2022年4月14日木曜日

祈るために山に向かわれた

アーサーズシート※
それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、・・・その間に群衆を解散させておられた。それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。(マルコ6・45〜46) 

 『すぐに』の語と『強いて』の語はイエスが心せわしく、山に行かんと求め給うた気分を示している。イエスは『強いて』弟子らに別れ強いて群衆を返したのである。たった一人になりたいと大変に骨を折っておられる御姿が見える。大奇蹟の後に『すぐに』人から全く離れて祈りたかったイエスは、あたかも他郷にあった子供が母のふところを求めて故郷に急ぐ時のように父のお膝もとを求めておられる。大なる奇蹟と大なる祈り、これはイエスの内面と外面とのバランスである。内に神の大なる霊が宿り、外に大なる霊が働く。イエスの如く行なった人は無く、イエスの如く語った人は無い。イエスの如く祈った人が無いからであろう。

祈祷
神よ、赤子の慈母のふところを慕う如くあなたを求める心を私にも御与えください。群衆の歓呼の中にあって淋しさを感じ、あなた一人を求めて山に行こうと焦る心を私にも御与えください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著104頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。なお、下記はデービッド・スミスの『受肉者耶蘇』上巻455頁からの引用である〈『Days of His Flesh』237頁〉。

9「王とせんとの計画」
 この奇蹟が群衆の熱狂にさらに薪を加えた。イエスは確かにメシヤである。ゆえに彼らはその下劣な計画を遂行するに一層熱烈となり、時期はまた格好であった。過越の祝いまさに近からんとして、エルサレムは礼拝者をもって埋もるべきはずであった。故に彼らはただ勝利の鹵簿〈ろぼ〉を調えてイエスを王なりと宣言すれば足るのであった。たちまちイエスは雲霞の大群に煥乎をもって包まれ、その祖先の玉座に国民の喝采のうちに陞らるるであろうと考えた。彼らの陰謀を観取せらるるや、イエスは弟子たちを強いて乗船せしめ、カペナウムの船着場ベッサイダへと出帆せしめ、己は群衆を避けつつ、山上に私かに隠れて、祈祷に身を委ねられた。

※昨日畏友からデービッド・スミスの原著の存在を教えていただいた。今まで日高訳でしか知ることができなかったものが原文との対照が可能になった。感謝である。さて冒頭の写真はオズワルド・チェンバーズがエジンバラ時代に祈りに出かけた山である。このことについてはhttps://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/10/blog-post_18.htmlで触れた。また古の聖徒沢崎堅造もよく山に祈りに出かけた。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2012/04/blog-post_10.html それぞれ過去のブログで触れたが、これらも併せて、お読みいただければ感謝である。いずれもイエスさまがよく山に退かれ祈られたことに端を発しているのは言うまでもない。)

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