こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。(マルコ6・12〜13)
弟子の仕事は三つであった。悔い改めの宣伝と悪霊を追い出すことと病を癒すことであった。主ご自身の事業もこの三つに他ならなかった。キリストのお救いは今日でも要するにこの三つである。
まず霊魂の姿勢を正すことである。悔い改めとはギリシヤ語のメタノエオで心の向きを改めるの意であり、ヘブル語のシュールは帰るの義である。ともに行為そのものに対して悔ゆるというよりも、神に対する態度の変更である。これが第一にしてもっとも重大な救いである。
次には悪霊が追い出されることである。第三にその他の百般の病気が癒やされる。弟子らが病者に油をぬったのは当時の習慣に従ったので、イエスご自身は油を用いられたことがなかった。弟子にはイエスほどの力がなかったから当時一般に用いられた医薬をそのまま用いたと見てもよかろう。
祈祷
主イエスよ、あなたの全き救いを力強く私たちのうちに実現してください。願わくは、昔のように奇しき力をあらわして私たちの霊と心と体とに全き救いを成就してください。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著94頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。なお、以下の文章はクレッツマンによる『聖書の黙想』93頁からの引用である。
イエスは十二人をみもとに呼び寄せられる。できるだけ多くの人々に救いの福音をとどかせるために、また使徒たちに将来のわざに対しての経験と訓練とを与えるために、主は彼らを二人ずつ組にして、最初の伝道旅行へと送り出される。主は、彼らを彼の使徒として信任し、認めるため、彼らに超自然的な力を授けられた。それは使徒たちのわざをはばもうとする汚れた霊・悪霊を制する権威である。彼らは値なくして受けたのだから、すべてのものを値なくして人に与えるべきである。またそれと同時に、働き人が報酬を受けるにふさわしいという原理も通さねばならない。彼らの言葉を信仰によって受け入れた家に居住を定め、拠点とすべきである。その使信に対して、心を閉じている人々に対しては、多くの時を浪費すべきではないとも、主は語られた。使徒たちを拒んだ村の運命は、ソドムとゴモラ以上に悲惨なおそろしいものであろう。そして主は、そのことの審き人にほかならないのだ。
そこで使徒たちは主の御名によって、出て行き、彼らが行った所ではどこでも、大胆に悔い改めを宣べ伝えた。人々がまずその罪を認めることがないならば、わたしたちの宣教によっては、何の善いこともなされないだろう。そうでなければ、どんなに美しく、また雄弁な福音のメッセージでも、退屈な無関心事に終るほかはないのである。そして主の力は、その使徒たちと共にあった。悪霊たちも彼らに抗しえず、病気もまたその権威の前に屈するほかはなかった。今や教会と福音とは、世紀を通じて、この世界の中に打ち立てられ、このような超自然的賜物を、主の力を証明するためにはこれ以上必要としないが、福音のメッセージの力は、どこでも同じように働くのである。)
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