2022年4月13日水曜日

五つのパンと二匹の魚(下)

するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また二匹の魚もみなに分けられた。(マルコ6・41)
 人に食物を与え給う者は天の父であることを絶対に信じたイエスの行動は実にゆったりしている。日を照らし雨を降らし給う天の父はまたマナを降らせて不毛の曠野に六十万の家族を養い給うた。日を照らすのと雨を降らすのとマナを降らすのと、そのいずれが最も難事業であるであろう。一地方にパンを降らすのは最も易い仕事で費用をつかえば人間にも真似が出来る。全世界に日を照らすに至っては何億年たっても人間の発明の及ぶところではあるまい。この天の父が人に食物を与えるお方であることを確く信じたイエスは五つのパンを祝福して五千人に与えたのである。イエスは五つのパンで五人を養うのでも全く同じ態度をとられたのであろう。カナの婚筵の時にも同じように行動されたではないか。信仰は創造する力がある。否、信仰それ自身ではない。神を信ずる信仰の中には神の力が働く。
祈祷
天の主よ、私をこの世に生まれ出で給いしあなたは私がこの世に存すべき限りは必ず私を養い給うことを信じ奉る。
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著103頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。なお、下記はデービッド・スミスの『Days of His Flesh受肉者耶蘇』上巻448頁からの引用である。

4「群衆を養わる」
 イエスは湖辺に連続する長い行列と、緑草に群がる民衆とを見らるるや、糧食部員なるピリポを顧みて『どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか』と問われた。ピリポは驚駭した。彼は眼を放ちて群衆を眺め、その数を算してこれに食を供すべき費用を計上した。ほとんど一シリングと相等しき一デナリが当時の一人の日雇い賃であって、一家五人平均ありとし、一人三個宛とすればパン代半デナリに当たることを彼はたちまち計算したのである。もし半デナリをもって五人に三個宛てのパンを供しうるとすれば、二百デナリをもっては六十人の大衆に一個宛を与うることができる。今ここには小児と婦人の他に五千人の群衆があって、皆食に飢えているのであった。『めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません』と兵站部長は絶望して答えた。

5「五つのパンと二つの魚」
 かかる間に事実が明らかとなった。イエスが教訓と治療に努力せらるる間に、弟子たちはその方法を講じたが、漸く日も暮れに及ばんとするので、群衆をして近傍の村々に行きて食物を購わしめんがため、これを去らしめんことをイエスに勧めた。然るに『あなたがたで、あの人たちに何か食べるものを挙げなさい』とイエスは答え給うた。彼らはその不可能なるを弁明したが、ピリポの友人アンデレは、有効な食料としては、今群衆が競い買わんとしている五つの大麦のパンと二つの魚とを漁夫の少年が売りに来ているもののみであることを説明して『しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう』と言った。イエスは一語も答えず、ただ食事の用意を為すべきを命ぜられたが、彼らは異議なくその命に服するほどイエスに信頼したのであった。
 彼らは衆人を百五十人宛一組として芝生の上に座らしめた。蓋し混雑を避け、また漏るるものなきように注意する便と、またその団体の数を算うるに備えたのであった。席定まるや、イエスは食物を祝して衆人に食を運ぶ弟子たちに渡されたが、見よ、空虚の倉庫は無尽の源泉と化したのであった。与えられても与えられてもなお、食料はこの救い主の聖手のうちに発生するのであった。『めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません』とピリポは主張したが、イエスの祝さるる五つの大麦のパンと二つの魚とは無限の量となった。『人々は皆食べて満腹した』。否、単に彼らの飽きるほど充分であったのみならず、なお過剰があった。ユダヤ人は旅行に赴くとき必ず食料を入れた籠を担って出た。それは未見の人の食物を食う穢れに陥る場合があるからであった。その籠はユダヤ人たる徽章となり、異邦人の嘲笑の的となった。四方に流浪する使徒たちもまたこの籠を担っていたが、何物をも浪費せられない主の命により、また恐らくは彼らをして奇蹟の確実な証拠を握らしむる計算で命ぜられた所によって、彼らはその供応の残物を集めたが、その屑は十二の籠に一杯に満ちたのであった。)

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