・・・イエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運んで来た。・・・村でも町でも部落でも、人々は病人たちを・・・(マルコ6・55〜56)
元の訳には『イエスがおられるところを聞き出し』とある。この方が原文の意を伝えている。イエスは人口の多い『村』や、それに次ぐ『町』や、人口の稀薄な『部落』すなわち広い田野に転々としている農家などまで巡回して道を伝えておられる。病人を携えた人々はあちらこちらと訪ねて『『イエスがおられるところを聞き出し』て、やって来たのである。マルコは主の御伝道ぶりを目に見るように描写している。熱心にイエスを求めるのは善い事である。が、彼らは果たしてイエスを求めたのであろうか。せめてイエスの与えんと欲するものを求めたのであろうか。肉体を癒されんと欲する者は多く霊魂を癒されんと願う者は暁天の星よりも少ないことを主は心の中に嘆息せられたであろう。
祈祷
主イエスよ、あなたは私たちの肉体をも顧み給えども、私たちが雀よりも優れるは霊魂の尊さにあることを知り給うが故に切に私の永遠の救いを求め給う。願わくは私たちに己が日を数うることを教えて、知恵の心を得しめ給え。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著108頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は昨日の『受肉者耶蘇』の続きの文である。
3「イエスに奉従する試験」
これらの教訓はユダヤ人の耳には我々が聞くほどに不思議ではなかった。聖書のうちにも、またラビの文書にも等しく教訓をパンと称し、これに心身を集中するを食うと言ったものである。預言者エレミヤは『私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました』〈エレミヤ15・16〉と言い、ユダヤ教経典の中には『「パンを以って彼を養え」すなわち彼をして律法を学ぶに努めしめよ、「来たりて我がパンを食え」とあればなり』とある。なお我らの主の聖語に一層酷似したものは『メッシヤを食う』というユダヤ教経典の語であって、これは喜んでこれを受け、そのあるがまま教訓を会得することであった。しかるにかかわらず、その聴衆は、十二使徒すらもなお、その場においては主の神秘な教訓の意義を悟り得るものはなかった。主もまた彼らがこれを悟り得るものとは期待せられなかったのであった。ただ彼らの信仰を試験し給う計画であったが、彼らの忠誠の念はその幻想の消失とともに揺るがなかったであろうか。
4「一般の錯乱」
イエスは慎重にこの試験を行なわれたのであったが、その結果はどうであったろう。有司たちや、民衆の間に混じた彼らの党派が、激怒して憤慨したのはすでに驚くに足らぬ。彼らは『あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている。そのイエスではないか。どうしていま彼は「わたしは天から下って来た」と言うのか』〈ヨハネ6・42〉と呟き、また『この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか』〈ヨハネ6・52〉と呟いた。彼らが斯く思うは当然の態度であって、イエスはもはやこれを失望せられないのであった。
「十二人忠信を以って留まる」
しかしイエスは今少しく進んだものと期待せられた他の団体がーーすなわちイエスの跡を慕って、弟子なる名を冠せられた人々があった。彼らは如何にこの試験に応じたであろうか。イエスは彼らに希望を繋がれたのであったが、悲しむべし、彼らもまたその信任に背く甚しきものであった。『これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか』〈ヨハネ6・60〉と呟きつつ、彼らの多くは『離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった』〈ヨハネ6・66〉。イエスはただ十二の使徒のみとなられた。而して彼らの困惑した顔を凝視つつ、温言を以って『まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう』〈ヨハネ6・67〉と静かに問われた。
彼らの忠誠の念は頗る揺らいで、遁るべき道あらば彼らも、またイエスを棄てんとする志が見えたものと思わるる。しかし彼らは余りに深く身を投じたものであって、その万事を擲ってイエスに従い、ただその王国と玉座とを獲得せらるる日の褒賞をのみ心掛けているものであった。万一彼らにしてイエスを棄て去らば、ただ世の嘲笑罵詈を受くるに過ぎない。この恥辱のために彼らは辛くも踏み止まったものであった。更に彼らには忠信を献ぐる一層高い理由があった。彼らの観念は全くない誤っていても彼らはその主を愛し、その恩寵に対して偉大な発見を遂げていた。『まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう』〈ヨハネ6・67〉との主の問いに対して、常に十二人中の代言者にして、最もイエスを愛したペテロは答えた。彼の応答は、始めは失望に泣くように、漸次情熱と勝利の信仰に燃え昇る不思議な不調和な語であった。『主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています』〈ヨハネ6・68〜69〉と。
5「彼らのうちに謀反人」
これ実に憐れな、出まかせの告白であって、イエスには、その使徒すらなお信仰極めて薄弱にして、天の王国の事情につき、また将に来るべき危急に対する準備において、如何に深き訓練が必要であるかが明らかであった。ペテロは彼らのうちの最も勇敢にして、その信仰最も熱烈なるものである。しかるに、これをしも彼が達し得る信仰の極致ならしめば、他の十一人の状は将た如何であろう。イエスはその結果を明らかに予知せられ、『わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です』〈ヨハネ6・70〉と仰せられた。然り、心を潔むることはさておき、却って大罪を企む人物が一人いたのであって、福音記者は『イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子の一人であったが、イエスを売ろうとしていた』〈ヨハネ6・71〉と註釈している。)
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