2022年9月30日金曜日

わな(3)

彼らはイエスのところに来て、言った。「先生、私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないでしょうか。(マルコ12・14)

 パリサイ人は税を納めたくない民衆の味方であり、ヘロデ党の人は税を取る官憲の味方である。この者どもが合同してイエスを陥れんとしつつあるのである。

 特に『あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています』などとお世辞を言って平素から率直で忌憚なく所信を言明するイエスをさらにおだてて、無雑作に直言させ、もって民衆の不満かカイザルの怒りかを買わしめようとしたのは実に巧妙なやり方であると言わねばなるまい。実に世の人はこの世のことに巧みである。これらを奸智(かんち)と言うのであろう。

 しかし、イエスの知恵は彼らの知恵に勝っていた。クリスチャンは正直でありさえすればよいのではない。主の仰せ給うた如く『蛇のようにさとく』なければならない。如何なるこの世の奸智をも見透すだけの知恵を研くべきである。ただに見透すだけでなく、さらに本質的な大智をもってこれらの小智を打破するだけの用意が欲しい。

祈祷
知恵と力のもとなる天の父よ。願わくは私たちにも天よりの知恵を与え給え。聖霊による大智を私たちに与えてこの世の小智に打ち勝つ事ができるようにさせ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著273頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 273https://www.youtube.com/watch?v=MjuLNPJNbXQ 

クレッツマン『聖書の黙想』189頁より

 彼らはこんな胸算用をしていたのである。ーーもし、イエスが一方の答え方をすると、ユダヤ人が大いに怒るだろう。が、しかし、また、別の答え方をしたら、今度はヘロデ党の者がイエスを国の敵として、その支配者に告げるはずである、と。

 その問題とはこうであった。

 「カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」。

 彼らは、はっきりと、一つの答えを要求した。

David Smithの『Days of His Flesh』〈原文403頁、邦訳779頁〉第42章 有司との対戦8 税金についての質問  

 代表者は格好の機会を窺い、慇懃な態度を装い、巧言令色をほしいままにして、イエスの判断を乞うべき質問を提出して、『先生、私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないでしょうか。』と言った。これは実に巧妙なわなであった。ユダヤ人はローマの羈絆の下に苦しみ悶え、征服者に対して税を納めさせられるのは、彼らの誇りとした精神の大いなる痛みであった。これ実に当時激烈な議論の戦わされた問題であって、この質問者は外観すこぶる真摯な口調をもって尋ねたのであった。パリサイ人は愛国的党派で、このパリサイの弟子らは青年の血気にまかせて、国民の名誉を護る高尚な苦心をもって行動したことは当然であったが、サドカイ人は世俗的その時主義であったけれども、なお国家の王権を蹂躙されるのを妬み、外国人の専制に服するのを恨んでいた。

9 油断ならざる相関論法

 これ至当な質問と見えたけれども、その実は狡猾なわなであった。イエスは必ずこれを納めることに反対されるのは明らかであって、このようにしてかつて謀反の企てを捨てなかったユダヤ人の騒擾に煩わされ、無情となったローマ人の残忍な復讐心に身を晒すようなものである。イエスはガリラヤ出身ではないか。而してガリラヤは真に暴徒の震源地であった。しかもイエスの親密な党与のうちにゼロテの自暴自棄する徒党が加わっているではないか。

 さらに、またイエスが税を納めることを当然であると主張されたと想像せよ、即刻人民の同情を失い、この防衛の城郭は撤去されて、有司たちの手に陥られるに違いない。群衆はイエスをメシヤと認め、王位に上って、ローマの暴政の下より救出されるべきを信じるが故にホサナと讃えてこれに従ったのであった。帝国の課税に屈従すべきを許されんか、彼らの目にはこれメシヤの権を放擲されたのと同様であって、時を移さず彼らはイエスを捨て去るに相違はなかった。)

2022年9月29日木曜日

わな(2)

さて、彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエスのところへ送った。(マルコ12・13)

 祭司らはサドカイ人である。サドカイ人とパリサイ人とヘロデ党、何という不格好な組み合わせであろう。この三者は平素互いに反目している間柄ではなかったか。犬と猿と雉子とでさえ、吉備団子と鬼ヶ島との前では一致したと言う。

 共同の利益と共同の敵の前には悪人でも各自の愛憎を犠牲にして一致するではないか。まして私たちキリストを主と仰ぎ。十字架の御恵みに浴した者は、悪魔との戦闘に力を尽くさねばならぬ今の時に、如何に毛色が変わっていようが、如何に性格が異なっていようが、如何に虫が好かなかろうが、各自の好き嫌いを犠牲にして、主の命じ給うたように、互いに愛し合わなければ。サドカイ、パリサイ人に対して申し訳がない。

祈祷
主よ、願わくは、私たちの毛嫌いを癒し給え。私たちのわがままである好き嫌いを癒し給え。而して私たちは自己の小さい愛憎を捨てて、あなたの大きな愛の中にあって、互いに赦し愛する者とならせ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著270頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌403https://www.youtube.com/watch?v=gQ8XFnbYSA0  )

2022年9月28日水曜日

わな(1)

さて、彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエスのところへ送った。(マルコ12・13)

 これは計画的なことであるが、私たちは度々不用意の時にこの過失に陥り易い。人と論ずる時に(論ずることは研究であって善いことであるが)何とはなしに勝ちたい気持ちが先立って来る。

 論ずることによって、二人三人の知恵を協力させようという気分よりも、自分が言い勝ちたい気分が先立つ。そこで本質的でない言葉尻をつかまえる。家庭における歓談の最中にも、こんな事が起こる事がある。

 小さい事であっても、人間というものは聖書の示す如く罪に浸潤しておることを証拠だてる。どちらを向いても悔い改めと謙遜との必要を認める。

祈祷
天の父よ、願わくは如何なる方法によるも人に勝たんとする罪の根より私を救い給え。人に勝たんとするよりも、自己に勝たんとする心、明日の自己を今日の自己に優らしめんとする心、自己を凌駕し自己を超越し、ただあなたに近づかんとする心を、私に与え給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著271頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 311https://www.youtube.com/watch?v=RTSwApFzNN8 

クレッツマン『聖書の黙想』〈189頁〉より

 ほとんど想像もつかないような図太さで、ユダヤ人は再び、矛先を向けて、戻って来た。今度はパリサイ人が問題を一つ用意していた。しかし、彼らは賢明にも、自ら、出かけて行くようなことはせず、ことを全く自然で当たり障りのないものに見せるために、ローマ人と親しいヘロデ党の者と一緒に、その中で最も抜け目のない連中をイエスのもとに遣わし、むずかしい問題の解決を迫った。

David Smithの『Days of His Flesh』〈原文403頁、邦訳779頁〉第42章 有司との対戦8 税金についての質問 より 

 これを滅亡せしむる決心をもって主の敵は、さらにその陋劣な心事を暴露する巧妙な他のわなを工夫した。彼らは自ら立ち向かうことを避けて、代表者としてタルソのサウロの如くラビの学校において教育されるパリサイ人の弟子なる数人の青年とヘロデ党である政府部内のサドカイ人数人を遣わした。当然その距離の遠いサドカイ人とパリサイ人とが、この不名誉の同盟を結び、共同してイエスに反抗したのはこれが初めてではなかった〈マルコ3・6〉)

2022年9月27日火曜日

悔い改めの機会を逃した彼ら(下)

それで、イエスを残して立ち去った。(マルコ12・12)

 もちろん、これは彼らがイエスの面前から去って行った事実の記載に過ぎない。けれども私には何となく悲しく響く。

 彼らの心が永遠にイエスから離れ去った姿がアリアリと目に見えるように思われて悲しい。否、彼らの姿は自分の姿ではないかと思われて悲しい気がする。父が心を尽くしてその子に厳しい訓戒を与える。子を悔い改めさせたいからである。子はその心に父を恨んで家を出て行く。

 父は一時的であろうことを心の中で切に祈っている。だが、その子は永久に帰っては来ない。『立ち去った』のであった。私は父なる神に対して、こんな間違いをしたくない。否、誰に対してでも、こんな冷たい心を持ちたくない。

祈祷
神よ、高ぶりかつ冷たい私の心を見て憐んで下さい。何という私でありましょう。私の心は、少しのことが気に入らないで、じきにあなたから、また愛する周囲の者からさえも『立ち去った』という冷たい心になります。泣いてお詫びを申し上げます。どうか私を憐んで、このような心を取り去って下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著270頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 524https://www.youtube.com/watch?v=rXAduhXrLBY )

2022年9月26日月曜日

悔い改めの機会を逃した彼ら(上)

彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、やはり群衆を恐れた。(マルコ12・12)

 これは実に私たちの姿ではないか。イエスの忠言がまっすぐに彼らの心臓を射たのである。今にても彼らが悔い改めてイエスの足下に跪いたならば、エルサレムは40年後の滅亡を免れたであろうし、彼らの霊魂も永遠に救われたであろうに、彼らは忠言を受け入れる代わりに、イエスを捕らえて殺さんとしたのである。

 キリスト教が精神修養や社会改良を説いていれば反対する者はないであろう。けれども無遠慮に罪の悔い改めを説く時に人気がよくない。殊に『あなたがその男です』※と単刀直入に指示される時に、すでに信者である者でも、これを受け入れるのは容易でない。私はむしろイエスの時代に生まれなかったことを喜ぶ。おそらくはイエスの直言に耐えかねて彼を十字架につけて、鬱憤を晴らす者の一人となったであろう。

祈祷
神よ、私を赦してください。願わくは、私を赦して祭司長らに等しい罪を犯さないようにしてください。私は直言を厭い、苦言を嫌います。私は『悔い改めよ』との声を聞くことを好まず、自らを義とすることを求め、人々よりラビラビと呼ばれることを好みます。神よ、願わくは私をあわれんで私の心臓を砕くまで私に鞭打ってください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著269頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌228https://www.youtube.com/watch?v=iVzRH2XUs8Y 
※これは言うまでもなく、預言者ナタンがダビデに言った言葉であろう。2サムエル12・7参照。)

2022年9月25日日曜日

捨てられた首石(おやいし)

「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」(マルコ12・10〜11)

 これは詩篇118の22と23節との句である。イスラエルの国はアッシリヤ、バビロンなどに滅ぼされて全く世界から捨てられたようになっている。しかしながらこの詩の作者はなお大いなる希望を持っている。多分何かの祭礼の時に作ったのであろうが、すべてを失ってもエホバをさえ失わなければイスラエルは滅びても滅びない、捨てられてもまた興る、という信仰に燃えている。

 「主は私の味方。私は恐れない。人は私に何ができよう。』との有名な句もこの詩篇の第6節にある。エホバに忠実なものは世間から捨てられる場合が多い。が、この捨てられた者こそ実にこの世を腐敗から救う塩であり、崩壊から救う柱石である。今は世界に見捨てられているが、ついに世界の柱石となるとの強い信念がこの詩の精神である。而して今日の世界は実にこの信念を裏書きしている。だが、それはイスラエルの国家の再興によってではなかった。彼らさえも捨てたイエスによってであった。

祈祷
捨てられて首石(おやいし)となり給える主よ、世に捨てられことを何物よりも恐れる弱い私たちをあわれんでください。願わくは私たちがすべての人に捨てられても、あなたに捨てられることがないようにしてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著268頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 121https://www.youtube.com/watch?v=SA9xnC0SB0w 

David Smithの『The Days of His Flesh』〈775頁〉より引用〈同書第42章 有司との対戦 5 家造りの捨てた石

 イエスは振り向いて、紙背に徹し、人の肺腑をも透見する驚くべき眼光を浴びせつつ『聖書に「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである」と録されしを未だ読まざるか』〈ルカ20・17、詩篇118篇22、23節〉と問われた。

 これ第二追放時代のもので、礼拝者が大祭日の一つに、再建せられた神殿に詣づる途上、歌った詩篇の118篇から引照せられたものであった。彼らの神殿に入るや、その眼は門を覆う石に奪われるのであった。おそらくそれは古い神殿の楣〈まぐさ〉の石であったろう。建築工が破損した殿堂を修築するにあたりこれが全く傷を負って形を損じているので、不用品として捨てたのを祭司が、かつて神聖な場所にあったのを連想して、価値を認め、それをもとの場所に置いたのであった。

 この情緒連綿たる記念を見て、詩篇の作者は、諸国民に侮蔑され、迫害せられてもなお神の選びと擁護を受けるイスラエルの象徴と感じたのである。然るにイエスはこれに新たな意義を適用された。ユダヤ人は今や迫害者と変じ、侮蔑者と転じて、イエスはすなわち家造りに捨てられてもなお神が隅の親石とされる石である〈使徒4・11参照〉これ実に悲劇的転倒である。詩篇作者がイスラエルに対する神の恩寵を喩えた言葉が、イスラエルの排斥の喩えとしてイエスの口に上った。『神の国はあなたがたから取り去られ、神のくにの実を結ぶ国民に与えられます』〈マタイ21・43〉)

2022年9月24日土曜日

ぶどう園はほかの人たちに

ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。(マルコ12・9)

 明らかに神ご自身の審判である。イエスがこのたとえを語られてから四十年の後にエルサレムはローマの軍勢に全く滅ぼされてしまったことはイエスが何者であったかを示す大きな物的証拠である。

 エルサレム滅亡以後『ぶどう園』はキリスト教会に託されたと私たちは信じている。しかしこの新しい農夫どもも、イスラエルの農夫どもに勝っているだろうか。初代の教会が忠実な農夫どもであったことは私どもはよく知っている。

 では、現代の教会は? 私たちは? エルサレムに主の審判が確実に臨んだように、現代の教会に主の御審判が臨まぬと誰が保証し得るであろう。彼らに語り給うたたとえが私たちの頭上で説明されなければ幸いである。

祈祷
主イエス様、来て下さい。速やかに来て、あなたの御国を成就してください。されども主よ、願わくは先づあなたの聖霊を私たちの中に送って、あなたが来られる前にあなたの教会を潔め、これを聖なる者とし、あなたの前に建て、火を送って大いなるリバイバルを起こし給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著267頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌156https://www.youtube.com/watch?v=cNU07Ghtcss 

クレッツマン『聖書の黙想』〈188頁〉より

 このような邪悪な農夫たちは、それにふさわしい運命をになうのは当然で、ここに疑問の余地があるだろうか。聖マタイの記録によると、こんなふとどきな人々は必ず滅ぼされるべきで、ぶどう園は他の人々に譲り渡されるべきだとユダヤ人自身が答えなければならなかった。〈引用者註:マタイ21・41〉

 この物語を聞いた時、ユダヤ人はどんな面持ちをしたか、それはさぞ、興味深いことだったろう。イエスがこの物語でユダヤ国民全体を指しているということは、まぎれもない明らかな事実だった。この人々に神はそのぶどう園をまかせられ、彼らを神の民として他の国民と区別し、他のどんな国民も経験したことのないような祝福を授けられたのである。しかし、神が彼らのもとに預言者たちを送り、その主として、ご自身に返すべきものを求められた時、彼らはこの預言者たちを虐待し、次々と殺してしまい、その不従順で反抗的な心根は、今ではとうとう神のひとり子であり、最愛の息子であるお方までも殺してしまおうとたくらんでいた。

 しかし、彼らに一体、何ができたと言えるだろうか。その時、その場で、すぐにも、そのひとり子を石で打って殺してしまおうとしたが、彼らは民衆を恐れた。そこで、罪を悔い改めることもなく、主の身もとを離れ、罪の上に罪を重ねる道を、思いのままたどって行ったのである。否定しがたい真理に出会いながら、しかもなお、それを信じようとしない人々が常にそうであるように。

David Smithの『The Days of His Flesh』〈773頁〉より引用〈同書第42章 有司との対戦 4 ぶどう園農夫のたとえ

 ある地主がぶどう園を造り、垣をめぐらし、酒搾を掘り、塔を建て、農夫に貸して旅行に出た。その果実の実る季節に使いを遣わして収穫を受け取らせようとしたが、その使者は残虐な待遇を受けた。農夫は彼を鞭打って素手で追い帰したのである。地主はさらに他の使者を送ったけれども、いずれも皆第一の使者以上の虐待を受け、ある者は辱められ、ある者は殺された。地主には深く愛する子があったので『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と考えて、これを遣わすことを定めた。然るに彼らはこの嗣子の来るのを見て『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ』と叫んだ。ついに彼らはその嗣子を捕え、ぶどう園の外に追い出してこれを殺した。

 『この場合、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう』と問われた。群衆は深い興味をもってこの物語を聞いていたが、『その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。』〈マタイ21・41〉と答えた。彼らはこの喩えの趣意を悟らなかったけれど有司たちはこれを悟った、彼らは悔い改めせず、謀反を事とするイスラエル人に対して幾100年代次々に遣わされた預言者の意味であることを了解し、また嗣子と称せられるはイエス自らであることを悟った。群衆の不用意の答弁はイスラエル人の罪過の告白であって、またイエスがすでに警告された災厄の審判を告白するものであった〈マタイ5・12、ルカ6・23、マタイ23・37、ルカ13・34、マタイ23・29〜35、ルカ11・47〜51〉。彼らは反抗して『そんなことがあってはなりません』〈ルカ13・6〜9、ルカ20・16〉と罵った。)

2022年9月23日金曜日

あと取りを殺そう!

すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。(マルコ12・7、8)

 イエスは実によく祭司らの心を見抜いている。ご自分の殺されることをこのように明らかに面前で述べておられる。しかも泰然として他人の死を語るようである。

 イエスを殺した理由は種々あったであろうが、結局は『財産はこちらのものだ』という欲望に外ならない。神に返すべきものを我がものとしようという欲望が、取りも直さず『さあ、あれを殺そう』という心である。

 祭司らでも私たちでも心の奥を突きつめて見れば、神中心の生活を送るか、自己中心の欲望を満足させるか、このいずれかによって、イエスを主と仰ぐか、これを十字架につけるか、が定まるのである。私たちのうち果たして祭司・パリサイ人をあざ笑い得るものがあるであろうか。

祈祷
人の心の奥を見透し給う主よ、あなたが祭司らの心を洞察し給いしことを私たちは知って畏れます。願わくは、私のうちに潜んでいる反逆を咎めなさらないで、かえってこれを洗い潔め、全き燔祭としてあなたの祭壇に献げさせてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著266頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌255https://www.youtube.com/watch?v=qmSWnd6D0BE 

クレッツマン『聖書の黙想』〈187頁〉より

 農夫たちは主人の最愛のひとり息子に対してさえ、敬意を示さなかったばかりか、これを殺してしまい、ぶどう園の外へ投げすて、あつかましくも、このぶどう園は我々のものだと主張した。)

2022年9月22日木曜日

愛する息子の派遣

その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。(マルコ12・6)

 これはイエスご自身を指したのであることは明白で、祭司長らもそう解釈したようである。何という言明であろう。何という自信であろう。『これは、わたしの愛する子』との天よりの声を幾度も聞いたイエスだからこそ、このように大胆に言えたのである。

 彼を神の子として受けなかった祭司長らがイエスを殺さねばならぬと考えたのは無理もない。今日でもイエスを神の子と信ずるか、されば善し。然らずんば、祭司長らと同じ結論に達するの外はあるまい。

 モダーンな神学者が何と言っても、私たちはイエスご自身のこのような証明を捨てるわけには行かない。

祈祷
主イエスよ、私たちは、あなたを神と仰ぎ、救い主と信じ申し上げます。願わくは、私たちの期待を裏切り給うことなく、日夜私たちとともに在して、現実に私たちの生活の中に現れ給わんことを。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著265頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 531https://www.youtube.com/watch?v=-leEg6Eubcg 日々の歌189番「心に響くは喜びの調べ」)

2022年9月21日水曜日

何も持たせず、送り帰した農夫

季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。(マルコ12・2〜3)

 このみことばは、ユダヤ人に対して神が預言者たちを遣わしたことを指すのはもちろんであるが、この『季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに』の語が私には恐ろしく響く。

 種を播く者は必ず収穫を期待する。天の父が私のような者にでも収穫を期待してくださるのはありがたいことではある。けれどもまた恐ろしいことである。

 私がこの世を去る時こそ『季節になって』父が何かを『受け取ろうと』為し給う時であろう。もちろん父は酷吏ではないから、無理な収穫は註文なさらない。しかし私の一生は『何も持たせないで送り帰した』という部類に入ってはいないだろう。

祈祷
神よ、私をあわれんでください。多くの年を経て今なお実を結ばざる私を。なおも憐みて収穫の日までに幾ばくかの実を結ばせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著264頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌511https://www.youtube.com/watch?v=1oeLkCIpRJA 

クレッツマン『聖書の黙想』〈187頁〉より

 季節になったので、彼は一人の使者を送り、自分の分け前を集めさせようとした。ところが、農夫たちはこの使者を袋だたきにして、から手で帰らせてしまった。続いて、送られた他の使者たちも、もっと手荒な扱いを受け、殺されたものさえあった。)

2022年9月20日火曜日

ぶどう園の持ち主(下)

『ぶどう園を造って、・・・農夫たちに貸して、旅に出かけた』(マルコ12・1)

 神の遍在を信じ過ぎている私たちには少しく受け取りにくい思想であるが、イエスはたびたびこれに似たことをおっしゃっておられる。マタイ伝25章14節にも神あるいはご自分を指して『旅に出て行く人のようです』と言い、ルカ伝19章12節にも『ある身分の高い人が、遠い国に行った』と言い、またマタイ伝6章6節にも『隠れた所におられるあなたの父』と言っておられる、神は私どもに取っては『隠れた所におられる』お方であるとのいみであろう。

 イスラエルの永い歴史の間、神はぶどう園を彼らに『貸して、旅に出かけた』ような態度をお取りになったのは、干渉を避けて彼らを自由に独立発達せしめんがためであった。神は何故に、悪人をこの世に認容するのかと問う人もあるが私たちのような不善あんものをも認容して『隠れた所で見ておられる』。すなわち隠れて私たちを見ておられるのは、地球という『ぶどう園』を私たちに『貸して』善い実を結ぶであろうことを待っておられるのである。

祈祷
かくれて私たちを見ておられる御父よ、あなたが私たちにしばらくの人生を貸し、自由を与えて、遠く旅立っておられるのは、私たちを独立のものとして教育せんがためであることを感謝申し上げます。願わくは、私たちをしてこのあなたの期待に背かない者に造り上げて下さいますように。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著263頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。)

2022年9月19日月曜日

ぶどう園の持ち主(上)

それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。(マルコ12・1〜2)

 言うまでもこれもイスラエルを指したのである。イスラエルの永い歴史はエホバの神の恩寵史である。彼らは実に世界のぶどう園であるべく特別な保護と教育とを受けたのであったが、その使命と任務とを全く忘れてしまった。

 神はある人を特別に恵む。神を父と呼ぶことのできる私たちは実に特別に恵まれた者である。その他学問に恵まれた人、芸術に恵まれた人など種々あるであろうが、ことごとく使命と任務とが負わされている。

 一つとして自己満足のために与えられてはいない。いわんや自らを高くして人を見下げるためではない。互いに自己の長所を謙遜に用いて他人の前に奉仕するためである。これを忘れたユダヤ人はどうなったか。私たちも同じ徹を踏まないように謙遜と奉仕とに心がけねばならぬ。

祈祷
天の父よ、あなたは私たちのために『垣を巡らし、やぐらを建て』あなたの『ぶどう園』となし給いしことを感謝申し上げます。願わくは、自分のためにのみ実を結ぶ悪しきぶどう園となることなく、へりくだって人の食物となることを喜ぶようにさせて下さい、アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著262頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。

クレッツマン『聖書の黙想』〈187頁〉より

 その日、主は宮でいろいろ語られたが、これはその比類ないたとえ話の一つである。
 主はある男の話を語られる。
 この男はぶどう園を造り、侵入者を防ぐために垣をめぐらし、ぶどう汁をしぼる時の酒穴を掘り、労働者の便宜と貯蔵の用をかねてやぐらを立て、準備万端を整えた。彼は収穫を焦らなかった。実を結ぶのを期待できるまでには、まだ数年を要したからである。そこで彼は旅に出かけ、ぶどう園は農夫たちの手にまかせられた。)

2022年9月18日日曜日

主の権威(下)

そこで彼らはイエスに答えて、「わかりません。」と言った。そこでイエスは彼らに、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」と言われた。(マルコ11・33)

 キリストの福音は生きている。聖書の中にある真理は不思議な力を有する。従順にこれを聞く者には次第にその意義が明らかになってくるが、不従順な者に対しては次第にその意義が不可解になってくる。

 まして真理と知りつつも、これを『わかりません』として糊塗(こと)する者は不思議にも自らの理解力が鈍くなって来て福音の妙味も、砂を噛むが如きものとなり、あるいは全く無稽(むけい)なこととさえ考えられるようになる。

 これに反して少しく理解した真理でも、努めて実行していると、更に次の一歩がわかってくるようになる。昔イエスが祭司長らに対して取り給うた態度は今も同じであると見える。イエスの霊は今日でも聖書の中から、あるいは語り、あるいは『あなたがたに話すまい』と言い給う。

祈祷
ああ主よ、願わくは、私に従順な心を与え給え。あなたのお語りになる真理に喜んで従い歩ませて下さい。そして一歩より二歩と次第にあなたの真理を体験する者とならせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著261頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 161

クレッツマン『聖書の黙想』〈183頁〉より

 もし彼らが、ヨハネのバプテスマは多くの人々が信じているように天からだと言ったら、では何故、彼を受け入れないのか、その理由をイエスは知ろうとなさるだろう。もし人からだと言ったら、ヨハネを偉大に預言者と信じている民衆を怒らせることになるだろう。彼らは顔にありありと恥の色を浮かべながら、しかし心に悲しみの情を抱くこともなく答えた。「わかりません」。そこでイエスは彼らの罪深い魂にもう一本、鋭い矢を放たれる。

「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」

 こんなにも明らかな姿で真理が現れる時に、これを拒否するとはなんたる宿命であろうか。)

2022年9月17日土曜日

主の権威(中)

そこでイエスは彼らに言われた。「一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているかを、話しましょう。。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」(マルコ11・29〜30)

 これはイエスが巧みに言い逃れたのではない。単刀直入彼らの良心に迫ったのである。彼らの良心はバプテスマのヨハネは神より遣わされた人であると知っていた。しかし彼を承認すればイエスの権威も承認せねばならぬ結論に達することを恐れた。

 今日でも同じであって、私たちは自分に都合のよい真理、または自分にあまり利害を感ぜしめない事実らは容易に承認する。しかし同一の論理が自分の好まぬ結論に達しようとする時は、苦情をつけてこれを避けたがるものである。注意してかような心を防がねばならない。

祈祷
天の父よ、願わくは、私どもを自分勝手の理屈から救って下さい。どうか一切の真理を公平な目で見ることのできるように、自分に不便な時も当然の帰結を喜んで受け入れる従順さを与えて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著260頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌144 

クレッツマン『聖書の黙想』〈182頁〉より

 そんなに以前のことではないが、彼らはバプテスマのヨハネの権威について、問題にしたことがある。この時彼らはヨハネの持つ権威を無視してしまい、民衆にかくも愛されたこの偉大に人物が、イエスをさしてキリストーーこの世の罪を取り去り給う小羊ーーと呼んだ事実をかえりみようとしなかったのである。

 ところで、今、彼らは、ヨハネのバプテスマが天からか人からか、という問題をイエスと民衆に対して答えなければならなかった。これは彼らをジレンマに陥れた。) 

2022年9月16日金曜日

主の権威(上)

祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来た。そして、イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」(マルコ11・27〜28)

 祭司長らが見てイエスの行為に不平を感じた一つは何事をなすにも御自身の権威が如実に現れることであった。イエスは万事謙遜であったけれども、ご自身を曲げることは出来なかった。だから病を癒すにも、宮を浄めるにもご自身の神権をもってこれをなし給うた。

 パリサイ人が病を癒すと称する場合には『主なる神よ我に聞き給え』などと祈るのが通常であったのに、イエスは『我なんじに命ず、起きよ』などと言われた。宮を浄める時でも『我が父の家』とか『我が家』と言ってご自身の権威でこれをなされた。

 それが祭司たちには非常に気に食わなかった。彼らは神の宮に対しては権威者であると自信していた。これが侵害されたから面白くない。のみならずイエスが万事自分の権威でなすのは神を冒すものだとも思われたのである。だからこの問いを発した。然り、イエスが神でなければイエスの行動には冒瀆と思われることがたくさんある。

祈祷
神の子なる主よ、私たちはあなたが絶対の権威者であることを信じて感謝申し上げます。私たちは神の子である救い主であるがゆえにあなたのところに来て平安と永生を受けることを感謝申し上げます。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著259頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 200 https://www.youtube.com/watch?v=gaZo6OzcWZA

クレッツマン『聖書の黙想』〈182頁)より引用

 主が宮に入られるや、サンヒドリンの議員たちの一団が御前に進み出た。これらの人たちは、サドカイ人やパリサイ人や聖職者以外の著名人などであり、指導者階級を代表していた。彼らは、イエスが何の権威によって公然と教えを説き、子供までも含めた民衆から賛美を受けたり、宮を浄めたりするのかなど色々と質問した。イエスはこの間に怒りもされず、また質問者の傲慢さに驚こうともなさらなかった。彼はすぐにもこの人々に解答を与える用意はあったが、その前にまず彼らにもう一つ別の問題を、はっきり解決させる必要があった。)

2022年9月15日木曜日

宮の中を歩まれた主

彼らはまたエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、・・・(マルコ11・27)

 何という勇気、何という沈着であろう。イエスを殺そうと血眼になっている人々の真ん中に、平気な顔をしてまた出かけて来られた。エルサレムに来たばかりでなく、宮の中を悠々と歩んでおられる。

 殺気に満ちた、しかもこれを隠して機会を窺っている祭司長らの勢力範囲の中心にまで、わざわざ入って来るのは馬鹿か、狂人か然らざれば偉大なる人である。死を恐れぬ人でなければならない。

 然り、イエスは使命を果たすために生死の如きは問題としてはいなかった。否、十字架上に死ぬことが使命であると知っていたのだ。しかもその時機が来たと知っていたのだ。だからこの大胆さが極めて自然に現れたのである。衒(てら)わず懼れず、平常の如くに宮の中を歩み給うた。

祈祷
主イエス様、願わくは、私にもあなたのような信仰を与え、あなたのような忠誠を与え、あなたのように自分の使命を遂行する力をお与えください。何事をも平凡尋常な心をもって忠実に成し遂げる力をお与えください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著257頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 507https://www.youtube.com/watch?v=vE25Dpy_bl4 )

2022年9月14日水曜日

互いに赦す

セントジャイルズ大聖堂 2010.10.18※

だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。(マルコ11・25)

 イエスは私たちが互いに赦すことをよほど重要視された。イエスは正義を行へと教えたことはあまり多くない。が、互いに赦し合うべきことはたびたび教えている。

 主の祈りの中にも『私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました』と言う如く教えて、神様から自分の罪を赦されるためには、私たちが互いに赦し合わなければならないことを教えている。これほどに主は互いに赦すという事をキリスト者の社会道徳の中心点に置いている。

  完全な人間の造っている社会であれば正義さえ行えば立派に存立するであろう。が、不完全な人間の寄り合いである社会であるから、互いに赦さなければ立ち行くことは出来ない。キリストの十字架は神が罪人を赦す象徴であると同時に、人は互いに赦すように教える象徴である。

祈祷
天に在す私たちの父なる神様、願わくは、私たちに負債ある者を私たちが赦すように私たちの負債をもお赦し下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著257頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌82 https://www.youtube.com/watch?v=YZPZQGDpON8 

※12年前、この大聖堂で礼拝すべく堂内に入った。その証は2010.10.18のブログに記したとおりである。http://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/10/blog-post_18.html 当時、そんな由緒ある聖堂とは知らず、入ったものである。堂内でメッセージを聞いていた者は私たち夫婦をふくめてごく少数であったことに驚いた思いがある。たまたま今週火曜日のベック兄の学びhttp://www.christ-shukai.net/は黙示録3・1から始まる「サルデスの教会」に対する主のことば「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる」であった。まさにこの大聖堂はスコットランドのプロテスタンティズムの牙城ではなかったのか。エリザベス女王の国葬で話題にならなければ決して思い出すことはなかっただろう。異国の者にも自由に解放しているその精神には敬意を表したいが〈しかし、振り返ってみると、大聖堂は観光化しており、木戸銭を払って入場したのだった?〉、さりとて形骸化したキリスト教の害に多くの人が慣らされることのないように祈りたい。名だたるKing James Versionの聖書を眠らせてはならぬ。And when ye stand praying, forgive, if ye have aught against any: that your Father also which is in heaven may forgive you your trespasses. )

2022年9月13日火曜日

信仰・祈り・愛

また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父もあなたがたの罪を赦してくださいます。(マルコ11・25)

 私たちが真剣に祈るとき、自分の心に疑いが生ずる。それは神を疑う心ではない。自分を疑う心である。神は全能であり至愛である。それは疑わない。けれども自分のような大なる罪人の祈りが聞かれるのであろうかという疑いである。

 だから主イエスは祈らんとするときに先ず悔い改めて自分の罪の赦されたことを信ずべきことを教え給うたのである。自分の罪の赦されるためには、隣人の自分に対する罪を赦す心を持たねばならぬことはもちろんである。

 ここに祈祷と愛との親密な関係を見出す。信仰の祈りから愛の実行が生まれて来る。私たちは互いに赦し合い、そして神の赦しを完全に信じつつ、神と交わるのである。人と人と、人と神と、赦しによって一つになるところには、願って聞かれないということがない祈りが生ずる。信仰と愛と祈りの美わしき融合、それが日々の生活でありたい。

祈祷
天の父なる神様、私たちはみなあなたの家の中に住んでいます。願わくは互いに赦し、互いに愛し、互いに信じ、お互いのために祈る美わしいホームをつくり出す一人とならせてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著256頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌526https://www.youtube.com/watch?v=rTNfAOIogqY 

アンドリュー・マーレー著『キリストともに』より、昨日の続き

 「すでに受けたと信じなさい。」私たちが信じなければならないのは、自分が求めたものが与えられるということであるのは明らかです。御父は最善のものを知っておられるので、別のものをお与えになるかもしれないなどと、救い主はおっしゃらなかったのです。信仰が移れと命ずる山、その山が海に移るのです。祈りと願いによって何もかも神に申し上げることの報いは、心と思いとを守る神よりのうるわしい平安です。これは信頼の祈りです。この場合、私たちが求めたものを、神がかなえてくださるかどうか判断できません。私たちは、子としての日常生活のあらゆる事柄を神に知っていただきます。与えてくださるかどうかは神におゆだねするのです。しかし、イエスがここで言われている信仰の祈りは、これと違って、はるかに高度の祈りです。神のみわざに対する関心であろうと、私たちの日常生活における心配事であろうと、求めるものを何でも与えてくださると確信し、御霊によって約束のうちに堅く立つほど、御父に栄光を帰することはありません。こう考えてくる時、自分が求めたものそのものが与えられることを、はっきりと知ることができます。23節で、イエスがこのことを明確に述べておられるのを見てみましょう。「心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」これこそ、イエスがお語りになった信仰の祈りの祝福です。

 「すでに受けたと信じなさい。」これは最も重要なことばですが、その意味は、しばしば誤解されています。今祈っているうちに、求めたものをすでに受けたと信じなさい!自分の経験としてそれを受け、自分の目でそれを見るのは、少しあとになるかもしれません。しかし、今見なくても、あなたは天において御父からすでにそれを与えられたと信ずべきなのです。祈りの答を与えられること、あるいは受けることは、イエスを受け入れることや罪の赦しを受けることと同じで霊的なことであり、感情とは別の、信仰による行為なのです。赦しを求めてみもとに行く時、イエスが私のために天におられることを信じ、イエスを受け入れます。神のみことばに従って何か霊的な賜物を求めてみもとに行く時、求めたものはすでに与えられたと信じます。それがすでに与えられていると信じ、信仰によってそれを握りしめるのです。そして、それが自分のものになったことを神に感謝します。「私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」

 「そうすれば、そのとおりになります。」これは、初め信仰によって天において私たちに与えられたものが、個人の経験の中で自分のものとなることです。自分の祈りが聞かれ、求めたものをすでに与えられて、なお祈る必要があるのでしょうか。祈りが必要でなくなる場合があります。この場合、経験上まだ与えられていなくても、祝福はすぐにでももたらせようとしているので、ただ確信を持ち続け、信仰のあかしとして、すでに与えられたもののゆえに神を賛美すればよいのです。もう一つ、与えられた信仰が忍耐強い祈りを続けることによって更に試され、強められなければならない場合があります。私たちのうちと周囲にあるすべてのものが、すでに十分に熟し、信仰によって与えられた祝福を現せるまでになっているかどうかは、神だけがご存知です。エリヤは、雨が降ることを確かに知っていました。神はそれを約束されています。それでもエリヤは七回祈らなければなりませんでした。しかもその祈りは、見せ物でも遊びでもありません。求め続ける者の心の中と、祈りが実際に働く天においては、一つの強烈な霊的現実なのです。「約束のものを受けるのに必要なのは、信仰と忍耐です。」信仰は、確信に満ちて、すでに与えられていますと言います。忍耐は、天においてすでに与えられた賜物をこの地で見るまで辛抱して祈ります。「すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」「すでに受けた」と「そのとおりになります」との間に、信じるということがあるのです。信じることによって、賛美と祈りが結ばれるのです。

 さて、もう一つだけ覚えてほしいことがあります。それは、これを言われたのがイエスだということです。私たちは、天が私たちに対して開かれるのを見、御座にいます御父が、信仰によって求めたものを与えてくださるのを見ました。私たちの心は、自分がその特権にふさわしくないという恥ずかしさと、明らかに自分の手に届く所に置かれているものさえつかみそこねるのではないかという、あまりにも弱い自分の信仰への恐れでいっぱいになります。しかし、私たちを強め、希望を与えてくれることが一つあります。それは、このメッセージを御父からもたらしてくださったのは、イエスであるということです。イエス御自身この世におられる時、信仰と祈りの生活を送られました。イエスがいちじくの木になさったことを見て弟子たちが驚いた時、イエスは彼らに自分と同じ生き方ができることを教え、いちじくの木だけでなく、山に命じても、山はその命令に従うと言われたのです。イエスは私たちのいのちです。この地におられた時のイエスが、今私たちのうちにおられます。その教えられたものをすべてお与えくださるのです。イエス御自身、私たちの信仰の創始者であり、完成者です。イエスは信仰の霊を与えてくださいます。そのような信仰は自分にふさわしくないなどと恐れる必要はありません。この信仰は、御父の子らすべてにふさわしいものなのです。御父の御心と愛に自分自身をゆだね、御父のみことばと力を信頼する者ならば、だれにでも手の届く信仰です。愛するクリスチャンの皆さん! このみことばが、御子であり、私たちの長兄であるイエスが語られた事実によって勇気づけられましょう。そして、こう答えましょう。恵み深い主よ、私たちはあなたのみことばを信じます。すでに与えられたことを信じます。

祈り

 恵み深い主よ。あなたは、御父の愛と、御父の愛がもたらすあらゆる祝福の宝を私たちに示そうとして、御父のみもとからおいでになられました。主よ。あなたはこの日、ふたたび門を広く開き、私たちの祈りの自由に関する、あのようにたくさんの約束をお与えくださいました。私たちの貧しい心が、その約束をほとんど受け入れてこなかったことを恥ずかしく思わないわけにはまいりません。私たちにはあまりにも大きすぎて、信じ切れませんでした。
 主よ。今こそ、「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい」というあなたの尊いみことばを受け入れ、保ち、用いることをお教えください。恵み深いイエスよ。私たちの信仰が強くなるためには、あなた御自身に根を下さなければなりません。あなたのみわざは、私たちを罪の力から全く解放し、御父への道を開いてくださいました。あなたの愛は、私たちを、あなたの栄光と力とに完全にあずからせたいと願っておいでになります。あなたの御霊は、完全な信仰と確信の生活へと私たちを近づけようとなさいます。私たちは、あなたの御教えによって、信仰の祈りをささげることを学べると確信します。あなたは、すでに与えられたと信じることができるように私たちを訓練して祈るようにさせ、また、自分の求めたものは必ず与えられると信じるようにさせてくださいます。主よ、あなたを知り、信頼し、愛する者とならせてください。あなたのうちに生き、とどまる者とならせてください。そうすれば、私のすべての祈りがあなたにあって神の御前にささげられ、私のたましいは、あなたにあって、自分は聞かれるという確信を持つことができるからです。アーメン)

2022年9月12日月曜日

祈って信じ、信じて祈る

だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。(マルコ11・24)

 信仰は必ず祈りに伴う。さればイエスは前節に信仰を高調した後、直ちに祈りのことに及んでいる。祈って信じ、信じて祈る。これが信者の生活でなければならない。祈りの伴わぬ信仰は信条に堕してしまう。

 信仰の生活は祈りの生活である。祈りの中心は神との霊交である。神との霊交が現実の生活を支配するに至るのは、この『すでに受けたと信ずる』心が大切である。先ず何よりも、すでに神を得たりと信ずるのである。

 心に神を得なくては祈りというものほど愚かなものはない。心眼を開いてあなたの前に立ち給う神を見つめよ、而して神を心の中に請じ入れよ、これが祈りの骨子である。斯くして先ず神を得るのである。然して後『求めるもの』を得るのである。

祈祷
神様、願わくは、何よりも先ずあなた自身を私にお与え下さい。あなた自身を『すでに受けた』と信ずる心をお与え下さい。一切の不信、一切の疑いを雲のように払い、太陽のように輝く御姿を先ず私の心に獲得させて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著255頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌295 https://www.youtube.com/watch?v=l9ziYupRj3k 

ベック兄「絶えず祈れ」上巻〈54頁〉より引用

 聖書のみことばにもとづいて、主の御心が何であるかを知る時、私たちは大胆に祈ることができます。主が、「私の祈りは聞き届けられている」という確信を与えてくださるまで祈り続けるべきです。「私の祈りは聞き届けられている」と確信した時から、もう、ああしてほしい、こうしてほしいと祈る必要はなくなります。その時には、私たちは、まもなく奇蹟を体験することができると信じているので、ただ感謝し、喜ぶことができるのです。

 主は私たちにつぎのような約束を与えてくださっています。

だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。〈マルコ11・24〉

 これはつまり「あなたの信じたとおりになる」ということです。私たちは、主によって遣わされた者として、祈りが聞かれていることを確信すべきです。イエス様がつぎのようにおっしゃっておられるのですから。

「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」〈ヨハネ17・18〉

アンドリュー・マーレー著『キリストとともに』〈100頁〉より引用、この著作は副題が「祈りの学校」であり、31課に分かれているが、その第11課でマルコ11・24を軸にすでに受けたものを信じなさいと「約束のものをいただく信仰」という題名で以下のことを述べている。

 なんという約束でしょう。あまりにも大きく、あまりにも神々しいので、私たちの小さな心では、この約束を受けとめることができません。神の力とエネルギーが私たちの心に入って、心を大きくし、神の愛と力がいかなるものを私たちにもたらすか、推し量らせてくださるのです。にもかかわらず、私たちはそれを認めようとせず、何とかして、自分が安全と考えて納得できるものにそれを限定してしまおうとします。信仰とは、決して神のみことばの真理についての単なる確信、ないしは、ある前提から導き出された結論といったものではありません。信仰とは、神がするとおっしゃったことを聞く耳であり、神がそれをなさるのを見る目です。だから、本当の信仰のあるところに答がないということはあり得ません。祈る時、神が私たちに求めておいでになること、すなわち「すでに受けたと信じなさい」ということを私たちが実行すれば、「そのとおりになります」という約束を実行してくださいます。「イスラエルの神、主はほむべきかな。主は御口をもって私の父ダビデに語り、御手をもってこれを成し遂げて言われた」〈2歴代6・4〉ソロモンの祈りのこの基調は、あらゆる真実の祈りの基調でなければなりません。それは、御口をもって言われたことを御手をもって成し遂げてくださる神への賛美です。私たちは、この精神をもって、イエスが与えてくださった約束に耳を傾けましょう。その約束の各部分に神のメッセージがあります。

 「何でも。」このことばから、私たち人間の知恵は疑いを抱き始めます。これは文字通り真実なのでしょうか。文字通り真実でないとしたら、なぜ、イエスは「何でも」というような最も強い表現を使われたのでしょうか。更に、イエスがこのように語られたのは、この時だけではありません。主はこうお語りになったのではないでしょうか。「信じるなら、信じる者にはすべてのことができるのです。」「信仰があるなら、あなたにできないことはありません。」信仰とは、すべてを信じる弟子たちの整えられた心に、みことばによって働く聖霊のみわざです。ですから、このような信仰に対して、答が与えられないこと自体が不可能なことなのです。信仰とは、来るべき答の保証であり、先触です。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」そのとおりです。しかし、とかく人間の理性は、ここに、「都合がよければ」とか、「神のみころにかなうなら」という意味を曖昧にする文句を挿入して、危険を感ずるみことばの力を弱めようとします。私たちは、このように主のみことばを扱うことを大いに警戒しようではありませんか。主の約束は、掛値なしに文字通り真実です。主は、この「何でも」ということばを私たちの心に入れ、信仰の力がいかに強烈なものであるか、かしらはどんなにその肢体を神の力にあずからせたいと願っているか、御父は、御自身を全く信頼する弟子の思うままに力を与えようとされているかなどを、示そうと思っておられるのです。この「何でも」ということばを弱めれば、信仰もまた弱くなります。「何でも」とは無条件です。条件があるとすれば、ただ信じることでしょう。信じる前に、神の御心が何であるかを見出し、それを知らなければなりません。信じるということは、みことばと御霊の力にゆだね切ったたましいの動きです。それで、ひとたび信じる時、不可能はなくなります。神は、私たちが、この「何でも」ということばを、自分たちの考える可能性の標準にまで引き下げてしまうことをお許しになりません。キリストの「何でも」というみことばを、今こそ単純に私たちの信仰の目標とし、また希望として受けとめようではありませんか。それは種となることばです。与えられたとおりにいただき、心の中に納めておけば、やがてからが破れ、根が出て、いっぱいに根を張り、豊かな実を結ぶようになります。

 「祈って求めるものは何でも。」この「何でも」は、その答を期待するために、神のみもとに持ち出されるべきものです。そして、これを受ける信仰が祈りの実なのです。一面では、信仰は祈りの前に存在すべきです。しかし、他の面では、信仰は祈りの結果であり成果です。救い主の御前にあって、救い主と個人的に交わる時に信仰が生まれ、初めは手が届かないように思われたものをつかむことができるようになります。自分の願いが神の聖い御心の光のもとに照らし出され、動機を調べられ、本当にイエス・キリストの御名によって、ただ神の栄光のために求めているかどうか試みられるのは祈りにおいてです。私たちが、正しいものを正しい心で求めているかどうかを、御霊に示していただくよう待ち望むのも祈りにおいてです。祈る時、私たちは自分の信仰のなさを自覚し、信じますと御父に言うように導かれ、忍耐して待つことによって、自分の信仰の確かさを証明するようになります。イエスが私たちを教え、信仰を燃え上がらせてくださるのも祈りにおいてです。ですから、信仰に答が必要だとは思わないと言って祈らない者、あるいは祈っても真剣に祈らない者は、決して信じることを学ぶことができないでしょう。しかし、祈り求めることを始める者は、御座のもとでこそ、信仰の御霊が与えられることを見出すはずです。〈続きは明日〉)

2022年9月11日日曜日

信仰

まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。(マルコ11・22)

 マタイ伝17章20節にもこれに類した言葉がある。それは変貌の直後であるから、『この山』とはヘルモン山であろうと思われるが、ここではオリーブ山であろう。

 イエスは全く異なった山の上で、全く異なった場合において、二回も同じ言葉で同じ事を教えられたのは注意すべきである。『山』とは何を指すか、『海』とは何を指すかなどと論ずる必要はない。信仰の偉大なる力を高調したのである。神を信じて疑わなければ、神の偉大なる力が直ちに私たちの力となることを言ったのである。

 重点は『心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じる』の句にある。『心の中で疑わず』ということは容易なるようであって難しい。私どもの心はいつも『信じてはいるけれども』である。この『けれども』が少しでも心に残っている間は、山は海に移らない。文字通り絶対に信じて疑わない心がほしい。

祈祷
主なるイエス様、私に信仰をお与え下さい。日々信仰を増し加えて下さい。からし種のように日々生成して、ついには山をも移すほどの力ある信仰を私にお与え下さい。アーメン


(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著253頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌280https://www.youtube.com/watch?v=T6CQGR4vLIM

クレッツマン『聖書の黙想』〈181〜182頁〉より

 信ずるものにとっては、何事も不可能ではないということを、彼は心をこめて説かれた。信仰は当然常に神のみこころにかなうものでなければならず、神のお約束の力を絶対に信頼するものでなければならないが、こういう信仰は山をも動かすことができるし、動かさずにはおかないのだ。

 これに加えて主は、更に信仰的な祈りのもつ力を見過ごさないよう注意された。この力を私たちはあまりにも利用していない。「心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」

 このように明確で遠大なお約束の言葉を私たちは決して軽んじてはならない。友人を回心させる時、どうしてこれを試して見ようとしないだろうか。)

2022年9月10日土曜日

神を信じなさい

イエスは答えて言われた。「神を信じなさい」(マルコ11・23)

 『神を信じなさい』。この一語をもってイエスの生涯は一貫している。この一語ほど易しくして難しいものはない。私たちは神に近くして遠い生活をしている。信じて信じない生活をしている。

 動揺、不安、煩悶、煩悩の日を送るのはこれがためである。神を信ずればよいのである。神を神と信じ、私の神と信ずるのである。神は神なるがゆえに一切万事を御意(みこころ)のままになりつつあると信じるのである。

 自分の欠点や過失や罪さえも、私の神は御意(みこころ)のままに支配して、万事良きようになして下さると信ずるのである。そこには不動の安心が生じ、絶大の力が生ずる。

祈祷
神様、私をして、あなたを信じさせて下さい。朝に昼に夕にあなたを信じさせて下さい。時にあなたを信じ、時に自己を信じ、時に偶然を信じ、時に運命を信ずる愚かさより、私を救い、すべての時に、すべてのことに、あなたを信じさせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著253頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 279https://www.youtube.com/watch?v=TRsmBrNp7J8 )

 A.ドーフラーの著書「重荷も軽く」の中の冒頭に「本の中の本」という文章がある。今日のみことば及び青木氏の霊解と併せて読みたいと思い、以下引用させていただく。

 世界中で最も偉大な宝は何かと言えば、それは聖書です。聖書は本の中で最も古い本ではありますが、また現代の私たちすべての人間の心や生活に最もふさわしい本ですから、ごく最近の本であるとも言えます。この本ほど世界の人々の思想を左右し、人類に大きな影響を与えた本は、ほかにありません。

 神は、聖書は神ご自身のものであり、霊感によって私たち人間に与えられたものであるとおっしゃっています。すなわち、霊感ということばによって、神はご自分が直接に息を吹き込む特別な方法で、聖書を人類にお与えになったのであるということを、お告げになろうとしているのです。この霊感を受けうるのはある特定の人々、すなわち、旧約の預言者と、新約の使徒たちに限られていました。これらの著者たちが、聖霊によって霊感を受けて書いたのが、聖書なのです。

 「預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った」〈2ペテロ1・21〉。ダビデも「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある。」〈2サムエル23・2〉と言っております。

 この聖書はすべて一字一句に至るまで、神ご自身のものであると、神はおっしゃっています。したがって聖書の著者は、自分の考えを全然さしはさんでおりませんし、聖書を記述したにもかかわらず、自分が聖書を書いたのだと誇るようなこともしていません。聖書は神のみことばを含む本なのではなく、神のみことばそのものなのです。

 神はまた、宗教に関することで、これ以上権威のある本はないとおっしゃっています、神はすべてのことを、みことばを通して啓示なさいました。それゆえ聖書は完全なものなのです。これよりももっと新しい啓示があるかもしれないなどと思うべきではありません。私たちが知る必要のあることは、すべての聖書に書いてあるのです。

 神のみことばは、決定的なものです。したがって聖書に述べられていることは、すべて不変で、絶対に正しいことです。神は聖書に書かれてある以上には、おっしゃることはないのです。つまり、聖書は権威をもって教義や道徳のあらゆる問題を教えているわけです。この聖書はあなたの本です。ーー「あなたのことばを心にたくわえました」〈詩篇119篇11節〉ーーこの宝典に書かれてあることが、あなたの家庭にも、生活にも、心にも宿らなければなりません。聖書は試金石として役に立つのです。聖書によって何がまことで、何がまことでないか、何をしなければならないか、何をしてはならないか、また何を信じればよいかがわかるようになります。

 聖書はあなたの導き手になります。命に至る細い道に導き、罪の落とし穴に落ち込まないように、あなたを守ります。

 それは足もとを照らすともしびであり、航路を示す灯台の光であり、あなたが失望や失敗にあったとき、あなたを元気づけてくれるのです。

 聖書はまた、よい道連れとして、あなたの役に立ちます。聖書は、主があなたのよい羊飼であり、イエスがあなたの救い主であるという確信を与え、悲しみにあるあなたをよい友として慰め、あなたの涙をかわかし、あなたを希望で満たします。聖書はあなたが人生のいかなる状態にある時でも、それに適切なことばを持っております。

 それだからこそ聖書は、すべての時代を通しての宝典なのであり、神のみが私たちにこれをお与えになることができたのです。どうかこの聖書を常に身近におき、たいせつにしてください。そして聖書を読み、信じ、愛してください。あなたに対する神のみことばとして、聖書に強くたよってください。

 祈り

 いつくしみ深い父、主なる神よ、聖書によってご自分を私にあらわし、完全な救いをもたらすこの輝かしい福音によって、救いに至る知恵を私にお与えくださいましたことを感謝いたします。神のみことばである聖書を愛し、日々これを読むことにより、力と、慰めと、助けとが得られますように。私にとって必要なこの一つのもの、すなわち聖書にまさって親しみを感じるものが、この世に何もありませんように。神の霊感によるみことばの真実性を疑ったりすることなく、神のみことばの一言一句を、幼子のような信仰によって信じることができるようお導きください。

 このみことばが、地の果てまで達し、私の心に平安と希望をもたらしましたように、万人の心にも平安をお与えください。すべての罪を赦し、神の救いの恵みの中に、私や、私の身内の者すべてを保ってください。神のみことばを学ぶことが、私たちの日々の喜びとなりますように、天から与えられた、生きたみことばである、わが主キリスト・イエスの御名によって、心からお祈りいたします。 アーメン

2022年9月9日金曜日

根まで枯れた無花果

朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。(マルコ11・20)

 イエスは最後の日の近づくに従って、弟子らの信仰を確実にするために、ご自身の権威をお示しになることが多かったようである。イエスを完全な人の子と信ずるのみでは救われない。彼を神の子と信ずる者でなければならない。

 この信仰を打ち込んで置く必要が愈々大きくなって来たので、御受難週はエルサレムの入城において、神殿の浄めにおいて、さらに無花果樹の審判において、神の権威を示しておられる。

 無花果樹の審判とは奇矯な語のようであるが、これによってイエスは天地の主にして万物の支配者であることを示されたのである。万物をして各々その使命を果たさせるためにこれを支配されるお方であって、その使命を果さないものは草一本でもこれを審きなさるお方であることをお示しになったのである。

祈祷
天地の主である神様、あなたは万物を植え、育て、養い、毀ち、滅しなさいます。あなたは絶対の権威者なることを讃美し、御名を崇め申し上げます。願わくは、私たちをしてその結ぶべき実を結び、果たすべき使命を果たしてあなたの喜びに預かる者とならせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著252頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌61https://www.youtube.com/watch?v=mv78JCjUef4 

David Smithの『The Days of His Flesh』〈邦訳768頁〉より

 翌日エルサレムに赴かれる途上イエスは果実のない無花果樹の傍を過ぎられたが、弟子たちはそれが根から枯れているのを観て驚いた。『先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。』とペテロは叫んだ。何故に彼らは驚いたのであろうか。彼らは主の聖語〈ことば〉は最早何の価値もなしと考えたのではあるまいか。

クレッツマン『聖書の黙想』〈181頁〉より

 夕暮れは迫り、イエスはベタニヤに向かわれる。火曜日の朝、イエスと弟子たちがもどって来て見ると、イエスが前日呪われたいちじくの木は、根も枝も枯れてしまっていた。ペテロはこの不思議な現象に一行の注意を促さないではいられない。この時、彼や弟子たちの心を打ったのは、イエスとそのみことばの持つ力である。そこで、主はこの機をとらえて信仰について一つの教訓を語られた。)

2022年9月8日木曜日

不信者の心の内

祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。(マルコ11・18)

 夕方以後に都に止まるのは危険であったほどに彼らの黒い手はイエスを狙(ねら)っていた。けれども昼の間は手を出さなかった。それは群衆を懼(おそ)れたためだとある。

 これが彼らの姿であって、また私たちの姿である。彼らは懼れなければならない良心も、神もイエスも懼れない。而して懼るるに足らない群衆を懼れている(※)。

 イエスは常に民衆を愛した。彼らと親しんだ。彼らの友となった。しかし彼らを懼れなかった。祭司らは平素彼らを見下げていた。愚民どもとして軽蔑していた。しかし彼らを懼れた。何という皮肉であろう。

 私どもも世間を懼れるにはあたらない。イエスの如く自分の信ずるところに断乎として進めばよい。しかし世間を見下げてはいけない、軽蔑してはいけない。これを愛し親しみ、友とならなければならぬ。

祈祷
神様、私に人を懼れずただあなたのみを懼れる信仰をお与え下さい。しかしあなたを知らない人を差別することなく心よりすべての人と親しみ彼らを愛することができるように導いて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著251頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌255https://www.youtube.com/watch?v=qmSWnd6D0BE 

※みことばを字義通り、読んでいただけでは、理解に困難を感じる青木氏の言い分ではある。祭司長、律法学者たちはイエスを恐れたが、それはあくまでも群衆がイエスをあがめている感情に逆らうことを是としなかったことにあるのであって、イエスご自身を心の底から懼れているのではなかった。もし、懼れているなら、イエスを殺そうと相談などしなかったであろう。その点を青木氏は言おうとされたのではないか。

クレッツマン『聖書の黙想』〈181頁より〉

 この事件〈註:宮浄めに代表される諸事件であろう、マタイの福音書に詳しく触れられている〉に憤慨した律法学者や祭司たちは、今までよりもいっそうかたい決心をもって、イエスを滅ぼそうと計画するようになったが、それをすぐ実行に移して、その場でイエスを捕らえるという機会を見つけることはできなかった。彼らは民衆を恐れていたので、イエスに手を触れる訳に行かなかった。民衆は深く、その教えの力に心を動かされていたからである。)

2022年9月7日水曜日

殺そうかと相談した

祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。(マルコ11・18)

 彼らとイエスとの対立は不可避となった。もはや主義や信仰の問題でなくして、彼らの生活と地位とが脅かされることになって来た。イエスにして是ならば彼らは有利なこの職におることが出来なくなる。しかもイエスが非であると証明することは出来ない。二つの方法が彼らの前に残されておる。

 悔い改めるか、イエスを無き者にするか。今日新聞紙上に見る殺人にもこれと同じ経路をとっている場合をたくさんに見受ける。利害問題の前に全く良心を失ってしまうのである。善悪の判断がつかなくなる。否、事の可否などを考えているひまがなくなるのである。これは実に恐ろしいことである。

 一心に自分の利害ばかり見つめると結局誰かを『殺そうかと相談』しなければならないことになってくる。人から自分の罪を指摘されて首を項垂(うなだ)れて悔い改める人は実に少ない。莫大な利益を捨ててイエスの声に従う人はさらに少ない。

祈祷
神様、罪人である私をあわれんで下さい。願わくは、私に反省と謙遜と悔い改めとを与えて、あなたの声と良心の声とに耳を傾ける生活を送る者とさせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著250頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌542 https://www.youtube.com/watch?v=h0HIFzmIRgY 

クレッツマン『聖書の黙想』〈178頁〉より

 クレッツマンはマルコ11・15〜33を念頭に「信仰と不信仰」という題名をつけ、その総論として、昨日の各論にあたる文章に先行して次のように書いていた。

 この福音書の記者はここで私たちに受難週の月曜日に起こった出来事について、一つの記事を伝えている。それはイエスの生涯で最も多忙をきわめた日とよく言われる。あの忘れ難い火曜日の出来事の簡単な記述から始まる。

 この日、イエスは早朝から夜ふけまで、群衆や弟子たちに教えを説かれた。聖マルコが記しているこの物語は要するに、いちじくの木が枯れたことにたとえて説かれた、信仰に関する一つの教訓であり、真理に対して心をかたくなにしないようにとユダヤの指導者たちへの警告を与えたものだと言ってよいだろう。

 彼らは真理を認めない訳にはゆかなかったが、それでも、すすんで受けいれようとはしなかったのである。)

2022年9月6日火曜日

強盗の巣にした

それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。(マルコ11・17)

 『強盗』とは激越な語であるように見えるが、事実は私たちの想像よりもひどい。牛や羊や鳩は祭司の検査を経なければ献げられぬ規定であるところから、検査済のものとして売られてあるものは目の玉の飛び出るほど高い。献金もまた指定されたユダヤ古来の貨幣でなければならぬところから、特にこのために貨幣が造られ、その両替料も高い。

 而して祭司長アンナの一族のごときはこの暴利によって大いなる富をなしていた。強盗に相違ない。民衆の抵抗できない方面に力を振るって彼らから奪っていたのである。イエスが暴力にも等しい力を振るって二回までも神殿を浄めたのは決して過激ではない。天の使命を忠実に遂行したのである。イエスは実にこれがために遣わされたお方である。然り、イエスの使命は父の家を浄めて祈りの家となすことである。

祈祷
主イエス様、あなたは私の心の宮が貪欲と肉欲と我欲とに当たっているのをご覧になっておられます。願わくは鞭をつくってこれらのものを追い出して、聖霊の宮となして下さいますように。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著249頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌542https://www.youtube.com/watch?v=h0HIFzmIRgY 

クレッツマン『聖書の黙想』〈180頁〉より

 日曜日の午後、主はだんだんと近づいて来る盛大な祭りの準備に紛れて、宮では何が起こっているかを、もうすばやく見てとってしまわれた。そして、月曜日の朝に、もう一度そこへもどられるや、すぐさま行動に移られた。三年前にも彼は、宮の冒瀆に対して抗議し、権威に満ちたわざを示されていた〈ヨハネ2・13〜21〉

 しかし、宮の庭はまたもや売買の取引や、外国からやって来た者の両替などのために解放されていた。なるほど、これらの取引はすべて、律法の求めている捧げものを供える時の便宜として行われていた訳だが。貪欲な鳩売りの連中のために汚されていたのである。

 正義の怒りに燃えて、主はこの侵入者どもを追い出し、神聖な宮の庭が、巷の通り道として利用され、乱され、汚されることをお許しにならなかった。主の家は祈りの家であって強盗の巣であってはならない、という聖書の言葉を引かれて、彼はいつもながらご自身の立場をはっきりさせられたのである。)

2022年9月5日月曜日

すべての民の祈りの家(下)

 『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』(マルコ11・12)

 祈りの最も良き見本はイエスである。祈りとは何であるかと問う人はイエスを見るがいい。祈りは人が神に近づき神が人と交わるのである。祈りは人と神との握手であって、この握手によって不思議な力が神から人へと伝わってくる。

 神にもまたこの握手によってでなければ成し能わない仕事がある。神は全能である。しかし人間の意志がこれと共同することを欲し給う。されば神は昔から祈りの家を地上に設け給うた。祈りは神と人との結合であるが、祈りの家は神と人と人々との結合である。神の意志と人の意志と人々の意志とが渾然として一つになる所である。

 イエスの如きお方はご自分と同等に祈る人がないから一人で祈られた。しかし弟子らには『私たちの父よ』と呼んで共に祈るべく教えられ、『ふたりでも三人でもわたしの名において集まる所』と教えられた。だから祈りの家は(本当の祈りの家であるならば)世界を動かす発電所である。心を合わせて祈ることほど大きな力はない。

祈祷
主イエス様、私に祈りを教えて下さい。私たちに祈ることを教えて下さい。独りにてあなたと語る楽しさを私に与えると共に、祈りの友を与えて世界を動かす力をお与え下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著248頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌44https://www.youtube.com/watch?v=W8aR_ZKidgAなお、日々の歌は19「立琴かなでて主をたたえよう」がそれにあたる)

2022年9月4日日曜日

すべての民の祈りの家(中)

『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか(マルコ11・12)

 ユダヤ人はエルサレムの神殿を主として燔祭や罪祭を献げる所としていた。祭司たちはもちろんこれをもってほとんど仕事の全部としていた。レビ記などを読んでみても全部がこの問題の中心として回転していると言ってもよい。

 しかるにイエスは『祈りの家』の一語をもって『わたしの家』すなわち神殿の使命の全部を指し示したことは実に卓見である。燔祭や罪祭や酬恩祭は牛や羊や鳩を献げるのではなく、その形式の中にかくれた懺悔や悔い改めや献身や感謝が本質であることを提(ひっさ)げて彼らに迫ったので、形骸宗教に対する最後の突撃であった。

 葉のみ茂って一つの果実もない無花果のそれであることを弟子たちは痛感したであろう。

祈祷
主よ、願わくは私たちを御救いください。日々形骸化せんとする私たちの信仰を枯渇から御救いください。枯れた骨のような私たちの信仰に日々生ける水を注いで新鮮なる祈りに生かしてください。アーメン 

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著247頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌327https://www.youtube.com/watch?v=XI94ng4nXxw )

2022年9月3日土曜日

すべての民の祈りの家(上)

『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか(マルコ11・12)

 これはイザヤ書にある聖句であるが、イエスは暗記するほどに旧約聖書を読んでおられることは、実に私たちの善き模範である。当時にあっては貧しい人の手に入り難かった旧約書を、あれほどまでに読破されたのは、如何に記憶のよいお方としても、大変な努力を払ったに相違ない。しかもその読み方が生きている。

 『すべての民の祈りの家』の句もイザヤ書にあってはさほどに響かないが、一旦イエスの唇から出ると、実に世界的の響きが生じて来る。このみことばには『わたしの家』をも『祈りの家』をも全世界に向かって開放されたような響きがある。と同時に福音が全世界に広まる預言のようにも響く。

祈祷
主イエス様、願わくは私にあなたの霊を注いで、あなたのように聖書を愛し、あなたのようにこれを読む努力をお与えください。而してあなたのようにこれを行う者とならせてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著245頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌542https://www.youtube.com/watch?v=h0HIFzmIRgY

2022年9月2日金曜日

わたしの家(下)

そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてある」(マルコ11・17)

 イエスは十二歳の時、初めて神殿に参拝して、直ちに意識したことは、それが『自分の父の家』であるということであった(ルカ伝2・49)。二十有余の星霜を経過したこの最後の日にも同じ感じが続いている。

 たといそれがサドカイ、パリサイの人々によって汚されているとしても、やはり親しみ深い我が父の家であり、我が家であった。山の上で神と交わるのもよい、海のほとりで父に祈るのも嬉しい。けれども人間が労力と金銭とを費やしてことさらに神の宮として建てたものはそれが誠意によってなされたのであれば、而して祈祷と断食とによって神に献げられたものであれば、そこは山上にも海辺にも見られない、『自分の父の家』『わたしの家』である。それは神を崇める心の結晶であるからである。

祈祷
天の父なる神様、あなたはあなたがお造りになった山川草木の中には御住みにならないで、私たちが心と手と足とを献げて作り建てる木と石との家を愛してこれを『わたしの家』と』とお呼びになることを感謝申し上げます。あなたを崇めようとする労働のあるところに、あなたの心もあることを感謝申し上げます。アーメン


(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著245頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌294https://www.youtube.com/watch?v=WFZBClhK1tE )

2022年9月1日木曜日

わたしの家(中)

また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。(マルコ11・16)

 二年前に宮を浄め給うた時には『細縄でむちを作って』(ヨハネ伝2・15)彼らを宮から追い出し給うたが、今回はイエスの名が高まっていたから、その必要なく、命令だけで、直ちに行なわれているようである。二年前には『わたしの父の家を商売の家としてはならない』(ヨハネ伝2・16)と言い給うたのが今回は『わたしの家』を『強盗の巣にした』と言い給うた。

 時日の推移は彼らの益々悪化するのを示すのみであった。『商売の家』から『強盗の巣』まで進んで来た。これが祭司長学者の推移であった、イエスのご熱心にも推移があったと言えよう。それは二ヵ年の星霜を経たのみでなく、ご自分の死期が近づいたために、神の宮を愛する心の切実さが一層迫って来たことである。

 二年前には『わたしの父の家』と言ったのに、この日は『わたしの家』と言っておられる。もちろん古語の引用ではあるけれども、悪しき者は愈々悪に進み、善き人は愈々前に進むものであるのだろう。私どもも一日一日を進んで送らねばならない。

祈祷
主イエス様、願わくは知らず知らずのうちに罪に進む危険から私たちを守り、日々夜々にあなたの恵みの中に生長する者とならせてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著244頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌150https://www.youtube.com/watch?v=_HGQEEkCk_w )