十二個 チューリップの 揃い踏み 主の弟子たち またかくあらん |
「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。・・・このように、すべての食物をきよいとされた。(マルコ7・14〜15、19)
パリサイ人は手を洗わずに食事をするのは罪悪だと言った。イエスはこれに対して、否、手を洗わぬどころではない、実を言えばモーセの律法にある潔き食物と潔からざる食物との区別さえも本質的のものではない。何を食したとて、それで人の心の汚れるものではない。と喝破したのである。パウロがユダヤ教の儀式を超越して信仰によれる万人の救いを説いたのはこの御精神の延長である。パリサイ人たちがイエスを異端者として迫害したのも彼らとしては無理もない。24節を見ると『イエスは、そこを出てツロの地方へと行かれた』とある。迫害が如何にひどくってガリラヤ地方に居ることが出来なくなったことを示して余りがある。形式宗教から霊的宗教に帰ることは容易でない。霊とまことを以って神を礼拝するのは如何に難しいことであろう。
祈祷
霊なる神様、宗教の形骸に囚われてその真髄を忘れ易い私どもを憐んで下さい。手を洗って食するは易くありますが、心を洗ってあなたに近づくは難しうございます。教会やその儀式に与かることは易いですが、霊とまことを以ってあなたを拝むのは難しうございます。どうか聖霊を私どもに注いで、外面でなく、心の内面を潔くして下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著118頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 以下、『受肉者耶蘇』と『十二使徒の訓練』記載の二文を紹介しよう。
10「十二使徒の鈍感さ〈dulness〉」
イエスが比喩をもって群衆に教えられた後には、直ちに来たってその意義を質すのが十二使徒の習慣であったが、パリサイ人との争論の後、家に帰るや否や彼らはイエスに訴えた。すなわちペテロが『そのたとえを説明してください』〈マルコ4・33〜34、マタイ13・36〉と実際人を穢すものについてのイエスの宣告の意義を尋ねた。この真理のうちには少しもたとえはないけれども、彼らはユダヤ人的偏見に囚われて、そのうちに隠れた何らかの意味のあるものと想像した。潔き食物と潔からざる食物との区別はなお彼らには容易ならざる問題であったからして、イエスがこの区別を排斥せられようとは思い設けない所であった。従って不潔の思想以外に人を穢すものなしとのイエスの教理を受け容るることのできなかったのは当然である。爾後数年してペテロはなおユダヤ人の偏見から遁れることはできなかった〈使徒10・9〜15〉イエスは彼らの心の遅鈍なるを悲しまれ『あなたがたまで、そんなにわからないのですか』と叫ばれた。〈『受肉者耶蘇』上巻473頁 、Days of His Flesh245頁〉
ところで、「イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた」という結びの句には、特別な意味がある。それは福音書記者がキリストのことばの効果について述べた意見である。つまりキリストのことばは、きよいものときよくないものとの儀式的区別の撤廃を意味した。この注目すべき解説は、後にキリストの言明を引き出す役を務め、天から降りて来る敷布の幻を見た使徒〈ペテロ〉の宣教の報告を私たちに伝えた人から出ている。
福音書記者が解説をしているので、私たちも私たちなりの解説を加えたい。ここで主はモーセの儀式的律法〈長老たちの言い伝えはそれに対する補足であった〉に関しては沈黙を守り、ただ神の戒め、すなわち十戒についてだけ語っておられる。このことは、主が律法において何を廃棄し、何を成就するために来られたかを示している点で、たいへん意味深い。儀式主義は廃棄されるべきものであって、恒久的な道徳律法がすべてのすべてとなるべきであった。人々の良心は、神の十戒ないし究極の愛の戒めを守ることによって自由に生ける神に仕えることができるように、外側からがんじがらめにされた重荷から解放されなければならなかった。
私たちは、キリストが教会のために計画し獲得してくださった自由に堅く立ち、一方において迷信を避け、他方において不敬虔な放縦を避けなければならない。そうすることによって、神の御心を求める聖なる熱心から、あらゆる人間の言い伝えを憎むことは教会の義務である。真にキリストに従う者は自由を欲するが、それは自分の好きなことをするためではなく、神が求めておられることを行うためである。従ってそのような人は、宗教上のあらゆる人間的権威を儀礼にこだわりなく拒否し、熱心な言い伝えの信奉者からも離れている。また同時に、神のしもべとして、彼らは神のことばと神の律法を敬い、自らと不法を行なう不従順な者たちとの間に広い淵を置いている。彼らは拒否するものの代わりに別の良いものを得ようとしているのではなく、人間的あるいは神的な事柄におけるあらゆる道徳的抑圧を除くために、宗教改革の運動に味方しているのである。〈『十二使徒の訓練』上巻150頁〉
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