2022年4月12日火曜日

五つのパンと二匹の魚(上)

すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」・・・「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」・・・人々はみな、食べて満腹した。・・・パンを食べたのは、男が五千人であった。(マルコ6・37、38、42、44)

 四つの福音書がことごとく立証しているのはこの奇蹟一つだけである。されば他の多くの奇蹟にまさって意義の深いものに相違ない。イエスは四十日の断食の後でも『人はパンだけで生きるのではなく』と仰られたほどご自分に対して峻厳なお方であるけれども、主の祈りの中に『私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください』と祈ることを教えることを忘れなかったほど人間普通の要求に諒解あるお方である。この日も群衆を見て憐れみ先ず『いろいろと教え』給うたのであるが、霊のことについて教えた後には直ちに肉体の要求についても彼らを『あわれむ』ことを忘れ給わなかった。ご自分の餓えた時にはいくらでも辛抱し給うたけれども群衆の一時の空腹をも辛抱なさることが出来なかった。されば主は今日でも、人が先ず主の教えに生きて、而して肉体の食を得ない時は主は私たちのために奇蹟を行なうことも惜しみ給わないのである。

祈祷
主イエスよ、あなたは私たちの肉体の要求を知り、これを是認しこれを憐れみ給うことを感謝申し上げます。されば食物なきを思い煩うことなく、ただひたすらあなたの教えに耳を傾け家路につくことをも忘れたるこの群衆のようにあなたを慕わせてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著102頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。なお、以下はクレッツマン『聖書の黙想』』104〜106頁からの引用である。

 それは、何と祝福に満ちた午後だったろう!しかし、西方の山々はその一場の画面に夕暗を投げかけ、たそがれの陰影を描き始めていた。そこで弟子たちは「ここは、町や市場から遠く離れた場所なので、群衆がめいめいで食べるものを見つけるためには、暗くならない中に解散させた方がよい」と主に提案した。ところが主は「あなたがた自身が主人役のつもりになって、これらの人々をもてなすように」答えられたのである。手早く、調べて見た結果、自由に使える手持ちは二百デナリだけあることがわかった。しかし、たとえたくさんのものを買える場所があったとしても、とてもこれだけでは全群衆に分けるのには不十分である。そこで主は万事を御手の中に引き受けてくださったのである。
 それはある少年が持って来た五つのパンと二匹の小魚で十分だった。弟子たちは主の命ずるままに、民衆を五十人ずつ、あるいは、百人ずつ、組にしてすわらせた。すべての目は、張りつめた期待のうちに、主の上に釘付けにされていたに違いない。おそらく、彼らは主が五つのパンと二匹の魚を取り上げられたのを目にした時は、失望したに違いない。そんなものがどうして、これだけの人間全部に足りるはずがあろうか。しかし、彼らの眼前で、おごそかな祈りの声は響き渡り、全能の神の恵みたもう食物が祝福された。民衆が怪しんだのも無理はない。このような場面を今までに見たことがなかったからだ。
 弟子たちは主の手から、パンと魚を受けとり、飢えた数千の人々に分け与えて、追加にもどってみると、更に新たな補給の待っていることがわかった。その夜は誰一人として、飢えた者はいなかった。弟子たちが主の求めに応じて、それぞれ、残りくずを集めに行ってみると、十二のかごがどれもいっぱいになった程だったのである。在天の主であられる神は、天の賜物を食いつぶす民のような浪費はなさらない。
 さて、今や、夜の宿をみつけなければならない時刻になっていた。イエスは群衆を解散させている間に、弟子たちを促して舟に乗せ、向こう岸へおやりになった。誰にも乱されずに夕べの祈りに専念されようとお考えだったからである。) 

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