2022年4月26日火曜日

コルバンの悪用、神を恐れざる行為

あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物はコルバン(すなわちささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。(マルコ7・11〜12)

 パリサイ人の詭弁の一例である。心なき文字だけの宗教の恐るべき結果を示している。彼らは自分の所有の全部もしくは一部に対して『これはコルバンである』と言明さえすれば実際においては神に供えずとも、その物品あるいは金銭を父母のために用いなくてもよいのだと教えたのである。否、一旦そう言った以上は父母のために用ゆることが出来ないとさえ教えたのである。ある息子が腹立ちまぎれにコルバンと叫んでしまって、あとで悔いて父母に孝養したいと思ったが許されなかった例もある。もちろんキリストも、わたしのためには父母妻子も棄てなければならぬと仰せられたが、それは意味が全く違う。真に神に仕うる者はある場合には父母の気に入らぬことも為さなければならないかも知れぬが、それは真に父母に仕えんがためである。真に神に献げた人は父母のみでなく凡ての人のためにも自己を献げる人である。

祈祷
神よ、願わくは私をして真実のコルバンとならせて下さい。あなたを愛するが故に一切の隣人を愛して、己を献げる者とさせて下さいますように。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著116頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。コルバンに関連しながら、パリサイ人の詭弁を暴かれた主の論法について、『十二使徒の訓練(上巻)』というA.B.ブルースの所説を紹介する。同書147頁以下である。

 パリサイ人に対して「儀式のために道徳を犠牲にし、人間の言い伝えのために神の戒めを犠牲にしている」と反撃を加えてから、さらにイエスは、顕著な実例と聖書からの引用で、すぐそれを証拠だてられた。取り上げられた実例は、自分たちの宗教的義務を優先することにより第五戒の義務をないがしろにするというものであった。神は「あなたの父と母を敬え」と命じ、この戒めを破る者には死の刑罰を科しておられた。ユダヤ教の律法学者は、「これはコルバン、と言え。そうすれば、たとい困っている両親を助けるためのものであっても、それを両親に渡す義務いっさいから免除されよう」と言った。

 コルバンはモーセ律法において、誓いを果たしたときにささげられる、血を流すもの流さぬ物を含むあらゆる種類の神へのささげ物を意味することばである。〈民数6・14〉ラビの通用語として、それは個人や世俗の用のためではなく、聖なる目的にささげられた物を意味した。コルバンに関する伝統的な教えは、二つの面で有害であった。まず、それは人々に信仰を、道徳を無視する口実とするようけしかけた。それから、不正な行いや偽善を野放図にしてしまった。

 その教えによると、人は誓いをすることによって物を用いることを合法的に制限できるだけでなく、その物を神にささげるという誓いをなせば、それが他の人に与えるべき物であっても、与える義務をいっさい免除されたのである。さらに、ラビの悪質な教説によると、人に与える義務から解放されるのに、その物を実際に神にささげる必要があったのではない。それをコルバンと言えば、それだけでよかった。どんな物にもその魔法のことばを唱えせすればよい。

 このような手前勝手な神のための熱心は、神の御名をむなしくし、神を辱めるものであった。十戒の第一の板を第二の板に敵対させるようなしきたりは、結局、両方の板〈十戒の全部〉を破壊してしまうことを証明した。彼らは自分たちの言い伝えによって神の律法全体を無効にした。第五戒を無効にすることは、キリストが「これと同じようなことを、たくさんしているのです」〈マルコ7・13〉と言われた結びのことばに含蓄されるように、人間の戒めの信奉者たちが生み出した悪影響の見本であった。)

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