流る川 桜堤と 天空と |
これは短期の旅行である。また気候の良い秋であった。だから『何も持って行ってはいけません』と軽装して出かけるように命じたのであった。主の死後永い伝道をなすためにはこれと反対に『今は、財布のある者は財布を持ちなさい』(ルカ22・36)と命じ給うた。
方法は時と場合によって変わる。けれども精神に変わりはない。どんな時でも主の弟子たる者が伝道する場合に自身の安楽を求めてはならない。ほとんど不足すると思われるほどに切りつめた生活でよいのである。『どこででも一軒の家にはいったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい』(10節)との命も同じ意味である。
最初の一日くらいは誰でも歓迎してくれるが、永い滞在では歓迎ぶりが衰える。自分の安楽を求めて歓迎される家へと転々するなとの意味である。
祈祷
ああ主よ、あなたは私のために天を棄てて貧しい地の貧しき民となり給えり。願わくはあなたの名のために喜んで貧しさを忍び、苦しみに耐える者となし給え。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著93頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。以下デービッド・スミス『受肉者耶蘇』の11「彼らの準備」と題する文章を引用する。
彼らの準備については、杖のほか携うるなかれと戒められた。けだしこれが彼らにとって甚だ重要であって、旅程は遠く、彼らはつねに疲労し、脚力の尽きることあるべきがためであった。そのほかにはパンも、袋も、金銭も必要ではない。靴のまま出発して、一般の旅客の如く下着を、その着替えのためまた冷気のため重ねる用意に携うる要はない。かく不用意のままに出発せねばならぬ。
けだし、これには二様の理由があった。一つは急な旅行なるがゆえに準備のため、また荷物の運搬のために時日の遷延、いな東洋風の面倒な挨拶を途上に会う人と相交わすに費やす暇をすら許さないのであった(2列王記4・29)また一つには彼らはその事業に対する報酬として衣食を求むるを許されているからであった。『働く者のその食物を得るは宣べなり』と仰せられた(1コリント9・14)。恐らくこれにはさらに深淵な意義があるのであって、神殿の山上に踏み入るものは何人に限らず、杖や、靴や、財布やを携え、汚れた足をもっては許されざる所で、イエスはその事業の神聖なことを意識せしめんがためにこの規定をここに適用せられたものであろう。彼らの赴く所は、さながら神聖な個所と同一である。)
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