人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え・・・(マルコ7・20〜21)
直接にはパリサイ人の心を指したのである。弟子らの洗わぬ手に比べて彼らの洗わぬ心の如何に汚れているかを指摘したのである。イエスを嫉み憎み罠をかけて陥れんとする陋劣な心情が見え透いていたからである。しかしそれのみではない。人間の心というものは万人みな同じい。そのままで置けばロクなものは出て来ない。悔い改めと信仰によってのみ少しは美しいものが出るようになる。その汚れの標本としてイエスは七つの行為と五つの性情とを挙げている。この一つ一つを神の前に自問自答して日々悔い改むる人は幸いである。
祈祷
主イエスよ、私の心の泉より流れ出るものが何なるかを見て、私は私の心が汚れているのに驚きます。願わくは、あなたの清き御血潮を注いで私を洗って下さい。願わくは、私のうちに新しい心を創造して御前に立つことができるようにして下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著118頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 以下はクレッツマンの『聖書の黙想』113頁からの引用である。
人の食べるもの、つまり、口から体に入るものは人を不浄にすることはないが、口から出て来る罪深い不浄な言葉は、必ず人を汚すだろう。その後、弟子たちは家で自分たちだけになった時、もっとくわしい説明を求めた。
主はご自身の語る言葉の明らかな意味を、なかなか悟ることのできない弟子たちに、失望の色を見せながらも、忍耐強くその意味を明かされた。つまり、私たちが口にする食物は、私たちの精神上の健康とは何のかかわりもないということだ。そのような食物は、消化や排泄などという自然の過程で処理されている。
ところが生まれながらの人間の心から出て来るものは、神の前では人を汚れたものにするだろう。私たちの心は生まれつき、邪悪なので、そこからは悪い思いや、姦淫、不品行、殺人、盗み、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、謗り、高慢、愚痴などが生まれるからだ。人間生来の罪深い心から生ずる罪の、なんと恐るべき目録ではないだろうか!
ここには人の心を変える能力も影響力ももたない。二、三の表面的な儀式などよりも、配慮されなければならない問題がある。最高に美しい礼拝式をもってしても、あの真にたゆまぬ一つの祈りに代わることはできないだろう。『神様、罪人の私をお赦し下さい』〈ルカ18・13〉
祈り
聖なる救い主よ、
単なるうわべだけの形式や儀式から成り立っているような敬虔や信仰から、私たちをお守り下さい。聖書の中に、こんなにも明瞭に現れているあなたのみことばと御旨に代えて、人の作った規則を用いたりいたしませんように、助けて下さい。あなたのもとに、信仰をもって立ち帰り、清めと癒しを受けることができますように、あらゆる悪の根源である私たちの心の取り返しのつかない堕落と退廃に気づかしめて下さい。あなたの恵み深いお約束によって。アーメン)
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