その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけ
イエスは明らかに神の教えと人の訓戒とを区別している。この点は現代の宗教家と異なっている。現代の神学者は次第に天啓という語を用いなくなって来ている。昔の神学者は宗教を区別して自然宗教と天啓宗教とに区別し、キリスト教のみが天啓教だと主張した。現代の神学者は斯くの如き区別を旧式と嘲笑う。キリスト非か現代人是か。私はキリストのご意見に従いたい。世の中に多くの教えがある。いづれが悪いと言うのではないが、神から直接に出づるキリストの真理ほどに人を活かすものは無い。人の訓戒は人の訓戒として相当の価値はあるが、キリストから流れ出たもののような力が無い。信者たる我々はこの点をハッキリしておく必要があるであろう。絶対の真理はキリストの他には無い。私は如何なる宗教にも反対するものではない。但し一切の宗教や道徳はキリストの査証を待って始めて私の心に入国する。
祈祷
主イエスよ、私にとってはあなただけが唯一の真理であり、一切の教えの究極であることを感謝申し上げます。あなたは実に私の道であり、真のいのちでありますゆえに、他の何物をも必要としないことを感謝申し上げます。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著115頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。引き続いて、クレッツマンの『聖書の黙想』〈112頁〉を以下に引用する。
律法は父母をののしることは死罪に値すると宣告していた。ところが、パリサイ人は律法の裏をかくのも、いとやすいことにしてしまった。年老いた両親を扶養するために必要な金は、言い伝えによって認められている何か宗教上の目的のために捧げることを誓うならば、もうそれで、その金はひっこめてしまうことができるという訳なのである。今日の人々はある儀式に対して神のみことばが求めているところを行なうことよりも、その儀式を敬虔の見せかけを装って演ずることの方が、はるかに容易であることに気づくだろう。)
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