2019年10月30日水曜日

U病院への往復

琵琶湖東岸から西岸・比良山を望んで(2019.10.26)

 1981年11月29日、父が召された。その2ヶ月ほど前までは、市内のU病院に預かっていただいた。父は、今で言う、認知症を患っていた。69歳であった。当方は働き盛りの38歳であった。認知症の父を朝に夕に自宅からほぼ4キロほど離れている病院へと日参した。自転車での往復は雨が降ろうと降らなかろうと繰り返した。妻は二往復する場合もあった。しかし二人とも弱音は吐かなかった。吐いてはいられなかった。それしか道がなかったからである。しかし今から考えてみると、その時妻は6月に末娘を出産したばかりである。そんな体でよくも通い続けたと思う。

 それ以来、その道を通るのも嫌だった。その時の苦しい経験が思い出されるし、明らかに当方の体力が落ちていることを嫌が上にも自覚させられるからである。ところが、昨日、一人の青年から電話が入った。95歳の祖母が施設から病気のためU病院に入院した。大分衰弱が激しい、と。その青年とは面識はなかったが、祖母である方とは数十年にわたる信仰の友である間柄であり、つい2ヶ月前にもお訪ねしていた。

 今日、取るものも取り合えず、U病院に行くことを決心した。妻の方から言い出した。二人で自転車で出かけるのも久しぶりであった。しかし、それ以上にU病院に出かけるのは実に父の入院時以来である。38年という年数が経過しているのだ。10年ひと昔と言うが、大変な年月の経ちようである。その間、二人して良くも健康に恵まれたものだと感謝する。幸い、入院中の方と会話を交わすことができた。

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、
わたしの義の右の手で、あなたを守る。
         (イザヤ41:10)

 の、みことばを枕辺でお読みし、お祈りした。大きな声で「アーメン」と言われた。考えてみると、昨日は尊敬する緒方貞子さんが亡くなったこと、またその前日には八千草薫さんが亡くなり、テレビで石坂浩二が「もう二度とあの声が聞こえないと思うと・・・」と涙を流されている様が流れた。愛する者との死別ほど悲しいものはない。そのような中で、死を目前にしても、なお「わたしの義の右の手で、あなたを守る」と言われるイエス様に頼れる信仰ほど強いものはないと思わされて辞した。

 元気が与えられ、別の方が入所されているN施設が程近いところにあるので、二人してお訪ねしようということになった。この方はこのブログでも何回か紹介している方だが、私と同年で優秀な方であったが脳梗塞が発端で今は体が不自由で言語も不明瞭になっておられる方だ。その方を覚え、一人の方がいつも週に一度の便りを出しておられる。肉の糧と霊の糧を満載された便りである。ところがどういうわけか今週は届いていなかった。

 この方をお訪ねするときは、大体病床から電話で、その便りを出しておられる方も交えて三人でお話しする。まさに私に言わせるとiPhone様様だ。早速お電話で便りが届いていない旨話す。そんなはずはないと言われるとおり、その後、事務所から「便り」が届く。三人して、ワっとばかり飛びつく。まずは肉の糧!そして霊の糧

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
           (詩篇23:4)

 ここでも祈る。彼はまたしても私の後について祈られた。そして「アーメン」と言われた。感謝であった。帰りに次女のお世話になった先生のお宅に立ち寄らせていただき、玄関で「あなたとともに(みことばの花束集)」をお渡しした。奥様のお顔はいつになく平安で、闘病中のご主人も病と向き合って生活しておられるとお聞きし、私たちは感謝して辞去させていただいた。

 この間わずか数時間、本来はU病院訪問が目的であったが、次々とイエス様を信じていなければ持ち得ない三組の方々とのお交わりが与えられた。38年前の苦しみの日々はもはやすっかり過去となってしまっていたが、その日々も主がともにいてくださり、私たちの人生に考えられない恵み(次女の誕生と父の召天)をくださったことを改めて思い出すU病院行きであった。

2019年10月11日金曜日

『富士日記』の余韻


あなたがたは、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を守りなさい。そうすれば、あなたがたは、強くなり、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地を所有することができ、また、主があなたがたの先祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地、乳と蜜の流れる国で、長生きすることができる。(申命記11:8〜9)

 やっと、全三冊からなる『富士日記』(武田百合子著)を読み終えた。確かに良い作品である。一言で言うとすれば、そこには「いのち」の尊さが描かれているのだ。たとえば、中巻にあるこんな記事だ。

昭和42年7月13日の日記。そこに古い新聞の投書記事が書き写されていた。

 「5月28日附毎日新聞、投書欄より
 ミツバチがやってきたら・・・作家大江賢次 61
 大都会でミツバチの群れがきて殺虫剤で退治したというニュースのたびごと、ベトナムと同様、人間の無知さに心が寒くなります。いまは花どき、全国の養蜂家たちが春はじめ鹿児島から、花を追って北海道までトラックで移動して、聖書にもあるとおり、流れるミツを集めています。
 花どきの今の季節がかき入れどきで、わずか三週間しか生きていない働きバチは、一つの箱から分封します。前の女王バチが新しい女王バチに王座をゆずり、別天地を求めているのです。
 この時期のミツバチは刺しません。体にとまっても大丈夫。あわてて手で払ったりしない限り、飼主の人間を恋い慕っているのです。球型(女王バチを護衛して丸くなる)になったら、警察に届け、警官もあわてずに噴霧器で羽をぬらし、袋で押さえて保管して、近隣の養蜂家に渡してください。一群二万、一匹で千五百の花をまわって、やっと米粒ほどのミツを集めるのです。」

そして同年7月18日が次の日記だ。

 「ポコ死ぬ。6歳。庭に埋める。
 もう、怖いことも、苦しいことも、水を飲みたいことも、叱られることもない。魂が空へ昇るといことが、もし本当なら、早く昇って楽におなり。」

 このように、生けるものの「生と死」が作者特有の観察眼で描かれている。ポコの死については、その後一年以上、事あるごとに涙を流す著者がいる。そして同書の下巻は昭和51年の9月21日の日記をもって終わるが、糖尿病のために日増しに山荘での生活は困難になり、とうとう肝臓が腫れ赤坂に帰り入院を待つばかりになってしまったご主人の最後の生の姿がありのまま描かれる。この後、武田泰淳は10月5日に亡くなる。

 愛犬ポコの死に注がれた痛切の涙は、百合子にとってその全存在とも言っていい泰淳に注がれるのは言うを俟たない。しかしこの日記はあくまでも生を全うした武田泰淳、その衰えゆく夫をいとおしみ愛し抜く百合子の証の書でもある。その中で都会人が、また筆の人が、地の人(山国の人)といかに親しく交わったか、随所に登場するリスや兎・鼠・イタチ、鳥との交流を挟みながら日記という形で次々進行していく。規則正しく書き留められる、食事の詳細、買い物にあらわされる支出は、それだけで忠実に消費のすさまじさをあらわして、旺盛な生きる力の証である。しかしそこには生の裏側にある死の影が見え隠れする。正直に人が生きる限りこのことに人は無感覚ではいられないはずだ。

 そして、下巻の昭和51年(1976年)の日記中におびただしいミホさん宛に百合子が何度も手紙を書こうとしていたことが記録されていた。

「○夜、ミホさん〔島尾敏雄夫人〕に手紙を書きはじめ、しばらく書いて破る。(8月3日)
 ○テレビのお国自慢なんかという番組で名瀬からの放送をやっていた。名瀬の少女が沖縄の歌を歌ったが、利発そうな美しい顔だちと礼儀正しいふるまいと真っ直ぐに向いた光る目が、ミホさんの少女の頃はこんな風だったろうと思わせた。(8月4日)
夜、裏返しのワンピースを縫い上げる。ミホさんに手紙を書きはじめてやめる。眠くなる。(8月9日)
 ○新潮社パーティーのときの写真が送られて来た。「俺、やせたんだなあ、洋服がぶかぶかで天皇みたい」と何度も写真を眺めて言う。秋から和服きて会に行こうかなあ、と言う。「島尾さんのミホさんから頂いた大島紬が揃っているから、大丈夫だよ。・・・(8月28日)
 ○夜、ミホさんに手紙を書いてやめる。「秋風秋雨人を愁殺すって、本当に秋瑾(しゅうきん)が死ぬときにいったの? うまいこというなあ」と降りこめられて、主人のそばにねころんできくと、「本当にいったかどうかは判らない」と笑いながら言う。」

 ミホ宛に何を伝えようとしていたのか、また実際その手紙は投函されたのか一切わからない。

 一方、次のような聖書に関連する二つの記事もある。
先ず、昭和45年9月30日だ。

「夜、ノンフィクションアワーで、アラビアのベドゥイン族を見る。聖書の世界をみているようだ。」

極めつきは、同年11月9日だ。

「昨夜の夢
 桟橋にノアの方舟が着いて、それに皆乗りこんでしまった。方舟は白くて豪華客船のようだった。乗りこんだ人たちは何故かどこにも見えなくて船はひっそりしているが、たしかに、さっき、皆乗りこんでしまって私だけ残って佇ってみている。嘘をついた人は残ることになると役人のような係の人がいったから私は「はい」といって残った。そしたら私と猫だけが残っていて、あとは皆乗ってしまった。私と猫200匹位だけ残って船をぼんやり見ていた。」

 これだけでは何のことかさっぱりわからないだろう。しかし私は今日掲げた見出しの絵を思い、百合子の「ノアの方舟」に対するアイロニーを読みこんだが、このような人に福音はキチンと伝えられなかったのかと思う。

 最後に島尾ミホと武田百合子のつながりについて、『狂うひと』(梯久美子著)と『富士日記』を読んだ後、知ったことを記念に記しておく。

第15回(1975年)田村俊子賞受賞者 島尾ミホ『海辺の生と死』

第17回(1977年)田村俊子賞受賞者 武田百合子『富士日記』

 すなわち、武田泰淳・百合子夫妻は島尾敏雄・ミホ夫妻とは文士仲間として互いに親しい先輩・後輩の間柄であったようだが、武田泰淳は田村俊子賞の選考委員の一人として島尾ミホが書いた『海辺の生と死』を推薦したが、その翌年1976年に亡くなっている。そしてそこにいたるまでの一部始終を書いた百合子の『富士日記』が田村俊子賞の1977年の受賞作品となっているという不思議な巡り合わせである。島尾夫妻は絶えず人の罪を見つめて来た作家である。武田泰淳はもと僧籍の身ではあったが、様々な人生経験を経て夫妻ともども、罪と罰の問題には無縁ではなかった。一人娘はミッションに進学させている。

2019年10月10日木曜日

読書日記(下)


「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげ(棘)はどこにあるのか」死のとげ(棘)は罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜ったのである。(1コリント15:55〜57口語訳)

 こうして三冊本からなる『富士日記』の読書は今も続いており、やっと下巻にたどりついたというところだ。一方、聖書は日々手にしている。聖書の記述が奥深いものでありいのちの糧であることは言うまでもないが、この『富士日記』には人間生活の機微に触れた素晴らしさがある。そう言えば、加藤典洋もまた『僕が批評家になったわけ』(岩波書店)という本の中で彼女の日記について

 荷風の日記が日本の戦前を代表する日記とすれば、戦後の日記を代表するのは武田百合子の『富士日記』か。・・・多くの記述は、日々の出来事、そしてその日その日の献立、買い物。しかし、これが面白い。読むとやめられない。

とまで書いている(同書67頁)。

 ところで、私はその本を読むかたわら、集会に来られた一人の方が『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』(梯久美子著 新潮社)を読んでいると言われたので、読み始めた。何しろ650頁からなる大部の本で読むのに少々骨が折れた。しかし、この本もまた戦前から戦後に至る日本人を見舞った戦禍の傷痕に個人がいかに苦しむかということと、男女間のどうすることもできない愛欲の葛藤、また家族とは何かということについて一つの肖像を描いているともいうべき作品であった。

 ところが、事もあろうことか、その本の中で次のような叙述があった。

国府台病院の精神科病棟に入院中だったミホが、武田泰淳の妻・百合子に書き送った手紙には、親から離れて先に奄美に行くことになった子どもたちのために、阿川が靴を贈ってくれ、伸三とマヤはそれを履いて旅立ったことが書かれている。(同書567頁)

 ミホが入院していたのは1955年、36歳の時、その時、『富士日記』の著者武田百合子は30歳である。そんな古い昔から手紙をやり取りする間柄であったのだ。

 それだけではない。『富士日記』(中巻)の文庫本のあとがきに、しまおまほさん(恐らく島尾夫妻のお孫さんにあたるのだろう)の「加計呂麻日記」2019年5月3日から6日の様子が記されていたのである。ここまで来ると単なる読書の域を越えて私の読書そのものを導いておられる不思議な神様の摂理のようなものを感じるのである。

 逆に言えば、文士の世界も極めて狭いものであることがわかる。武田泰淳氏は芸術院会員になることを断った。一方島尾敏雄氏も一旦は芸術院会員になることを断った。彼らがそのことにこだわるのは戦争がらみの自らの国家に対する個人としての矜持があったからである。そして芸術院会員になることを文士仲間では「入院」と言うそうだ。ところが島尾敏雄はその最初の折角の志を捨てて、途中から「入院」したのだ。それは芸術院会員になれば年金がもらえるからという理由であった。すなわち、自分の死後病妻である妻の生活を支えられると思い、いやだった芸術院会員になることを受け入れたのだ。しかしそこには島尾氏の誤算があった。それはその年金は彼一身であって、彼が死んでしまえばもらえないということを迂闊にも知らなかったのである。結局島尾ミホさんは20年余り生きるのである。その上、作家として・・・。人生の妙である。

 こうした事情があり、本同士が密接に絡み合っていることを発見した。私は今まだ読んではいないが、『成城だより』(大岡昇平)を図書館からもう一冊借りている。大岡は武田の親友だ。そして『富士日記』には、武田に導かれて富士山麓に山荘を構えることになる大岡夫妻との交流が毎日のように描かれている。この大岡の代表作である『レイテ戦記』は私の書棚に読まれずして、数十年間久しく眠ったままである。この『レイテ戦記』は日本軍兵士としてフイリピンの人たちにどのようにかかわったのか、その正直な記録であるはずだと思う。この年代になってやっと読むにふさわしい時が来たように思う。近い将来読破したいと思っている。そして、今一度「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目である」(ヴァイツゼッカー)の名言を思うている。自らの過去は主なる神様の前で明白である。一つ一つ謙虚にならざるを得ない。

 読書は果てしない。人間が生きる限り続く生への執着がそうさせるのだと思う。一方で、読書はやはり人がまことの宝を探し求めて歩み続ける生業(なりわい)からくるのでないだろうか。そうとも思う。その二つの微妙なバランスを喝破しているハレスビーの文章を最後に写しておく。一つは新約聖書ヤコブ書1:14に範をとったもの。

 私たちは失敗したのです。私たちの勇気が足りなかったのです。私たちは崇高なものを慕い求めたり、希望したり、考えたり、話したりすることはできたのですが、生きることができなかったのです。なぜならば、生きることは、誘惑されるということですから。(O.ハレスビー『みことばの糧』10月6日からの抜粋)

 今一つは、今日の『みことばの糧』の箇所マタイ13:44にちなんだもの。

 少数の人は、親戚や友だちをとおして、キリスト教と何らかの関係を保っています。しかし、キリスト教を有益なものとは、一度も思ったことはありません。むしろ避けえない災だと考えています。彼らは、何事も順調に行くためには、自分たちもいつかは、キリスト者にならねばならない、と本能的に感じています。けれども、それは事情のゆるす限りあとまわしにします。彼らには宝が見えないのです。ああ、恵みに富たもう神、全能の神よ。この国の人々にあわれみをたれたまえ。(O.ハレスビー『みことばの糧』10月10日からの抜粋)

2019年10月9日水曜日

読書日記(上)

「もの思い」(谷口幸三郎作)
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。(マタイ6:26〜27)

 今年の夏は昨年に増して暑かった。来年の夏のことを思うとぞっとする。しかしこんなことを書くのも健康に恵まれているからだろう。今病床で死を前にして苦しんでいる人には何の慰めにもならない言い草だ。

 この夏、ブログが更新できなかったのはその暑さのせいもあるが、もう一方で、何人かの方々の著作を読み、個人的には様々な境涯にあり、そのことを考え続けたからである。個人的なことは語れないが、読んだ著作のことなら語れる。その始めとなったのが、図書館で目にした『群像』9月号の高橋源一郎の「彼は私に人が死ぬということがどういうことであるかを教えてくれた」という長い題名を持つ論考であった。その末尾に彼はこの追悼文の相手である加藤典洋氏の手になる著作『人類が永遠に続くのでないとしたら』のあとがきの文章を次のように紹介していた。

「この本を書くなかで、私の環境にも変化があった。それは、息子の加藤良が昨年2013年の1月14日、不慮の事故で死んだことである。享年35歳。このことで、私は突然、この世に自分がひとり、取り残されたと感じた。
 彼は私に人が死ぬということがどういうことであるかを教えてくれた。
 それは人が生きるとはどういうことか、ということでもある。彼の死がその後は、私が右のことを考え続けるもう一つの理由になった。この本に、彼の存在の影がいささかなりとさしていることを、遺された者の一人として願っている」

 加藤典洋氏の存在を知っていたが、それ以上は知らなかった。しかし、この一文がきっかけとなり、能う限り彼の本を次々読んでいった。戦後の日本社会の歩みを理解していたつもりの自分にとって刺激の多い諸著作であった。と同時に東京新聞夕刊の「この道」の連載記事は加藤登紀子氏から西村京太郎に移っていった。そして推理小説の書き手であるとしか知らなかった西村京太郎氏の叙述を通して具体的な戦前から戦後への人心の変化を知るように変えられていった。

 そんなおりさらに図書館で『富士日記』(武田百合子著)に出会った。この本は戦後というより、高度成長時代も終わり翳りを見せる、しかし安定期に差し掛かっている時代の中で作家として円熟期にあり、それゆえ経済的に恵まれ、富士山麓に山荘を持つ武田泰淳夫妻の妻側から見た毎日の出来事が淡々と書かれている作品である。そこには生きた人間が次々彼女の筆をとおして読み手である私に伝わってきて手放すことのできない本になってしまい、今だに下巻を読んでいる始末だ。

 昭和39年から昭和41年の長い日記(上巻)の中に、一箇所、富士山の夕日であっただろうか、それを目にして思わず、創造主に対する畏敬の念が吐露されているところがあるのをみてびっくりした。それは百合子が聖書に接している不思議さを感じた瞬間であった。そして中巻に入って、百合子が愛犬の死に自らの罪責感で泣き暮らす様子が描かれ、それは年単位でその悲しみがあらわされるほどの悲しみようであり、私にとって作者の愛の心を逆に推し量るものとなった。

 その中巻の303頁、昭和43年5月22日の記事に次のような文章があった。

 私がまだ起きないうちの出来事。〈便所にいると、上の松の根元あたりで、がさがさ大きな音がする。大きな鳥でもきているのかと窓から覗くと、黒っぽい兎とイタチが死に物狂いで格闘していて、兎は噛まれたらしい。兎とイタチはもつれるように下の方へ走ってゆき、また兎だけ石段をよたよたと戻って上っていった。年とった兎らしかった〉と主人は話した。
 野の鳥獣は楽ではないねえ。獣は病気をしても看病してももらうこともなく、私は病気になりましたと発表することもなく、じっと死んでゆく。年とっても一人でじっと年をとるだけだ。病気をしたり、年寄りだったりすれば、歩いているだけで、すぐ襲いかかられる。噛み殺されるか。穴の中で動けなくなって死んでゆく。エス様は「空の鳥を見よ」とおっしゃるが。

 ここにもエス様と様づけで呼ばれているという発見であった。ひとり娘花子さんを立教女学院に進学させているようだから、決して福音に接していなかったとは言い難い人であったことが想像される。もっとも人は福音を聞くこと以上に福音を受け入れることが大切なのだが・・・

(今日の図柄は、この前、9/20~10.2まで京都で開催された畏友谷口幸三郎氏の個展の案内葉書を採用させていただいた。この幸三郎氏もつい二、三年前、立教女学院で大切な仕事をしておられた。)