2022年4月22日金曜日

しきたりに縛られる人のトンチンカンさ

パリサイ人は・・・手をよく洗わないでは食事をせず・・・このほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある(マルコ7・3〜4)

 これは衛生上の理由からではなく、宗教上の汚れを防ぐためである。宗教上の儀式や形式というものはそれ自体は決して悪いものではない。貴金属や宝石類がこれが納める函を要するように、宗教上の尊い真理は度々ある形式の中に保管せられる。洗礼や聖餐はこの種に属する。しかし形式そのものを余りに見つめてはいけない。宗派や教会に固執してキリストを見忘れる人もある。洗礼や聖餐ですらも信仰と愛の代用とはならない。信仰と愛と望みとの容器としてのみ効用がある。まして宗派や教会をやである。紳士の心なき者が作法の書を暗記してもダメな話である。鉢を洗ってもよい。銅器を洗ってもよい。だが、先ず自分の心を洗うことを忘れてはならない。況んや自分の形式に当て嵌まらぬからと言って、他を非難する心を抱くようなことをしては大変である。

祈祷
神様、どうか手を洗うときに心を洗うことを忘れず、皿や鉢を洗うときに霊魂を清めていただくことを忘れぬようにして下さい。外形に事を行うときに、内心が空洞でありませぬようにして下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著112頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下、クレッツマンの『聖書の黙想』110頁から

 福音書の記者はここで、パリサイ人によって守られ、一般のユダヤ人によって受け継がれている色々な言い伝えの一つに触れている。それは、彼らが律法ーーモーセの律法ばかりでなく、昔の人の言い伝えーーの求めるところに従って、儀礼的な清めの風習を非常に厳しく守っていたということだ。

 この清めは「水の洗い」と呼ばれ、一般には、ギリシャ語の文献に記されているように、「こぶし」で行われた。つまり、清めるべき人や物の上へ水を注ぐために、手のひらの部分を用いたのである。このように水を注ぐとか、ふりかけるとかいうことは、水が流れていることを意味していた。よどんだ、動かない水は不浄なものと考えられていたからである。

 人々は市場から帰ると、市場というところは儀礼上の不浄に陥り易い場所だったので、まず、第一に清めの水を、自分自身の体やテーブルや食器類全部に注いでからでなくては、食卓につこうとはしなかった。従って、イエスの弟子たちがこれだけの儀式を経ないで、パンを食べるのを見て、彼らがけしからぬと思ったのも当然で、そんなことを許したイエスをとがめたのも不思議ではなかった。おそらく、彼らは荒野で五千人の群衆が食事をした時のことを言っていたのだろう。そこでは、「水の洗い」のようなものは守られなかったからである。こんな末梢事にこだわって腹を立て、肝心の奇蹟と、それを行った方の力を看過してしまうとは、悲しむべきことではないか。)

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