2019年2月27日水曜日

主よ、あなたはこんな私のために


わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。(ヨハネ14・21)

主の愛が注がれますようにー。
 「私は本当に弱い者です」と認めた時こそ
 人間は本当に自分を「だめだアー」と思った時こそ
 神が分かるのですー。

 人生に絶望しかかった時こそ神の言葉の一つ一つが
 身にしみ渡るように分かってくるのですー。
 それはなぐさめの言葉ですー。何よりも高価で何よりも
 その一つ一つの御言葉が貴いもののように思えてくるのですー。

本当の人生の生きる最大の秘けつはキリストにあります
 キリストは生きた者の神であって私達に 
 愛を注ぎ入れようとしておられます。
 神の愛こそが本当に私を真実に導いてくれ
 何物にもゆり動かされずただ神だけを見つめて生きる
 最大の秘訣ですー。

 神様が共にいるのだーという事を信じなくてはなりません
 神の愛こそが完全に人間を造りかえるのですー。

そして人生に生きる希望を見い出して感謝を見つけ出してくれるのですー。
 人間はどんな時にも感謝を見つけ出す事ができなければ
 全て無になってしまいますー。
 本当に盲になってしまいますー。今ある状況がことごとく良いのに
 それをけなしているのなら全てはだめになってしまいますー。
 どんなにいい状況でも

 神の愛が私の内に注がれると
 愛は本当にしっかりしていますー。
    
いつも神様を喜ばせる事は何だろうー?と
 いつもそれだけを追い求めますー。

 ですからこの環境がどんなに悪くても彼の目には映りません
 そして今、どうすればどうしていけば神を喜ばせるだろうー?

 神様は今、この環境を通して
 私に何を求めておられるのだろうかー?
 といつもそれが目に映ります
       
そうしたら次に
 神様がこの偉大さが目に映ります
 神様はこんな自分のためにこんなに悪い自分のために
 共にいて下さるのかーと
 そしてなおもこんな自分に何かをなして欲しい
 と頼んでおられるのかー?
 と思うとグッとなみだが出てきそうになります
 目に浮かびそうになりますー。

主よあなたは 
 こんな私のために死んで下さったのですか
 こんな私のために取りなしをして下さるのですか
 こんな私のために働いて下さるのですか・・
 こんな私を指さしておられるのですかー?

(今日、一人のご婦人が証をして下さった。その方のご子息は若くして召されたが、そのご子息の死後、発見された手書きの文章を読み上げられた。上の文章がそうである。)

2019年2月19日火曜日

人の救いと「バイブル」

日輪の 朱く染めたり 冬枯れよ

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言14・12)
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14・6)

 「あっ」と驚いた。テレビ画面いっぱいに大写しに一人の男が両腕をつかまえられて今しも連行されていく場面であった。それは、テロップを通してであったか、その名前を知った瞬間の驚愕だった。そして、瞬時に彼我のちがいはどこにあるのかという思いにとらわれた。今から47年前、1972年の2月のことである。

 この人物は森恒夫氏であった。その時を遡ること、8年前の1964年、私は大学生協の組織部の一員として、京都に出て一泊二日の日程で、文部省が国立大学に出した水道・光熱費の受益者負担を撤廃させろという指示、学習会に出席していた。理不尽な指示だと思いながらも、国家独占資本主義打倒と豪語する塩見・森氏らの指導下にあった。私は自己の信条とこの理不尽な指令の板挟みになり、下山するなり発病し運動から退いた。

 しかし、その蹉跌は私にとり、深い心の傷となった。運動体から離れるのは自らのわがままに過ぎない、そんなことが許されるのかという思いだった。幸い、私の大学は小さな大学であったので、この私個人の内面の葛藤はともかく、それまでどおり生協運営は続行されていた。

 にもかかわらず、「裏切った」という罪責感が自己を支配した。しかし、それは私自身の矜恃に過ぎなかった。私は自身の問題がもっと根本的なところにあることに気づかずに、故郷を離れ、私の当時のバイブルとも称すべき『経済学批判』(マルクス著)を引っさげて、北関東での教師稼業に勤しむ道を選んだ。

 そうして、わずかその5年後にテレビ画面を通してではあったが再会したのが、そのあわれな森恒夫氏の姿であった。この時すでに私は本当のバイブル、『聖書』に出会っていた。救われて三年経っていた。だから、いても立ってもいられなかった。私はすぐ刑務所に聖書を差し入れたいと思った。牧師も勧めてくれた。だが、結果的に実行に移さなかった。私の優柔不断と愛のなさのせいであった。そのうちに彼は自殺した。1973年の元旦の日だった。

 数週間前に池上彰の報道番組でこの浅間山荘事件の意味が問われていた。番組ではその事件に関与した植垣氏がこの事件で逮捕された経緯と現在静岡かどこかでスナック経営をされている同氏にインタビューがなされて、当時を振り返りながら、個人個人が時代への関わり方をどうすればいいのかを考えさせる内容であった。しかも故人とは言え、森恒夫氏の事件への関わりが再三再四取り上げられていた。今更ながら、人生の厳粛さを知らされずにはおられなかった。森恒夫氏のインターネット情報によると「逮捕されてからはキリスト教に関心を示していた」「葬儀はキリスト教会で行なわれた」とある。

 それが本当に森氏の救いになったか、永遠のいのちにあずかったのかはわからない。けれども彼が自己を振り返り、悔い改め、主イエス様のみもとに馳せ参じておられるならば救いは間違いなしだ。

2019年2月18日月曜日

老聖徒の証(3)

神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。(2コリント9・6)

 日本に着いたんですね。団体の責任者は迎えに来ました。けれども迎えに、帰り道に電車で行ったんです、中野島まで。そしてその中で私はそういうように働きますと、そこで全部言いました。これらの人は彼(主人)は何を言うか、ぴんと来なかったのです、多分。けれどそれは立派だと思いました。けれども、その時は主人はもちろん初めて日本語勉強のため学校へ行きました。けれどもそれは一年間、あるいは二年間それはわからないですけども、覚えないんですけども。その後で私はすごく安心するようになりました。

 そして私は今何も話さない。その時、そのままでまかせますというふうに、主に任せますというようになりました。そして那珂湊というところへ、すぐ行ったところでしたから、そこで主人がすわりました。そこで教会は何もなかったんですね。そしてそのところへ行きました。そのところで9年間(と思います)働きました。それはすごくいい時代でした。主人はもちろんお客だけの、その時まだ誰かいたか知りませんけど、ほとんど主人がメッセンジャーでしたけども、すごく時間がかかりましたね、初めのうちは。けども、10年後でものすごく自由になったんですね。けども、そのあとで私たちは団体のことは支配しません。団体のことは聖書的じゃないということ、そして私たちはその時離れました。

 その時、ドイツの責任者は初めての九年間はすごく(私たちの)後ろ盾なりました。団体、それは決めますけど、もしベック兄はちがう意見あれば、自由にできますという、九年間でした。その方亡くなりました。その次は別の後継ぎは全然ちがう人でした。けれども彼(主人)はもう日本語できました。そして、どういうふうに支配するかということ皆説明しました。主人はああ、こうだ、それは私たちの終わりですよ。そして、主人は私たちそのあとでリーベンゼラーから出ました。そして自由になって、そしてたくさん団体があって、宣教師が自由に行った人はあります。

 それは私たちもできる場所でしょう。そして決まったとき私たち生活するために金なかったんですね。その時から、それは今日まで同じですよ。そして一度も、一度も、困ったことがないです。経済的(な面)です(よ)。何か問題がなかったですけど、本当にイエス様が導きです。(イエス様の)素晴らしさは、ものすごい奇跡です。日に日に経験しました。これは今まで考えると、本当に不思議ですね。不思議です。奇跡なさるべきでした。その時から「イエス様、生きている」ことがわかりました。私たちはその時大きな集会持ってました、もちろん。この人たちは来ましたけども。本当に私主人どのように考えていたか話しませんけど、すごく奇跡的に生活することができました。大きく集会になりました。そしてどのくらい集会があるか、今忘れました。日本中の集会になったんですね。主はすばらしい。

(このようにたどたどしい日本語を使いながら、人生の大半を異国の日本で過ごしながら、ひたむきに主イエス様と日本人を心から愛されてきたミンヘンさんを思う。そしてこの話の末尾にあるように、主は奇跡をなしてくださった、これからもしてくださる、と心から確信し感謝しておられる姿を知ることができるのではないだろうか。そんなミンヘンさんではあるが、別の時、皆さんの前で人目もはばからず、ドイツ語で話されながら、激しく泣かれた。私たちにはその言語はわからなかったが、その切々たる感情は今も私の身に迫ってくる。
 昨年の12月21日のブログhttps://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2018/12/blog-post_21.htmlで紹介した以下の交わりも、同じミンヘンさん宅での交わりで経験した交わりであるし、この方も89歳であった。老いて主イエス様にあって、喜び、悲しみを披瀝しながらお交わりできるのも大きな主の恵みではないか。)

2019年2月17日日曜日

老聖徒の証(2)

大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。(ローマ12・5)

 私はアイドリンゲンの専門学校へ行きました。その時、ひとりの姉妹はアメリカから秋帰りました。でも、その時、彼女はイギリスのところに行きましたけど、帰りました。けど、その(結果)彼女の場所は空くようになりました。ですから、アイドリンゲンのシスターから、あなた(イギリスへ)行けばいいじゃないですか、信ずるのにいい場所ですから(と勧められました)。そして、私はイギリスへ行きました。それが初めてでした。そして、その時は、一年ぐらいあのところで、それは日本のハイジオス?(のような)ところでしたけれど、あの人たち、あまり支配することができない人たちで、すごく丁寧な人たちでした。そして、あのオークというところはミスター・スパークスのところでした。

 そしてあのアイドリンゲンにいた時は、オークの方の集会に行きますか?と言ったんです。それは行って、ちょっと遠いでしたけど、日曜日と木曜日の晩いつも行きました。そしてその間は「イエス・キリストのからだ」について初めて聞きました。すごく良く伝えました、向こうの人たちのテーマ。そして、それはびっくりしました。そして、私は日本に(いる主人に)電話した時には、いつもそのことを言いました。すごいことだと思いました。そして主人でしたから、「ハイ、それは聖書に書いてます、当たり前でしょう。当たり前で、皆信じますよ」(と言いました)。そして私は、けれども信じても、(主人は)ほんとうにわからないと思いました。

 けれども私はイギリスから、ロンドンから帰った時はそのことがもちろんテーマでした。けれどもその時も主人はもちろんそれは当たり前でしょう、それは聖書に書いていますから、「イエス・キリストのからだ」のこと。それは私は信じますよ(と言いました)。そしてそのことを私はミスター・スパークスの集会へ行き、ミスター・スパークスに「主人と結婚するべきですけれど、彼は『イエス・キリストのからだ』のことわからなくてピンと来ないと思います、いくら話してもわからないですね。」と言いました。

 そして主人はスイスの神学校から帰って、彼もイギリスまで来ました。そしてミスター・スパークスのところで泊まることができました。それはすごく良かった。けれどもそのあとで、またミスター・スパークスに言いました。「どうしますか? あの人と結婚することができますか? 」そしてもちろんできます。すごく立派な人ですけど、それは今わからなくても。彼はすべての集会、日本まで船で行きますから、どこの港でも集会があります。そしてすべての集会の住所があったんですね。それを全部主人にあげました。

 そして彼が行った時ほんとうに私はそのあとで行ったんですけど、どこの集会、行きました。そこの集会まだまだ香港かコロンボで港に船は入ってました。そしてそこでピークという山があります。そしてある人は主人と一緒にピークというところに行きました。そして一日中暇があったんです。そしてずっと「イエス・キリストのからだ」について話しました。けれども、その時から主人の手紙は毎回、そのことでテーマいっぱいでした。彼は完全に変わりました。そして心配しないで私その方向に働きますので(と書いて寄越しました)。それは嬉しかったんですけど、完全にオースティン(・スパークス)になったのは日本に帰り着いたんですね(帰り着いてからですね)。

(2月12日、ミンヘンさんのご自宅で様々なお交わりがあった。主にある者どうしの交わりはいずこにあっても自由である。この時も一人の男性が何気なく、証をされた。その証に踵を接するかのようにこの証がはじまった。その聞き書きである。89歳になられたばかりだし、日本語はお上手ではない。しかしこの証にはオースティン・スパークスと出会い、「キリストのからだ」について教えられた喜びが体全体で表現されていた。そして何よりも婚約者であるベックさんが同じ真理を受け入れてくれるかどうかの不安と、それが受け入れられた時の喜びが語られている。私たちの場合も、妻は私がイエス・キリストを受け入れていないが、彼は受け入れてくれるだろうか、結婚できるであろうかと牧師に相談したそうだ。その時、牧師は、彼は必ず信ずるようになると励まして祈ってくれたそうだ。)

2019年2月16日土曜日

老聖徒の証(1)

 私は山口集会に属しております西村喜与志と申します。生まれは大正6年11月の20日でございます。それでただ今89歳に相成る状態でございます。家内はただ今86歳で、そうして特別養護老人ホームに入園し生活しております。現在は日々(にちにち)目をつぶって横たわっていて、私共が行っても何の返事もしてくれません。口ももちろん聞いてはくれません。私もどんなこともできませんが、ただイエス様におすがり申し上げるのみでございます。そして御心のままによろしくお願いしておる次第でございます。要介護度は五です。最高ですが、私はひとりでここ13年間奮闘しております。

日々の力はイエス様が与えてくださった力をいただいており、何事も不満を口にせず感謝して過ごしております。ひとり暮らしをしておりますが、しかしひとりではなくイエス様に守っていただいておりますので淋しくもなく元気一杯で日々を過ごしております。毎週土曜にあります集会には欠かさず出席させていただいていて皆様方との交わりを深くしております。

 市内に私の長女が住まいをしております。何かと良く面倒は見てくれます。けれども他家に嫁いだ身ですから、そう以前の親子としての間柄に密になることはできません。これは私も覚悟しておりますが。私は血圧が従来から高いです。10年前かかりつけの医者より降圧剤として新薬を朝夕三錠あてに服用するように指示を受けました。それからのち二月ぐらいしてから腸を壊し、六ヶ月ばかり相成り、日夜苦しみました。暑い時もありましたが、本当にこれは言うに言われん苦痛をしました。他の医者にもかかってみましたが、確たることは得られず、不満な毎日毎日でございました。

 ある時長女が私に(・・)聖書なるものをはじめて(・・)くれました。それを読んでいくうちに
 
愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。(箴言12・16)

このみことばにより大鉄槌を下された思いをしました。老人として今までは悪い面だけを見てただ立腹するのみでございましたが、何も頼るものもなく、医者を恨んでおりました。

けれどもこの新薬を服用してから自分が体調不調になったわけですから、体質になじまないのではないかとこの薬を思いましたが、今度は一粒、一粒、減らしていってとうとう一粒に。そうしたらすっかり体の調子がよくなりました。おかげで聖書に接した結果と、かように思い、今では朝夕声を大にして私一人ですから、戸を締めていれば外を通る人も全然聞こえません。だから思い切り大きな声で聖書を拝読させていただいています。イエス様に深く感謝します。ありがとうございます。

 次に私は22歳で山口の四二連隊に入隊し、後に関東軍に移り満州のハイラルに駐留しそのときそれは昭和13年ノモンハン事件が勃発して現地に急行いたしました。ソ連との戦いです。八月中旬ごろ夜中、ノロ高地の敵軍の中央突破という作戦に出て、それで敵軍の機関銃陣地に突入して二人のソ連兵を銃剣で殺害しました。その当時は殺気立っておっていて何とも思いませんでした。戦争が終了したならば、その功によって勲章を頂きました。

それが聖書を知ってから、殺害の様子が明瞭に脳裏に浮かぶようになりました。3年前山口の宇部市において集会が催された時、ベックさんにこの事情を打ち明けました。ところが何分古いことだから「イエス様、お許しください」とお祈りしなさい、と指示を受けまして。それから朝夕お祈りを続けておりました。ところがいつの間にか幻影が消え苦しむことはありませんでした。自分の行なった行為、戦争とはいえ、罪の深さをつくづく感じております。

 それと今度は今年の二月の午後五時ごろでした。子供がうちに来ましたので帰るからというから、無事に角を回っていったので、安心して私は戸をあけて入りました。けれどもその節いつも出入りする時にはここを必ず持たんと倒れるぞと言うことを頭に入れております関係上、それをそのときは持たずに何の気なしにぼんやりと入って行ったところが何につまずいたか前にばったりと倒れました。

右目の目、額のところ出血がひどく、帰ったばかりの子供を呼び寄せてそれで外科医に行きました。二時間ぐらい治療がかかり二針ずつ縫いました。翌日治療のため医者に行きましたところ「よくあることで年をとっておるとどうしてもそういうふうに物を持たんとぼんやりということで前に倒れる。このぐらいの倒れでよかった。骨折せんでよかった」とこういう風に言っていただきました。
聖書の詩篇の37篇の24節で
その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。

全くみことばの通りだと思い、深く主の愛に感謝しております。ご清聴ありがとうございました。つたない証言でございます。お聞き辛いところもあったと思いますが、ありがとうございました。

(2007年8月29日 広島喜びの集いより。12年前にこのお証をお聞きし、早速聞き書きさせていただいた。それからしばらくして召されたように記憶しているが、今もって、その証は鮮烈な印象を私に与え続けている。文中の・・はこの方が感極まって嗚咽された箇所である。)

2019年2月9日土曜日

集会のありかた(完)

冬枯れの 鳩のつがいに 影ありて 尊厳思う 妻と歩めり

あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。(1ペテロ1・22)

 最後に、集会のこれまで述べた目的をさまたげること(について考え、主がおっしゃる集会の目的をしっかりつかもう。)

マルコ10・38
しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。

①主イエス・キリストだけを集会のかしらとし、他のいかなる人間的な思いや組織が集会を支配し左右してはならない。

②形式的表面的なものによって左右されないこと。
(たとえば)集会の人数、献金の多少(その他もろもろのこと)。百人の偽キリスト者よりも、ひとりの真のキリスト者が必要である。

この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。(マタイ15・8)

③集会は神に礼拝をささげ、交わりの場(であるべきで)、決して雑談をし、また社交場ではないこと。祈りと励まし(による)、主にある一致の場所(である)。

④他の信者の信仰を云々すべきでない
 各々の人の信仰は、私たちが判断するより、先に正しく神ご自身がごらんになっておられる。各人がつつしみ深く自分の信仰を吟味すること

しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16・23)

 イエス・キリストだけが主、つどう私たちはひとしく僕(しもべ)である。上下の差は決してない。地位、名誉、知識の多少、年齢、性別・・・これらは集会において何の足しにもならない。私たちが主に対してどのような状態にあるかということである。各人が主だけを見上げる集会になることが大切だ。

さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。(ルカ6・37)

⑤クリスチャンが自己の責任と奉仕を回避すること(が、あってはならない)
 自分に与えられている恵みを十分に主のために用いないことがあってはならない。主は私たちひとりびとりに異なった賜物を与えてくださっており、これらはいずれも主のために用いるように主は望んでおられる。自分には力がない、自分はだめだ・・・などなど。他者の目を恐れるにあらず、神の御前にへりくだり、神を畏れて、自己のなせる最大の努力をして主のために仕えること(が、肝要である)。

⑥私たちの心がたえず主に向けられ、主とともにあり、主の愛のうちにあって心が熱く燃えていること

そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている  間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(ルカ24・32)

 私たちキリスト者は主イエス・キリストのご愛のうちにいることの喜びを感じ、また内に燃えるものを絶えず保持し続ける必要がある。集会に大勢の人が集まっているにも関わらずひとりびとりがバラバラ無関心であることほど集会の目的を妨げるものはない。

子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。(1ヨハネ3・18)

さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。(エペソ4・1〜4)

2019年2月8日金曜日

集会のありかた(3)

水鳥の 群れなし草食む 陸(おか)の上

あなたがたは、地の塩です。あなたがたは、世界の光です。(マタイ5・13、14)

 以上のことだけでは教会の目的の一割にも満たない。

 ある人にとっては教会とは壮大な建物の中で一定の儀式にひたることにより一層神に近づき得るものと思い、おもにそうすることを目的とする。ある人は種々の社会奉仕ができるから教会につどう。またある人は家庭的な環境、雰囲気を求めて(なのかもしれない)(しかし)このいずれも私たちは教会に何かを求めてやってくるのではないか。自分の弱さを強めるため・・・たしかにこれも大切である。しかし集会の目的は、私たちが自分の欠けている何かを求めてそれを満たすためにやってくるのが目的ではなく、むしろ集会は私たちが何かを与えるためである。

 すなわち、教会は福音を広め、主イエス・キリストをとおして他の人が救いにあずかるよう、私たちも主イエス様の御働きを助けることである。自分の信仰を強め、あかしの力を加え、人々に救いを宣べ伝えることである。聖書の教えるとおりキリスト者の神から与えられている責任は「全世界に出て行って福音を宣べ伝えよ・・・」である。

 私たちがかつて死と罪と絶望の世界(に住んでいたところ)より、光と歓喜、いのちの世界へ導き入れられたこの喜びを、この唯一の救いの道を、ひとりでも多くの魂に与えることである。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたが たは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1・8)

 イエスご自身がご自分の目的は(神から地上につかわされたのは)滅びゆく魂を導いて救いを得させる。失われた羊を捜す(と言われた)。

わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。(ヨハネ10・16)

 また福音を伝えるのはただ単に言葉や知識でなくして、必ずそこには愛と犠牲とがともなうことである。それは主イエスご自身がお示しになられた(ことからわかる)。(ご自身の御からだを裂かれて)人々にまことの道を示すのは(気づかせるのは)愛と犠牲の方法をとおして(であった)。愛の犠牲の道は人々の心をめざめさせ、私たちの与えられていることの喜び、真理をつぶさに相手に伝えることができるのである。

これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。

「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」(マタイ8・17)

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5・16)

わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。(マタイ10・42)

 (要するに)私たちはイエス・キリストの福音をたずさえて世の光、地の塩となることだ。

2019年2月7日木曜日

集会のありかた(2)

川央に 白鷺歩む 冬景色

真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。(ヨハネ4・23)


 次にこの教会につどう私たちはどのような目的を神から与えられているか(考えたい)。人間は自分の行動を起こす際、必ず目的を持つ。私たちが今日こうしてこの集会に集っているのも各々目的があるから(だ)。

1、教会(集会)においてはわれわれは礼拝をとおし神の御栄光をあらわす。

 教会とは単に説教を聞く場所ではなく、神に礼拝をささげ、讃美をささげるところ。霊とまことをもって。教会におけるすべてのことはまず礼拝、祈りをもって始められ、祈りをもって終わらなければならない。礼拝をとおして私たちは自らの内に宿る聖霊様と語り、天の父なる神と相見(あいまみ)ゆることができる。礼拝によって神との交わりを与えられる。教会は祈りの場とすべき(である)。

それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。(マタイ21・12)

(したがって)礼拝を重んじない集会は決してあり得ない。

2、教会(集会)は交わりのためにある。

 この地上における交わり、人と人との交わり合いは実に多いが、キリスト者にとって教会における愛する主にある兄弟姉妹方との交わりほど私たちに大きな喜びと心からの一致を与えるものはない。主イエスが働いてくださる時、私たちはお互いの心を開き、心の奥底に入ってゆくことができる。

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。(ガラテヤ3・26)

 私たちは家庭で、会社で、同じ趣味を持つ人同士で交わりがある。しかし、キリストにある交わりほど、喜びも楽しみも(与えるものは世の中に)決してない。聖書の中にも、主にある者が交わるその喜びがいかに心溶けゆくばかりに感謝と大きな恵みであるか(が、書いてあり)、聖書を開くとわかるが、父や母に対する愛も、また実の兄弟との交わりも、救われていない者同士であれば、その喜びはただ人間的な喜びに終わってしまう。集会に集うひとりびとりの兄弟姉妹が、主を通して愛の交わり、愛の一致が見られる時、私たちは教会における最大の喜びを得ることができるのである。
    主にある私たちが日々集会に集いながら、お互いのことに関心なく、また心からの交わりがなければ、決してそこには主が働いているとは言い得ない。イエス・キリストは愛そのものである。主イエスに結ばれるものはともに愛の一致、愛の交わりがなければならない。

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には。 わたしもその中にいるからです。(マタイ18・20)

それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。(ヨハネ17・21〜22)

 キリスト教は交わりの宗教であると呼ばれている。キリスト・イエスのお説きになった愛は決して自分一人では成立し得ない。愛の成立するのには必ず他者が必要である。
 交わりをとおしてお互いの信仰を深め合い、強め合う。
 愛の交わりをとおして、主イエス・キリストがわたしたちとともにひとしく働いておられる事実、喜びの事実を体験できる

3、教会は奉仕をささげる場所である。

 外に出て戦う力を養う。私たちが何かの目的をもって仕事をし、奉仕をし、ささげるその内なる力は教会における交わり、祈りによって与えられる。教会の交わりをとおし、与える喜び、奉仕する力を得る。

このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(使徒20・35)

私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。(ロマ書12・6〜8)

2019年2月6日水曜日

集会のありかた(1)

”絵を描くのが好きな仲間たち” 作品展 市川良一さん作品
どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。(ロマ15・5〜6)

 ベック兄の語られた集会のありかた
(ドイツにおける集会から学ばれて※)

 集会には五つのポイントがある。(1)聖霊が教会を満たし、支配している(ことが肝心である)。牧師職を決め、牧師のみが神のみことばをとりつげる資格があるとするような現代の教会は真の意味で神から喜ばれることはできない。(2)信者と未信者との区分が集会において(は)明確に区分されていなければならない。(3)全キリスト教派、教団がひとつになることは決して神のご計画ではない。(4)ある地域と隣の地域が連合してひとつの集会を形成することも、人間的な要素が集会を支配する危険性がある(ので、良くない。)(5)教会の規律が正しく守られていなければならない。

 この五つの集会のありかたと関連させ、神の喜ばれる集会のありかた、主イエス・キリストを信ずる群の目的について、聖書をとおしていくつか学んでみたいと思います。

人の集まり・・・社会、人種、国家、クラブ、組合、趣味同好会、自分の生活方法に共鳴する人、同一の目的を持つ集団。連帯感と慰め合うこと・・・いずれも人間の意志に基づいて成立している。

教会 エクレシア
ギリシア語で「召し出された群れ」の意味。(本来は)自由都市国家の代表者たちが集まり種々の事柄を決定する行政的な目的を持ったもの(を意味した用語)。

(それに対して)新約聖書に出てくる教会(は次のようなものである)

ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。(マタイ16・18) 

 教会は人の意志によって成ったものではなく、イエス・キリストご自身のすなわち神のご目的によってこの世に形成されたものである。人の思いつき、意志によってではない(人間のつくる各種の集まりと異なるところ)

イエス・キリストご自身が教会の隅のかしら石となっておられる。

というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。(1コリント3・11)

 教会はその建物や組織、教会員というものではなく、イエス・キリストご自身が据えられ、今も生きて働いている有機的組織である。神ご自身が、ご自身を慕い求めてくる人々と共に生きて住みたもう(ところである)。

神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。(1テモテ3・15の後半)

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ18・20)

 この地上には多くの教派、教団が形成されているが、真の教会とは、ただイエス・キリストが教会の源となっておられ、イエスご自身が、主として、教師として、かしらとして立っておられることである。

あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。(エペソ2・20)

 集会のかしらはイエス・キリストであり、集まる群はただそのイエス・キリストがかかられた十字架の贖い、血潮によって救い出された、主に仕える僕(しもべ)であり、この僕(しもべ)の間にはいかなる差異もありません。従って私たちは聖書の教える神ご自身のご命令以外、いかなる人間的な組織や決まりも私たちを拘束するものではない。私たちが従うのはただイエス・キリストご自身だけである。

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(ロマ書13・1)

 教会は主イエス・キリストがかしらであり礎であると同時に、ご自身のからだを教会とされ、集まる私たちをその肢体として表現されている。

ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。(1コリント12・12)

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。(ヨハネ15・4)

からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。(エペソ4・4)

 教会に私たちが連なるとは、私たちがキリストのみからだの一部分となり、主のご意志にすべてをおまかせすることを意味する。肢体なる私たちを支配するのはからだそのものであられるイエス・キリストである。(これが)神のお建てになった教会、神の住みたもう教会(の姿である)

(※この話は、ベック兄が1972年2月9日、約半年間のドイツ帰国・滞在の旅を終えて、日本に戻られた時、集会の方々に話されたものである。その帰国は決して宣教師の方々が骨休みにいただかれる、いわゆる賜暇休暇ではなかった。ベック兄はこの時すでに宣教団体から離れておられたからである。むしろドイツでもみことばのご奉仕をされたのでないかと私は推察している。これは当時その場にいてその話を筆録された方が書き残された手書きのものをもとに作成したものである。今、新たな思いで読む時、様々なことをみことばを通して深く教えられる。読者諸兄とともに考えながら味わいたい。)

2019年2月2日土曜日

あけぼのの翼をかりて(結)

神よ、どうか悪者を殺してください。血を流す者どもよ。私から離れて行け。(詩篇139・19)
 
 第四段は19節から24節までで、悪しき人々に対する憤慨を現わしております。
    
    神よなんぢはかならず悪しき者をころしたまはん
    されば血をながすものよ
    我をはなれされ
    かれらはあしき企図(くはだて)をもて
    汝にさからひて言ふ
    なんぢの仇はみだりに聖名をとなふるなり(19、20)

 神の全知全能を讃美してきたこの詩篇の作者は、翻って現実社会を眺め、神に背けるものの如何に多きかを今更に思い、彼らに対する憤怒がこみ上げてくるのであります。

    エホバよわれは汝をにくむ者をにくむにあらずや
    なんぢに逆らひておこりたつものを厭うにあらずや
    われ甚(いた)くかれらをにくみてわが仇とす
    神よねがはくは我をさぐりてわが心をしり
    我をこころみてわがもろもろの思念(おもひ)をしりたまへ
    ねがはくは我によこしまなる途のありやなしやを見て
    われを永遠(とこしへ)のみちに導きたまへ(21〜24)

 神を愛する者が、神に背く者を敵として憎むことは当然であります。されどこれは個人的な憎しみではありません。義憤であります。圧え難き義憤をかく力強く神に訴えているのであります。「私は罪人で御座います」を常套語とする今日のお上品なクリスチャンは、この最後の句をみて、自己を正しとする傲慢だと言うかもしれませんが、朴直なる詩篇作者は、この世の神に背いている輩と、全く別の世界に住むことを強く言い現さんとして、かく言わざるを得なかったのであります。

 さて全篇を今一度ふりかえってみると、何という麗しい信頼にみちた詩でしょうか。この信頼のあるところに真の平安があるのであります。

 明日ロンドンに発つ小林さんとは、もう六年位もこの集会を共にしました。私共の集会は人数が少ないだけ極く親しくして来ました。その少数の中の一人が、今夜を最後として遠き地にゆく事は、何とも言えぬ寂しさであります。キリストが自分の言を聴いている周囲の人々を見廻して「見よ、これは我が母、わが兄弟なり」と言われたことがありますが、私共も信仰を同じくする友を、何よりも親しく思うものであります。けれども私共の集会は、私共の交わりのための集りではありません。神の栄光が現われることが第一の願いであります。小林君は今「あけぼのの翼をかりて海のはて」に行こうとしておられます。しかし、其処にて神は同君を守り導き、働かせて下さるのです。

 東京とロンドン、この世界の二大中心地にあって、心を合わせて世界のために祈ることは、又意義深いことであります。たとい所を異にしていても、常に交わることが出来、たとい地上で再び会う機会がなくとも、必ず又遭う時のある我等は幸いであります。

(『藤本正高著作集第3巻282〜284頁より引用。80年前、このような詩篇139篇の講解に励まされて、小林さんは未知の地であり、すでに日本とは交戦国関係になろうとしていたイギリス・ロンドンへと三井物産の社命を受けて旅立ったのだ。)

2019年2月1日金曜日

あけぼのの翼をかりて(転)

それはあなたが内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。(詩篇139・13)

 第三段は13節から18節までで、神の全能を歌っております。
    
    汝はわがはらわたをつくり
    又わが母の胎にわれを組み成し給ひたり
    われなんぢに感謝す
    我は畏るべく奇しくつくられたり
    なんぢの事跡(みわざ)はことごとくくすし
    わが霊魂はいとつばらに之を知れり
    われ隠れたる処にてつくられ
    地の低所(そこべ)にて妙につづりあはされしとき
    わが骨なんぢに隠るる事なかりき
    わが体いまだ全からざるに
    なんぢの御目は早くより之をみ
    日に日に形づくられしわが百体の
    一つだにあらざりし時に
    ことごとく汝の冊(ふみ)に録されたり(13〜16)

 「はらわた」は精神的な部分を指し、「骨」は肉体的な部分を指すのであって、精神も肉体も凡て神の奇しき創造の御手になる、と言うのであります。われらは凡ての被造物において神の神秘な創造力を知らされるのですが、特にわれら人間の精神と肉体の不可思議な創造において、神の全能なる力を深く知るのであります。神の力なくしてわれらの創造と存在を考えることはできません。われらは偶然にこの世界に生まれたのでなく、神の大なる摂理、御計画のもとに生まれさせられたのであります※。

    神よなんぢのもろもろの聖念(みおもい)は
    われに宝(とふと)きこといかばかりぞや
    そのみおもひの総計(すべくくり)はいかに多きかな
    われこれを算(かぞ)へんとすれども
    そのかずは沙(すな)よりも多し
    われ眼さむるときも尚なんぢと共にをる(17、18)

 何と広大無辺なる神の聖念でしょうか。われら人間は到底量り知ることができません。この神がわれらと共にいて下さるのであります。

(『藤本正高著作集第3巻281〜282頁より引用。※今回この藤本氏の文章を転写するきっかけになったのは、先週土曜日の浦和の家庭集会に出席して、5年ぶりにこの文章の存在を思い出し、一人の天涯孤独の方の人生とイエス様の愛のつながりについて考えたことによる。そして、昨日は、その方と3、4年ぶりに家内が電話で話するように導かれた。5年前、重篤のご主人を前にして病院でこの詩篇139篇と藤本氏の文章を要約しながら読んだ。久しぶりにこの文章を再読し、ご主人を亡くして再び一人ぽっちになった彼女の人生が決して偶然でなく、創造主の愛は今も変わらず彼女の上に注がれていることを強く確信できた。5年前のその辺の事情はhttps://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2014/04/blog-post_26.htmlに書いた。)