2015年5月30日土曜日

「国家と宗教のあいだ」(吉本隆明講演集〈6〉)雑感

彦根城中堀に面する旧彦根高商講堂※

 以前、吉本隆明氏について書いたことがある。http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2012/03/blog-post_16.html その折りの講演記録が、今回出版された本の中に収録されているのを知った。早速、図書館に講読を申し込んで先頃手にすることができた。

 講演の題名は『「ナショナリズム」について』で、1965年11月30日がその講演日であった。あれから今日半世紀が経とうとしている。なし崩し的に進む、今日の暴力的とも言える政権側の安保法制に唯々諾々と従っているとしか見えない私ども日本国民の姿は一体どうしたことか。これが日本のアイデンティティー確立の唯一の正しい道なのだろうか、悲しくなってくる。

 50年前、学園に、「吉本氏現われる」のニュースは燎原の火のごとく広まって行った。弱小の地方の大学にどうして吉本隆明氏が来てくれるのだろうか、半信半疑であった私はそれでも興奮の面持ちでその講演会に臨んだ。再録された記録によると、まぎれもないその時の熱気が伝わってくる。冒頭と末尾のセリフだ。

「ただいま紹介のあった吉本です」

「現在でいえば、新憲法みたいな形で国家の幻想の共同性は法的に守られているのですが、これを越えてなにか知らないけれども世界の最高の段階に上昇せざるをえないという課題で共同性をむすぶのでなく、この上昇したところから再び大衆の原像にもどってくるところに課題を考えるのが僕らの立場です。(略)
 こういう考えは、戦争体験とか、さまざまの思考の径路が錯綜して、自分の中に形成されてきたのですが、しかし僕の考えているナショナリズムの基本的な問題は、そういうところにあるのであって、それが思想の問題であって、たんなる自然過程は思想の問題でないというのは、それは、啓蒙の問題で、カタライザーとしてどう媒介できるかにすぎないということで、本当の思想の問題はそんなところに存在しないということを申しあげれば私としては、皆さんにお伝えすることの具体的なことはすべて終わるわけです。
 これからは質疑とか討論の過程でもっとこまかいこと、もっと別のことについても話しあっていきたいと思います。せっかく来たんですからできるだけおつきあいして帰りたいと思います。これで・・・・。」

 このような吉本隆明氏の言明は、当時私たち左翼学生からは保守派論客としか見えていなかった江藤淳や福田恆存に対する新評価とあいまって新鮮な驚きとなって私は一挙にその思想の虜となっていった。たまたま今回の出身校の恩師の卒業生にあててのことばやAFS留学生の外から見た日本のありかたを古い新聞から捜し当てて読んだのだが、いみじくもこの講演に裏から光を当てている感じがした。

 恩師の言はある意味で知識人が大衆をリードすべき存在であるという視点に貫かれていた。しかし吉本氏はそのようなことはおぞましいと考えたのでないか。各人が生活の中で思想を持つのは極めて自然過程であって各人がそれぞれ自らどのように思想を構築するかその競いあいだと考えたのでないか。 AFS留学生の4名からなる座談会の見出しは「実践力に欠ける日本人 理論づくめでは駄目」とあった。きわめて具体的な提言である。もし吉本氏がこの高校新聞の記事を読むとすれば、どう言ったのだろうか。

 主イエス様に出会うまで、私は熱狂的な吉本シンパであった。その吉本氏の実像は後生の人々を通じて明らかになっていく。講演集の月報に三浦雅士氏が書き連ねていることもその一つかも知れない。

 結局、吉本氏も当然時代の子であって、新しい世代の代弁者であったのだ、と今にして思い知る。

しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。(ヘブル7・24〜26)

(※この講堂を沿って進み右側に位置した階段教室で半世紀前吉本氏は講演した。私の叔父はこの講堂に何度となく出入りしたことであろう。叔父も私もこの学園にお世話になったが、昨日叔父が亡くなったという知らせを聞いた。不覚にも叔父には余りこの学園のことを聞かず仕舞いであった。今となっては、生意気盛りで身の程知らずであった高校3年生の私に諄々と「衣食足りて礼節を知る」と経済学の効用を解き、諌めてくれた叔父がひとえに懐かしい。http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2015/04/blog-post_17.html

2015年5月28日木曜日

キリスト教とその疑問(私の宗教迷論) 

表門橋に向かう中堀の沿道の松並木、「いろは松」通学路の一つであった

 前回、出身校の64、65合併号の新聞に載っていた先生の卒業生に贈ることばを載せさせていただいた。ところがこの合併号は56年後の今日読んでも大変読み応えのある記事が満載されていて驚かされる。同誌にはさらに四人のAFS留学生の紙上座談会なるものが掲載されていて、その中味は結構な日本文化批判になっているからだ。そしてそれに並行するかのように、同じ紙面に書かれている標題の署名記事があった。6段にわたるかなりな分量の記事である。以下、その一部を書き写してみる。

 「宗教」この言葉は我々にとって一種独得な異様なひびきをもっている。そして宗教、信仰には無関心、必要性認めずと頭からこれを否定する人また少なからずといったところか。
 私はここでいわゆる「宗教私論」なるものを述べようとは毛頭思わない。否私にはその資格もない。しかし以前からこの宗教に対しては一応の関心というか、ある未知に対する興味というものを少なからず持っていたところ、ある偶然の機会から更に一歩その関心の度合というものが高まった故をもっていろいろな方面から再確認してみた。
 宣教師として八年前来日され現在滋賀大学講師をしておられるジョン・マッソン氏(スコットランド人)に会見する機会が与えられたことは幸いであった。彼はいう。

「日本人は大変良い国民だ。しかし彼らはいわゆる物質的に成功さえすればそれで満足している。快楽、金というもので満足しているのが大多数の日本国民だ。しかし彼らは迷っている。精神的安定、ゆとりがない。それは信仰していないからだ。不信仰であることは決して救われない。神に立ち返るまでは救われない。私はすべての日本国民がクリスチャンになることを望んでいる」さらに彼の話は続く。
 「キリスト教を信仰してみて『ああよかった。何故もっと早く信仰しなかったのだろう』と誰もがきっと言います」

 「どうすれば信仰することができるのか」

 「聖書だ、聖書さえ読めばよい。聖書は”心のともしび”だ。聖書は”鏡”だ。読めば自分自身がよくわかる。実に力強い書物だ」と。更に彼は「聖書を信じることだ。 Seeing is believing といわれている。(しかし)Believing is seeing 聖書においてはこれだ。まず頭から信じ切って読んでみることだ。そうすれば自分自身がもっとよくわかるだろう」

 マッソン先生との会話の一端を紹介してみた。私は延々四時間余りにわたる彼との会話で大いなる影響を受けたことは事実だ。大いに動かされた。少なくとも今までとは違った目でキリスト教を再確認したとでもいおうか。そして「自分はキリスト教を信仰する必要がある」と思わざるを得なくなる立場におし迫られた。これは単なる”未知へのあこがれ”という言葉ですましてしまいたくない気持ちだ。

 「信仰して何になる。キリスト教を信仰しなくったって精神的安定は得られるではないか。いわゆるモラル道徳というものがある」ある人(あえて無神論者とは言わない)はこう言うだろう。確かにその通りである。

 思うに一つの定義を下すならば宗教を信仰するということは”死”というものがあらゆる根源になっているということである。人間は必ず死ぬ運命にある。我々(宗教を信仰していないもの)が思うことはこの”死”という一つの事実によってすべてが終るということであろう。「死んだらすべておしまいだ」ということだ。それ故我々は大いに死を恐れる。信者と不信者との考えの相違、宗教必要の是非論はこの観点から生ずるのではなかろうか。

 すなわちキリスト教では「死後の世界」を肯定している。この死後の世界がある証拠として、イエス・キリストの復活がある。神の子であるイエスが人間のためにゲッセマネにて、血の汗を流し十字架の上で処刑された。彼がそのまま死んだままだとしたらキリスト教というものが起こり得なかったかも知れない。しかしキリストは死後三日目に復活、すなわち人間の体として生き返った。これは彼が死に打ち勝った事ではないか。ところがこのイエスの復活を信じない人があるだろう。私もそうだった。しかし、彼の死を、そして復活を現に見た人たちによって聖書が書かれたのであるから、この復活は信ずるに値するのではなかろうか。

 こう述べて、論者はさらにパスカル、ルソーを援用しながら最後にある方の著書からの引用だと言って次のように締めくくる。

 神を対象にした「信じる」と言う言葉に反感をおぼえる人があるらしいがしかし、我々の日常生活において最もひんぱんに用いられている言葉の一つは「信じる」である。
A. たとえば我々はアウグストス皇帝が実際に存在したことを信じている。すなわちこういう歴史的実在をこの目で見なくとも信ずるに足る証拠があるからこそ「確実に納得する」のである。これと同様に母の料理には毒が入っていないと信じる。そういうことは想像さえもしない。信じるということには疑いをはさまぬ確実さがある。

B. 信じるという行為の対象は一つの真理であるから従って理性の行為である。すなわち「理性的な納得」である。理性の納得は広義に見れば二つに分けられる。一つは自明性に基づく納得であり、例えば四プラス四が八になるというようなことである。(もう一つは)例えば私のポケットに千円入っていると私が言ってあなたがそうだと思うなら、あなたは私の言葉を信じたことになる。しかしこの場合には理性で納得するより先に話す相手の権威と真実さとを調べることになる。冗談や嘘をつき慣れている人の言葉ならすぐに信じないだろう。結局信じるためには二つの要素がいる。一つの真理を認めることとその真理を言う人の権威にもとづくこと、この二つである。

C. これを宗教的な信仰に応用すれば次のようになる。
(1)啓示された真理
(2)この真理をあやまることもなく人をだますこともない神の権威に基づいて信じる。

 要するに宗教の信仰は神の権威にもとづく確実な納得である。(滝本)

 私は、今回帰省中に反古にしても同然の母校の新聞から、このような記事があるのを知った。署名を手がかりに私はこの方が一年先輩の当時二年生の方であり、その後、新聞記者になられ、最後は大学の外国語学部の先生になられたことを知った。残念ながらこの方は12年前に召されておりお会いすることがもはや叶わなくなった。高校時代、この記事については読んだ記憶が全然ない。それほど私は福音とは縁遠かった。その私が56年後、この滝本さんの記事に深い感銘を覚えさせら、拝読させていただいている。

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。(伝道者12・1〜2)

2015年5月26日火曜日

ヨカ、ヨカ、零点たっちゃ飯は喰わるる

彦根東高校新聞(64、65合併号 71号

   それは私の中学三年の時のことでした。定期試験で数学の先生からクラス一同、みんなひどい点数をもらって愕然と色を失い、生徒控え所である雨天体操場で、そのことについて皆でワイワイ話し合っていました。丁度日華事変の始まった頃で、雨天体操場の真中からむこう側半分には、近日中に中国の野戦に出かける兵士が沢山泊っていました。彼らは出動するまでのひとときを半ば持て余し気味に、小銃の手入れをしたり、外套を背のうに結びつけてみたり、身の廻りの品を整とんしたりしていましたが、私達はその横で兵士たちには全然無関係なこと、即ち何故あの先生はあんなひどい点をくれたのだろう。あの先生が怒ると数学だけで遠慮なく落第させるそうだなどと心配そうに話し合っていたのでした。

    その時突然、その兵士の中の一人のおっさんが私たち中学生に向かって大きい声でこうさけびました。「ヨカ、ヨカ、零点たっちゃ飯は喰わるる!」その兵士は召集される前におそらく百姓でもしていたのでしょう。陽に焼けた真っ黒な顔をほころばせながら私達にこういう意味のことを叫んだのです。いいじゃないか。学科が零点でも人間は御飯が喰えるんだ。その声が余り大きかったので今までざわついていた広い雨天体操場が一瞬急に静かになりましたが、それはすぐに兵士たちの大きな爆笑にかわりました。私達中学生もその爆笑につりこまれて思わず一緒に笑い出しました。みんな心の中で何かほっとしたような気になって。

    それから十年たちました。敗戦後のその頃、私はソ連の捕虜として将校待遇の特権も取り上げられ、連日激しい肉体労働におわれていました。きびしいノルマにおわれて穴を掘り、石を割り、小麦粉の袋をかつがされました。みるみる身体は衰弱しやがて栄養失調になり、手足はやせ細りましたが顔はうっとうしい位大きくはれました。弱り切った一人の捕虜に毎日の肉体労働は余りにも重荷でした。今日一日仕事ができるだろうか。明日は本当に倒れてしまうのではないだろうか。私はとうとう人生のギリギリの瀬戸際に追い込まれたのでした。

    人間は肉体が衰弱すると頭脳の働きも鈍って意識がもうろうとなってくるものです。こうなりますと一人の捕虜が持っている学歴とか教養とか知性というものは如何にも無力なものでした。一時あれほど流れた汗も今は全く出なくなりました。私は鼻汁をたらしハアハアと荒い呼吸をしながらノロノロと毎日身体を動かしていました。あらゆる虚飾を削りおとされて今、私は一人の単純な肉体労働をする捕虜になりました。そしてこの弱り切った捕虜がそういう混濁した意識の中ではっきり聴いたのはあの「ヨカ、ヨカ、零点たっちゃ飯は喰わるる」という叫びでした。俺はやっとあの叫び声の意味が分かったような気がする。しかし、俺はもう死ぬかも知れん、私はそう思いました。

    それからもう十年たって、卒業していくあなたがたにこの文章を書いています。あなた方の大部分は将来頭脳を使う職業につくだろうと思います。これは大切な職業です。しかしそうであるが故にこれだけの事をあなたがたに言いたいのです。

一、こんな悲惨な体験はしなくても宜しいが、厳密な意味での労働を味わわないで人生の全部は分からないのじゃないか。

二、あなた方は何らかの意味で社会の指導者になってもらう人たちだと思います。そうでなくても中堅分子になってもらう人たちです。その場合「ヨカ、ヨカ、零点たっちゃ飯は喰わるる」と叫ぶ事のできるいわゆる大衆を自分は将来指導する立場にたつかも知れない或いはそういう大衆とつきあってゆくのだという謙虚な気持ちを忘れないでほしいということです。

(帰省中、高校時代の新聞を引き出して眺めていた。その中で、一年の三学期の1959年の3月7日に発行された64、65合併号に掲載されていた21人の教師団が卒業生に贈る言葉の中にあったある先生の文章にまず着目させられた。上記の文章がそれである。恐らくご自身の戦争体験とそれらを突き抜けるかのような一兵士の何気ない言葉に闊達さを発見し、労働する者の強みを通して、何が人間にとって大切かを考えさせようとなさったのでないだろうか。肝心の最後の提言は大変なエリート意識があふれていて辟易させられるが、高校進学率が50%台、大学進学率が10%台という背景があると思う。私はこの先生に「一般社会」という科目を教わった。内容がつかめず苦労した科目でつねに60点そこそこの成績だったように記憶する。後年、私も教師になり「現代社会」という科目を通して高校生諸君とともに社会のあり方を考えるなんて当時は想像もしなかった。

「時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ。」箴言25・11 

 次に、もう一つ気づかされたことがあった。それは21人の教師団が贈られることばの最初の先生のそれは逆に最も短く「人はパンだけに生きるにあらず」マタイ伝とあったからである。久しく私はこのことばをどのようにして知ったのかがわからなかったのだが、この新聞の先生の言葉を通して知るようになったのでないかと思った。けれども、このことばは確かに聖書のことばにはちがいないが、その半面しかあらわしていない。語られる先生にはその信仰がなかったからであろう。だからその同じ新聞紙面に上のような「キリスト教」と題する生徒の投稿が載せてあるのは大変な編集の妙だと一人感心した。そして、その生徒が展開するのは上記の先生の人生観をも凌駕するかのような論評であるからである。明日はそれを紹介しよう。)

2015年5月10日日曜日

長島の先住者山田景久氏を偲ぶ(下)

著者宮川氏は左端の方(長島愛生園 昭和10.9.10)

 彼の晩年は不遇であって、彼の妻、しかは明治19年4月2日51歳で彼に先だち、彼は明治31年9月27日、寂しくこの世に別れを告げた。時に年84歳。

 彼は死んで日出山際に葬られ、形ばかりの石塔が積まれたが、年古りてその墳墓は壊滅し、笹の生えるに任せてあった。ここに光田園長、坂本裳掛村長など相謀り、長島の唯一のパイオニアの霊を弔わんと檄をとばし、四十数円を得て、一基の石塔を新調し、8月20日、虫明興福寺和尚を聘し(※)、一座の法会を行なった。(中略)

 偉大なる長島の開拓者よ、おんみあるによって、今日安らかな天地を与えられた数千の病者は幸いなる哉。われらまたこの清き地を、さらに清きものとすべく守りつづけるであろう。唯一の長島の先住民よ。乞う、われらを冥助せよ。(昭和7年・長島開拓)

     祈り

 人生において、祈りを土台にせずして何が出来たであろうか。釈迦の菩提樹下の涅槃は、祈りというべきではないかもしれないが、一切衆生に向かっての下座の姿は、人生のもっとも崇高な祈りの境地といってよいと思う。

 ゴルゴタ山上のイエスの祈りは、この世を根本的に改造した最高、最大の祈りである。

 みずから毒を飲み、従容と死んだソクラテスをつらぬくものは、ただ一つの祈りにすぎない。

 明治維新の大業も、また志士たちの祈りのあらわれである。地上に祈りなくして、何の事業が成就し、何の建設があろうか。三友寺墓地の祈りは岡山孤児院を生み、それを大ならしめた。

 アウガスチンを生んだものは母の祈りであった。中江藤樹も母の祈りによって学んだ。幼少のとき、四国へ渡って学んだ藤樹が、母のため「あかぎれ」の妙薬を見つけ、郷里へ持参したところ、母は藤樹を追い帰し、そのうしろ姿を拝んだという。

 今日現われて、明日消える事業はさておき、永遠に残る事業たらしめるためには、祈りが最大の要素である。

 光田先生の祈りの前に、病友たちはおちついた生活の中から、ようやく自己を見出しはじめた。先生の祈りを学び、その祈りに合わせて、ひたすら祈りたいとおもう。

(※著者宮川量〈みやかわはかる〉氏は高山にある真宗大谷派のお寺に生を得、少年時代に得度し、学校の休みの間は父の代役を果たし檀家廻りをされたと言う。その後、病を得、かつまた寺院生活に疑問を持ち、煩悶を積み重ねる内に聖書に出合い、救われた。その彼はどんな思いを持ち、この法会に連なっておられたのだろうか。
  故郷を出て千葉の高等園芸学校に学ばれ、かねて年少より持たれていた救癩の思いが主イエス・キリストと結びつけられたのは次の本間俊平のことばであった。『其許は癩は悲惨のどん底と言われるが、悲惨とは神を知らざることで、神を知ればすべてのものが感激に変るのである』以後、園芸の術を生かし岡山長島に、沖縄にとその生涯を救癩と癩者の魂の救いのために仕えられ、さらに医師となり直接的に癩患者と関わろうとされたが病と死のためにそれは実現しなかった。
 しかし、その生き様は奥様を通して子どもさんに受け継がれた。「人は信念によって生きるのではない、(イエス・キリストに対する)信仰によって生きるんだよ」とは量氏亡き後千代子夫人が子どもさんたちに語り残されたことばと聞く。 
 しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。ヘブル7・24〜25

2015年5月9日土曜日

長島の先住者山田景久氏を偲ぶ(上)


 今の日出患者住宅には、昔「狸の毛皮を纏った、六尺近い、鰡(ぼら)のような魚をも頭から喰う、赤鞘の太刀を持った侍」が住んでいた。彼は長島唯一の先住民である。われわれはこの偉大なるパイオイニヤに敬意を表し、いささか彼の風貌を録してみたい。

 長島は、古来牧場として有名であったが、幕末の頃伊木家は長島牧場の番士として山田氏を遣わし、長島日出に住まわせた。(現在の炊事場付近)彼は資性実直剛胆、行跡常人を卓越し、奇人として知られていた。任は牧場の番であったが、禄高が少ないため畑作をもって副業としていた。

 長島には古来狐狸が沢山棲んでいたので、山田氏はこれを捕えて剥ぎ、皮は衣服とし、肉は食料としていた。また、海に飛び込んで魚を手掴みにし、「たこ」のごときは生で頭から喰ってしまうような、すこぶる「グロテスク」な士であった。

 ある時、例によって真っ裸で海中にはいっていた際、参勤交代の途、島原の中川修理太夫の船が水を得んものと近づいて来た。船中の侍は海中にいる男をただの漁師と思い、何気なくぞんざいな口調をもって水を求めた。くだんの男は一言の答えもなく、急ぎ家に帰り、再び立ち帰った姿を見ると、礼服着用、威儀堂堂たる士、「われこそ伊木家の臣、山田治武左衛門景久と申す」と名乗りをあげたので、先刻の家臣は急に態度を改め、いんぎんに水を乞うた。彼は水に加えるに、平素乾し貯えた乾魚を添えて呈し帰らしめた。中川修理太夫これを聞き、大いにその好意に感じ、さらに物を与えて感謝の意を表したと伝えられている。

 彼は、備前長船横山祐之に重量二貫目の太刀を鍛えしめ、銘して「伊木家臣山田・・・」と刻せしめ、好んでこれを帯びた。長州征伐の際、兵糧運搬の任に当たり、広島に出陣した際、往来に榊原の同勢洋式の銃を組んで休息していた。

 治武左衛門例の太刀を帯び、陣羽織の下からは狐の皮がはみだしたまま通りかかり、小癪なとばかり例の太刀をもって当たれば、ことごとく銃は倒れたが、人々は彼の異様な風体に気をのまれ、誰一人として一言も言いえなかった。大西郷も傍らにあって微笑して見ていたと伝えられている。

 明治7年、版籍奉還の際、他人はその下付金で利殖を計る時に、彼は超然下付金ことごとく、投じて陣羽織、太鼓、ほら貝を求め、家族の者どもに具足せしめ、ブーブードンドンと長島の中を行軍したと。もって彼の真面目を察することができる。彼は非常に義理固く、毎年旧恩を忘れず、手作りの籠に魚類、つつじなど折添え、岡山の伊木家に献じるのを常としたという。

(『飛騨に生まれて』宮川量著193頁より引用。この著者はわずか45歳で召された。現在は国立療養所長島愛生園と称されるが、その施設を設けるべく1930年の開設期に光田園長とともに鍬を投じられた方である。総頁302頁にわたる著者の遺稿集である。『国籍を天に置いて(父の手紙)』が取り持つ縁で先頃この素晴らしい本を手にした。一部紹介する。この短文を引用するにつけ、私は同時に二つの聖書箇所を思わざるを得なかった。一つはバプテスマのヨハネの紹介文。今一つはヨハネの福音書4章に書かれてある、スカルの女に水を所望されたイエス様の記事である。読者顧みて同個所を読まれれば幸いである。ここでは以下の個所のみことばを書きとめる。そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。マタイ3・2〜4