに持つため」(ヨハネ10・10)「光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないため」(ヨハネ12・46)

 イエスは実行するために来られたことを成し遂げられました。主は失敗することのないお方ですから。この事実の上に私たちは静かに、また疑うことなく休らうことができるのです。なぜなら「主がこれを成し遂げられた」(イザヤ44・23)からです。



主がなすことはとこしえに立ち
不動にして真実であることを知っています
それゆえに何物も付け加えられません 
私たちがなすことは何も残っていません
何物もそれから取り去られません
私のためになされることも
あなたのためになされることも 
とこしえに とこしえに 

今聞きなさい
主がなさったのです
主は私たちを死ぬほど愛されました
それは完成されています
主は私たちを救われました
ただ彼が言われることに信頼しなさい
彼はなされたのです
彼のところに来て祝福しなさい
あなたのあらん限りの息もて
讃美しなさい
とこしえに とこしえに 

2016年5月23日月曜日

与えられたものを与える。

夫婦茶碗※

あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイ10・8)
 
 マタイ10・8の文章は私たちがこれを金貨や銀貨にだけ適用することに満足していてはいけないことを示している。命令が語られた人(引用者註:十二使徒たち)は何も所有せず少しの金貨も銀貨も与えられなかった。はるかにすぐれた賜物をその人たちは受け、はるかにすぐれた賜物を与えるようにされていた。私たちはどんなものをただで受けたのか。聖書は三重の答えを与えている。

 (1)愛 神である私たちの父はおっしゃる。「わたしは喜んでこれを愛する。」(ホセア14・4)
 (2)義認 「神の恵みにより、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3・24)「キリストの血によって義と認められた」(ローマ5・9)
 (3)いのち 主はおっしゃる。「わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」(黙示21・6)「報酬を受けずに神の福音」(2コリント11・7)を私たちに宣べ伝えた、と。

 私たちはそのような賜物を受けただけでなく、受けたものを知る責任がある。なぜなら「私たちは、・・・神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。」(1コリント2・12)とあるからである。全聖書は私たちにただで与えられているものの一つの長い目録である。しかし私たちはそれを自らの富だとみなすことはできない。なぜなら「すべては、あなたがたのもの」(1コリント3・21)だからである。ことばに言い表わすことのできない賜物を持っておられるイエス・キリスト御自身が「すべてのものを持っておられる」お方なのだ。
 
 「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(1ペテロ4・10)どのようにあなたはこのことをしようとしているか。それを金銭上の問題にできるか。それはあなたが受け取ったものなのか。「私は、進んでささげるささげ物をもって、あなたにいけにえをささげます。」(詩篇54・6)と言おうとしないのか。ささげものなのだ!どんな?

 「兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」(ローマ12・1)喜んでささげる人はかなりいるが、その道は神様がすでに完全に守っておられた道なのだ。その道が全く守られていない人はいないか(いるはずがないではないか)。

 ご自身の御子を出し惜しみされず、御子とともに私たちに無代価ですべてのものを与えるお方は大変明確に大きな声でこうおっしゃる。「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」(イザヤ6・8)「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と言うことのできる者は誰かいるか。それともあなたは拒むのだろうか。

力であられ友であるお方よ
あなたは私のために
どんなことをしてくださったのですか

あなたが極みまで愛してくださる 
そのご自身をあらわしてください

今認めることができますように
知られざる、語られざるあなたの愛を

ののしりに耐え
私のためにののしられた

私が祝福されるように
そして私が祝福の基となれますように

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-23-giving-what-was-given/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97308です。

※昨日、友からすばらしい贈り物をいただいた。日曜のメッセージはイザヤ29・16を引用聖句にして「神と人との関係」という題名で語られた。陶器である人間は、陶器師である神に対していったいどういう態度を取っているのか、心を探られる内容であった。折しも、このような陶器をいただいた。陶器師の心があらわれている作品を目の前にして、再びメッセージを深く想うことができた。2019.5.23追記 改めて訳し直した。それにしても三年前にこの夫婦茶碗をいただいた友と今別れてある。主よ、あわれみたまえ。) 

2016年5月22日日曜日

神の宝の家は私たちのもの

小早川順子絵※

主は、その恵みの倉、天を開き、(時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたの手のわざを祝福される。)(申命記28・12)

 東方の博士たちは宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を取り出した。エホバが私たちのために恵みの倉を開かれるとき、私たちはそれ以上に素晴らしいものを見ることだろう。この豊かな約束の文脈は天国を宝の家にするようである。その本来の文字どおりの意味では、肥沃にする雨は開かれた宝の最初のほとばしりであり、そのあとすぐに「天の賜物の露・・・地とそれを満たすものの賜物」(申命記33・13、16)という美しい細部が展開される。

 しかし、霊的な祝福は全聖句においてこの世がもたらすものと緊密に織り混ぜられている。だから、「はかない約束だけを求める」ことをしなかった信仰あるイスラエル人が、この約束を通して天の宝が開かれる権利を得たのも当然だ。

私たちはとこしえに新しい主のあわれみに対して
うれしい感謝を抑えることができない。
天地の宝である、太陽や雨や朝露があるからだ。

貴重な果物や
その年の変化に富む最高のもので
主のすばらしさは満ちる。

古えからつづく山々の主な産物
どこまでも続く丘々の貴重な稔り

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-22-gods-treasure-house-is-ours/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97307です。2019.5.22 追記修正 短い詩ではあるが、豊かさに満ちた詩である。ハヴァガルの詩心と小早川さんの絵心を十分に味わいたい。

※「天と地の二人展」開催中。5月25日まで。吉祥寺『創・リベストギャラリー』http://www.libestgallery.jp/) 

2016年5月21日土曜日

キリスト・イエスは罪と罪過から救われる

都市空間(53階建てのビル)※

キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。(1テモテ1・15)

 私たちは死にあってこういうことばによりたのみたいものです。でも、なぜ、同じように、いのちにあって、より頼み、「この方こそ、ご自分の民をその罪(単に一般的な罪からでなく、明確な民の数々の罪、個人的な複数の罪)から救ってくださる方です。」(マタイ1・21)という約束を自らに適用しないのでしょうか。

 「わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないと言うのか。」(イザヤ50・2)主の救いはまことに完了しています。その働きは完璧であります。しかし、私たちの王はいまだに地の真中にあって救いを働かせておられます。彼の救いが現実であることを(もし私たちが主の力を信じてさえいるなら)日ごとの私たちの戦いの詳細に至るまで適用できるのです。
 
 私たちはその適用を最後に必要とするだけでなく、毎時間、毎分、今も必要としています。だから王なる方は「助けを叫び求める貧しい者や、助ける人のない悩む者を救い出す」(詩篇72・12)「貧しい者たちのいのちを救います。」(詩篇72・13)と言われます。今日、主があなたのたましいに「わたしがあなたの救いだ。」(詩篇35・3)と言われますように。


主よ、あなたはご自身の上に
私を支配する罪を置かれました

そしてあなたに立ち向かう
エホバの剣は
前面に、燃える刃先をひらめかせ


そう、義の一撃が
あなたの上に落ちました

それは決して私の上に
落ちないようにするためでありました

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-21-christ-jesus-saves-from-sin-and-sins/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97306です。

※今日は半日長男と行をともにした。六本木、新宿、吉祥寺二ヵ所と四つの場所をはしごした。それぞれに意味のある所在となった。明日は母が召されて55年を数える。長男は今やその若くして亡くなった母の歳を越えている。半世紀を越える間に様々な変容があった。変らないのは人の心である。) 

2016年5月20日金曜日

主に仕えるのに終りはない


その者が、あなたとあなたの家族を愛し、あなたのもとにいてしあわせなので、「あなたのところから出て行きたくありません。」(申命記15・16)

 ヘブル人の奴隷は六年間主人に仕え、七年目には、もし彼が望むなら自由に出て行くことができました。けれどもその時、その者が、「私は主人を愛しているので・・・あなたのところから出て行きたくありません。」と言うなら、それからは公的にまた合法的に彼は永遠に奴隷としてのしるしを受けました。すべて愛によったのです。彼は言いたいのです。「あなたとあなたの家族を愛し、あなたのもとにいてしあわせなので、『あなたのところから出て行きたくありません。』」

 親愛なる主のしもべである皆さん、このことは私たちの場合にはどのようにあてはめることができるでしょうか。私たちはイエス様から離れたくないのです。なぜなら、私たちは主を愛し、また主の家、霊的な家、信仰の祝福された仲間を愛しているからです。そして私たちは主にあってしあわせではないでしょうか。ほかにどこか幸せなところがありますか。どこに苦しみがともなうでしょうか。主は主のしもべを優遇されなかったですか。もし私たち全部が一斉に声に出して「私は主を愛しています。主とともにいて幸せです。」と言うとすればどんな合唱となることでしょうか。
 
 なぜ私たちは声に出して、人々に主がどんな主人であるか、主のものとされた者が仕えることはどんなに幸せななのか、言わないのですか。もし私たちがそのことを言う一言葉も持っていないなら誰が口に出すでしょうか。私たちの誰もがイエス様とその奉仕のために立ち上がりましょう。恐らく私たちが声に出すとき、私たちは今までにない主の約束の喜びを悟ることでしょう。

 「彼はいつまでもあなたの奴隷となる」(申命記15・17)ということばが話されるのは、しもべが主を愛し、「地上の残された時を、もはや人間の欲望のためで」(1ペテロ4・2)あることをやめ、耳にきりが刺し通されるまではないのです。ただ天国をはるかに見て喜びに躍り上がる愛の心、献身の心にあってなのです。「そのしもべたちは神に仕える」(黙示22・3)とあります。

どれだけ唇は黙り込み
手はことごとく動かず萎えることが
できましょうか
心があなたを見、
あなたを認めるとき 
あなただけが主であり神なのです 

あなた御自身のための歌
私の生涯の音楽
私があなたへ讃美を示すことができるように
私の唇を開いてください
 
そうです
私の全生涯をして
あなたへの一つの讃歌を
ささげさせてください 
そして
唇といのちの讃美を
あらゆる罪と争いの上に
鳴り響かせましょう
 

おお
イエス様、主なるお方
あなたの卓越せるお名前は
天と地にとって
一つの
大きな永遠の主題なのです 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-20-no-retirement-from-his-service/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97305です。今日の詩も難解そのものでした。上掲の絵はがきはハヴァガルの別の詩を載せたもの。そこに語られている語句は簡潔明瞭だが・・・)

2016年5月19日木曜日

度を超える豊かなつぐない

主の御手は、そのしもべたちに知られ(イザヤ66・14)

 「彼らを見る者はみな、彼らが主に祝福された子孫であることを認める。」(イザヤ61・9)それよりももっと多くのことがある。全世界は「あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたことを知る」(ヨハネ17・23)「わたしはこうする。・・・わたしがあなたを愛していることを知らせる。」(黙示3・9)。

 このことは私たちが今私たちの父の英知と救い主の愛について世界中が誤解しあっている小さなことに対してもなされる度を超える豊かなつぐないではないか。「彼らは、わたしが主であることを知ろう。」(エゼキエル25・11他)とは全然知らない人に対してだけでない。なぜなら、「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」(ヨハネ14・20)とあるからである。

 神の奥義と主の民とキリストとの結びつきの啓示、それはまさにことばで十分言い表わし得ないもので、私たちの心に思い浮かばなかったことである。「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」(ホセア6・3)「今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」(1コリント13・12)とパウロも言っている。

そう、信仰によって働き
見えるものによってでなく
わたしの手にしっかりくっつくことです

わたしの愛と力を体験して
満足しなさい
決して頭で理解するのでなく

しばらくあなたの道は続きます
恵みが栄光に成長するまで

そうすれば
わたしが誰であるか
わたしが何をするか
あなたはこれから先知ることでしょう
 

2016年5月18日水曜日

彼は王である! … 王はあなたのもの?

雨の中 名も知れず咲く 花可憐※

 私はそう言明することができるだろうか。義務として私はそう言っているのでないか。私はほんとうにそう言っているだろうか。イエスは行ないにあっても信仰にあっても私の王であるか。その証拠はどこにあるか。私は今、聖霊のうちに義と平和と喜びの王国に住んでいるだろうか。私はその王国のことばを話しているだろうか。私は主の民でない人々のならわしにしたがっているのでないか。それとも主の民の道を熱心に学んでいるか。実際生活にあって主の律法の支配のもとに生活していると言えるか。

 私は彼に尊敬の心を持ったことがあるだろうか。私は彼の運動をまわりの人がそうするからというだけでなく、その運動は彼のものであるからということで勇敢に率直に支持しているだろうか。今日、私の忠誠は私の生活と実際に少しでも相違を生じていないか。

 彼は私の暴君であり彼の敵であるもの(サタン)から私を買いもどすためにご自身来られた。彼は自らの王冠と王服を脇に置いて王宮を去り反抗するものを救うために御位を降りられた。彼は富んでおられたが私のために貧しくなられた。それは私が「キリストの貧しさによって富む者となるため」(2コリント8・9)であった。神は私を呼んで王国と栄光へと導き入れられた。私を愛の御子の王国へと移された。どうして「あなたこそ私の王です」という忠誠を誓うことばが、私の唇で口ごもったり、口閉じることができるであろうか。


おお、救い主
大事な救い主
私たちはあなたを見たことはないが
愛している

おお、力と愛顧のお名前
すべてどんな名にもまさる

私たちはあなたを礼拝する
あなたをほめあげる
あなたにだけ歌う

私たちはあなたを讃美する
私たちの聖なる主であり王であるあなたに
心のうちを言い表わす

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-18-he-is-king-is-he-yours/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97303です。

※今日の掲載の花の名前がわからない。読者の方でご存知の方があったらお教え願いたい。わが「植物博士?」の家人は「つげ」の花だと宣うのだが・・・。

 昨日の学び会は生憎雨であった。ベック兄から再び種まきのたとえを聞いた。ただし今日の箇所〈マルコ4・26〜29〉は成長する者への教訓であった。さりながら、成長は決して新生の者ならでは不可能であるからして、結局新生をいただく数多くの聖書のことばの紹介があった。改めて聖書の中に散りばめられている「いのち」の多さに刮目された。
 
 帰りの電車の中で携帯に二回電話が入った。車内ゆえに出られなかった。留守電が入っていた。K先生の御子息からだった。5月13日に父が亡くなったとの連絡であった。K先生から一月程前、ご自身の半生を紹介したDVDが送られてきた。お礼の手紙があれやこれやで出しそびれていて投函したのは結局5月15日になった。ご子息は私の手紙を見て恐縮して電話をかけて来られたのであった。昨年中に3月と6月二回お訪ねして親しくお交わり願った。年賀状にも再訪を待っていますと書いてあった。私は亡くなったのも知らず手紙を書いていたわけである。かつての同僚のA氏に電話したら、私以上にショックを受けたようだった。K先生は今年83歳であり、私たちより10年先輩であった。その上、A氏も以前から闘病中であったが事態は良くないと言う。A氏に早速手紙を認める。「わたしはよみがえりです。いのちです。」「わたしが生きるので、あなたがたも生きる。」いずれもイエス様のことばである。
関連記事①http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2011/10/blog-post_20.html ②http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2014/10/blog-post_16.html ③ http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2015/12/blog-post.html

 「私たち家族にとっても忘れられない出来事から丸三年が経つ。」と5月14日に一旦書いたが、私の勘違いで今日5月18日であったのでこちらに移行する。あの時も車内に電話が入り家族の緊急事態を知らされ、それまでの旅行気分もどこへやら吹っ飛んで、ただひたすら助かるようにと祈りながら長野県の上田から多摩総合医療センターへかけつけた。その後いのち支えられ今日に到っている。「三年の 主の摂理 数えるも 忘恩の罪 余りに多し」K先生のこともA氏のことも私たちの家族のことも王なる方はすべてご存知である。詩篇103・1〜5。) 

2016年5月17日火曜日

すすんで・・・(知ることの秘訣)

 主があなたに言われることを知ってどのようにしますか。もし私たちがほんとうに知りたいと思い、知ったことに従いたいのなら、知ることはすごく簡単なことです。主は私たちにみことばをとおして平易に語られました。その中で主は私たちになすべきことを正確に話されます。そこでどのようにして、私たちに対してすべてのことを言い、なさねばならないすべてのことを話されたかはもっとも驚くべきことです。

 あなたが(聖書の)一章を読む時、主があなたにその中で何を言われるのかを知るために聞き、よく観察しなさい。主が私たちになすべきことを話される別の方法があります。主はあなたの良心をとおして語られるのです。さあ、あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」(ヨハネ2・5)簡単か難しいかはともかく、主がおっしゃるのだからそうしなさい。主を愛するゆえにそうしなさい。そうすれば、自分を喜ばせることよりも主に従うことの方がはるかに良いことまた幸せなこととなるでしょう。
 
 「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」「してあげてください。」主があなたにしてもらいたいことをそのとおりしなさい。ちょっとちがったことやあなたがほぼ同じだと考えることでなく、「言われる」ことをしなさい。さらに、ただちにすることです。それはまことに正しく、そのゆえにまさしく最初の瞬間が従うことにとってもっとも容易な時です。あなたが正しいことを引き延ばせば延ばすほどだんだん難しくなります。主に「二度話させ」ないようにしましょう。

 「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」勇気をもって、正確に、即座にです。


主よお語りください
そして心備えさせてください
あなたのお声が聞こえるとき
喜びと堅い従順をもって
おことばにことごとくついていけますように
主よお聞きしています
主よお話しください
私にお話しください

2016年5月16日月曜日

分かち合われた悲しみ


王はキデロン川を渡り(2サムエル15・23)
イエスは先頭に立って歩いて行かれた。(マルコ10・32)
 
 イエスは弟子たちとともにケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。旧約聖書の(預言の)影はどんなに正確に新約聖書の(みことばの)成就と一致していることでしょうか。悲しみとへりくだりの中でダビデ王はこのところで私たちの前に現われているのです。それは王の家を離れ、すべての栄光と喜びから追放され、知られざる苦悩へと引き渡されることでした。

 イエスの悲しみのうちに住まうことに想像は必要ないことです。平易なことばの情念で十分過ぎであり、もはやどんなペンもつけ加える力を持ちません。私たちは悲しみのうちにあるイエスとの交わりについて何かを経験しているでしょうか。叛逆者以外のすべての民がダビデ王とともに過ごしたのです。このケデロン川の渡し場、イエスにとって悲しみの小川であったことの何ほどかを知っているのでしょうか。

 イエスの苦悩との交わりを分かちあうこと、すなわちこの不思議な特権について考えることは恐らくおこがましいように見えるでしょう。
 
 けれども、「注意すべし」です。ダビデとともに過ごし、ともにいたのは力あるガテ人イタイそして彼のすべての部下、貴族、軍人たちだけでなく、全部の「子どもたち」(2サムエル15・22)もいたのです。

 だから子どもたち、弱い者、ダビデの一団の最も小さいメンバーがこのようにしてイエスに続いたのでしょう。分かち合う悲しみほどどんなものも人が他の者とより緊密にさせるものはありません。
 
すべての疲労は
イエスのふところに憩う権利
そして痛みは
イエスの限りなき同情への正門となる
争いでなく、王自身の御手が
栄光ある戦いに終止符を打とう
死でなく、あなたを永遠のいのちの地に導く

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-16-a-shared-sorrow/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97301です。今日の箇所は2サムエル15章以降とヨハネ18章以下を読み込むこととが求められているように思う。同時にハヴァガルが大文字小文字を用いてダビデ王とイエスを表現しているように見えるので、それに十分注意しながら訳したが、まだこの訳に確証が持てない。特に「pass over」の訳に苦労した。賢明な読者のご意見をお待ちしたい。) 

2016年5月15日日曜日

知らせが足をつくるのです

良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は。(イザヤ52・7)

 「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。」その足はすべての中で最上に役に立っています。たとえその足が泥だらけの靴やゴム靴の場合であっても御使いたちはその足を美しいと思うのではないかと私は思います。

 かつて「わが子よ。なぜ、あなたは走って行きたいのか。知らせに対して、何のほうびも得られないのに。」(2サムエル18・22)という問いが発せられたことがあります。そのようにもし私たちがこのような美しい足を持ちたいのなら、私たちは耐えられる用意のある知らせを持つにちがいありません。

 主に私たちの心がそんなに救いの良き知らせで一杯にされているか問いましょう。もしそうなら私たちの口は豊かなことばを口から出す事ができます。「雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。」(伝道11・3)
 
二本のオリーブの枝※が素晴らしい油を自らのうちから出すのです。私たちのそれぞれが聖霊に十分に満たされ、他の人々に注ぎだすことができますように。

「持てるものを播いたにすぎない」
畑の主を愛した人が言った

「秘密のハープに静かな一言
やさしく一指触れても
速やかに答えは帰ってこない

私は震えながら話す
心を知っておられる主のために
愛をこめて、しかし、弱い声で」

ことばはやさしく低い声で話されたか
か細いペンで丁寧に書かれたのだ

しかし、
みことばの種は備えられている土によく落ちた
その人は葉が芽生えるまでは
決して知ることはなかったであろう
自分の働きが空しくなかったと話せるとは
それから新たな信仰と希望をもって
その人はさらに元気に働き続けたのだ

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-15-tidings-make-the-feet/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97300です。今日の詩の個所は難問中の難問であった。原文を確かめ適切なご助言修正をいただきたい。途中からShe が登場するが、何を指しているか皆目分からず、一応前文のうちのSoilをそれに宛てたが、このSoilはキリスト者には同じみのことばでみことばを聞く人の心を指す場合だと勝手に推測して訳文を組み立てた。今までのハヴァガルの詩の中で難しい詩のうちの一つであると思う。
※訳者注:ゼカリヤ書4・11〜14参照のこと

5月16日追加。ST氏のコメントにしたがって、読み直して少し最初の訳を組み変えた。) 

2016年5月14日土曜日

正直な告白は魂にとって良いものです

ニオイバンマツリ※

私たちは罪を犯しました。あなたがよいと思われることを何でも私たちにしてください。ただ、どうか、きょう、私たちを救い出してください。(士師記10・15)

 イスラエルの子どもたちは彼らの邪悪な行ないのためにペリシテ人とアモン人の手に売られ、18年間 虐げられました(「打ち砕き、苦しめた」10・8それはあなたの場合を説明していますか)彼らは主のところに弁解せず「私たちは罪を犯しました」との正直な告白をもって出て来ました。そしてそれから自分自身を、受けるに値しない恵みにゆだねました。「あなたがよいと思われることを何でも私たちにしてください。」と。

 その結果はどうだったでしょうか。「主は、イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった。」(士師記10・16)神の寛大さはもちろんのこと、これ以上の人間的なやさしさが何かあり得るでしょうか。どんなにみじめであっても主のところへとまっすぐ向かうことが教訓ではないでしょうか。みじめさの痛みは私たち自身が招いたものでありながら、それに値しない千倍のものを受けるのですから。

 先ず、罪を告白しなさい。それからその悲しみを全面的に主の御手に置くことです。すると主がまことに「そのご性質がつねにあわれみである同じ主」であることに気づくでしょう。そして恵みは助けを含むのです。なぜなら主は民のみじめさを嘆くにはとどまらなかったからです。主はエフテを送って民を救出されました。その結果、彼らはおよそ30年間「安らかに暮らした」(1サムエル12・11)のです。(※訳者注士師記12・7〜15を参照のこと)

「あなたは赦してくださいました、これまでのことすべてを」
このゆえに私たちは主であるあなたをほめあげます 

私たちが苦しみの深みのうちに頭を垂れるとき
あなたの偉大な寛容、無上の喜びをお示しください

長い長い悔いるべき過去をとおして
この驚くべき恵みのベールが
あなたの全能の御手により取り外されたからです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-14-confession-is-good-for-the-soul/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97299です。

※ニオイバンマツリ〈匂蕃茉莉〉とは珍しい名前である。しかもこの花は陽を受けるに連れて、紫色の花は白色に変わると言う。昨日は山里の知人から山草「こしあぶら〈漉油〉」が送られてきた。これまた不思議な植物だ。食べて良し、樹脂にも良しと言う。身のまわりに存在するすべてが未知のモノだらけであることに改めて気づく。
 ソロモン王は「レバノンの杉の木から、石垣に生えるヒソプに至るまでの草木について語り、獣や鳥やはうものや魚についても語った。」〈1列王紀4・33〉とある。富と英知に恵まれた彼だったが、その基本は「主を恐れることは知識の初めである」〈箴言1・7〉であった。その彼にしても主に対して罪を犯した。「悔い改め」「正直」こそ最上の良薬である。舛添氏にこの言を伝えたい。
 今日は熊本震災から一ヵ月。「家失くす 媼の涙 誰か救わん 廃墟に春 約束す主」) 

2016年5月13日金曜日

与えに与え、与え続けられるお方

空目がけ 野ばら競いし 五月晴れ※

すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。(ヤコブ1・17)

 今朝、神様があなたに対して示される偉大な親切について少し考えてみませんか。あなたにとって、神様はどれだけすぐれた良い方であることでしょうか。私は神様の愛される子どもたちのうちの一人が、一日に何度も主を見上げては、「良い方イエス様」とか「親切な方イエス様」と言うのを知っています。

 この女の子は自分でそういうことを決めているのでなく、まったく神様がたいへん良い方であり、親切なお方であるので、そう言わざるを得なかったかのように思われます。そしてその時に主を見上げて「愛するイエス様」と言うのはこれまた極く当たり前のことに過ぎません。

 どれほどの人が、終日不平を言い続けるばかりで、神様がどれほど良いお方であるかも知らず、決して神様を見上げずほめあげることをしないことでしょうか。神様が普段よりもさらに楽しむように与えてくださっている特別なもっとも輝かしくも楽しい日々。主が与えてくださる以外には私たちには一つとして楽しいことも、慰安もやって来ないのです。 

 私たちはそれを得ることができませんし、稼ぐこともありませんし、それを受けるに値しない者なのです。しかし、神様は愛をもって、親切に、ただで与えてくださるのです。だから、主が与えることを止められでもしたら、私たちがどうなるかを考えてみませんか。

谷間の生活なくして、幾ばくの山上の日々 
喜びと讃美の美しくも照り輝く記憶携え
汝の心にある墓、それぞれ「記念すべき日」を越えし
道にありしあらゆる日の光を忘れじ
主の小道はそれによりて汝を導きし

答えられし祈り、求めずして得られし喜び
不思議な祝福、引き上げられし心配事
すばらしき約束の谺(こだま)す

かくして汝の生活
汝に対する主の愛と誠実の一つの記録なり

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-13-he-giveth-and-giveth-and-giveth/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97298です。今日も無理を承知で文語体で詩を編んでみた。

※昨日は雲一つない青空に覆われた一日であった。森林浴とまではいかないが、少し自転車で同じ市内ではあるが、遠くまで足を伸ばし、樹林の間を歩いた。欅〈ケヤキ〉、泰山木、桜、柿、竹、ナナカマド、ハナミズキ、ポプラ、山茶花、椿などそれぞれが緑を競い合う。その中に花々は思いのまま装う。詩人ならずとも口ずさみたいところだ。ドイツのゲーテ作「野ばら」の歌詞を紹介しよう。日本語訳は近藤朔風のもの。

Sah ein Knab' ein Röslein stehn,
Röslein auf der Heiden,
war so jung und morgenschön,
lief er schnell, es nah zu sehn,
sah's mit vielen Freuden.
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.

童(わらべ)はみたり 野なかの薔薇(ばら)
清らに咲ける その色愛(め)でつ
飽かずながむ
紅(くれない)におう 野なかの薔薇 

少年が見つけた小さな野ばら
とても若々しく美しい
すぐに駆け寄り間近で見れば
喜びに満ち溢れる
バラよ 赤いバラよ 野中のバラ 

この項目は
http://www.worldfolksong.com/classical/schubert/rose.htmlから拝借した。) 

2016年5月12日木曜日

王の賜物

父はそれぞれの大きな星を支え
それぞれの小さな花を支える※

あなたが御手を開かれると、彼らは良いもので満ち足ります。(詩篇104・28)
 
主よ。あなたは、このしもべのために、あなたのみこころのままに、この大いなることのすべてを行ない、この大いなることをすべて知らせてくださいました。(1歴代誌17・19)

主よ。あなたは、みことばのとおりに、あなたのしもべに良くしてくださいました。(詩篇119・65)
 
 主の御手、主の御心、主のみことば、これらは何という測り知れざる主の賜物でしょうか。くぼみのうちに大洋を維持される偉大な御手は私たちの願いを満足させ、そのすぐれた豊かさをしのぐためにも開かれるのです。それは世を何よりも愛された御心にしたがい与えられ、またこれまで希望と喜びを引き出したあらゆる聖徒がその尽きざる泉の深さを推し量ることができないほどあまりにも深く満ち満ちているみことばにしたがって与えられるのです。

 恐らく「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1・38)と言ってその完全な意義を知っていたマリヤほどには誰も聖書を十分知らないのではないでしょうか。私たちは主の無限の愛と無限の力にしたがっていまだに隠されている王の賜物がどんなものであるかをほんの少ししか想像できないのではないでしょうか。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネ13・7)「あなたがたは飽きるほど食べて満足し、あなたがたに不思議なことをしてくださったあなたがたの神、主の名をほめたたえよう。」(ヨエル2・26)

私たちの必要は大きい
しかし、遥かに大きいのが私たちの父の愛の力である
父はそれぞれの大きな星を支え
それぞれの小さな花を支える
ことごとく髪の毛を数えられる父は
熱心に誠実なご配慮をもって
御子を私たちのために死ぬために与えられた
神はあなたの必要をすべて与えられる
 
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-12-royal-bounty/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97297です。

※昨日一人の方が庭の花々に引き寄せられ、写真を撮られていた。近寄ってお話した。中国人の方であった。「お宅の庭には随分紫の花が多いですね」と言われた。話が弾んで、ふだんは国際交流のボランティアをしておられることも知った。昨年まで二年余り交流のあったハンガリーの方の名前を紹介したら、よく知っていると言われ、先方もより親しみを感じられたようである。こうして花々は全く見も知らない私たちを一瞬のうちに結びつけた。人には絶対造り得ない造化の妙である花々。どうして人々はそのことを否定して「進化」を持ち出すのであろうか。今日のハヴァガルの霊想をとくと味わいたいものだ。) 

2016年5月11日水曜日

あなたがたは決して忘れられてはいません


そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。(ルカ12・6)

 あまりにもしばしば日ごとの読書から軽く見過ごされ、除外される聖書のこのような個所に来ると、たとえすぐにはわからないベールに覆われていても、神様はご自身を啓示されているのです。たとえば、歴代誌の系図に来ると、神独得の配慮がキリストとの関連ゆえに神様の御本である聖書に記されている異なった未知の名前によってどのように表現されているかをよく考えることです。

 どんなに遠く離れていても遠い世代と傍系の親族を通して、その結びつきが様々な人間の考えの道のように見えるかもしれません。しかし、このようにして彼らの個々人の名前をキリストのために刻んだ「この神」がキリストのためのいのちの書に私たちの個々人の名前を刻まれた「私たちの神」であることを覚えましょう。なぜなら私たちはキリストにあって選ばれているからです。

 そして私たちが神の親愛な御子のいのちを読み、その愛する御子が、御子を決して惜しまれなかった父にとって無限に愛らしきもの、神の美質の完成であったに違いないことを知る時、そしてとりわけ神の手が右の座におられる人の子の上に置かれたことを読む時、さらに私たちすべての者の咎をキリストに負わせ、私たち人間のために救いのために死にまで苦しまされたその時、

 父なる神様に向きを変え、「世を非常に愛されたこの神が私たちの神です」と言いましょう。私たちにとって、この私たちの「神」としての個人的な関係が神様が特別喜ばれるものであり、神様が私たちを絶えず心の中に覚えて置こうとされたかのように言うのです。 

信頼するに余りにもすばらしいもの
それはあなたのみことばだけです
私は見ることを求めません
あなたのご目的が明らかにされ
未来の光が輝き
不思議なもつれがほどかれています
あなたの御約束の巻物はすべて私のものです
あなたのみことばは私にとり十分です

2016年5月10日火曜日

きょう以外にうってつけの時はない

モネの庭(2016.5.5フランス・ジヴェルニーにて by N.Y.

『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』(マタイ21・28)
 
 主の働きはつねに差し迫っています。決して遅延されてはなりません。そのほとんどが明日永遠の世界に入るかもしれないが、もしその場ですぐになされないなら永久にその機会が去ってしまう魂に関わっているからです。今日以外にそれにうってつけの時はありません。

 聖なる急ぎの心にあってなされないため、まことにそのことが全くなされない場合が多いのです。私たちは何度も何度も回心していない友に会い、さぐりを入れては、穏やかな影響力を獲得することを考え、徐々に道を備え、急がせないで賢明に呼びかけようとします。

 そのほんとうの理由は私たちがその魂のために王の真実な仕事をするには聖なる熱心さと勇気が求められているということです。10人がいやされたがそのうちの9人が出て行ったままの場合のようにならないで。「しもべが何やかやしているうちに、その者はいなくなってしまいました。」(1列王紀20・40)私たちはそのように探したことはなかったですか。

 主の御用のための使い走りに遅れることは不従順と隣り合わせです。そして概して遅延は不従順に端を発するものです。「神は、早く行けと命じておられます。」(2歴代誌35・21)「私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました。」(詩篇119・60)と言うことができますように。


あなたはイエス様のために言うひとことばも持っていませんか
何人もの人がおそらくあなたが押し黙っている時
あなたのメッセージを待ちくたびれていることでしょう
あなたが彼らに来なさいと誘ってくれるのを期待しながら
隠された悲しみを決して告げないで
戸の外でぐずぐずしながら
あなたの手が自分たちを永久の安息に導かれることを
待ち焦がれているのです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-10-no-convenient-season/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97295です。今日の詩はまさしく彼女の体験に基づくものである。3月1日のブログで紹介した内容がその体験ではないかと思う。くわしくお知りになりたい方はhttp://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2016/03/blog-post.html をあわせてご覧ください。) 

2016年5月9日月曜日

あなたのための主の心

花々(2016.5.5フランス・ジヴェルニーにて by N.Y.

見よ。神は強い。だが、だれをもさげすまない。その理解の力は強い。(ヨブ36・5)

 この強くやさしいこころはあなたのためにある。もし主がその手を延ばし、裸状態の破壊から私たちを救いさえなさり、「私の手はあなたのためにある」と言われたら、どのように私たちは主を十分にほめあげることができたでしょうか。

 しかし、「私の妹、花嫁よ。あなたは私の心を奪った。」(雅歌4・9)と言う言いようのない不思議なへりくだりについて私たちは何と言えるでしょうか。主の神聖ないのち、光、そして愛、これらの泉そのもの、その御存在のまさしく中核が、愛されている者に与えられているからです。その者は「封印のように主の心臓の上に置かれている」(雅歌8・6)だけでなく、心臓の内へと入れられているのです。その結果、私たちのいのちが主の心のうちに隠され、私たちはすべての安全と力と愛と栄光の中核そのものであるところに住まうのです。

 主イエスが「わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」(ヨハネ14・20)と言われるその日の啓示とはどんな日の到来のことでしょうか。なぜなら、主は私たちがまだそのことを知らないし、私たちが主のうちにある現在の知識は主が私たちに示そうとしておられるものにくらべれば全然知識にならないことを暗示しておられるからです。

 さあ、私たちは、主が私たちのそれぞれの心のいかなるところに入っていただく用意をしましょうか。また、できることでしょうか。

我は飢え渇く
神を求め

我が宝は上にあり
地は我が望みに合いし
贈り物提供せず

我が望み
汝の愛のしるし

優しき問い
うべなるかな
優しさに満ち足り

我が心
幾度も喜びに合わせ歌うたう
神によれる永遠の愛を

汝れはいやましに今何を求めしか

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-9-his-heart-for-thee/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97294です。詩は全く無手勝流の文語体であらわした。果たして、どの程度原文に即しているだろうか。) 

2016年5月8日日曜日

主よ、私はあなたのものです

私はあなたのもの(詩篇119・94)
 
 これは信仰ある投石器にとってすばらしい石です。もし私たちが大胆にかつ決定的にサタンにこの石を投げさえするなら、いかなるゴリアテの誘惑も仕留めることができるでしょう。自我が私たちをそそのかす時(それがどんなに度々起こるか私たちは知っていますが)、「あなたのものじゃない」と言い、即座にイエス様をまっすぐ見上げ「私はあなたのもの」と言いましょう。

 もし世が古いものにしろ新しいものにしろ何らかの誘惑を試みて来るなら、主イエス様がどのように言われたか、そのことばを思い出しましょう。「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。」(ヨハネ15・19)
 
 そして世が私たちに権利を要求しないように、イエス様の方を向き「私はあなたのものです」と言いましょう。私たちに忠誠を要求するものは、狡猾で強力で隠れた罪ですか。「罪の奴隷であった」(ローマ6・2)が今は「罪から解放されて、義の奴隷となった」(ローマ6・18)ことを認め、信仰ある叫び「私はあなたのものです」と言って勝利しなさい。

 死にものぐるいの努力をして古い力を再強調するサタン自身との恐ろしいまでの白兵戦でしょうか。この世の君におまえはイエスにあって何も持たない、私は「真実な方のうちに」(1ヨハネ5・20)あり、キリストのからだの一員であり、キリストのものであると告げなさい。そしてサタンがあなたの確信に満ちた「私はあなたのものです」という声に恐れをなして逃げて行かないかどうかをよくご覧なさい。


キリストはあなたの主です
主ご自身、おお愛する救い主
それ以外の何ものでもありません
私は地にも天にも
あなた以外のだれを持つでしょうか
まただれを望みましょうか
あなたは言われたのです
「そうすれば王はあなたを慕おう」
私はさまよえる愛のうちに
 「あなたは私の主、私はあなたにひれ伏す」
と答えよう。

(詩篇45・11)

2016年5月7日土曜日

聖別が必要だ

母の日 紫陽花に寄せる 子のこころ

彼らに油をそそぎ、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせよ。(出エジプト28・41)

 もし、祭司職に関しての旧約聖書の何ヵ所かを見るなら、そのみことばの欄外註が「手を満たし」であることに気づくでしょう。仮にもし私たちの手が「世のこと」で満たされているなら、「イエス・キリストのこと 」(ピリピ2・21)では満たされ得ません。真実なもので満たされるにはそれ以前に空っぽである必要があります。そのように、もし私たちの両手がイエス様のために確保されて来なかったことを悲しく思うなら、先ず最初にへりくだって始め、主に完全に空っぽにしていただくように求めましょう。すると主は完全に満たしてくださいます。なぜなら、空っぽにされていなければならないからです。

 私たちは主のところに喜んで来て、主にその留め金をはずしてもらい、持ち込みつつあった輝かしい重要なものを喜んで捨てるか、それともまさしく愛のうちに主が力づくで手を開かせ、しぶしぶ「この世のもの」をもぎとられるかです。それがあまりにも彼らを支配しているので主はご自身で正当な使用ができないのでそうされるのですが。

 唯一の他の置き換わり得るもの、恐ろしいものがあります。それはやさしい主人でなく容赦しない怒りの王がふるえる両手を空にされる日が来るまで一人で放って置かれることです。私たちの足が忙しい世から出て暗い谷間に踏み出す時にです。なぜなら「何一つ持って出ることもできません。(1テモテ6・7)」ですからです。

すべてのあなたの器を
取り上げてください
おお、栄光の聖め主よ
ことごとく金かすを取り除いてください

それぞれの杯が
あなたの思うように聖くされますように
さらに完全に
さらに神のものとされ
あなたの栄光で満たされ
あなたのために輝きますように

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-7-purging-must-come/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97292です。)

2016年5月6日金曜日

王なる方の影響力

代掻きに 菖蒲ありて 共白髪 その名もなごみ 訪いて楽しき

わたしはあなたの王である。(ホセア13・10)

 彼は私たちに一人の王が必要であることを知っておられます。彼は絶望的な無政府状態は、世にあるだけでなく、王のいない心にもあることを知っておられます。「私たちには王がない。」(ホセア10・3)という叫び以上に寂しいものがあるでしょうか。つまり崇拝し愛する誰もいない、服従すべき誰もいない、導き守り支配する誰もいず、私たちが全霊をこめて忠誠を誓う最高に真実な自由で守られる誰もいないのです。私たちは自分の心を支配する強い力をほんとうは求めているのだと感じたことはなかったのでしょうか。

 もし他の者が、私たちの心からなるまた完全な信頼と忠誠をその人に与えるだけなら、勝手気ままに振る舞うことは別の道ほど良くないのでしょうか。古の人の「私に王を下さい」と叫ぶ声に私たちの魂も反響しなかったでしょうか。「私はあなたの王である」というこの神の約束以外に何物も静めることのできない叫びです。しかし約束はすでに与えられました。もし王を持たない心の昔ながらの寂しいうめきが、不信仰な忘恩の時に生ずるなら、神のことばは王の明快なクラリオンの響きのようにやって来ます。「なぜ、あなたは今、大声で泣き叫ぶのか。あなたのうちに王がいないのか。」(ミカ4・9)

 そしてその時王の慈悲深い断言は静かなうちに力をともなって下ってくるのです。「私はあなたの王である」と。

「彼はあなたの夫である」

おお
私はこのことを喜ぶ
あなたが主人であり
支配者であり、
王であることが
非常に嬉しい
私だけがあなたの統治がすぐれており
絶対的であることを求める

どんな隠れた叛逆者も
偽りのうちに常軌を逸するどんな謀反人も
そうは思わなかった

非常に嬉しい
なぜなら
あなたはこれまですべてのことを命令し指図されてきた
そしてこれからも私の運命を命令し指図される
そのことを知って私の心は大変平安であるから

※詩篇45・11

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-6-influence-of-the-king/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97291です。今日の箇所は久しぶりに難解な英文であった。) 

2016年5月5日木曜日

自分の力でなしに

里の夏(クレパス)小早川宏※

あなたがたに新しい心を与え(エゼキエル36・26)

 なぜ、神はこんな約束をなさるのでしょうか。私たちの古い心が全く邪悪でもはや何ら良いものをこれ以上生み出すことができないからです。その上、私たちに新しい心を与える以外にはどんなものも良くし得ないからです。なぜなら私たちは自分自身で新しい心を作り出すことができません。私たちが試みれば試みるほど、ますます私たちはそれができないことを知るのです。それですから、神はその偉大なあわれみとやさしさをもって「わたしはあなたがたに新しい心を与える」と言われるのです。

 なぜなら、もし私たちが新しい心を持っていなければ、私たちは神の国にはいることができません。もちろん見ることさえできません。この賜物がなければ私たちは天の扉が閉められるとき、恐ろしい暗やみの中に放り出されたままでいなければならないのです。古い心と新しい心には大きな違いがあります。古い心は神を恐れ、神を愛しません。そして主がつねに私たちを見ようとされなかったことにはるかにまさって、古い心は主を見ようとはしないのです。

 新しい心は神を愛し、神が言われることに信頼し、神がいつも見守っていてくださることを考えるのが大好きです。こんな新しい心を持つとはどんなに幸せで祝福あることでしょうか。すべての神の子どもはそれを受け取ります。なぜなら主がすでに「わたしは彼らに一つの心を与える」(エレミヤ32・39)とおっしゃっていたからです。すなわち全く同じ新しい心です。あなたも新しい心を持ちたくないですか。あなたはそれを得るために主のところに来なければなりません。主は「あなたがたに新しい心を与える」(エゼキエル36・26)と仰りました。

私の心を
あなたに
私の読むことのできない心
それはまことに
不信仰
定まらない
邪悪な心

私は
救い主であるあなたに
今ささげます

落ち着きと
信仰を下さい

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-5-not-of-ourselves/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97290です。

※昨日に引き続き、「天と地の二人展」の案内。今日の作品は小早川順子さんの8年前召された夫君宏さんの作品。宏さんはそれよりも何年か前、次男のパリの止宿先で一夏過ごし、セーヌ川をはじめ様々な作品を物されたことがある。
 宏さんが皆さんの前で証しされた時があるが、全くユニークで、「聖書は寝転がって昼寝する時に格好の枕として有用であった」とか、その時、殴り書きされた草稿であろうか、それをふところから出そうとされるのだが、行方が知れず「カンぺー」がどうのこうのと証しの中で盛んにモノ探しされる言葉が今も耳朶に残っている。ちなみに「カンぺー」とはカンニングペーパーのことらしかった。
 召されてから、順子さんに机を見せてもらったが、秘密の引き出しがあった。幼子のような心を、たいせつにたいせつにされた方だったと思う。今日のハヴァガルの霊想とどこか通ずるものがあるような気がしてならない。
 そうだ、今日は「こどもの日」だった。) 

2016年5月4日水曜日

永遠があっての今

バラ(水彩)小早川順子※

それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(詩篇90・12)

 神の矢が心を射抜くという単なる短い一文章が全説教に匹敵するというのは滅多にないことである。求められた結果を招く手段であるような申し分のない会話はほとんどないが、中には考えやことばを突然変更させるものがある。それは神の力が電撃的に働くことから来る場合である。

 それ以下のことはたまにしかない。単なる一瞥(それはさらに瞬間的であるかもしれないが)が主によって要塞を引き降ろすために用いられたことがある。私たち自身が静かに神を待ち望み、瞬間瞬間に主の足もとで静かに時を過ごし、目はみことばに注がれ、あるいは暗やみを通して主を見上げるにすぎないとき、私たちは再び気がつかなかっただろうか。

 すなわち神はどんな一瞬間でも主の光で照射することができるので、光線は決して消え去るのでなく、日々、年々を通して輝き続けるのであるということである。そのような瞬間瞬間は主のために保たれて来たことは明らかであったのではないか。そしてもしある点がそうであるなら、なぜ全体がそうでないことがあろうか。

 この瞬間についての見方は二人の主人に仕えることが不可能なことをさらに明確にしているように思われる。なぜなら、一瞬にして仕えることは分離され得ないものであることははっきりしているからである。もし自我に仕えることや主なる神以外の他の主人に仕えることで心が一杯なら、それは主に自由に使ってもらうことはできない。主はすでに心が他のことに占められているものを用いることはできないからである。

待ちくたびれた時は音のない鐘でしかない
低く奏でられる前奏曲である天の鐘
主が来られる戦車の轍を歓呼として迎えるのだ
主に信頼してセラフィムと一緒に汝の声を奏でよ
主を「待ち望め」という声が「喜べ」と奔出する
主を忍耐して待ち望め

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-4-moments-for-eternity/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97289です。

※昨日は拙宅の庭のバラを載せた。それにくらべてこの絵は何という繊細さであろうか。畏友の絵である。小早川宏・順子「天と地の二人展」が下記の要領で開かれる。案内文を紹介しよう。

 主人の召天から8年がたちました。改めて主人が残した作品〈油彩、水彩、クレパス、木版〉などを見ると、絵を描く喜びにあふれているのを感じます。
 私も遅々とした歩みですが、少しずつ前に進んで行きたいと願っています。
 もう一度、主人の心に出会っていただければ幸いです。

 2016年5月19日〈木〉〜5月25日〈水〉12時〜6時まで
           最終日は5時まで
 創・リベストギャラリー 武蔵野市吉祥寺東町1ー1−19
 
お二人のことはこのブログでも何度かご紹介している。
http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2010/05/blog-post_31.html
http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2015/02/blog-post_26.html 
                              ) 

2016年5月3日火曜日

つまずきについて


あなたの足はつまずかない。(箴言3・23)

 多くのキリスト者は「私は最終的にはつまずくことはないが、もちろん、絶えず道につまずくものである」と言う。しかし、あなたはこの聖句「あなたの足はつまずかない。」
を読んだことがないのか。 だから、もしあなたが一度でも読んだことがあるなら、「もちろん」以下のことばは通用すべきではない。「神は約束されたことを成し遂げられないだろうか。」(民数記23・19)「聖書は廃棄されるものではない」(ヨハネ10・35)ただ、実を言うと人はつまずく。すなわち人は再び立ちあがっても、「正しい者でさえ七たび倒れる」(箴言24・16)のだ。

 もちろん私たちはつまずく。そしてこのことは最初の「もちろん」ということばによって説明される。神は私たちに約束を与えられる。私たちは 「あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1・38)とへりくだって言わないで、全く見過ごしたり、わざと信ずることを拒むのだ。それだと、もちろん私たちはみことばの成就を得ない。

 約束の基準は神の忠実さにあり、実現の基準は私たちの信仰にある。恐らく私たちはこの約束に関して「不信仰な私をお助けください。」(マルコ9・24)とさえ叫ばず、ましてや「信じます。」(同)と言わなかったのだ。

私たちの信仰を増してください
私たちがそれぞれの星明かりの約束を
確実に握ることができますように
そしていつもあなたのお名前によって勝利を得、
とこしえまで耐えることができますように。 

私たちの信仰を増してください
「信頼している」お方の「全き平安」(イザヤ26・3)のうちに
揺らぐことも、鈍くもならず、勝利できますように。

私たちの信仰を増してください
なぜなら、あなたは決して失敗することのなきようにと
祈られたからです。

私たちの揺らぐことのない拠り所はあなたによって、
帳の内側でなされているのです。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-3-on-falling/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97288です。) 

2016年5月2日月曜日

増し加わる喜び

浅間サンラインから八ヶ岳を遠望する※
私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。(1ヨハネ1・4)

 主のみことばには、この大事で、繰り返しなされるお約束に矛盾したり言い逃れするようなことばは決して語られていません。明らかに単に恒久的な喜びの希望が指し示されるだけでなく、喜びが増し加わっていくことが指摘されています。「へりくだる者は主によっていよいよ喜び(ただ単に喜びが保たれるだけでなく)」(イザヤ29・19)とあるとおりです。

 恵み、知恵、愛、力、平安が成長し増進することに関しては約束と命令が混在しております。だからこういうものが増し加わることが、喜びを与え、保障することにならないでしょうか。私たちがつねに喜んでいられない存在であることは暗示されていますが、みことばは「いつも(時々でなく)主にあって喜びなさい。」(ピリピ4・4)「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり」(2コリント6・10)と書かれています。

 私たちにとって良くないと言われるとき、「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ8・10)と書かれていることを思い出しましょう。恐らく、そのことばのうちにある「主を」に喜びが持続するすべての秘訣があるのでしょう。なぜなら主にある喜び以上にそれはまさっているからです。

 それは、主ご自身の喜びがただひとり私たちのうちにとどまるのであって、主にある私たちの喜びでさえなく、主ご自身と結ばれている魂にしてはじめて流れ込んで来るという主ご自身の喜びです。 「彼らの中でわたしの喜びが全うされるために」(ヨハネ17・13)ですから、泉以外の流れを求めないようにしましょう。喜びが第一義的なのでなく、主の喜びがイエス様との生ける真実な結びつきにより私たちのものとなるということです。

汝の愛
汝の喜び
汝の平安
絶えず
我がこころのうちに
流れ込みし
生ける泉
尽きることなく
増し加わりたり

 ※週末から久しぶりに御代田に出かけた。このブログを読んでくださっている方から暖かい励ましをいただいた。ハヴァガルの英文は難しい時もあり、そうでない時もあるんですね。意味がわからない時もありますからね、と。全く我流の訳であり、赤面の至りである。
 その上、この訳業を始めるきっかけになった、1月初めに貸与していた『ひそかな所の隠された宝』ヒルダ・秤共訳がほぼ4ヵ月ぶりに私の手許に戻って来た。以前にも書いたが、この邦訳はハヴァガルの霊想の100日分である。残念ながらそれ以降のものは訳されていない。そのところから訳し始めようと思ったが、手許に不在であったため、1月10日の分から訳し始めた。訳せない時があまりにも多かったのだが、その時この邦訳なら、どのように訳しているのだろうかと何度も思った。しかし、今こうして手許にその本が返って来ると見るのが恐ろしい。出版物が百点満点とするなら、拙訳は赤点はもちろんのこととんでもないミスを犯しているのではないかと思うからである。
 今後のこともあるので、これから恐る恐るその邦訳とブログ訳を比較しできれば改良していきたいと考えている。引き続いて読者諸兄姉の寛容と祈りをお願いしたい。)