2022年4月8日金曜日

体面・虚栄から離れ、主に真実を尽くそう

王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった。そこで王は、すぐに護衛兵をやってヨハネの首を持って来るように命令した。(マルコ6・26)

 『列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった』とは実に弱い人の心の図星を指しているではないか。僅かの体面を維持するために大きな罪を犯したヘロデを笑うことのできる人が幾人あるだろう。体面を維持するということそれ自体は決して悪くはない。しかしこれが大きな問題に食い込んで行くと恐ろしい結果になる。体面と良心とが一致して行く時はよい、けれども、この世が天国でない間は、体面の維持が良心の承認と逆行する場合がある。良心とまで言わないでも、体面維持のために自分をわざわざ傷つける場合がある。例えば勉強するということが同級生の間に偽善視されている時など、あまり勉強しないようにするなどは、小さなことだがこの種類に属する。要するに体面主義は大いなる危険を孕む。神の前にも人の前にも実質主義で行くのが安全である。

祈祷

神よ、願わくは、私をして人を恐れず、ただあなたを恐れ、体面を繕うよりも実質を改善することに努力せしめ給え。

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著98頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。 以下、昨日のDays of His Fleshの引用文の続きを同書439頁から転写する。

 彼女には、その以前破廉恥極まる状態で棄て去った夫との間に、後年トラコニチスの太守ピリポに嫁がせたサロメと言う娘があった。齢ようやく十七歳ばかりの処女なるこの美姫は、この淫蕩なる来客の面前に、淫靡極まる舞踏を演ぜんがため宴筵の席上に伴われた。これ実に深窓の貴婦人殊に処女としては言うに忍びざる破廉恥至極の所作であったにかかわらず、喝采讃嘆の喚声はどよめき渡り、主公は悦に入って、泥酔漢の尊大をもって得意満面の態であった。

 彼はロオマの一卑官に過ぎなかったけれども、ヘロデ大王の余光に与って、一般からは『王』と称せられていた。かつ彼の虚栄心はこの称号に得意であった(マルコ6・14、25、26、27、マタイ14・9、14・1、ルカ9・7、3・19参照)彼は娘を自分の前に招いて、ロオマ皇帝の許可によらざれば、国土の一平方マイルも左右し能わざる身分を全く忘却して、東洋人特有の尊大を装いつつ、彼女の求むるものはよしその領土の半ばなりとも、喜んで与うべきを誓った(エステル記5・6参照)彼女は出て行って、その母に謀ったが、この毒婦は策略の図に当たったことを私かに喜びつつ、バプテスマのヨハネの首級を、さながら美わしき食物の如くに盆にもって与えられんことを求めしめた。

 彼は深く憂悶して、その誓いを取り消さんことを願ったけれども、その当時の名誉にかけては、これを実行するを得ず、ついに苦しくも意志に反し、処刑者を牢獄に遣わして預言者を斬首せしめた、処刑は行なわれた。首は盆に盛って宴筵の席に齎され、サロメに与えられた。この恐ろしき獲物を彼女はヘロデヤの許に携えて来たが、フルヴェキアの残忍にも比ぶべき妖婦は、ただにこれを見て楽しむに満足せず、小柄をもって、かつて彼女の罪悪を弾劾した預言者の雄弁な舌を寸断したと伝えらるる。

※何とも非道な最後で正視能わざるできごとである。そして今まさに行なわれていると報道されているウクライナのジェノサイド、また「安政の大獄」と言われる幕末の出来事〈最近縁あって『巨人伝説』野口武彦著を読んだのだが〉、これらの古今東西の事件を問うまでもなく、人間の悪は極まるところがない。David Smithがこの一連の出来事を叙述するにあたって、「主の受肉の日々」と人間の罪がどうかかわるのかの観点から、昨日に述べたように、すでに他の11項目を挙げていることを改めて振り返りたい。)

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