2019年2月9日土曜日

集会のありかた(完)

冬枯れの 鳩のつがいに 影ありて 尊厳思う 妻と歩めり

あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。(1ペテロ1・22)

 最後に、集会のこれまで述べた目的をさまたげること(について考え、主がおっしゃる集会の目的をしっかりつかもう。)

マルコ10・38
しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。

①主イエス・キリストだけを集会のかしらとし、他のいかなる人間的な思いや組織が集会を支配し左右してはならない。

②形式的表面的なものによって左右されないこと。
(たとえば)集会の人数、献金の多少(その他もろもろのこと)。百人の偽キリスト者よりも、ひとりの真のキリスト者が必要である。

この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。(マタイ15・8)

③集会は神に礼拝をささげ、交わりの場(であるべきで)、決して雑談をし、また社交場ではないこと。祈りと励まし(による)、主にある一致の場所(である)。

④他の信者の信仰を云々すべきでない
 各々の人の信仰は、私たちが判断するより、先に正しく神ご自身がごらんになっておられる。各人がつつしみ深く自分の信仰を吟味すること

しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16・23)

 イエス・キリストだけが主、つどう私たちはひとしく僕(しもべ)である。上下の差は決してない。地位、名誉、知識の多少、年齢、性別・・・これらは集会において何の足しにもならない。私たちが主に対してどのような状態にあるかということである。各人が主だけを見上げる集会になることが大切だ。

さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。(ルカ6・37)

⑤クリスチャンが自己の責任と奉仕を回避すること(が、あってはならない)
 自分に与えられている恵みを十分に主のために用いないことがあってはならない。主は私たちひとりびとりに異なった賜物を与えてくださっており、これらはいずれも主のために用いるように主は望んでおられる。自分には力がない、自分はだめだ・・・などなど。他者の目を恐れるにあらず、神の御前にへりくだり、神を畏れて、自己のなせる最大の努力をして主のために仕えること(が、肝要である)。

⑥私たちの心がたえず主に向けられ、主とともにあり、主の愛のうちにあって心が熱く燃えていること

そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている  間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(ルカ24・32)

 私たちキリスト者は主イエス・キリストのご愛のうちにいることの喜びを感じ、また内に燃えるものを絶えず保持し続ける必要がある。集会に大勢の人が集まっているにも関わらずひとりびとりがバラバラ無関心であることほど集会の目的を妨げるものはない。

子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。(1ヨハネ3・18)

さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。(エペソ4・1〜4)

0 件のコメント:

コメントを投稿