湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。(使徒6・48)
ルカ伝二四章二十八節にも、イエスはエマオの途上で弟子らに現われ給うた時に『まだ先へ行きそうなご様子であった』と書いてある。永い間私はこのイエスの態度が芝居がかって面白くないように感じていた。しかしよく考えて見ると神様は私どもの心から真剣な叫びの出るのを待ち給うお方である。真剣な叫びが出るということは、物が与えられるということよりも、実はヨリ以上に大切なのである。ヨリ大なる叫び、ヨリ真剣な祈願。一生懸命に神様にすがりつきたい心。かようなものを私どもの眠った霊魂の中から呼び覚ますためには、余りに先回りして助けて下さってはダメなのである。主は私どもが波濤に悩むのを見て、『近づいて行かれる』けれども、私どもが叫ぶまではしばしば『通り過ぎようとのおつもり』のほどに注意深く私どもの霊魂を見守り給うお方である。
祈祷
主イエス様、あなたは私に近寄って下さいますが、また『通り過ぎようと』なさいます。このようにしてあなたに呼び求めることを教え、祈ることを教え、切に叫び求めることを教えて下さいますことを感謝致します。どうか真心からの真剣な祈りを献げることをいよいよ深く教えて下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著106頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。この前後について、『受肉者耶蘇』と『聖書の黙想』の記述を以下に紹介する。両著とも冒頭みことばとはややずれているが、諒とせられたい。
イエスはこれを聞いて『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と仰せられた。「常に熱情に富み、兄弟よりも進める」ペテロは直ちに『主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください』〈マタイ14・28〉と答えた。『来なさい』とのイエスの聖語を聞いて、その足の波に触るるや否や、恐怖の情はこの猛烈な弟子の心に湧いて、彼は沈み始めた。『主よ、助けてください』と叫んだのでイエスは手を伸べてこれを助けんがために捕え給うた。弟子たちは異口同音に驚き叫ぶ間に、彼らの主は歓ぶ彼らに迎えられて舟に乗られたのであった。風は凪ぎて一同その志す方へ舟を走らしたが、驚きと喜びに一瞬時と思う間に舟は岸に達した。「キリストの在さざるとき、その民は遅々として歩むを得ず、なお艱難辛苦を被る。されどキリスト来たりて彼らとともなり給はば、ああ彼らは疾くその航路に走るを得、たちまちにしてその旅程を尽くすを得べし」〈『受肉者耶蘇』456〜457頁、『Days of His Flesh』238頁〉
しかし、「恐れることはない」という主の励ましの言葉は、すぐに彼らを安心させた。どうして、恐れる必要があろう。舟に師を迎え入れると、風は止み、ほどなくして、カペナウム付近の勝手を知ったいつもの岸辺に舟をつなぐことができた。その夜の出来事と前日の前日の奇蹟は、弟子たちを困惑させてしまった。それがどんな意味をもつものなのか、すぐさま、つかむことはできなかったのである。
主は憩いの場所を求めて出かけられたのに、ますます骨の折れる仕事が待ち受けていた。岸辺にいた人々はすぐに主の訪れを察して、文字通り走って行って、その知らせを広め、病人をみもとに連れて来たのである。主は、何よりも、彼ら民衆の魂が罪から癒されることをお望みになったが、同時に彼らの肉体の煩いにもあわれみをかけられ、町でも、村でも、部落でも、どこでも訪れた場所で人々を癒された。たとえ、主の着物のふさにでも、信仰を持って触れた者は癒されたのである。〈『聖書の黙想』106〜107頁)
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