2022年4月7日木曜日

誕生日の宴会(申命記26・11)

ヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていた・・・。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた。(マルコ6・20)

 これは私たちの姿の実写のように思える。善を尊ぶことを知っている。『義』とか『聖』とかに対して大いなる畏敬を感じ、恩墓の心さえ持っている。そして凡ての良い説教や談話を『喜んで耳を傾け』るのである。それのみでない。かくの如き人や仕事に対して『保護を加え』たい心を持っている。その意味で慈善事業や救霊事業などにも多少のことをする。あるいは金銭、あるいは労力さえも費やす。だが、自分の良心が『当惑』する所の問題も棄ててしまわない。否、棄てかねている。これは危険な状態ではないか。かかる状態を自覚する私どもは一生懸命にイエスにおすがりすることを怠ってはならない。ヘロデが隙をうかがっているではないか。自分の誕生日の宴会と言ったような目出度い日にウッカリして足もとをさらわれる危険がある。

祈祷

主イエスよ、願わくは私たちを試みにあわせず、悪より救い出してください。私は私の弱さを知り、私のうちに私を裏切る者があるのを知ります。主よ、私の弱さをあわれんでください。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著97頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。クレッツマンはマルコ6・14〜29をまとめるにあたり、その『聖書の黙想』で、「その王に会った先駆者」と題名をつけている。そして「ここにあるのは、神が造られた人間の中で最も高潔だった者の不慮の死という悲しむべき物語である。この人物は、邪悪な血を求めている一人の婦人の陰謀と、良心の声を消し得ると思っていた一人の男の臆病さの前に、敗北を喫したように見えるかも知れない。しかし、実際に、その働きが終わったバプテスマのヨハネは、彼の神のもとに召され、彼がその到来を伝え、その道備えをした救い主の御前の座に、永遠についたのである。」と語る。

 一方、Days of His Fleshの著者デービッド・スミスはこれらすべてをふくめて第26章「洗礼者の末期の光景」と題して巻頭に次の詩と聖句を紹介し、内容をさらに12項目に分けて叙述している。
 今日までも、女の産める人のうち 
 ヨハネより悲惨にまた偉大なるもの非ず。
 明けゆく空に紅染むる聖手(みて)のわざなる
 孤峰の如くにヨハネは輝けり

                  マイヤアス
(マタイ11・1、ルカ7・11〜17、マタイ11・2〜9、ルカ7・18〜35、マタイ14・6〜11、マルコ6・21〜28)
1「伝道に関する記録なし」2「ナインの奇蹟」3「洗礼者ヨハネの使者」4「イエスに対するヨハネの疑い」5「その理由」6「彼のメシヤ観」7「その性急」8「主の応答」9「ヨハネに対するイエスの讃嘆」10「ヨハネの範囲」11「その時代の人の不合理」12「ヨハネの処刑」その最後の項目「ヨハネの処刑」を以下転写する。

 イエスに訴えて来たのがヨハネの最後の行動であった。ヘロデヤは久しく強情と阿諛とをもって手管をつくしても応ぜられなかった宿望を漸く達して、英雄的囚徒の頭上に一撃を加うることとなった。すなわち、アンテパスは自己の誕生日にこれを祝せんがため、マカエラスの太守居城へ宴筵を設けて、貴族や軍人を招集した。宴酣(たけなわ)にして予期せざる余興がヘロデヤの工夫で演ぜられた。・・・続きは明日)

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