2022年4月30日土曜日

私を宮とし、雪よりも白くなし給え、

人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、紅色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです 。(マルコ7・21〜23)

 自ら恥じないでこの文字を一つでも読み、または書き得る人があるだろうか。私はペンを執って幾度か躊躇した。昨日はどうしても書けなかったから、ただ22節とのみ言っておいたのである。今ペンを執ってこれらの文字を並べるのは実に自分の心を暴露しているのである。スラスラとこれらの語を並べて平気で居り給うイエスの純白さを思わざるを得ない。と同時にどの一字でも平気で取り扱い得ない自分の汚さを感じて、ただ『イエスよ心に宿りて・・・』と祈る外はない。

祈祷
イエスよ、心に宿りて私を宮となし給え。汚れに染みしこの身を雪よりも白くなし給え。私の罪を洗って雪よりも白くして下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著120頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 青木さんは、マルコ6・56〜7・23までを、4/21〜4/30まで実に10日間かけて霊解を書かれた。今日のところはその掉尾に位置する箇所である。まことにふさわしい終わり方である。さてデーヴィッド ・スミスはその『受肉者耶蘇』上巻最終頁で次のように結論している。なお、7「主の答弁」は理解するのに困難なところが散見されたので、連載ではカットしたが、参考のため、ここに載せることにした。

12「使徒の教育隠密となる (Their instruction henceforth Master's exclusive concerns)」
 この事件以来重大な決心を愈々固く定められた。時は迫れるも、十二使徒はなお主の没後その両肩に委ねらるる事業に対して準備は不十分であった。彼らは未だ何らの知識なく、非霊的であった。ゆえにイエスは天国の事情に関して彼らの教育をその専心の事業とせらるる決心をせられた。カペナウムにおけるイエスの事業は終わりを告げた。永年主の在住によって恩寵を被ったこの市を出でで、ただ使徒たちのみと静かに隠退せらるべき個所を求めて、密接な交わりを結びつつ、彼らの知らざる可からざる所を啓示せらるることはなった。

7「主の答弁」
 探偵の歩を進めていた主の敵は、その弟子がこの大切な儀式を等閑にするを観察して、これ実にモオゼの律法を犯すのみならず、彼らの眼には一層極悪重過と認むる『昔の人たちの言い伝え』を犯す、言いようなき大罪であると認めた。彼らはイエスに迫って、説明を求めたが、イエスは大胆にも侮蔑の態度を以て答えを与えられた。この凶悪不信不敬虔という罵詈をそのままに彼らの面に擲げ返された。『なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないのか』〈マルコ7・5〉と彼らは尋ねた。イエスはこれに応じて『あなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって神のことばを空文にしています』〈マルコ7・13など〉と反問せられた。これ実に重大な罪過である。

 イエスはユダヤ人の詭弁の驚くべき例証を捕え来たってこれを利用せられたのである。神に対して誓ったことは宗教の習慣上では神聖なものである。これはコルバンすなわち献物であって祭司の手に渡すべきものであった。意地悪い工夫を凝らしてこの敬虔な戒めすら非宗教的な往々不都合な目的のために供せられたのであった。例えば負債者がその償却を拒んだとすると、債権者は『あなたに貸したものはコルバンです』と言うのが常であった。而して債権者はその額の多少を割いて神殿の会計に献げた。故にもし負債者がそれを償却しなければ、これ神のものを盗むの罪に当たるに至るのであった。

 これはまだ罪のない行動であったけれども、ここにイエスが引用せらるる、息子がその両親の需用品を供給するに当たって、同じ形成を応用するに至っては言語道断の所業であった。『私からあなたがたのために上げられる物はコルバンになりました』〈マルコ7・11〉と言わば如何とイエスは彼らの語を引用された。これは往々行われた所であって、有司たちは自己の利益の上からむしろこれを奨励したのであった。事が既に人道に背く格別の所業であるのはもちろん、神の名において斯くの如き罪を構うるにおいては実に仮借すべからざるものである。『偽善者たち、イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。」』〈マタイ15・7〜9〉と叫ばれた。)

2022年4月29日金曜日

人の心は何よりも陰険で、それは直らない

人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え・・・(マルコ7・20〜21)

 直接にはパリサイ人の心を指したのである。弟子らの洗わぬ手に比べて彼らの洗わぬ心の如何に汚れているかを指摘したのである。イエスを嫉み憎み罠をかけて陥れんとする陋劣な心情が見え透いていたからである。しかしそれのみではない。人間の心というものは万人みな同じい。そのままで置けばロクなものは出て来ない。悔い改めと信仰によってのみ少しは美しいものが出るようになる。その汚れの標本としてイエスは七つの行為と五つの性情とを挙げている。この一つ一つを神の前に自問自答して日々悔い改むる人は幸いである。

祈祷
主イエスよ、私の心の泉より流れ出るものが何なるかを見て、私は私の心が汚れているのに驚きます。願わくは、あなたの清き御血潮を注いで私を洗って下さい。願わくは、私のうちに新しい心を創造して御前に立つことができるようにして下さい。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著118頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 以下はクレッツマンの『聖書の黙想』113頁からの引用である。

 人の食べるもの、つまり、口から体に入るものは人を不浄にすることはないが、口から出て来る罪深い不浄な言葉は、必ず人を汚すだろう。その後、弟子たちは家で自分たちだけになった時、もっとくわしい説明を求めた。

 主はご自身の語る言葉の明らかな意味を、なかなか悟ることのできない弟子たちに、失望の色を見せながらも、忍耐強くその意味を明かされた。つまり、私たちが口にする食物は、私たちの精神上の健康とは何のかかわりもないということだ。そのような食物は、消化や排泄などという自然の過程で処理されている。

 ところが生まれながらの人間の心から出て来るものは、神の前では人を汚れたものにするだろう。私たちの心は生まれつき、邪悪なので、そこからは悪い思いや、姦淫、不品行、殺人、盗み、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、謗り、高慢、愚痴などが生まれるからだ。人間生来の罪深い心から生ずる罪の、なんと恐るべき目録ではないだろうか!

 ここには人の心を変える能力も影響力ももたない。二、三の表面的な儀式などよりも、配慮されなければならない問題がある。最高に美しい礼拝式をもってしても、あの真にたゆまぬ一つの祈りに代わることはできないだろう。『神様、罪人の私をお赦し下さい』〈ルカ18・13〉

祈り
聖なる救い主よ、
単なるうわべだけの形式や儀式から成り立っているような敬虔や信仰から、私たちをお守り下さい。聖書の中に、こんなにも明瞭に現れているあなたのみことばと御旨に代えて、人の作った規則を用いたりいたしませんように、助けて下さい。あなたのもとに、信仰をもって立ち帰り、清めと癒しを受けることができますように、あらゆる悪の根源である私たちの心の取り返しのつかない堕落と退廃に気づかしめて下さい。あなたの恵み深いお約束によって。アーメン

2022年4月28日木曜日

儀式的律法からの真の解放

十二個 チューリップの 揃い踏み 主の弟子たち またかくあらん 

「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。・・・このように、すべての食物をきよいとされた。(マルコ7・14〜15、19)

 パリサイ人は手を洗わずに食事をするのは罪悪だと言った。イエスはこれに対して、否、手を洗わぬどころではない、実を言えばモーセの律法にある潔き食物と潔からざる食物との区別さえも本質的のものではない。何を食したとて、それで人の心の汚れるものではない。と喝破したのである。パウロがユダヤ教の儀式を超越して信仰によれる万人の救いを説いたのはこの御精神の延長である。パリサイ人たちがイエスを異端者として迫害したのも彼らとしては無理もない。24節を見ると『イエスは、そこを出てツロの地方へと行かれた』とある。迫害が如何にひどくってガリラヤ地方に居ることが出来なくなったことを示して余りがある。形式宗教から霊的宗教に帰ることは容易でない。霊とまことを以って神を礼拝するのは如何に難しいことであろう。

祈祷
霊なる神様、宗教の形骸に囚われてその真髄を忘れ易い私どもを憐んで下さい。手を洗って食するは易くありますが、心を洗ってあなたに近づくは難しうございます。教会やその儀式に与かることは易いですが、霊とまことを以ってあなたを拝むのは難しうございます。どうか聖霊を私どもに注いで、外面でなく、心の内面を潔くして下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著118頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 以下、『受肉者耶蘇』と『十二使徒の訓練』記載の二文を紹介しよう。

10「十二使徒の鈍感さ〈dulness〉」
 イエスが比喩をもって群衆に教えられた後には、直ちに来たってその意義を質すのが十二使徒の習慣であったが、パリサイ人との争論の後、家に帰るや否や彼らはイエスに訴えた。すなわちペテロが『そのたとえを説明してください』〈マルコ4・33〜34、マタイ13・36〉と実際人を穢すものについてのイエスの宣告の意義を尋ねた。この真理のうちには少しもたとえはないけれども、彼らはユダヤ人的偏見に囚われて、そのうちに隠れた何らかの意味のあるものと想像した。潔き食物と潔からざる食物との区別はなお彼らには容易ならざる問題であったからして、イエスがこの区別を排斥せられようとは思い設けない所であった。従って不潔の思想以外に人を穢すものなしとのイエスの教理を受け容るることのできなかったのは当然である。爾後数年してペテロはなおユダヤ人の偏見から遁れることはできなかった〈使徒10・9〜15〉イエスは彼らの心の遅鈍なるを悲しまれ『あなたがたまで、そんなにわからないのですか』と叫ばれた。〈『受肉者耶蘇』上巻473頁 、Days of His Flesh245頁

 ところで、「イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた」という結びの句には、特別な意味がある。それは福音書記者がキリストのことばの効果について述べた意見である。つまりキリストのことばは、きよいものときよくないものとの儀式的区別の撤廃を意味した。この注目すべき解説は、後にキリストの言明を引き出す役を務め、天から降りて来る敷布の幻を見た使徒〈ペテロ〉の宣教の報告を私たちに伝えた人から出ている。

 福音書記者が解説をしているので、私たちも私たちなりの解説を加えたい。ここで主はモーセの儀式的律法〈長老たちの言い伝えはそれに対する補足であった〉に関しては沈黙を守り、ただ神の戒め、すなわち十戒についてだけ語っておられる。このことは、主が律法において何を廃棄し、何を成就するために来られたかを示している点で、たいへん意味深い。儀式主義は廃棄されるべきものであって、恒久的な道徳律法がすべてのすべてとなるべきであった。人々の良心は、神の十戒ないし究極の愛の戒めを守ることによって自由に生ける神に仕えることができるように、外側からがんじがらめにされた重荷から解放されなければならなかった。

 私たちは、キリストが教会のために計画し獲得してくださった自由に堅く立ち、一方において迷信を避け、他方において不敬虔な放縦を避けなければならない。そうすることによって、神の御心を求める聖なる熱心から、あらゆる人間の言い伝えを憎むことは教会の義務である。真にキリストに従う者は自由を欲するが、それは自分の好きなことをするためではなく、神が求めておられることを行うためである。従ってそのような人は、宗教上のあらゆる人間的権威を儀礼にこだわりなく拒否し、熱心な言い伝えの信奉者からも離れている。また同時に、神のしもべとして、彼らは神のことばと神の律法を敬い、自らと不法を行なう不従順な者たちとの間に広い淵を置いている。彼らは拒否するものの代わりに別の良いものを得ようとしているのではなく、人間的あるいは神的な事柄におけるあらゆる道徳的抑圧を除くために、宗教改革の運動に味方しているのである。〈『十二使徒の訓練』上巻150頁

2022年4月27日水曜日

「縁なき衆生」に心から語られる主

イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい・・」(マルコ7・14)

 町や村や部落までも巡り給うて折角大衆と親しみつつあり給うた時『パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来て・・』(マルコ7・1)無益な問答でヒマをつぶしたのを如何にも残念に思われた様子が『再び群衆を呼び寄せて』の文字に現れている。主はいつでも大衆に呼びかけ給う。特権階級のパリサイ人や学者は彼から遠い人達であった。社会の下層に押しつけられた大衆こそイエスに聴きて悟り得る人達である。貧しき者は幸いなるかなとの叫びを以って群衆に呼びかけ給うたイエスは今日でも富貴や権勢や知識を誇ることを知らない群衆を呼び寄せ給う。

祈祷
主よ、願わくは、私が持っていると思うものをことごとく剥ぎ取ってください。そうして私は何も持っていない一介の罪人としてあなたのところに行く者とさせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著117頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 この聖書箇所に因む二文を以下紹介する。

 預言者のことばは、テンポが速く、力があり、人の心を鋭く探り、決定的な響きを持っていた。パリサイ人を狼狽させるのに、これ以上のものは必要なかった。このイエスの聖なる御告げは、言い伝えの擁護者には反駁できないものであった。

 しかしイエスは、霊的に盲目な指導によって破滅に導かれていた気の毒な群衆に同情しておられたので、これまでの論争を周りに立って聞いていた彼らにも、一言語りかける機会を持たれた。イエスは彼らに、簡潔で要を得た格言のような形で述べられている。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」

 これは解くことができる謎であり、尋ね求めることができる知恵の秘密であり、学びとることができる宗教の学課である。その意味は、この時には悟る者が少数であったとしても、非常に明白であった。それは次のように言うことができる。「パリサイ人のように手を清めることにではなく、心をきよめることに最大の注意を払いなさい。心がきよければ、全身がきよいのです。心がきよくなければ、どんなに外側をきれいにしてもむだです。何にもまして恐れなければならない汚れは、儀式的にきよくない肉からくる汚れではなく、肉的な思いから生じる汚れ、悪い考え、情欲、悪い習慣からくる汚れなのです。」〈『十二使徒の訓練』上巻148頁〉

9「真の穢れ」
 これ実に敵を粉砕すべき答弁であって、イエスは威圧した相手から転じて、争論を傍観する左右の人々に向かって『聞いて悟りなさい。口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します』〈マタイ15・10〜11〉と仰せられた。この時パリサイ人はいたく憤って去り行くを見送れる十二使徒は、彼らの復讐を思うて戦きつつ主の語に対して抗議した。イエスは彼らの杞憂を戒め、パリサイ人の団体の末路を預言して『わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こぎにされます。彼らのことは放っておきなさい』と言い、また論争の相手であった敵を瞰して『彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです』〈マタイ15・13〜14〉と言い渡された。これ人口に膾炙する格言であって、かつて傲慢な宗教家の特性を喝破するに用いられたもので、傍聴者に誤解を与えないように彼らを戒め給うた。〈『受肉者耶蘇』上巻472頁〉

2022年4月26日火曜日

コルバンの悪用、神を恐れざる行為

あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物はコルバン(すなわちささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。(マルコ7・11〜12)

 パリサイ人の詭弁の一例である。心なき文字だけの宗教の恐るべき結果を示している。彼らは自分の所有の全部もしくは一部に対して『これはコルバンである』と言明さえすれば実際においては神に供えずとも、その物品あるいは金銭を父母のために用いなくてもよいのだと教えたのである。否、一旦そう言った以上は父母のために用ゆることが出来ないとさえ教えたのである。ある息子が腹立ちまぎれにコルバンと叫んでしまって、あとで悔いて父母に孝養したいと思ったが許されなかった例もある。もちろんキリストも、わたしのためには父母妻子も棄てなければならぬと仰せられたが、それは意味が全く違う。真に神に仕うる者はある場合には父母の気に入らぬことも為さなければならないかも知れぬが、それは真に父母に仕えんがためである。真に神に献げた人は父母のみでなく凡ての人のためにも自己を献げる人である。

祈祷
神よ、願わくは私をして真実のコルバンとならせて下さい。あなたを愛するが故に一切の隣人を愛して、己を献げる者とさせて下さいますように。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著116頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。コルバンに関連しながら、パリサイ人の詭弁を暴かれた主の論法について、『十二使徒の訓練(上巻)』というA.B.ブルースの所説を紹介する。同書147頁以下である。

 パリサイ人に対して「儀式のために道徳を犠牲にし、人間の言い伝えのために神の戒めを犠牲にしている」と反撃を加えてから、さらにイエスは、顕著な実例と聖書からの引用で、すぐそれを証拠だてられた。取り上げられた実例は、自分たちの宗教的義務を優先することにより第五戒の義務をないがしろにするというものであった。神は「あなたの父と母を敬え」と命じ、この戒めを破る者には死の刑罰を科しておられた。ユダヤ教の律法学者は、「これはコルバン、と言え。そうすれば、たとい困っている両親を助けるためのものであっても、それを両親に渡す義務いっさいから免除されよう」と言った。

 コルバンはモーセ律法において、誓いを果たしたときにささげられる、血を流すもの流さぬ物を含むあらゆる種類の神へのささげ物を意味することばである。〈民数6・14〉ラビの通用語として、それは個人や世俗の用のためではなく、聖なる目的にささげられた物を意味した。コルバンに関する伝統的な教えは、二つの面で有害であった。まず、それは人々に信仰を、道徳を無視する口実とするようけしかけた。それから、不正な行いや偽善を野放図にしてしまった。

 その教えによると、人は誓いをすることによって物を用いることを合法的に制限できるだけでなく、その物を神にささげるという誓いをなせば、それが他の人に与えるべき物であっても、与える義務をいっさい免除されたのである。さらに、ラビの悪質な教説によると、人に与える義務から解放されるのに、その物を実際に神にささげる必要があったのではない。それをコルバンと言えば、それだけでよかった。どんな物にもその魔法のことばを唱えせすればよい。

 このような手前勝手な神のための熱心は、神の御名をむなしくし、神を辱めるものであった。十戒の第一の板を第二の板に敵対させるようなしきたりは、結局、両方の板〈十戒の全部〉を破壊してしまうことを証明した。彼らは自分たちの言い伝えによって神の律法全体を無効にした。第五戒を無効にすることは、キリストが「これと同じようなことを、たくさんしているのです」〈マルコ7・13〉と言われた結びのことばに含蓄されるように、人間の戒めの信奉者たちが生み出した悪影響の見本であった。)

2022年4月25日月曜日

神のみことばが求めることを為せ

その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけ

 イエスは明らかに神の教えと人の訓戒とを区別している。この点は現代の宗教家と異なっている。現代の神学者は次第に天啓という語を用いなくなって来ている。昔の神学者は宗教を区別して自然宗教と天啓宗教とに区別し、キリスト教のみが天啓教だと主張した。現代の神学者は斯くの如き区別を旧式と嘲笑う。キリスト非か現代人是か。私はキリストのご意見に従いたい。世の中に多くの教えがある。いづれが悪いと言うのではないが、神から直接に出づるキリストの真理ほどに人を活かすものは無い。人の訓戒は人の訓戒として相当の価値はあるが、キリストから流れ出たもののような力が無い。信者たる我々はこの点をハッキリしておく必要があるであろう。絶対の真理はキリストの他には無い。私は如何なる宗教にも反対するものではない。但し一切の宗教や道徳はキリストの査証を待って始めて私の心に入国する。

祈祷
主イエスよ、私にとってはあなただけが唯一の真理であり、一切の教えの究極であることを感謝申し上げます。あなたは実に私の道であり、真のいのちでありますゆえに、他の何物をも必要としないことを感謝申し上げます。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著115頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。引き続いて、クレッツマンの『聖書の黙想』〈112頁〉を以下に引用する。

 律法は父母をののしることは死罪に値すると宣告していた。ところが、パリサイ人は律法の裏をかくのも、いとやすいことにしてしまった。年老いた両親を扶養するために必要な金は、言い伝えによって認められている何か宗教上の目的のために捧げることを誓うならば、もうそれで、その金はひっこめてしまうことができるという訳なのである。今日の人々はある儀式に対して神のみことばが求めているところを行なうことよりも、その儀式を敬虔の見せかけを装って演ずることの方が、はるかに容易であることに気づくだろう。)

2022年4月24日日曜日

神の御前で正直たれ

『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』(マルコ7・6)

 偽善の最も醜いのはそれが神に対する時である。人に対する時である。人に対する偽善も醜いには相違ないが、このごまかしによって多少は幸福を受ける人もある。神に対する偽善に至っては沙汰の限りである。一切を見透し給う神を馬鹿にしているのである。神をめくら扱いにしているのである。かような態度で神に向かえば、神に向かわないよりも更に悪い。近づく代わりに『遠ざかる』のである。されば、祈りの時、礼拝の時、何よりも大切なのは真実な態度である。罪があってもよい。その有りのままで神の前に出るのである。神に対する不平があったとしたらそれでもよい。天の父は憐んで下さる、赦して下さる。ただ自分の真相を押しかくして居る者には手が付けられないのである。

祈祷
神よ、願わくは、私をしてあなたの前には赤裸々なるを忘れさせないようにして下さい。願わくは、私をしてあなたの前にあっては赤ちゃんが慈母に対しているように、有りのままでおらせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著114頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下、クレッツマンの『聖書の黙想』112頁から

 さて、ここで主はあからさまな攻勢に転じて、パリサイ人や、そのたぐいの連中が自分たちの言い伝えを守るために、神の戒めを踏みにじっているのをお責めになった。主は第四の戒めを引かれている。その戒めの求めているところは明瞭だ。「父と母を敬え」)

2022年4月23日土曜日

あなたがたは偽善者である

イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』・・・(マルコ7・6〜7)

 随分無遠慮な言い方である。『あなたがた偽善者』とは露骨すぎる挨拶であるように見える。けれども孔子も巧言令色は仁が少ないと言ってこれを嫌った。他の罪悪については常に寛大で赦免的であったイエスも、外面と内面との二重生活を平気でやっている人に対しては実に峻烈であった。峻烈であったと言うよりも正直に言動されたと言った方がよい。イエスがもし彼らに対して巧言令色を用いたならば、それは偽善と同じ罪を犯すことになる。人間の弱さから生ずる罪は愛によってのみ医されるけれども無反省から生ずる表裏二重の生活者に対してはこれを医すの道はその真相を暴露せしむるの外はあるまい。然り、露骨な直言直行のほかに彼らを救う方法は無いのである。されば峻烈な直言こそ真の愛の発露と言わねばならない。

祈祷
主よ、あなたは如何なる罪悪よりも偽善をお嫌いなさいます。あなたは先ず私たちに対して自らの真相を見る事を願われます。願わくは、あなたのX線を以って私の内臓の腐敗を示し、私にへりくだることをお教え下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著113頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下、クレッツマンの『聖書の黙想』111頁から

 いつものように、主はここでも、これらの人々の思い通りに守勢に立たせられるままにはならなかった。この場の情況を制するカギは主の手中に握られていた。彼は神のみことばを味方に備えていたからである。そこでこれらの人々の心の中を素早く読み取って、これを偽善者と呼び、預言者イザヤの次のことばを彼らに当てはめられた。

 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』

 私たちの心が、神に対して信仰上、正しくない時、上辺だけの敬虔を装って神を喜ばせることはできない。人間の言い伝えや儀式を、もし私たちが神のみことばの上に置くとしたら、それは神に対する冒涜になるだろう。)

2022年4月22日金曜日

しきたりに縛られる人のトンチンカンさ

パリサイ人は・・・手をよく洗わないでは食事をせず・・・このほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある(マルコ7・3〜4)

 これは衛生上の理由からではなく、宗教上の汚れを防ぐためである。宗教上の儀式や形式というものはそれ自体は決して悪いものではない。貴金属や宝石類がこれが納める函を要するように、宗教上の尊い真理は度々ある形式の中に保管せられる。洗礼や聖餐はこの種に属する。しかし形式そのものを余りに見つめてはいけない。宗派や教会に固執してキリストを見忘れる人もある。洗礼や聖餐ですらも信仰と愛の代用とはならない。信仰と愛と望みとの容器としてのみ効用がある。まして宗派や教会をやである。紳士の心なき者が作法の書を暗記してもダメな話である。鉢を洗ってもよい。銅器を洗ってもよい。だが、先ず自分の心を洗うことを忘れてはならない。況んや自分の形式に当て嵌まらぬからと言って、他を非難する心を抱くようなことをしては大変である。

祈祷
神様、どうか手を洗うときに心を洗うことを忘れず、皿や鉢を洗うときに霊魂を清めていただくことを忘れぬようにして下さい。外形に事を行うときに、内心が空洞でありませぬようにして下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著112頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下、クレッツマンの『聖書の黙想』110頁から

 福音書の記者はここで、パリサイ人によって守られ、一般のユダヤ人によって受け継がれている色々な言い伝えの一つに触れている。それは、彼らが律法ーーモーセの律法ばかりでなく、昔の人の言い伝えーーの求めるところに従って、儀礼的な清めの風習を非常に厳しく守っていたということだ。

 この清めは「水の洗い」と呼ばれ、一般には、ギリシャ語の文献に記されているように、「こぶし」で行われた。つまり、清めるべき人や物の上へ水を注ぐために、手のひらの部分を用いたのである。このように水を注ぐとか、ふりかけるとかいうことは、水が流れていることを意味していた。よどんだ、動かない水は不浄なものと考えられていたからである。

 人々は市場から帰ると、市場というところは儀礼上の不浄に陥り易い場所だったので、まず、第一に清めの水を、自分自身の体やテーブルや食器類全部に注いでからでなくては、食卓につこうとはしなかった。従って、イエスの弟子たちがこれだけの儀式を経ないで、パンを食べるのを見て、彼らがけしからぬと思ったのも当然で、そんなことを許したイエスをとがめたのも不思議ではなかった。おそらく、彼らは荒野で五千人の群衆が食事をした時のことを言っていたのだろう。そこでは、「水の洗い」のようなものは守られなかったからである。こんな末梢事にこだわって腹を立て、肝心の奇蹟と、それを行った方の力を看過してしまうとは、悲しむべきことではないか。)

2022年4月21日木曜日

目に梁ありてイエスを見る愚かさ

さわった人々はみな、いやされた。さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、・・・イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」(マルコ6・56〜7・5)

 種々の人がイエスの周囲に集まって来た。霊魂のことなどは少しも考えず、ただイエスに触って病気を癒されたい人々も多くあった。低級な人々である。けれどもイエスは黙って彼らをも癒し給うた。その不思議な御力を見るために態々エルサレムから下って来たパリサイ人、学者らもあった。彼らは多くの病人の不思議に癒されるのをさえ見なかった。彼らの見たのはイエスの弟子たちが手を洗わないで食事したことだけであった。彼らは数十里を遠しとせずしてイエスを見に来た。而して彼らの見たものはただこれだけであった。人は実に見んと欲するものだけを見るものである。イエスの穴探しに来た彼らは欠点のほか何物をもイエスに見出すことは出来なかったのである。イエスはどんなに悲しく感ぜられたことであろう。私どもはイエスにおいて何を見出しつつあるか。私どもの兄弟姉妹と称する人において何を見出しているだろうか。

祈祷
主よ、私どもに先ず自分の目から梁木を取り去ることを教えて下さい。悪しきものを見出す悪しき目を取り去って下さい。どうか清々しい目を以ってあなたの御姿を見、涙ある目を以って人を見ることを得させて下さい。殊に一番嫌いな人を見るときに一番温かい眼で見ることを得させて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著111頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は昨日の『受肉者耶蘇』の続きの文である。

6「伝道の継続」
 民衆はイエスに反抗したけれども、忽ちにして彼らはイエスならざるベからざるを悟った。イエスはなお彼らの間にあって事業を継続せられた。エルサレムにおける王位の望みは消散したのに彼らは何をか求めた。彼らの苦悩や惨事は依然として絶えないからであった。而してイエスの恩寵と権威とは少しも衰えないのであった。彼らは血漏を患った婦の如くイエスの衣の裳裾にただ触れしめんがためにその聖足の下に従来の如く病者を伴い來った〈マルコ9・20、ルカ8・44参照〉過越の節は来たけれども有司たちの殺気を帯びた計画を洞観せられたイエスは、なおガリラヤに留まられた〈ヨハネ7・1〉。この時期に死する覚悟は定めて居らるるけれども、なお多くの事業が残っているのであった。イエスの時は未だ転還しない。
〈サンヒドリンの密使〉
 有司たちはイエスの上られないのに失望した。而してこれを殺さんと決心して、カペナウムの官憲と結託せんがため、パリサイ人とサドカイ人との代表者を送った。依然として群衆の敬慕に擁せられ給うイエスに対して、これらの悪党も手を下すべき道がなかったけれども、その手中に陥るべき口実を発見せんと焦慮しつつ妬視耿々只管に機会を窺った。

7「手を洗わずとの攻撃」
 久しからずして事成れりと喜んだ一事を彼らは発見した。ラビの律法のうちに洗浄に関する儀式、殊に食事の前後に手を洗う事以上に大切な問題はなかった〈ルカ11・37〜38参照〉手を洗わずして食するは身を汚穢に委ねるものであって、破門に該当する罪過であった。加うるに迷信が一層この掟に重きを加えたのであって、シブタと称する悪鬼がいて、手を洗わず食物に触るればこの悪鬼が夜間に来たってその人に憑くものとせられた。これ実に奇怪至極の掟であって、畢竟、如何にユダヤの宗教が堕落して、儀式もついに中心の意義を失ったかを示すに足るものである。しかも、斯く下劣であっても迷信はその信者の熱心なためにほとんど究極の力を揮うに至った。伝えらるる所によればラビ・アキバはかつてロオマ人から牢獄に繋がれたことがあったが、彼は洗身と飲料とに充分足るだけの水を毎日給与せられた。然るに一日司獄官の命令で水の供給を減ぜられた。『手を洗う水をくれ』と彼は言ったが、『我が師よ、水は飲むにすら足らないほどであります』と給仕していた彼の弟子が答えた。『どうしよう。先祖の命じた儀式を犯すより死ぬるに若かず』とアキバは叫んだと言わるる。)

2022年4月20日水曜日

パンのために多く集まる、されど(下)

・・・イエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運んで来た。・・・村でも町でも部落でも、人々は病人たちを・・・(マルコ6・55〜56)

 元の訳には『イエスがおられるところを聞き出し』とある。この方が原文の意を伝えている。イエスは人口の多い『村』や、それに次ぐ『町』や、人口の稀薄な『部落』すなわち広い田野に転々としている農家などまで巡回して道を伝えておられる。病人を携えた人々はあちらこちらと訪ねて『『イエスがおられるところを聞き出し』て、やって来たのである。マルコは主の御伝道ぶりを目に見るように描写している。熱心にイエスを求めるのは善い事である。が、彼らは果たしてイエスを求めたのであろうか。せめてイエスの与えんと欲するものを求めたのであろうか。肉体を癒されんと欲する者は多く霊魂を癒されんと願う者は暁天の星よりも少ないことを主は心の中に嘆息せられたであろう。

祈祷
主イエスよ、あなたは私たちの肉体をも顧み給えども、私たちが雀よりも優れるは霊魂の尊さにあることを知り給うが故に切に私の永遠の救いを求め給う。願わくは私たちに己が日を数うることを教えて、知恵の心を得しめ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著108頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は昨日の『受肉者耶蘇』の続きの文である。

3「イエスに奉従する試験」
 これらの教訓はユダヤ人の耳には我々が聞くほどに不思議ではなかった。聖書のうちにも、またラビの文書にも等しく教訓をパンと称し、これに心身を集中するを食うと言ったものである。預言者エレミヤは『私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました』〈エレミヤ15・16〉と言い、ユダヤ教経典の中には『「パンを以って彼を養え」すなわち彼をして律法を学ぶに努めしめよ、「来たりて我がパンを食え」とあればなり』とある。なお我らの主の聖語に一層酷似したものは『メッシヤを食う』というユダヤ教経典の語であって、これは喜んでこれを受け、そのあるがまま教訓を会得することであった。しかるにかかわらず、その聴衆は、十二使徒すらもなお、その場においては主の神秘な教訓の意義を悟り得るものはなかった。主もまた彼らがこれを悟り得るものとは期待せられなかったのであった。ただ彼らの信仰を試験し給う計画であったが、彼らの忠誠の念はその幻想の消失とともに揺るがなかったであろうか。

4「一般の錯乱」
 イエスは慎重にこの試験を行なわれたのであったが、その結果はどうであったろう。有司たちや、民衆の間に混じた彼らの党派が、激怒して憤慨したのはすでに驚くに足らぬ。彼らは『あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている。そのイエスではないか。どうしていま彼は「わたしは天から下って来た」と言うのか』〈ヨハネ6・42〉と呟き、また『この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか』〈ヨハネ6・52〉と呟いた。彼らが斯く思うは当然の態度であって、イエスはもはやこれを失望せられないのであった。
「十二人忠信を以って留まる」
 しかしイエスは今少しく進んだものと期待せられた他の団体がーーすなわちイエスの跡を慕って、弟子なる名を冠せられた人々があった。彼らは如何にこの試験に応じたであろうか。イエスは彼らに希望を繋がれたのであったが、悲しむべし、彼らもまたその信任に背く甚しきものであった。『これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか』〈ヨハネ6・60〉と呟きつつ、彼らの多くは『離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった』〈ヨハネ6・66〉。イエスはただ十二の使徒のみとなられた。而して彼らの困惑した顔を凝視つつ、温言を以って『まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう』〈ヨハネ6・67〉と静かに問われた。

 彼らの忠誠の念は頗る揺らいで、遁るべき道あらば彼らも、またイエスを棄てんとする志が見えたものと思わるる。しかし彼らは余りに深く身を投じたものであって、その万事を擲ってイエスに従い、ただその王国と玉座とを獲得せらるる日の褒賞をのみ心掛けているものであった。万一彼らにしてイエスを棄て去らば、ただ世の嘲笑罵詈を受くるに過ぎない。この恥辱のために彼らは辛くも踏み止まったものであった。更に彼らには忠信を献ぐる一層高い理由があった。彼らの観念は全くない誤っていても彼らはその主を愛し、その恩寵に対して偉大な発見を遂げていた。『まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう』〈ヨハネ6・67〉との主の問いに対して、常に十二人中の代言者にして、最もイエスを愛したペテロは答えた。彼の応答は、始めは失望に泣くように、漸次情熱と勝利の信仰に燃え昇る不思議な不調和な語であった。『主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています』〈ヨハネ6・68〜69〉と。

5「彼らのうちに謀反人」
 これ実に憐れな、出まかせの告白であって、イエスには、その使徒すらなお信仰極めて薄弱にして、天の王国の事情につき、また将に来るべき危急に対する準備において、如何に深き訓練が必要であるかが明らかであった。ペテロは彼らのうちの最も勇敢にして、その信仰最も熱烈なるものである。しかるに、これをしも彼が達し得る信仰の極致ならしめば、他の十一人の状は将た如何であろう。イエスはその結果を明らかに予知せられ、『わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です』〈ヨハネ6・70〉と仰せられた。然り、心を潔むることはさておき、却って大罪を企む人物が一人いたのであって、福音記者は『イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子の一人であったが、イエスを売ろうとしていた』〈ヨハネ6・71〉と註釈している。)

2022年4月19日火曜日

パンのために多く集まる、されど(上)

というのは、彼らはまだパンのことから悟ることがなく、その心は堅く閉じていたからである。(マルコ6・52)

 これはマルコが憤慨した語であるか。然らざればペテロが当時を回顧して慚愧(ざんき)した語であろう。エマオの途上において復活の主がクレオパに出会い給うた時にも『・・・信じない。心の鈍い人たち』(ルカ24・25)と嘆息し給うた。人の心は物質界のことに囚われて霊界のことは信ずるに鈍く、忘れるに早い。弟子らがいかにも鈍感で健忘症であったように感ずるけれども、私たちはヨリ以上に鈍感で健忘ではないだろうか。私自身の生涯にも主の大なる奇蹟が幾度も行なわれているが、その当時の感激は夢のように消えて、それが自然の出来事であったような記憶になっている。飛んでは落ち、飛んでは落ちる蛙である。その飛躍は稀でかつ乏しい。

祈祷
主イエスよ、あなたは昔のように今も生きて働き、私のため私の救いのために大いなることを惜しみなく行いなさることを信じて忘れることのないようにして下さい。願わくは、この世にさとくあなたには鈍い私の魂を更生して下さって、日々あなたの奇蹟に生きる者とさせて下さい。日常茶飯事にさえあなたの奇蹟を見出し、あなたの手を握って感激する者とならせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著109頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。なお、デービッド・スミスは『Days of His Flesh〈受肉者耶蘇〉』で第28章『カペナウムにおける論争』と題して以下の文章を綴っている。〈『受肉者耶蘇』上巻461頁『Days of His Flesh』240頁より〉参考のため今日と明日の二回に分けて掲載する。

『イエスはその天国を愛する者を多く有し給えり。されどもその十字架を負う者は稀なりき。イエスは口を以って行動を共にするものを多く有し給えり。不屈の同労者は極めて少なし、そのパンのためには多くの従者を有し給えり。しかもその苦難の苦き盃を飲まんとするの従者は稀なり。奇蹟の故にイエスを尊ぶもの多しといえども、十字架の恥辱を倶にするの従者は稀なり』〈基督の模倣 第二巻第11章〉

〈マタイ14・34〜36、ヨハネ6・22〜7・1、マタイ15・1〜20、マルコ7・1〜23、ルカ6・39〉

1「民衆の当惑」2「会堂における問答」3「イエスに奉従する試験」4「一般の錯乱」(「十二人忠信を以って留まる」)5「彼らのうちに謀反人」6「伝道の継続」7「手を洗わずとの攻撃」8「主の答弁」9「真の穢れ」10「十二使徒の鈍性(dulness)」11「使徒の教育隠密となる」 

1「民衆の当惑」
 弟子たちの乗船するのを見ても群衆はことごとくは散会しなかった。蓋しイエスが小舟のうちに見えないのを知って、彼らのある者はイエスが再び出て来られるであろうとの望みを以って世の明けるまでも家に帰ろうともしなかった。夜の間にテベリヤの小舟の一行は必然その日の暴風に押し流されて陸近く漂って来たので、彼らはこれらに便乗してカペナウムに帰ったが、彼らの帰着するや、驚くべし、イエスは彼らより先に帰っておられたのを発見した。
 如何に解すべきかを彼らは惑いつつも、そのメッシヤたることを確信し、昨夕の奇蹟を以ってその確信は愈々強固となった。第一の贖主モオゼが天よりのパンを以ってイスラエルを養ったように、第二の贖主メッシヤもまたこれを供するというのがユダヤ人の間に行なわれた思想であった。否ただにそれのみならず、彼らをバシャンの野に導いて、マナを彼らのため再び降らしむるものとせられた。〈ヨハネ6・30〜31〉古人のバシャンとはバタにあのベッサイダの野のことではないか。イエスは確実にメッシヤに相違はない。しかるに何故にその権威を棄て、これを王として宣言せんとする彼らを遁れて山に入られたのであろうか。彼らは衷心より困惑したが、その当時万事を悟るべき機会は到来したのであった。これは一週間、会堂において礼拝の行なわるべき両日、すなわち月曜日か、木曜日かのうちいづれか出あった〈ヨハネ6・59〉。イエスは会堂に出席して説教せられたが、その習慣に従って後に質問を許された。

2「会堂における問答」
 迷信的観察者にはイエスがそのしるしを表して充分の成功を遂げられたものと思われた。イエスは今や、そのメッシヤなるを主張し、国民にこれを認識せしめんとして証明に熱注する群衆の讃美に包まれ給うたのであった。しかしイエスを以って見らるれば、これはほとんど全然失敗に近き、失望すべき苦しき時期であった。群衆の熱注は畢竟、その天職を誤り信じて感激しているに過ぎない。彼らはイエスを以ってメッシヤと認むるけれども、なお彼らはその軛の下より彼らを救い、豊かにパンを供給すべき地上の王としてメッシヤを考えていた。イエスの喜び給話ざるは、彼らの讃美がこの誤れる思想に基けるがためであって、今や極力彼らの真鍮に期する所を斥けて、これに蔽わんとする事実を排せらるる必要の時期に際会せられた。すなわちイエスはその行動に取り掛かられた。先づ第一に彼らの非霊的なるを叱責して『まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです』〈ヨハネ6・26〉と仰せられた。なお進んで昨夕と昨夜との奇蹟を説明して、その死と復活との予標なるを示し、神秘的な教訓を施された。彼らは天寄りのパンを以って養わるべき救い主を望んでいる。『神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも決して渇くことがありません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます』〈ヨハネ6・33、35、53、54〉)

2022年4月18日月曜日

恐れることはない!

川中を 餌を求む鴨 泳ぎ行き 漁るイエス 湖上歩む ※ 
というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。(マルコ6・50)

 然り、『幽霊』には海上を歩む力あるを容易に信じ得て、イエスの海上を歩むのを信じ得ない心は転倒した常識である。マルコが『おびえてしまったからである』と批評したのはもっともである。科学の名において発表せらるれば朝三暮四の愚説をも容易に信じ、イエスの名において発表せらるれば永久の真理も容易に信じ得ないのは現代人の病ではないか。奇蹟、復活、来世などを信ずる人の減少し行く現代の教会は『おびえてしまった』理性の転倒した教会ではあるまいか。人が何と言っても私はイエスを信ずる。今も私のために奇蹟を行い給うと信じる。その時イエスは私の心に『しっかりしなさい。わたしだ。恐ることはない』と言って下さる。『幽霊』ではない。『わたしだ』である。イエスには自信がある。『わたしだ』の語には権威がある。『わたしだ、されば水上を歩むぐらいのことは当然すぎる当然ではないのか』との響きがある。この響きは私の心に平安を囁く。
祈祷
主イエスよ、私は騒ぎません。信じます。私は恐れません。ただあなたによりすがります。ペテロのように海の上をも歩んであなたに到ります。どこまでも信じ通させて下さいませ。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著108頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。※鴨は当然の如く川中を泳ぎ回り、餌を求める。詩篇104篇には造物主によっていかに世界が造られているかを美しく描いている。

 主は家畜のために草を、
 また、人に役立つ植物を生えさせられます。
 人が地から食物を得るために。
 また、人の心を喜ばせるぶどう酒をも。
 油によるよりも顔をつややかにするために。
 また、人の心をささえる食物をも。
 主の木々は満ち足りています。
 主の植えたレバノンの杉の木も。
 そこに、鳥は巣をかけ、
 こうのとりは、もみの木をその宿としています。
 
その主は、私たちの霊の眼が開かれることを切に願っておられる。そのためにも古の日、ガリラヤ湖上を歩かれた。それは罪のゆえに滅ぶしかない私たちを救うためであった。漁〈すなど〉るためであった。今日は武里駅前に新設なるレストラン『ハンバーグ・ステーキ&J』に出かけた。55年前に教え子であった方のご子息が4/21にオープンされるのにちなんでプレオープンされ、奥様からご案内を受けたからである。教え子の方は今はいない。天の御国に居を移しておられる。イエスさまに漁られなさったからである。)

2022年4月17日日曜日

常識のミイラになるなかれ

しかし、弟子たちは、イエスが湖を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。(マルコ6・9)

 世に奇蹟を信じない人が多い。奇蹟を信ずるのは常識や理屈に適わぬように見えて困難を感ずる。幾度も幾度もイエスの奇蹟を目撃した弟子らも容易に奇蹟信者にはなれなくて常識信者であった。一面から見ればイエスのご一生の努力は弟子らに奇蹟信仰を与えんとの御骨折りであったとも言えよう。この奇蹟もそのご努力の現われである。常識は必要なものである。しかし常識が人の全部を支配する時に、人は飛躍の力を失ってしまう。固定した常識、乾燥した常識、常識以上を知り得ない常識は人をミイラにしてしまう。現代には信者のミイラが多い。なぜ弟子らは『幽霊』俗に言うバケモノには海上を歩む力のあることを信じ得て、イエスが海上を歩むのを信じ得なかったか。彼らは実に常識の矛盾を暴露してはいないだろうか。現代の自称合理論者も大抵常識のバケモノを信じ得てイエスの奇蹟を信じ得ない輩である。
祈祷
主イエスよ、願わくは『幽霊』を信ずることを止めて、あなたを信じられるようにして下さい。常識のミイラを脱いで信仰の大世界に飛躍させて下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著107頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。なお、下記に『Days of His Flesh』から二文転写する。今日は期せずしてイースター復活節である。イエスさまの海上渡渉を論ずるこの論考はありがたい。

11「この奇跡の意義」
 これ実に驚くべき物語にして、数世紀の間信仰に困難を感ぜられ、不信者の嘲笑する所となったものである。これは到底不可能なることが明白のように思わるる。ストラウスは『この記事を信ずるに難き理由はこれなり。如何なる人類の体軀をも、いやしくも除外例を許さず支配せる法則に、単にイエスの体軀のみ免れ得るが如し。すなわち引力に抗するものにして、イエスはただ水に沈まれざりしのみならず、これに湿らされず、堅固なる地上におけるが如く地上に浮かびて歩まれたるは自然法に反す』と論じた。また、これは甚だ奇怪の事実のように思わるる。第二世紀の後半、ルシアンが彼の得意な鋭敏骨を刺す毒舌の砲撃を仮借する所なく加えて以来絶えず不信者の嘲笑の的となっているのである。これに対して如何なる答弁をなすべきであろうか。十八世紀の自然派はこれを説明し去ろうと企てて、暴風の狂うまに小舟は陸近くに吹き寄せられて、弟子たちが、イエスを見たときにには、イエスはただ陸岸を歩いておられたので、水上を歩かれたのではないと主張した。ストラウス以来奇蹟を信ずべからずと為すの徒は、これを神話なりとし、啻に旧約聖書中の紅海渡渉の物語や、エリシャがエリヤの上衣をもってその水を打てるときヨルダンの河水の分かれた記事〈2列王2・13〜14〉のみならず、皆彼の詩篇の作者が『あなたの道は海の中にあり、あなたの小道は大水の中にありました。それで、あなたの足跡を見た者はありません』〈詩篇77・19〉と言えるときユダヤ詩人の大胆な想像なりと論断する標準を求めているのである。
12「復活の預言」
 しかし、かくの如き維々たる方法をもってこの物語を棄て去るわけにはいかない。事実この奇蹟は群衆に食を供せられたと等しき重大なる預言的の目的があるのである。主の聖胸〈みこころ〉は未来の予想ーー『キリストの苦難とそれに続く栄光』〈1ペテロ1・11〉とに満ち満ちでいた。故に、ここで十二使徒の思想を導いて、来るべき所に応ずるの準備を為さしめんと欲せられたのであった。バプテスマのヨハネの死を聞かれたる日より教育の揺がざる目標は最期の事件ーーその死と復活とを了解せしむるにあった。斯くして群衆に食を供せられたのは晩餐とその死との預言であって、この奇蹟は復活の預言であった。もちろん人間の体躯で水上を歩むは不可能である。しかし霊体は自然法以外の法則に支配せらるべきものであって、もし閉ざしたる屋内に入り来って、その弟子の集会せる室に現わるることが、復活せられた主に可能であったとするならば、神の大能によって霊的状態を取って水上を歩まるることも可能であると言わねばならぬ〈ヨハネ20・19、26〉。弟子たちは当時この説明し難き秘儀を悟ることができなかった。彼らにして、もし彼らの主の奇蹟を目撃し、これを確信したりとせば、これをもってもなお、世の反対論が如何に跳梁を極めても、イエスに対して一指も染むるを得ないのである。〈『受肉者耶蘇』457〜460頁、『Days of His Flesh』238 ~239頁〉)

2022年4月16日土曜日

主の配慮はいつも最善で遅れることなし

湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。(使徒6・48)

 ルカ伝二四章二十八節にも、イエスはエマオの途上で弟子らに現われ給うた時に『まだ先へ行きそうなご様子であった』と書いてある。永い間私はこのイエスの態度が芝居がかって面白くないように感じていた。しかしよく考えて見ると神様は私どもの心から真剣な叫びの出るのを待ち給うお方である。真剣な叫びが出るということは、物が与えられるということよりも、実はヨリ以上に大切なのである。ヨリ大なる叫び、ヨリ真剣な祈願。一生懸命に神様にすがりつきたい心。かようなものを私どもの眠った霊魂の中から呼び覚ますためには、余りに先回りして助けて下さってはダメなのである。主は私どもが波濤に悩むのを見て、『近づいて行かれる』けれども、私どもが叫ぶまではしばしば『通り過ぎようとのおつもり』のほどに注意深く私どもの霊魂を見守り給うお方である。

祈祷
主イエス様、あなたは私に近寄って下さいますが、また『通り過ぎようと』なさいます。このようにしてあなたに呼び求めることを教え、祈ることを教え、切に叫び求めることを教えて下さいますことを感謝致します。どうか真心からの真剣な祈りを献げることをいよいよ深く教えて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著106頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。この前後について、『受肉者耶蘇』と『聖書の黙想』の記述を以下に紹介する。両著とも冒頭みことばとはややずれているが、諒とせられたい。

 イエスはこれを聞いて『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と仰せられた。「常に熱情に富み、兄弟よりも進める」ペテロは直ちに『主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください』〈マタイ14・28〉と答えた。『来なさい』とのイエスの聖語を聞いて、その足の波に触るるや否や、恐怖の情はこの猛烈な弟子の心に湧いて、彼は沈み始めた。『主よ、助けてください』と叫んだのでイエスは手を伸べてこれを助けんがために捕え給うた。弟子たちは異口同音に驚き叫ぶ間に、彼らの主は歓ぶ彼らに迎えられて舟に乗られたのであった。風は凪ぎて一同その志す方へ舟を走らしたが、驚きと喜びに一瞬時と思う間に舟は岸に達した。「キリストの在さざるとき、その民は遅々として歩むを得ず、なお艱難辛苦を被る。されどキリスト来たりて彼らとともなり給はば、ああ彼らは疾くその航路に走るを得、たちまちにしてその旅程を尽くすを得べし」〈『受肉者耶蘇』456〜457頁、『Days of His Flesh』238頁〉

 しかし、「恐れることはない」という主の励ましの言葉は、すぐに彼らを安心させた。どうして、恐れる必要があろう。舟に師を迎え入れると、風は止み、ほどなくして、カペナウム付近の勝手を知ったいつもの岸辺に舟をつなぐことができた。その夜の出来事と前日の前日の奇蹟は、弟子たちを困惑させてしまった。それがどんな意味をもつものなのか、すぐさま、つかむことはできなかったのである。
 主は憩いの場所を求めて出かけられたのに、ますます骨の折れる仕事が待ち受けていた。岸辺にいた人々はすぐに主の訪れを察して、文字通り走って行って、その知らせを広め、病人をみもとに連れて来たのである。主は、何よりも、彼ら民衆の魂が罪から癒されることをお望みになったが、同時に彼らの肉体の煩いにもあわれみをかけられ、町でも、村でも、部落でも、どこでも訪れた場所で人々を癒された。たとえ、主の着物のふさにでも、信仰を持って触れた者は癒されたのである。〈『聖書の黙想』106〜107頁)

2022年4月15日金曜日

祈りと湖上を歩まれる主のみわざ

るために、そこを去って山のほうに向かわれた。夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。・・・夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて・・・(マルコ6・46〜48)

 『山のほうに向かわれた』のは日の暮れぬうちであったらしい。それから夕方になって来た。寂しい山の中でイエスはただ独りで祈っておられる。四十五節に『向こう岸のベツサイダ』という語があるがこれはペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの住んでいた町でガリラヤ湖の西岸であるから、この『山』は東岸の山であったろう。この辺には山が沢山あるからどれであったかわからない。とにかく寂しい山の中で天の父と唯二人だけで『夜中の三時ごろ』まで語り明かし給うたのである。どんな祈りをなされたのであろう。かような徹夜の祈りはイエスにとっては珍しくなかった。かような大なる祈りがあったればこそ、大なる奇蹟も自然に湧いて出て来る。大なる人格も自然に備わって来る。私どもは実に祈りに貧しい。

祈祷
天の父よ、願わくは私に祈りを御与えください。私は祈ることを知りませんので大変貧しい者です。願わくは私に祈る心を与え、祈ることを教え、夜もすがら祈ってもなお足らないと感じるほどに祈りの美味を味あわせてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著105頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。なお、下記はデービッド・スミスの『受肉者耶蘇』上巻448頁〈Days of His Flesh237頁〉からの引用である。 

10「イエス湖上を歩み給う」
 日は夙に暮れて、夜は更けた。而して暴風が起こったけれども、イエスは外界の喧騒に眼もくれず、只管に天の父との交通に熱注せられた。漸くにして起ち上がられたときは天明けて、湖上を俯瞰せらるれば、風と波とに翻弄せらるる小舟を湖心の彼方に認められた。危急の場合彼らはその主の彼らと共に在さんことを頻りに願ったが、驚くべし、彼らの主は傍近く現われ給うのであった。イエスは波の上を歩いておられた。イエスは傍近く来られたけれども彼らはこれを祝福しなかった。ユダヤ人は夜は友人に逢っても、悪鬼が友人の形を取っているかも図られないと言うので、決して挨拶を交わさなかった。彼らの見るところは悪霊ならんと信じ、これに挨拶せず、驚駭と共に相戒むる声を思わず発した・・・

 一方、クレッツマンの『聖書の黙想』は次のように述べる。〈同書106頁〉

 主は、一人山の上におられたが、海で弟子たちが逆風に向かって進もうとして、勇敢ではあっても殆んど見込みのない努力をしている様子をごらんになり、そのさまをあわれまれた。が、しばらくの間は、賢明なご配慮によって、弟子たちを苦闘し続けるにまかせておかれた。いつもそうであったように、主は最も必要な時に、救いの御手を差しのべることができるのだということを示そうとなさったのである。波のさかまく海上を歩いて、主が突然、夜の闇から姿を現わした時、弟子たちは驚きのあまり叫び声を上げた程だった。・・・)

2022年4月14日木曜日

祈るために山に向かわれた

アーサーズシート※
それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、・・・その間に群衆を解散させておられた。それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。(マルコ6・45〜46) 

 『すぐに』の語と『強いて』の語はイエスが心せわしく、山に行かんと求め給うた気分を示している。イエスは『強いて』弟子らに別れ強いて群衆を返したのである。たった一人になりたいと大変に骨を折っておられる御姿が見える。大奇蹟の後に『すぐに』人から全く離れて祈りたかったイエスは、あたかも他郷にあった子供が母のふところを求めて故郷に急ぐ時のように父のお膝もとを求めておられる。大なる奇蹟と大なる祈り、これはイエスの内面と外面とのバランスである。内に神の大なる霊が宿り、外に大なる霊が働く。イエスの如く行なった人は無く、イエスの如く語った人は無い。イエスの如く祈った人が無いからであろう。

祈祷
神よ、赤子の慈母のふところを慕う如くあなたを求める心を私にも御与えください。群衆の歓呼の中にあって淋しさを感じ、あなた一人を求めて山に行こうと焦る心を私にも御与えください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著104頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。なお、下記はデービッド・スミスの『受肉者耶蘇』上巻455頁からの引用である〈『Days of His Flesh』237頁〉。

9「王とせんとの計画」
 この奇蹟が群衆の熱狂にさらに薪を加えた。イエスは確かにメシヤである。ゆえに彼らはその下劣な計画を遂行するに一層熱烈となり、時期はまた格好であった。過越の祝いまさに近からんとして、エルサレムは礼拝者をもって埋もるべきはずであった。故に彼らはただ勝利の鹵簿〈ろぼ〉を調えてイエスを王なりと宣言すれば足るのであった。たちまちイエスは雲霞の大群に煥乎をもって包まれ、その祖先の玉座に国民の喝采のうちに陞らるるであろうと考えた。彼らの陰謀を観取せらるるや、イエスは弟子たちを強いて乗船せしめ、カペナウムの船着場ベッサイダへと出帆せしめ、己は群衆を避けつつ、山上に私かに隠れて、祈祷に身を委ねられた。

※昨日畏友からデービッド・スミスの原著の存在を教えていただいた。今まで日高訳でしか知ることができなかったものが原文との対照が可能になった。感謝である。さて冒頭の写真はオズワルド・チェンバーズがエジンバラ時代に祈りに出かけた山である。このことについてはhttps://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/10/blog-post_18.htmlで触れた。また古の聖徒沢崎堅造もよく山に祈りに出かけた。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2012/04/blog-post_10.html それぞれ過去のブログで触れたが、これらも併せて、お読みいただければ感謝である。いずれもイエスさまがよく山に退かれ祈られたことに端を発しているのは言うまでもない。)

2022年4月13日水曜日

五つのパンと二匹の魚(下)

するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また二匹の魚もみなに分けられた。(マルコ6・41)
 人に食物を与え給う者は天の父であることを絶対に信じたイエスの行動は実にゆったりしている。日を照らし雨を降らし給う天の父はまたマナを降らせて不毛の曠野に六十万の家族を養い給うた。日を照らすのと雨を降らすのとマナを降らすのと、そのいずれが最も難事業であるであろう。一地方にパンを降らすのは最も易い仕事で費用をつかえば人間にも真似が出来る。全世界に日を照らすに至っては何億年たっても人間の発明の及ぶところではあるまい。この天の父が人に食物を与えるお方であることを確く信じたイエスは五つのパンを祝福して五千人に与えたのである。イエスは五つのパンで五人を養うのでも全く同じ態度をとられたのであろう。カナの婚筵の時にも同じように行動されたではないか。信仰は創造する力がある。否、信仰それ自身ではない。神を信ずる信仰の中には神の力が働く。
祈祷
天の主よ、私をこの世に生まれ出で給いしあなたは私がこの世に存すべき限りは必ず私を養い給うことを信じ奉る。
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著103頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。なお、下記はデービッド・スミスの『Days of His Flesh受肉者耶蘇』上巻448頁からの引用である。

4「群衆を養わる」
 イエスは湖辺に連続する長い行列と、緑草に群がる民衆とを見らるるや、糧食部員なるピリポを顧みて『どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか』と問われた。ピリポは驚駭した。彼は眼を放ちて群衆を眺め、その数を算してこれに食を供すべき費用を計上した。ほとんど一シリングと相等しき一デナリが当時の一人の日雇い賃であって、一家五人平均ありとし、一人三個宛とすればパン代半デナリに当たることを彼はたちまち計算したのである。もし半デナリをもって五人に三個宛てのパンを供しうるとすれば、二百デナリをもっては六十人の大衆に一個宛を与うることができる。今ここには小児と婦人の他に五千人の群衆があって、皆食に飢えているのであった。『めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません』と兵站部長は絶望して答えた。

5「五つのパンと二つの魚」
 かかる間に事実が明らかとなった。イエスが教訓と治療に努力せらるる間に、弟子たちはその方法を講じたが、漸く日も暮れに及ばんとするので、群衆をして近傍の村々に行きて食物を購わしめんがため、これを去らしめんことをイエスに勧めた。然るに『あなたがたで、あの人たちに何か食べるものを挙げなさい』とイエスは答え給うた。彼らはその不可能なるを弁明したが、ピリポの友人アンデレは、有効な食料としては、今群衆が競い買わんとしている五つの大麦のパンと二つの魚とを漁夫の少年が売りに来ているもののみであることを説明して『しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう』と言った。イエスは一語も答えず、ただ食事の用意を為すべきを命ぜられたが、彼らは異議なくその命に服するほどイエスに信頼したのであった。
 彼らは衆人を百五十人宛一組として芝生の上に座らしめた。蓋し混雑を避け、また漏るるものなきように注意する便と、またその団体の数を算うるに備えたのであった。席定まるや、イエスは食物を祝して衆人に食を運ぶ弟子たちに渡されたが、見よ、空虚の倉庫は無尽の源泉と化したのであった。与えられても与えられてもなお、食料はこの救い主の聖手のうちに発生するのであった。『めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません』とピリポは主張したが、イエスの祝さるる五つの大麦のパンと二つの魚とは無限の量となった。『人々は皆食べて満腹した』。否、単に彼らの飽きるほど充分であったのみならず、なお過剰があった。ユダヤ人は旅行に赴くとき必ず食料を入れた籠を担って出た。それは未見の人の食物を食う穢れに陥る場合があるからであった。その籠はユダヤ人たる徽章となり、異邦人の嘲笑の的となった。四方に流浪する使徒たちもまたこの籠を担っていたが、何物をも浪費せられない主の命により、また恐らくは彼らをして奇蹟の確実な証拠を握らしむる計算で命ぜられた所によって、彼らはその供応の残物を集めたが、その屑は十二の籠に一杯に満ちたのであった。)

2022年4月12日火曜日

五つのパンと二匹の魚(上)

すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」・・・「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」・・・人々はみな、食べて満腹した。・・・パンを食べたのは、男が五千人であった。(マルコ6・37、38、42、44)

 四つの福音書がことごとく立証しているのはこの奇蹟一つだけである。されば他の多くの奇蹟にまさって意義の深いものに相違ない。イエスは四十日の断食の後でも『人はパンだけで生きるのではなく』と仰られたほどご自分に対して峻厳なお方であるけれども、主の祈りの中に『私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください』と祈ることを教えることを忘れなかったほど人間普通の要求に諒解あるお方である。この日も群衆を見て憐れみ先ず『いろいろと教え』給うたのであるが、霊のことについて教えた後には直ちに肉体の要求についても彼らを『あわれむ』ことを忘れ給わなかった。ご自分の餓えた時にはいくらでも辛抱し給うたけれども群衆の一時の空腹をも辛抱なさることが出来なかった。されば主は今日でも、人が先ず主の教えに生きて、而して肉体の食を得ない時は主は私たちのために奇蹟を行なうことも惜しみ給わないのである。

祈祷
主イエスよ、あなたは私たちの肉体の要求を知り、これを是認しこれを憐れみ給うことを感謝申し上げます。されば食物なきを思い煩うことなく、ただひたすらあなたの教えに耳を傾け家路につくことをも忘れたるこの群衆のようにあなたを慕わせてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著102頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。なお、以下はクレッツマン『聖書の黙想』』104〜106頁からの引用である。

 それは、何と祝福に満ちた午後だったろう!しかし、西方の山々はその一場の画面に夕暗を投げかけ、たそがれの陰影を描き始めていた。そこで弟子たちは「ここは、町や市場から遠く離れた場所なので、群衆がめいめいで食べるものを見つけるためには、暗くならない中に解散させた方がよい」と主に提案した。ところが主は「あなたがた自身が主人役のつもりになって、これらの人々をもてなすように」答えられたのである。手早く、調べて見た結果、自由に使える手持ちは二百デナリだけあることがわかった。しかし、たとえたくさんのものを買える場所があったとしても、とてもこれだけでは全群衆に分けるのには不十分である。そこで主は万事を御手の中に引き受けてくださったのである。
 それはある少年が持って来た五つのパンと二匹の小魚で十分だった。弟子たちは主の命ずるままに、民衆を五十人ずつ、あるいは、百人ずつ、組にしてすわらせた。すべての目は、張りつめた期待のうちに、主の上に釘付けにされていたに違いない。おそらく、彼らは主が五つのパンと二匹の魚を取り上げられたのを目にした時は、失望したに違いない。そんなものがどうして、これだけの人間全部に足りるはずがあろうか。しかし、彼らの眼前で、おごそかな祈りの声は響き渡り、全能の神の恵みたもう食物が祝福された。民衆が怪しんだのも無理はない。このような場面を今までに見たことがなかったからだ。
 弟子たちは主の手から、パンと魚を受けとり、飢えた数千の人々に分け与えて、追加にもどってみると、更に新たな補給の待っていることがわかった。その夜は誰一人として、飢えた者はいなかった。弟子たちが主の求めに応じて、それぞれ、残りくずを集めに行ってみると、十二のかごがどれもいっぱいになった程だったのである。在天の主であられる神は、天の賜物を食いつぶす民のような浪費はなさらない。
 さて、今や、夜の宿をみつけなければならない時刻になっていた。イエスは群衆を解散させている間に、弟子たちを促して舟に乗せ、向こう岸へおやりになった。誰にも乱されずに夕べの祈りに専念されようとお考えだったからである。) 

2022年4月11日月曜日

どこまでも羊飼いであられる主イエスさま

そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。ところが、多くの人々が、彼らの出て行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いてしまった。イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。(マルコ6・32〜34)
 いつの時代でも同じことである。物見高い群衆は好奇心に駆られて、珍しい動物でも見るように有名な人を見に集まる。大演説会などに集まるのはこうした手合いが多い。心無き彼らはイエスのお疲れも使徒たちの失望も考えたり遠慮したりするだけの思慮も同情もあったものではない。かような群衆は多いほど淋しい。実に『風に揺れる葦』である『羊飼いのいない羊』である。水に流るる浮草である。それでも忍耐深く慈悲深いイエスはこれを見て邪魔だとも思わずうるさいとも思わず『深くあわれみ、いろいろと教え始められた』。
祈祷
主よ、浮き草のように浮雲のように風に動かさられる私たちをなおも憐れんで多くのことを教えてくださることを感謝申し上げます。私たちには昔のお弟子たちの素質もなく、熱情もありません。けれども私たちを憐れんでお棄てにならないことを感謝申し上げます。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著101頁より参考引用し、題名は引用者がつけた。以下の文章は昨日のクレッツマンの『聖書の黙想』の続きである。

 使徒たちは民衆に、生命に至る道を教え、その言葉を、しるしと奇跡によって証拠立てるという胸のおどるような経験を味わった後、喜びにあふれて、その成功を師に報じた。彼らはどんなに緊張してその務めを果たしたことか、それをイエスはご存知だった。弟子たちに誠の心を望みつつも、反面その人間としての限界を思いやってくださるのだ。主ご自身が真の人間であられたから、弟子たちみんなが休息を必要としていることに気づかぬ訳はなかった。
 そこで彼は群衆を避けて、どこか静かな場所を捜すように言われた。人々は出たり入ったりして、一行に食事の暇も与えてくれなかったからである。彼らは、人出が鈍った時を利用して小舟に乗り、休息させてくれる場所を捜しに出かけた。しかし、結局はそこも憩いの場所とはならなかったのである。群衆は一行が出発するのを見て、どこへ向かうのかを察するや、大挙して湖のふちをまわって、イエスでさえまだ到着されないうちに、向こうに着いて、イエスが上陸すると同時に取り囲んでしまった。別の福音書によると、そこは春には草の生い茂るベッサイダ・ジュリアと呼ばれる土地だったという。
 さて、ここで、私たちは真実の救い主が、それにふさわしいみわざを行なわれた一つの典型的な場面に遭遇する。休息という考えは、みんな忘れ去られてしまう。預言者エゼキエルが(34章で)述べているように、まさに羊飼いのもとを放れた羊にも似た民衆のありさまに、主は深くあわれみの心を寄せないではおられなくなられた。なすべきことは、ただ一つしかない。羊飼いとしてのご自身の愛を証することである。そこで主は『いろいろと教え始められた』。

 これに対してデービッド・スミスは3「ベッサイダ・ユリヤの近郊」と題して次の一文を載せている。〈『受肉者耶蘇』上巻447頁より〉

 イエスは十二使徒とともに舟に乗り、東北に舵を取って、水豊かに地味好く沃えた平地の狭く走るベッサイダ・ユリヤの近郊の地に来られたが、時はあたかも春で、一面に緑の草葉は新しい絨毯の如く敷かれていた。イエスは閑静な所に退く目的でここに来られたのであるけれども、その出発を看取した大群の民衆はカペナウムを後に、対岸においてイエスに会せんとして湖の北部を迂回してついてきた〈ヨハネ6・4〉。これは甚だしい迂回であって、彼らがここに達せざるうち、イエスはその弟子とともに上陸して、平原背後の高丘に隠退せられた。間もなくイエスは彼らが遠路の旅に疲れ、ある者は殊に憐れな様で近づいて来るのを認められた。蓋し彼らのうちには治療を受けたいとの希望から、この難路を喘ぎ喘ぎ歩いて来た病人さえもあったからであった。真の牧羊者の心は牧うものなき群民に対して憐憫の情に打たれ、その隠退の地を出でて、温かに彼らを迎え、これに教え、またその病を癒されたのであった。)

2022年4月10日日曜日

主との語らいと主のご配慮

さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。(マルコ6・30〜31)

 親しい父子の情に等しいものがイエスと使徒たちの間にかよっている。伝道旅行から帰って来た彼らは雛鳥が牝鳥の周囲に集まるようにイエスを取りまいて、それぞれ自分の為したことを『残らず』報告してイエスが一つ一つ頷いて聴いてくださるのに何よりの満足を感じている。あまりに忙しいお父様はもう少しくわしく報告も聞きたいし、ゆっくり語り合いもしたいと言うので多忙の用事を繰り合わせ、親子水入らずの団欒を求める人のように『さあ、寂しい所へ行こう』と言い出したイエスの面影は何となつかしい姿ではないだろうか。『お前たちと私だけの静かな時がほしい』と言って下さったのを聞いた使徒たちはどんなに嬉しかったことであろう。馳せ集って来る数千の群衆よりも随従の十二人をいとしく思い給うた主イエスのお情けに感激したればこそ、彼らは主の死後、殉教の生涯を送るにいたったのである。

祈祷
主イエスよ。あなたは多くの群衆にまさって少数の弟子を愛し、多くの病を癒すよりも、ともに静かに語る子らを求めなさいます。願わくは、私をも使徒たちのようにあなたを慕わせ、顧みて私を寂しいところに誘ってくださるあなたを見出すことができますように。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著100頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。クレッツマンは『聖書の黙想』101頁〜107頁にかけて、マルコ6・30〜56を黙想するにあたり、その題名を『自然の法則を越えられた主イエス』として以下のことを述べている。

 ここにつけられた標題はイエスの奇蹟を物語ろうとしている。それはイエスが、その伝道生活で、二度目に迎えられた過越の祭りの直前にガリラヤの海辺とその海上で行なわれた奇蹟である。

 バプテスマのヨハネが投獄されていた間、イエスはガリラヤで、いろいろな奇蹟を行ない、多くの民衆に教えを説かれたことを私たちは記憶している。しかし、この先駆者ヨハネの死後、イエスは弟子たちに、将来、ご自身の証人として行なうわざを教えることのできる、静かな場所を求めて、次第に退いて行こうとなさった。彼は大いなる癒し人としての名声や人望は望んでいなかった。主が心から望んでおられたのは、真のメシヤとして、すなわち全人類の救い主として知られることであった。

※3月15日、主にある友S兄が召された。4年半ほどの闘病生活であった。ギラン・バレー症候群であった。葬儀の席上でなされた奥様の五分弱のお話を聞かせていただいた。Sご夫妻は病の癒しよりも、病を通して主の愛をより深く知ったということだった。まさに上述のクレッツマンが指摘する下線部の通りであった。

 一方、デービッド・スミスはそのDays of His Flesh〈受肉者耶蘇〉で同一個所を他の福音書も網羅しながら第27章『再び湖を渡りて』と題して、以下の聖トマス・アクィナスの詩を紹介しながら、12項目に分けてその大容を述べている。

善き牧羊者〈よきひつじかい〉、真のパン、
ああイエスは我らを恵みぬ。
汝我らを飽かしめ、
汝我らの楯となり、
地上にいます汝を見得るよう、
我らに恵みを下し給え。

マタイ14・12、マルコ6・29、マタイ14・1〜2、マルコ6・14、16、ルカ9・7〜9、マタイ14・13〜21、マルコ6・30〜44、ルカ9・10〜17、マタイ14・22〜33、マルコ6・45〜52、ヨハネ6・15〜21

1「イエスの悲嘆」2「東岸に赴かれたる理由」①休養の必要②メシヤに対する陰謀③アンテパスの好奇心3「ベッサイダ・ユリヤの近郊」4「群衆を養わる」5「五つのパンと二匹の魚」6「その奇蹟の意義」7「晩餐の預言」8「聖礼典の語を用いる」9「王とせんとの計画」10「イエス湖上を歩み給う」11「その奇蹟の意義」12「復活の預言」)

2022年4月9日土曜日

『その王に会った先駆者』

護衛兵は行って、牢の中でヨハネの首をはね、その首を盆に載せて持って来て、少女に渡した。(マルコ6・27〜28)

 まことに無造作である。衛兵は少しの躊躇もなく大根でも切るようにヨハネの首を斬ってしまった。聖者の生命はかくも安価なものであるのか。然り、この世の目から見れば宗教とか信仰とか人格とか言ったものは安価なものであろう。口では人格を尊重するとか言うけれども、彼らの尊重する人格は財力や権力の伴わぬものには認められないのである。宗教や信仰は頭から軽蔑されている。この中に立って信仰の生活を続けて行くのは中々困難である。しかし首を斬られたヨハネは今日なお生きて私たちに語っているが、首を斬った兵卒はとくに死んで滅びて無くなってしまった。彼らは私たちにとってはかつて存在しなかったものと同様である。一日本当の生活をするのは、百年空虚な生活をするよりも長寿である。
祈祷
主よ、私に殉教者の死をお与えください。一日この世に生きるのであれば、一日殉教者の生活を送らせてください。私は、このヘロデの兵卒のように生きることを願わず、ヨハネの死のように死ぬのが私の願いです。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著98頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。クレッツマンは『聖書の黙想』98頁でこの冒頭の非情なできごと、しかし確かな希望について次のように語り、祈っている。

 慎み深さと、女性としての諸徳を失った心は、憐れみすら知らないのだろうか。うすきみの悪い願いを持って、宴会の席にもどって来たこの少女は、バプテスマのヨハネの首を、今すぐにと、この王にせきたてたのだ。無情なこの王でさえも、それはショックだった。彼の約束と誓いとをひっこめることができたら、なんとよいことだっただろうか。しかし客の面前での誤った恥意識は、彼の吐いた言葉に彼を固執させたのだった。彼は彼の人間性を確認させ、正義を守り抜く機会を失った。しかも彼の心の中に神へのおそれもなく・・・。

 そこで死刑執行人がその命を受ける。イエスご自身がすべての預言者の中で最も偉大なものと呼んだヨハネには、死の準備のための一刻の猶予も与えられはしない。まもなく、彼の敬虔な霊は、主の御前にとどく。今や王に、その先駆者はまみえているのだ。

 死刑執行人がもどって来る。彼は、待っていた娘に、血だらけのヨハネの首を手渡し、彼女は、人間とはいえないおそろしい怪物の彼女の母にそれを捧げる。彼らはそれに満足を得るのだ。しかし本当に満足するだろうか。罪は喜びをもたらすことはないのを思い出すがよい。それ以上の幸福を知らない魂に憐れみあれ。

 しかしそうあって願わしいように、ある人々は正義感を持ち、人間らしい気持ちをあらわした。このしらせが、ヨハネの弟子たちの所にとどけられたのである。弟子たちは悲しみにくれながらやって来て、彼らの慕っていた師のなきがらをひきとり、手厚くほうむった。このようにして一人の神の貴人の生涯は、その幕を閉じたのである。
祈り
 主イエスよ、わたしたちは、あなたを人の前で告白し、悪に抗し 、正義のために証することにおいて、あまりにも臆病です。このようなわたしたちの弱さと罪とを懺悔いたします。なんとたやすく、わたしたちは、他人の罪に組するものでしょうか。わたしたちに、あなたへの忠実な友、バプテスマのヨハネの信仰をお与えください。そして、この世は、わたしたちを、あなたとあなたの父の愛から離すことができず、実際にわたしたちを少しも傷つけることができませんことを確信させて下さい。 アアメン
 
※憎しみが、平気で神に属するいのちを奪う。そのすべての事象を毎日映像をとおして、私たちは見せられている。神の救いや切にと祈る毎日である。)

2022年4月8日金曜日

体面・虚栄から離れ、主に真実を尽くそう

王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった。そこで王は、すぐに護衛兵をやってヨハネの首を持って来るように命令した。(マルコ6・26)

 『列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった』とは実に弱い人の心の図星を指しているではないか。僅かの体面を維持するために大きな罪を犯したヘロデを笑うことのできる人が幾人あるだろう。体面を維持するということそれ自体は決して悪くはない。しかしこれが大きな問題に食い込んで行くと恐ろしい結果になる。体面と良心とが一致して行く時はよい、けれども、この世が天国でない間は、体面の維持が良心の承認と逆行する場合がある。良心とまで言わないでも、体面維持のために自分をわざわざ傷つける場合がある。例えば勉強するということが同級生の間に偽善視されている時など、あまり勉強しないようにするなどは、小さなことだがこの種類に属する。要するに体面主義は大いなる危険を孕む。神の前にも人の前にも実質主義で行くのが安全である。

祈祷

神よ、願わくは、私をして人を恐れず、ただあなたを恐れ、体面を繕うよりも実質を改善することに努力せしめ給え。

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著98頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。 以下、昨日のDays of His Fleshの引用文の続きを同書439頁から転写する。

 彼女には、その以前破廉恥極まる状態で棄て去った夫との間に、後年トラコニチスの太守ピリポに嫁がせたサロメと言う娘があった。齢ようやく十七歳ばかりの処女なるこの美姫は、この淫蕩なる来客の面前に、淫靡極まる舞踏を演ぜんがため宴筵の席上に伴われた。これ実に深窓の貴婦人殊に処女としては言うに忍びざる破廉恥至極の所作であったにかかわらず、喝采讃嘆の喚声はどよめき渡り、主公は悦に入って、泥酔漢の尊大をもって得意満面の態であった。

 彼はロオマの一卑官に過ぎなかったけれども、ヘロデ大王の余光に与って、一般からは『王』と称せられていた。かつ彼の虚栄心はこの称号に得意であった(マルコ6・14、25、26、27、マタイ14・9、14・1、ルカ9・7、3・19参照)彼は娘を自分の前に招いて、ロオマ皇帝の許可によらざれば、国土の一平方マイルも左右し能わざる身分を全く忘却して、東洋人特有の尊大を装いつつ、彼女の求むるものはよしその領土の半ばなりとも、喜んで与うべきを誓った(エステル記5・6参照)彼女は出て行って、その母に謀ったが、この毒婦は策略の図に当たったことを私かに喜びつつ、バプテスマのヨハネの首級を、さながら美わしき食物の如くに盆にもって与えられんことを求めしめた。

 彼は深く憂悶して、その誓いを取り消さんことを願ったけれども、その当時の名誉にかけては、これを実行するを得ず、ついに苦しくも意志に反し、処刑者を牢獄に遣わして預言者を斬首せしめた、処刑は行なわれた。首は盆に盛って宴筵の席に齎され、サロメに与えられた。この恐ろしき獲物を彼女はヘロデヤの許に携えて来たが、フルヴェキアの残忍にも比ぶべき妖婦は、ただにこれを見て楽しむに満足せず、小柄をもって、かつて彼女の罪悪を弾劾した預言者の雄弁な舌を寸断したと伝えらるる。

※何とも非道な最後で正視能わざるできごとである。そして今まさに行なわれていると報道されているウクライナのジェノサイド、また「安政の大獄」と言われる幕末の出来事〈最近縁あって『巨人伝説』野口武彦著を読んだのだが〉、これらの古今東西の事件を問うまでもなく、人間の悪は極まるところがない。David Smithがこの一連の出来事を叙述するにあたって、「主の受肉の日々」と人間の罪がどうかかわるのかの観点から、昨日に述べたように、すでに他の11項目を挙げていることを改めて振り返りたい。)

2022年4月7日木曜日

誕生日の宴会(申命記26・11)

ヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていた・・・。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた。(マルコ6・20)

 これは私たちの姿の実写のように思える。善を尊ぶことを知っている。『義』とか『聖』とかに対して大いなる畏敬を感じ、恩墓の心さえ持っている。そして凡ての良い説教や談話を『喜んで耳を傾け』るのである。それのみでない。かくの如き人や仕事に対して『保護を加え』たい心を持っている。その意味で慈善事業や救霊事業などにも多少のことをする。あるいは金銭、あるいは労力さえも費やす。だが、自分の良心が『当惑』する所の問題も棄ててしまわない。否、棄てかねている。これは危険な状態ではないか。かかる状態を自覚する私どもは一生懸命にイエスにおすがりすることを怠ってはならない。ヘロデが隙をうかがっているではないか。自分の誕生日の宴会と言ったような目出度い日にウッカリして足もとをさらわれる危険がある。

祈祷

主イエスよ、願わくは私たちを試みにあわせず、悪より救い出してください。私は私の弱さを知り、私のうちに私を裏切る者があるのを知ります。主よ、私の弱さをあわれんでください。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著97頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。クレッツマンはマルコ6・14〜29をまとめるにあたり、その『聖書の黙想』で、「その王に会った先駆者」と題名をつけている。そして「ここにあるのは、神が造られた人間の中で最も高潔だった者の不慮の死という悲しむべき物語である。この人物は、邪悪な血を求めている一人の婦人の陰謀と、良心の声を消し得ると思っていた一人の男の臆病さの前に、敗北を喫したように見えるかも知れない。しかし、実際に、その働きが終わったバプテスマのヨハネは、彼の神のもとに召され、彼がその到来を伝え、その道備えをした救い主の御前の座に、永遠についたのである。」と語る。

 一方、Days of His Fleshの著者デービッド・スミスはこれらすべてをふくめて第26章「洗礼者の末期の光景」と題して巻頭に次の詩と聖句を紹介し、内容をさらに12項目に分けて叙述している。
 今日までも、女の産める人のうち 
 ヨハネより悲惨にまた偉大なるもの非ず。
 明けゆく空に紅染むる聖手(みて)のわざなる
 孤峰の如くにヨハネは輝けり

                  マイヤアス
(マタイ11・1、ルカ7・11〜17、マタイ11・2〜9、ルカ7・18〜35、マタイ14・6〜11、マルコ6・21〜28)
1「伝道に関する記録なし」2「ナインの奇蹟」3「洗礼者ヨハネの使者」4「イエスに対するヨハネの疑い」5「その理由」6「彼のメシヤ観」7「その性急」8「主の応答」9「ヨハネに対するイエスの讃嘆」10「ヨハネの範囲」11「その時代の人の不合理」12「ヨハネの処刑」その最後の項目「ヨハネの処刑」を以下転写する。

 イエスに訴えて来たのがヨハネの最後の行動であった。ヘロデヤは久しく強情と阿諛とをもって手管をつくしても応ぜられなかった宿望を漸く達して、英雄的囚徒の頭上に一撃を加うることとなった。すなわち、アンテパスは自己の誕生日にこれを祝せんがため、マカエラスの太守居城へ宴筵を設けて、貴族や軍人を招集した。宴酣(たけなわ)にして予期せざる余興がヘロデヤの工夫で演ぜられた。・・・続きは明日)

2022年4月6日水曜日

良心の声は審判のイエスの声と知れ

イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にもはいった。ヘロデはうわさを聞いて、「私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ」と言っていた。(マルコ6・14、16)

 このヘロデはイエス御誕生の時のヘロデ大王とサマリヤ人マルタケとの間に出来た子で意志の弱い性格の人である。多分サドカイ派の人で来世も復活も信じない人であったが、自分の悪事によって良心が責められた時に、思わず知らずかく叫んだのであろう。

 人の本能は押し曲げられた理智を撥ね返す力のあるものである。良心の叫びは一時はこれを押しつけることもできるけれども何かの時に起き上がって来る。人を殺した者がたびたび幽霊に悩まされる例は迷信か精神錯乱だと笑い去ることはできない。殺人のみではない。我々の犯した罪はどんな小さなものでも一つも残らず必ず幽霊となって私どもの前に現われる時が来る。これは良心の職分である。

 イエスにおいて救い主を見出さない人は自分が殺したバプテスマのヨハネの幽霊をイエスにおいて見出す時が来る。これは審判のイエスである。

祈祷

ああ主よ、あなたが私のうちに留め置きくださった私の番人である良心をつねに目覚めさせてください。願わくは、まだ遅くならないうちに、日々悔い改めて、あなたに立ち返ることができるようにしてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著96頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。なお、以下の文章はクレッツマンによる『聖書の黙想』96頁からの引用である。 

 紀元29年の春、過越の祭りの少し前のことである。多くの力と気品とにみちたわざが、ガリラヤ出の一人の人物によってなされていた。彼の名声がヘロデ王と呼ばれる太守の耳に入ったのは、少しも不思議なことではない。ヘロデは、ヨルダンの向こうのガリラヤとベレヤの、残忍で横暴な支配者であった。

 この男が見せた反応は、異常なほどだった。多くの未信者と同様に、迷信的だった彼は、これはバプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだと口にした。彼にとって、このような力あるわざをなしうる人物を他に知らなかったのである。エリヤの再来だとか、別の預言者の一人だとかいううわさも立った。しかしヘロデは彼が以前に首を切ったバプテスマのヨハネに違いないと言い張った。罪を犯した彼の心に、どんな恐怖が走ったことだろうか。彼の悪に汚れた良心には、数ヶ月前のある日の思い出がよみがえった。)

再びガリラヤ伝道(『受肉者耶蘇』より)

 以上、マルコの福音書6・1〜13を、青木澄十郎氏の『『一日一文マルコ伝霊解』に従って学んできたが、一方、デービッド・スミス著『受肉者耶蘇』上巻にはイエスさまが使徒に示された訓戒が、いかにご自身のナザレ伝道の蹉跌を受けての訓戒となっているかのことを明らかにした叙述となっていた。このような見方は私にとっては初見であるので以下に転写させていただく。(『受肉者耶蘇』上巻420頁より引用、なお好学の諸兄は四月一日のブログ記事http://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/04/blog-post.htmlもご覧いただきたい)

13「各種の迫害」
 ナザレにおける事件〈引用者註:ルカ4・16〜30を参照〉は畢竟、十二使徒の伝道の間に、彼らの遭遇すべき事件の前兆であった。『いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい』〈マタイ10・16〉。これ一方に怠慢を戒むると同時に、一方風潮に巻き込まるるを戒むる諺である。彼らは迫害を覚悟し、怖れなくこれに面して、怯懦(きょうだ)に、沈黙せずして公然その主を紹介し、彼らに托せらるる使命を危険を冒(おか)しつつ宣伝せねばならぬ。『わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい』〈マタイ10・27〉。その苦痛の如何にもあれ、彼らは溢るる慰藉を有するのであった。

 彼らの主はすでにその道程を経て居らるる、『弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう』〈マタイ10・25〉。また、その敵は彼らの肉を殺すことを得べしといえども、霊魂を殺すことはできぬ。卑怯のため、あるいは不信のために苦しみを避け、あるいはこれを軽減せんことを望まば、これ己れを悪魔に交付するものである。『恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい』〈マタイ10・28、ルカ12・4〜5〉とイエスは言われた。

 あらゆる困苦に際し彼らには神の賢明にして慈愛に富む摂理がないであろうか。彼らは神の聖手のうちにあり、神は彼らを保護せらるるのである。僅々一銭をもって一番(ひとつがい)を購われ二銭を購わば一匹の景物を得べき雀の如き見る影もなき小さな動物すらなお神は照覧し給う。『五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です』〈ルカ12・6〜7〉




14「主の要求」
 イエスは使徒たちの 恋たる妄想を破るに如何に努力せられたかが明白である。その召されたるは奮闘、苦痛、犠牲のためであって、この事実を認めて、彼らがその呵責に潔く面し、これに突進する勇気ありや否やを試みんことを望まれた。『わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります』〈マタイ10・34〜36〉と。さらに進んで人の愛情の真実にして神聖なるものを指摘し、神のために非ず、天国のために非ず、ただイエス自らのため、至誠を献ぐべきを宣言して『わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。』〈マタイ10・37〉と仰られた。否さらに一層進んで、イエスのためには最低最陋の苦痛に甘んじ、極度の侮辱をも忍ばざるべからざるを宣言せられた。当時において『十字架を負う』と言うのは現今の如く宗教的な文辞となり、その意義を軽減して往々感傷的な苦痛に適用する比喩ではなく、峻烈にして残忍の光景をそのままの語であった。

 十字架の刑は極悪人に課する悲痛の罪であった。十二使徒らはかくの如き重罪犯人の、磔刑の場所にその十字架を負いつつ赴いて、その生命の終わるまで憂悶、号叫する恥辱と苦悩とを実見することが往々あった。イエスはこれら、社会の敵の受くる所が己の運命なるを自ら知られ、その使徒にもまたこれを受くるの覚悟なかるべからざるを示して『自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません』〈マタイ10・38〉と仰られたのである。ソクラテス、あるいはアレキサンダーの口よりかくの如き宣言が発表せられたならば、狂気の沙汰と受け取られて、ただ嘲笑を招くに過ぎなかったであろう。しかるにイエスは絶えずかく宣言せられ、またもっとも親しくこれに接近して、これをもっとも深く了解したものは、何人も当然なりと認識したのであった。

15「使徒の応答」
 彼らの高尚な本能に訴えて主は訓戒せられたので使徒らの心は為に燃えた。これ誠に武士道的英雄の要求である。この戦闘を控える前夜に、軍隊を鼓舞する将軍の態度をもって『自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします』〈マタイ10・39〉と戒められた。戦場において如何なる患難も降らば降れ、彼らは不朽の生命を獲得すべきものである。名誉の生命を獲得せんよりは、むしろ栄光の死を遂ぐるに若かない。アシジのフランシスは、ポルチアンクラの礼拝堂において、司祭がこの使徒に授けらるる訓戒を読むのを聞いて、即刻、杖も、行李も、財布も、靴も擲ってその高遠な職分に、投じたのであった。使徒は主の口づから温かにして燃ゆる如きこの訓戒を受けては勇んでこれに応答し奉ったに違いない。彼らはイエスを離れ、婦人らに告別し、二人を一組として各方面に『福音を宣べ伝え、病気を直した』〈ルカ9・6〉

2022年4月5日火曜日

三つの超自然的な十二弟子の働き

こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。(マルコ6・12〜13)

 弟子の仕事は三つであった。悔い改めの宣伝と悪霊を追い出すことと病を癒すことであった。主ご自身の事業もこの三つに他ならなかった。キリストのお救いは今日でも要するにこの三つである。

 まず霊魂の姿勢を正すことである。悔い改めとはギリシヤ語のメタノエオで心の向きを改めるの意であり、ヘブル語のシュールは帰るの義である。ともに行為そのものに対して悔ゆるというよりも、神に対する態度の変更である。これが第一にしてもっとも重大な救いである。

 次には悪霊が追い出されることである。第三にその他の百般の病気が癒やされる。弟子らが病者に油をぬったのは当時の習慣に従ったので、イエスご自身は油を用いられたことがなかった。弟子にはイエスほどの力がなかったから当時一般に用いられた医薬をそのまま用いたと見てもよかろう。

祈祷

主イエスよ、あなたの全き救いを力強く私たちのうちに実現してください。願わくは、昔のように奇しき力をあらわして私たちの霊と心と体とに全き救いを成就してください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著94頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。なお、以下の文章はクレッツマンによる『聖書の黙想』93頁からの引用である。 

 イエスは十二人をみもとに呼び寄せられる。できるだけ多くの人々に救いの福音をとどかせるために、また使徒たちに将来のわざに対しての経験と訓練とを与えるために、主は彼らを二人ずつ組にして、最初の伝道旅行へと送り出される。主は、彼らを彼の使徒として信任し、認めるため、彼らに超自然的な力を授けられた。それは使徒たちのわざをはばもうとする汚れた霊・悪霊を制する権威である。彼らは値なくして受けたのだから、すべてのものを値なくして人に与えるべきである。またそれと同時に、働き人が報酬を受けるにふさわしいという原理も通さねばならない。彼らの言葉を信仰によって受け入れた家に居住を定め、拠点とすべきである。その使信に対して、心を閉じている人々に対しては、多くの時を浪費すべきではないとも、主は語られた。使徒たちを拒んだ村の運命は、ソドムとゴモラ以上に悲惨なおそろしいものであろう。そして主は、そのことの審き人にほかならないのだ。

 そこで使徒たちは主の御名によって、出て行き、彼らが行った所ではどこでも、大胆に悔い改めを宣べ伝えた。人々がまずその罪を認めることがないならば、わたしたちの宣教によっては、何の善いこともなされないだろう。そうでなければ、どんなに美しく、また雄弁な福音のメッセージでも、退屈な無関心事に終るほかはないのである。そして主の力は、その使徒たちと共にあった。悪霊たちも彼らに抗しえず、病気もまたその権威の前に屈するほかはなかった。今や教会と福音とは、世紀を通じて、この世界の中に打ち立てられ、このような超自然的賜物を、主の力を証明するためにはこれ以上必要としないが、福音のメッセージの力は、どこでも同じように働くのである。)

2022年4月4日月曜日

福音の厳かさ(生と死の分岐点)

もし、あなたがたを受け入れない場所、また、あなたがたに聞こうとしない人々なら、そこから出て行くときに、そこの人々に対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい。(マルコ6・11)

 ユダヤ人が異邦から帰って来た時に国境に入らんとするにあたって『足の裏のちりを払う』習慣がある。だからキリストの福音を拒絶する者はユダヤ人であってもこれを神の国の異邦人として認めよということである。

 マタイ伝には『まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。』(10・15)とまで付言している。何という峻厳な態度であろう。しかし考えてみるがいい、福音は罪に死ぬる人に対する神の最後の提供である。

 悔い改めさえすれば一切の罪を無条件で赦し天国をも与えんと為し給う極度の恩典である。神といえどもこれ以上を為し給うことができるか。福音の宣伝は一方においては救いの提供であり、他方においては死の宣告である。受け入れると受け入れぬとは生と死との分岐点である。中間に立つことはできない。

祈祷

主イエスよ、世にいまししとき、あなたはすべての罪を赦しなさいましたが、不信の罪を甚だしく責めなさいました。あなたが十字架上の強盗を救われて、パリサイ人をお救いなさらなかったのはこのためです。願わくは罪のもっとも恐るべきもの『不信』より私をお救いください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著94頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。なお昨日に引き続き以下デービッド・スミス『受肉者耶蘇』の11「彼らの準備」の続きである、12「彼らの饗応」と題する次の記事を紹介する。  

 彼らは貧しきさまそのままに旅行するを要した。しかも決して乞食をなすのではない。むしろ彼らはこれを受けたるものの到底償却する能わざるほどの利潤をもたらすものであって、彼らを饗応するものは必ず豊富な報酬を受くべきであった〈マタイ10・41〉ゆえに彼らはその赴く市において決して施与を請うを要せぬ。ただその家に彼らを招くの価値ある人物を発見し一度これを選まば、その市を去る時までその家に留まらば足るのであった。『家から家へと渡り歩いてはいけません』〈ルカ10・7〉とイエスは戒められた。イエスは彼らが社交的なことに、その伝道に献ぐべき貴重な時間を消費するのを惜しまれたのであろうか。あるいはまた他の贅沢な家へ移るためにその家を出ることが主人を遺憾に感ぜしむべきを戒められたのであろうか。かつ彼らはその家にある間は、柔和に思慮深く『出される物を食べ』〈ルカ10・8〉、その家の習慣にことごとく服して過誤なきを心がけねばならぬ。しかれども時に彼らを冷遇するものに会わば、あるいはまたその使命を軽んずるものあらば厳かにこれを戒飾して、その地を去るべきであった。『しかし、町にはいっても、人々があなたがたを受け入れないならば、大通りに出て、こう言いなさい。「私たちは足についたこの町のちりも、あなたがたにぬぐい捨てて行きます。しかし、神の国が近づいたことは承知していなさい。」あなたがたに言うが、その日には、その町よりもソドムのほうが罰が軽いのです。』〈ルカ10・10〜12〉)

2022年4月3日日曜日

杖一本の伝道旅行

流る川 桜堤と 天空と
ふたりづつ遣わし始め、・・・また、彼らにこう命じられた。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも・・・金も持って行ってはいけません。・・・二枚の下着を着てはいけません。」(マルコ6・8〜9)

 これは短期の旅行である。また気候の良い秋であった。だから『何も持って行ってはいけません』と軽装して出かけるように命じたのであった。主の死後永い伝道をなすためにはこれと反対に『今は、財布のある者は財布を持ちなさい』(ルカ22・36)と命じ給うた。

 方法は時と場合によって変わる。けれども精神に変わりはない。どんな時でも主の弟子たる者が伝道する場合に自身の安楽を求めてはならない。ほとんど不足すると思われるほどに切りつめた生活でよいのである。『どこででも一軒の家にはいったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい』(10節)との命も同じ意味である。

 最初の一日くらいは誰でも歓迎してくれるが、永い滞在では歓迎ぶりが衰える。自分の安楽を求めて歓迎される家へと転々するなとの意味である。

祈祷

ああ主よ、あなたは私のために天を棄てて貧しい地の貧しき民となり給えり。願わくはあなたの名のために喜んで貧しさを忍び、苦しみに耐える者となし給え。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著93頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。以下デービッド・スミス『受肉者耶蘇』の11「彼らの準備」と題する文章を引用する。 

 彼らの準備については、杖のほか携うるなかれと戒められた。けだしこれが彼らにとって甚だ重要であって、旅程は遠く、彼らはつねに疲労し、脚力の尽きることあるべきがためであった。そのほかにはパンも、袋も、金銭も必要ではない。靴のまま出発して、一般の旅客の如く下着を、その着替えのためまた冷気のため重ねる用意に携うる要はない。かく不用意のままに出発せねばならぬ。

 けだし、これには二様の理由があった。一つは急な旅行なるがゆえに準備のため、また荷物の運搬のために時日の遷延、いな東洋風の面倒な挨拶を途上に会う人と相交わすに費やす暇をすら許さないのであった(2列王記4・29)また一つには彼らはその事業に対する報酬として衣食を求むるを許されているからであった。『働く者のその食物を得るは宣べなり』と仰せられた(1コリント9・14)。恐らくこれにはさらに深淵な意義があるのであって、神殿の山上に踏み入るものは何人に限らず、杖や、靴や、財布やを携え、汚れた足をもっては許されざる所で、イエスはその事業の神聖なことを意識せしめんがためにこの規定をここに適用せられたものであろう。彼らの赴く所は、さながら神聖な個所と同一である。)

2022年4月2日土曜日

主の尊い委託を受けた十二弟子

イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それから、イエスは、近くの村々を教えて回られた。また十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。(マルコ6・6〜7)

 『ふたりずつ』、これは賢明なイエスの周到な注意を示している。まだ未熟の弟子を送り出すのにもっとも必要であったと思われる。次に『汚れた霊を追い出す権威』や病める者を癒す力を与え給うたことは実に奇蹟中の奇蹟であると思う。

 ただ意志の力一つで十二人の人にこの大なる権威と力を与えることができたのは不思議中の不思議ではないだろうか。しかもイエスも弟子ももっとも簡単に易々とこの力を授受している。これは信仰とは如何なるものであるかを後世の私たちにまで示して居らぬであろうか。

 師の大なる能力は絶対に師を信ずる弟子の心の中に働くことができたのである。秘密でも何でもない。『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し・・・』(マルコ16・17)と約束されたことと同じである。

祈祷

主よ信じます、私の不信仰を憐れんでください。あなたが私に与えようと欲しておられる賜物が余りにも大きいがために、不信仰によって私がこれを拒絶することを恐れています。願わくは、大いなる信仰をもって、大いなる恵みを受ける者とならせてください。

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著92頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。昨日紹介した『受肉者耶蘇』の梗概でいけば、「9使徒の職分」がそれに該当する。以下はその文章である。 

 この憐れむべき光景〈註:故郷ナザレの人々がイエスを受け入れなかったこと〉はただに主の慟哭せらるる所のみならず、一層力を盡さるるの刺激となった。僅少なる時間をもってこの広大なる畑に労作せらるることはイエスの双手のみをもっては到底不可能であって、その熟慮の上計画せられたる如く、彼ら〈註:故郷ナザレの人々〉と暫く別れんことを決心せられた。

 すでに十二人に按手礼を施して、単にその後継者たるのみならず、同労者たらしめんとして、その事業を彼らに委託するに足る教育を充分に施されたのである。今各方面に眼を放って重要の時機到達せるを煩いつつ彼らを顧みて『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい』と仰られた。これ単に訓戒にあらず、古の預言者に『だれを遣わそう。だれがわれわれのために行くだろう』(イザヤ6・8)と神の仰られたる一般、むしろその懇請の語であって、イエスは十二人を凝視しつつ、彼らの唇より古の預言者の如く『ここに、私がおります。私を遣わしてください』との応答を受けんことを望まれたのであった。

 彼ら自らその恩命に馳せ参ずるの覚悟なくして、いずくんぞ働く者を祈ることを得ようか。彼らの如くイエスとともにあり、その御心を目撃し、その教訓を辱(かたじけのう)したものにあらずして何人かこれに適するものがあろうか。しかも彼らはその主の胸中をくわしく悟りながらもなお同僚の何人かが率先して奮発するのを互いに黙然として応じなかった。イエスはこれがために躊躇せられなかった。如何に彼らが志を有せずとも、すでに使命は彼らに任ぜられている。彼らが収穫に馳せ行かずとも、すでに彼らを追わずんばやまれないのである。イエスは彼らを召して、その命を与え、二人を一組としてその聖名(みな)によりて福音を宣伝し、また病を癒しつつガリラヤ全土に巡回せしめんがために発足せしめられた。)

2022年4月1日金曜日

主の心意気を知れ

青鷺よ 汝は尋る 餌求めて イエス求むる 砕かれし人
それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。また、十二弟子を呼び、二人ずつ遣わし始め、(マルコ6・7)

 イエスは小さい村落をいつでも忘れ給わないお方であった。かつてもカペナウムの伝道が非常な人気で『町中の者が戸口に集まって来た』(マルコ1・33)と言う程であった時に『さあ、近くの別の村里へ行こう』(マルコ1・38)と言って『町』を離れて『村』に赴き給うた。

 このたびは少しくこれと異なってゲネサレの町の人や、カペナウムの町の人や、ナザレの町の人々に信ずる者の少ないのを見て『村々』に向かい給うたのである。ご自身のみでなく十二弟子をこれらの地に遣わし給うた。得意の時にも失意の時にも村落の純朴な人々を忘れ給わなかった。

 もちろん、宣伝の必要上『町々』及びエルサレムの如き都会にも伝道し給うたけれども、小さい『村』のみでなく、人家も少ない『部落』(マルコ6・56)をも顧みて、自ら田舎回りの伝道者になられたことは意味深く感ぜられる。

祈祷

かつて田舎伝道者となり給いし主イエスよ、あなたの眼には都会と田舎との区別なく、凡ての霊魂を尊く見給うことを感謝申し上げます。願わくは世に見落とされやすき者のために愛と同情とを注ぐ者と私をなし給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著91頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。『受肉者耶蘇』は一連のできごとを他の並行福音書記事をも網羅して第25章『再びガリラヤ伝道』と題してその407頁で

1伝道に従える婦人 2ナザレにて 3会堂において説教 4聴衆の困惑 5これに関する耶蘇の説明 6会堂の紛擾 7断崖の絶壁 8真の牧羊者の働き 9使徒の職分 10主の訓練 11彼らの準備 12彼らの饗応 13各種の迫害 14主の要求 15使徒の応答 と展開し、その冒頭に以下の詩を載せている。

『所得に非らず、その失える所、その飲める酒に非らず、濯ぎ出せる酒をもって汝の生涯を計量せよ。蓋し愛の能力は愛の犠牲のうちに宿り、最も多く苦しむものこそ最も多く与うべきものを有する所以なればなり』 エッチ・イイ・エッチ・キング
〈詩篇8・1〜3、マタイ9・35、マルコ6・6、マタイ13・54〜58、マルコ6・1〜6、ルカ4・16〜30、マタイ9・36〜10・16、24・42、マルコ6・7〜13、ルカ9・1〜5、ルカ10・1〜12、ルカ6・40、ルカ12・2〜9、51〜53、17・33、ルカ9・6〉)