2022年4月6日水曜日

再びガリラヤ伝道(『受肉者耶蘇』より)

 以上、マルコの福音書6・1〜13を、青木澄十郎氏の『『一日一文マルコ伝霊解』に従って学んできたが、一方、デービッド・スミス著『受肉者耶蘇』上巻にはイエスさまが使徒に示された訓戒が、いかにご自身のナザレ伝道の蹉跌を受けての訓戒となっているかのことを明らかにした叙述となっていた。このような見方は私にとっては初見であるので以下に転写させていただく。(『受肉者耶蘇』上巻420頁より引用、なお好学の諸兄は四月一日のブログ記事http://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/04/blog-post.htmlもご覧いただきたい)

13「各種の迫害」
 ナザレにおける事件〈引用者註:ルカ4・16〜30を参照〉は畢竟、十二使徒の伝道の間に、彼らの遭遇すべき事件の前兆であった。『いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい』〈マタイ10・16〉。これ一方に怠慢を戒むると同時に、一方風潮に巻き込まるるを戒むる諺である。彼らは迫害を覚悟し、怖れなくこれに面して、怯懦(きょうだ)に、沈黙せずして公然その主を紹介し、彼らに托せらるる使命を危険を冒(おか)しつつ宣伝せねばならぬ。『わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい』〈マタイ10・27〉。その苦痛の如何にもあれ、彼らは溢るる慰藉を有するのであった。

 彼らの主はすでにその道程を経て居らるる、『弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう』〈マタイ10・25〉。また、その敵は彼らの肉を殺すことを得べしといえども、霊魂を殺すことはできぬ。卑怯のため、あるいは不信のために苦しみを避け、あるいはこれを軽減せんことを望まば、これ己れを悪魔に交付するものである。『恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい』〈マタイ10・28、ルカ12・4〜5〉とイエスは言われた。

 あらゆる困苦に際し彼らには神の賢明にして慈愛に富む摂理がないであろうか。彼らは神の聖手のうちにあり、神は彼らを保護せらるるのである。僅々一銭をもって一番(ひとつがい)を購われ二銭を購わば一匹の景物を得べき雀の如き見る影もなき小さな動物すらなお神は照覧し給う。『五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です』〈ルカ12・6〜7〉




14「主の要求」
 イエスは使徒たちの 恋たる妄想を破るに如何に努力せられたかが明白である。その召されたるは奮闘、苦痛、犠牲のためであって、この事実を認めて、彼らがその呵責に潔く面し、これに突進する勇気ありや否やを試みんことを望まれた。『わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります』〈マタイ10・34〜36〉と。さらに進んで人の愛情の真実にして神聖なるものを指摘し、神のために非ず、天国のために非ず、ただイエス自らのため、至誠を献ぐべきを宣言して『わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。』〈マタイ10・37〉と仰られた。否さらに一層進んで、イエスのためには最低最陋の苦痛に甘んじ、極度の侮辱をも忍ばざるべからざるを宣言せられた。当時において『十字架を負う』と言うのは現今の如く宗教的な文辞となり、その意義を軽減して往々感傷的な苦痛に適用する比喩ではなく、峻烈にして残忍の光景をそのままの語であった。

 十字架の刑は極悪人に課する悲痛の罪であった。十二使徒らはかくの如き重罪犯人の、磔刑の場所にその十字架を負いつつ赴いて、その生命の終わるまで憂悶、号叫する恥辱と苦悩とを実見することが往々あった。イエスはこれら、社会の敵の受くる所が己の運命なるを自ら知られ、その使徒にもまたこれを受くるの覚悟なかるべからざるを示して『自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません』〈マタイ10・38〉と仰られたのである。ソクラテス、あるいはアレキサンダーの口よりかくの如き宣言が発表せられたならば、狂気の沙汰と受け取られて、ただ嘲笑を招くに過ぎなかったであろう。しかるにイエスは絶えずかく宣言せられ、またもっとも親しくこれに接近して、これをもっとも深く了解したものは、何人も当然なりと認識したのであった。

15「使徒の応答」
 彼らの高尚な本能に訴えて主は訓戒せられたので使徒らの心は為に燃えた。これ誠に武士道的英雄の要求である。この戦闘を控える前夜に、軍隊を鼓舞する将軍の態度をもって『自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします』〈マタイ10・39〉と戒められた。戦場において如何なる患難も降らば降れ、彼らは不朽の生命を獲得すべきものである。名誉の生命を獲得せんよりは、むしろ栄光の死を遂ぐるに若かない。アシジのフランシスは、ポルチアンクラの礼拝堂において、司祭がこの使徒に授けらるる訓戒を読むのを聞いて、即刻、杖も、行李も、財布も、靴も擲ってその高遠な職分に、投じたのであった。使徒は主の口づから温かにして燃ゆる如きこの訓戒を受けては勇んでこれに応答し奉ったに違いない。彼らはイエスを離れ、婦人らに告別し、二人を一組として各方面に『福音を宣べ伝え、病気を直した』〈ルカ9・6〉

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