イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にもはいった。ヘロデはうわさを聞いて、「私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ」と言っていた。(マルコ6・14、16)
このヘロデはイエス御誕生の時のヘロデ大王とサマリヤ人マルタケとの間に出来た子で意志の弱い性格の人である。多分サドカイ派の人で来世も復活も信じない人であったが、自分の悪事によって良心が責められた時に、思わず知らずかく叫んだのであろう。
人の本能は押し曲げられた理智を撥ね返す力のあるものである。良心の叫びは一時はこれを押しつけることもできるけれども何かの時に起き上がって来る。人を殺した者がたびたび幽霊に悩まされる例は迷信か精神錯乱だと笑い去ることはできない。殺人のみではない。我々の犯した罪はどんな小さなものでも一つも残らず必ず幽霊となって私どもの前に現われる時が来る。これは良心の職分である。
イエスにおいて救い主を見出さない人は自分が殺したバプテスマのヨハネの幽霊をイエスにおいて見出す時が来る。これは審判のイエスである。
祈祷
ああ主よ、あなたが私のうちに留め置きくださった私の番人である良心をつねに目覚めさせてください。願わくは、まだ遅くならないうちに、日々悔い改めて、あなたに立ち返ることができるようにしてください。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著96頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。なお、以下の文章はクレッツマンによる『聖書の黙想』96頁からの引用である。
紀元29年の春、過越の祭りの少し前のことである。多くの力と気品とにみちたわざが、ガリラヤ出の一人の人物によってなされていた。彼の名声がヘロデ王と呼ばれる太守の耳に入ったのは、少しも不思議なことではない。ヘロデは、ヨルダンの向こうのガリラヤとベレヤの、残忍で横暴な支配者であった。
この男が見せた反応は、異常なほどだった。多くの未信者と同様に、迷信的だった彼は、これはバプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだと口にした。彼にとって、このような力あるわざをなしうる人物を他に知らなかったのである。エリヤの再来だとか、別の預言者の一人だとかいううわさも立った。しかしヘロデは彼が以前に首を切ったバプテスマのヨハネに違いないと言い張った。罪を犯した彼の心に、どんな恐怖が走ったことだろうか。彼の悪に汚れた良心には、数ヶ月前のある日の思い出がよみがえった。)
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