2022年4月21日木曜日

目に梁ありてイエスを見る愚かさ

さわった人々はみな、いやされた。さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、・・・イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」(マルコ6・56〜7・5)

 種々の人がイエスの周囲に集まって来た。霊魂のことなどは少しも考えず、ただイエスに触って病気を癒されたい人々も多くあった。低級な人々である。けれどもイエスは黙って彼らをも癒し給うた。その不思議な御力を見るために態々エルサレムから下って来たパリサイ人、学者らもあった。彼らは多くの病人の不思議に癒されるのをさえ見なかった。彼らの見たのはイエスの弟子たちが手を洗わないで食事したことだけであった。彼らは数十里を遠しとせずしてイエスを見に来た。而して彼らの見たものはただこれだけであった。人は実に見んと欲するものだけを見るものである。イエスの穴探しに来た彼らは欠点のほか何物をもイエスに見出すことは出来なかったのである。イエスはどんなに悲しく感ぜられたことであろう。私どもはイエスにおいて何を見出しつつあるか。私どもの兄弟姉妹と称する人において何を見出しているだろうか。

祈祷
主よ、私どもに先ず自分の目から梁木を取り去ることを教えて下さい。悪しきものを見出す悪しき目を取り去って下さい。どうか清々しい目を以ってあなたの御姿を見、涙ある目を以って人を見ることを得させて下さい。殊に一番嫌いな人を見るときに一番温かい眼で見ることを得させて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著111頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は昨日の『受肉者耶蘇』の続きの文である。

6「伝道の継続」
 民衆はイエスに反抗したけれども、忽ちにして彼らはイエスならざるベからざるを悟った。イエスはなお彼らの間にあって事業を継続せられた。エルサレムにおける王位の望みは消散したのに彼らは何をか求めた。彼らの苦悩や惨事は依然として絶えないからであった。而してイエスの恩寵と権威とは少しも衰えないのであった。彼らは血漏を患った婦の如くイエスの衣の裳裾にただ触れしめんがためにその聖足の下に従来の如く病者を伴い來った〈マルコ9・20、ルカ8・44参照〉過越の節は来たけれども有司たちの殺気を帯びた計画を洞観せられたイエスは、なおガリラヤに留まられた〈ヨハネ7・1〉。この時期に死する覚悟は定めて居らるるけれども、なお多くの事業が残っているのであった。イエスの時は未だ転還しない。
〈サンヒドリンの密使〉
 有司たちはイエスの上られないのに失望した。而してこれを殺さんと決心して、カペナウムの官憲と結託せんがため、パリサイ人とサドカイ人との代表者を送った。依然として群衆の敬慕に擁せられ給うイエスに対して、これらの悪党も手を下すべき道がなかったけれども、その手中に陥るべき口実を発見せんと焦慮しつつ妬視耿々只管に機会を窺った。

7「手を洗わずとの攻撃」
 久しからずして事成れりと喜んだ一事を彼らは発見した。ラビの律法のうちに洗浄に関する儀式、殊に食事の前後に手を洗う事以上に大切な問題はなかった〈ルカ11・37〜38参照〉手を洗わずして食するは身を汚穢に委ねるものであって、破門に該当する罪過であった。加うるに迷信が一層この掟に重きを加えたのであって、シブタと称する悪鬼がいて、手を洗わず食物に触るればこの悪鬼が夜間に来たってその人に憑くものとせられた。これ実に奇怪至極の掟であって、畢竟、如何にユダヤの宗教が堕落して、儀式もついに中心の意義を失ったかを示すに足るものである。しかも、斯く下劣であっても迷信はその信者の熱心なためにほとんど究極の力を揮うに至った。伝えらるる所によればラビ・アキバはかつてロオマ人から牢獄に繋がれたことがあったが、彼は洗身と飲料とに充分足るだけの水を毎日給与せられた。然るに一日司獄官の命令で水の供給を減ぜられた。『手を洗う水をくれ』と彼は言ったが、『我が師よ、水は飲むにすら足らないほどであります』と給仕していた彼の弟子が答えた。『どうしよう。先祖の命じた儀式を犯すより死ぬるに若かず』とアキバは叫んだと言わるる。)

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