2022年4月19日火曜日

パンのために多く集まる、されど(上)

というのは、彼らはまだパンのことから悟ることがなく、その心は堅く閉じていたからである。(マルコ6・52)

 これはマルコが憤慨した語であるか。然らざればペテロが当時を回顧して慚愧(ざんき)した語であろう。エマオの途上において復活の主がクレオパに出会い給うた時にも『・・・信じない。心の鈍い人たち』(ルカ24・25)と嘆息し給うた。人の心は物質界のことに囚われて霊界のことは信ずるに鈍く、忘れるに早い。弟子らがいかにも鈍感で健忘症であったように感ずるけれども、私たちはヨリ以上に鈍感で健忘ではないだろうか。私自身の生涯にも主の大なる奇蹟が幾度も行なわれているが、その当時の感激は夢のように消えて、それが自然の出来事であったような記憶になっている。飛んでは落ち、飛んでは落ちる蛙である。その飛躍は稀でかつ乏しい。

祈祷
主イエスよ、あなたは昔のように今も生きて働き、私のため私の救いのために大いなることを惜しみなく行いなさることを信じて忘れることのないようにして下さい。願わくは、この世にさとくあなたには鈍い私の魂を更生して下さって、日々あなたの奇蹟に生きる者とさせて下さい。日常茶飯事にさえあなたの奇蹟を見出し、あなたの手を握って感激する者とならせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著109頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。なお、デービッド・スミスは『Days of His Flesh〈受肉者耶蘇〉』で第28章『カペナウムにおける論争』と題して以下の文章を綴っている。〈『受肉者耶蘇』上巻461頁『Days of His Flesh』240頁より〉参考のため今日と明日の二回に分けて掲載する。

『イエスはその天国を愛する者を多く有し給えり。されどもその十字架を負う者は稀なりき。イエスは口を以って行動を共にするものを多く有し給えり。不屈の同労者は極めて少なし、そのパンのためには多くの従者を有し給えり。しかもその苦難の苦き盃を飲まんとするの従者は稀なり。奇蹟の故にイエスを尊ぶもの多しといえども、十字架の恥辱を倶にするの従者は稀なり』〈基督の模倣 第二巻第11章〉

〈マタイ14・34〜36、ヨハネ6・22〜7・1、マタイ15・1〜20、マルコ7・1〜23、ルカ6・39〉

1「民衆の当惑」2「会堂における問答」3「イエスに奉従する試験」4「一般の錯乱」(「十二人忠信を以って留まる」)5「彼らのうちに謀反人」6「伝道の継続」7「手を洗わずとの攻撃」8「主の答弁」9「真の穢れ」10「十二使徒の鈍性(dulness)」11「使徒の教育隠密となる」 

1「民衆の当惑」
 弟子たちの乗船するのを見ても群衆はことごとくは散会しなかった。蓋しイエスが小舟のうちに見えないのを知って、彼らのある者はイエスが再び出て来られるであろうとの望みを以って世の明けるまでも家に帰ろうともしなかった。夜の間にテベリヤの小舟の一行は必然その日の暴風に押し流されて陸近く漂って来たので、彼らはこれらに便乗してカペナウムに帰ったが、彼らの帰着するや、驚くべし、イエスは彼らより先に帰っておられたのを発見した。
 如何に解すべきかを彼らは惑いつつも、そのメッシヤたることを確信し、昨夕の奇蹟を以ってその確信は愈々強固となった。第一の贖主モオゼが天よりのパンを以ってイスラエルを養ったように、第二の贖主メッシヤもまたこれを供するというのがユダヤ人の間に行なわれた思想であった。否ただにそれのみならず、彼らをバシャンの野に導いて、マナを彼らのため再び降らしむるものとせられた。〈ヨハネ6・30〜31〉古人のバシャンとはバタにあのベッサイダの野のことではないか。イエスは確実にメッシヤに相違はない。しかるに何故にその権威を棄て、これを王として宣言せんとする彼らを遁れて山に入られたのであろうか。彼らは衷心より困惑したが、その当時万事を悟るべき機会は到来したのであった。これは一週間、会堂において礼拝の行なわるべき両日、すなわち月曜日か、木曜日かのうちいづれか出あった〈ヨハネ6・59〉。イエスは会堂に出席して説教せられたが、その習慣に従って後に質問を許された。

2「会堂における問答」
 迷信的観察者にはイエスがそのしるしを表して充分の成功を遂げられたものと思われた。イエスは今や、そのメッシヤなるを主張し、国民にこれを認識せしめんとして証明に熱注する群衆の讃美に包まれ給うたのであった。しかしイエスを以って見らるれば、これはほとんど全然失敗に近き、失望すべき苦しき時期であった。群衆の熱注は畢竟、その天職を誤り信じて感激しているに過ぎない。彼らはイエスを以ってメッシヤと認むるけれども、なお彼らはその軛の下より彼らを救い、豊かにパンを供給すべき地上の王としてメッシヤを考えていた。イエスの喜び給話ざるは、彼らの讃美がこの誤れる思想に基けるがためであって、今や極力彼らの真鍮に期する所を斥けて、これに蔽わんとする事実を排せらるる必要の時期に際会せられた。すなわちイエスはその行動に取り掛かられた。先づ第一に彼らの非霊的なるを叱責して『まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです』〈ヨハネ6・26〉と仰せられた。なお進んで昨夕と昨夜との奇蹟を説明して、その死と復活との予標なるを示し、神秘的な教訓を施された。彼らは天寄りのパンを以って養わるべき救い主を望んでいる。『神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも決して渇くことがありません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます』〈ヨハネ6・33、35、53、54〉)

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