2016年10月31日月曜日

「近づきなさい」と「信じなさい」

近江八幡喜びの集いに掲げられた書※
神に近づく者は、神がおられることを、信じなければならないのです。(ヘブル11:6)

  近づくことと信ずることとは全く同じことのようにしっかりつながっています。あなたがほんとうに信じた瞬間は、あなたがほんとうに近づくことであります。そしてあなたがほんとうに近づく瞬間に、あなたはほんとうに信じているのです。今や主イエス様はまるであなたが主を間近にすることができたかのように、まことに実際に「あなたの近くに」おられるのです。

 そして、主はあなたが聞いたかのように「近づきなさい」とまことに実際そうおっしゃるのです。 恐れてはいけません、ただ信じなさい。そしてまっすぐ主のところに近づきなさい。「あなたがたはことばを用意して、主に立ち返り、そして言え。『すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください』(ホセア14:2)。」そのとき、主の答えは「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません(ヨハネ6:37)。」であることを知りなさい。

最も大きな必要における真実なもの
主イエス・キリスト様
あなたこそ まことにそうです
深夜の潮流を通過し
漂流する舟を導くことの出来る
水先案内人はどうでしょうか 
難破船に近づき 
救助を求めて
人々が甲板から飛び降りる時
救命ボートはどうでしょうか
荒れる北海の秋の強風を
まぬがれるために
帆船が避難することの出来る
港はどうでしょうか
まことにあなたこそ真実です
今や 私の水先案内人 私の救命ボート 私の避難港です

 (今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-31-come-and-believe/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97469です。

※Godhold Beck(70)
 この書は4つほど掲げられた書の一つである。いずれも一人の方の書である。彦根藩士日下部鳴鶴の流れを受ける先生のもとで素人ながら研鑽を積まれている方である。流麗な筆さばきには内面の繊細な震えるたましいを、まことのいのちへと導かれた主イエス様のいのちの証しが窺える。この方は70をとっくに過ぎて主イエス様に導かれた人である。日頃「死が怖い」と思っておられたこの方を愛して、ベック兄はその方の後から近づかれ背中をポンと叩かれ「死は怖くない」と言われたそうである。その時、彼の主イエスへの信頼の思いは定まったとのことであった。

 さて、再び、昨日に続いて、ベック兄の2007年になされた証し、メッセージの聞き書きの文章である。

 長年、私たちが気にしてきたことは、信仰に導かれた人々の霊的な成長です。私たちなしに成長できるかということです。私たちがいてもいなくてもよい存在であるべきなのです。

 そして、今回の私の病気を通して、つまりスイッチが切られた状況の中で示されたことは、私たち無しでも大丈夫ということでした。
 兄弟姉妹方が以前よりも積極的に関わってくださり、以前よりも多く祈られるようになり、すべては予定どおり進められました。よろこびの集いや家庭集会、洗礼式、結婚式、そして葬儀も、私たちは改めてわかりました。兄弟姉妹が互いに必要とし愛し合うところには、未信者の方も求めて来られるということを。

 主が頭として、権威として、認められ望まれるところでは、主に属する人々を主が用いられます。あなたが何をなすべきなのか、どのように、また、いつなすべきなのかを、主に尋ねてください。それは、私、あるいは私たちの奉仕を、主が助けてくださるからということではありません。

 すべては主のなさることです。私たちが仕えさせていただけるのは、ただ主の恵みによるのです。なぜなら、主は私たち無しでも、お出来になるのですから。私たちが新しく見せていただいたのは、主イエス様が、私たちと全く異なっておられるという事実です。) 

2016年10月30日日曜日

あなたにとっての神様のみことば

薄明に 沖島浮かぶ 湖面なり 二竿三竿 雁行続く※

ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(2ペテロ3:9)

 それでは、なぜ滅びる人がいるのでしょうか。それは彼らが(イエス様のもとに)来ようとしないからです。もしも、あなたがこのみことばを読んでも、救われたくないのなら、あなたを救うために今なされている勝利の愛や引き寄せる力に身を任せたくないからです。聖書の中で「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません(ヨハネ5:40)。」というみことばほど悲しくさせるものはありません。しかし、もしあなたが、実に弱々しくとも「私は(イエス様を)信じたいです」と言うなら、神様は主の強さとやさしさでもって「あなたは(いのちを)得られます」と答えてくださいます。 

主なしにあなたは何をしたいのですか
あなたが以前来ようとしなかったので
主が戸を閉じられ
その結果 外に置き去りにされているのに

戸をたたくのが無駄である時
立って待っていることは無駄です
死のことばは あなたの心を貫き
あの恐ろしい「遅過ぎた!」ということばが
繰り返されるのです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-30-gods-will-for-you/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97468です。

※Godhold Beck(69)
 今朝の琵琶湖西岸の今浜付近の風景である。湖上を朝早くから群れをなして翔る雁が竿状になって飛来しては次から次に飛び去る。静寂な中にも、豊かに生物を育む湖の一面を垣間みることができた。生きとし生けるものは一つとして滅びることは望まぬ。天地万物の創造主の摂理を、今日のハヴァガルの黙想とあわせて考えた。

 病の中でベック兄は昨日はパスカルの詩を思うて述べられたところを紹介した。今日のところは主に従った同労者・先輩の言葉を想起されて次のように述べられている。

 ある兄弟、集会において祝福された奉仕をされた、フックス・フェルディナンドという兄弟は次のような詩を書きました。

 「山々の神よ、谷々の神よ、深淵の神よ、天の神よ。
 あなた様のお導きは、決して間違っていません。
 すべてのことを正しく司られます。
 小さき者の神よ、弱き者の神よ、無に等しい者の神よ。
 あなた様は悩みの中にも歌えるように助けてくださり、
 私たちが神の子どもであることを知らせてくださいます。
 不安の谷間で失望している者に新しい朝を知らせてくださり、
 足りないものは何もありません。
 力と権威の神よ、
 私の力が無くなり何もできなくなったとき、
 あなた様の御手が私を支えてくださいます。
 私は、あなた様を喜びをもって賛美します。
 私の歩みは祝福されるでしょう。」 

 私たちの母であるクリスタ・フォン・フィーバーン(アイドリンゲン姉妹会の創設者)は、次のように言われたことがあります。

 「地上で私たちの前に置かれている日々を思うとき、
  慰めと喜びがあります。主の恵みと守りの豊かさを喜び、
  いつも確信することができます。」              

2016年10月29日土曜日

「唯一」と「永遠」はイエス様のものです

ラフォーレ 堅田の落雁 窓越しに ※

私の妹、花嫁は、閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉(雅歌4:12) 
わたしのために造ったこの民(イザヤ43:21)

 あなたはイエス様が「唯一」であるとする用意が全くないとき、一方では主に対して「すべてを」与えていなかったでしょう。だから、私たちが「唯一」と「すべて」に落ち着かなかったとき、「永遠」について話すことは無駄です。あなたが部分的に何かのあるいは他の誰かの「ために」あるなら、完全に祝福された意味で「主のために」あり得るはずがありません。

 というのは「主は、ご自分の聖徒を特別に扱われる(詩篇4:3)。」からです。ご存知でしょうが、「主ご自身のために」が「特別に扱われる」ことにかかっているのです。分離なしには献身はありません。もしあなたが自ら献身が足らないことを覚え悲しんでいるなら、この点を謙虚に真摯に見つめているのでしょうか。「私の妹、花嫁は、閉じられた庭」と天におられる花婿なる方はおっしゃいました。

イエス様のために分離しなさい
たとえ砂漠が開放された荒れ地や
でこぼこ道と見えても
これは十分でないでしょうか

主の喜びのために分離しなさい 
主の聖なる喜びのために選ばれ
主の特別な宝物であるように封印されることです

私たちはより気高き喜びを選べるのでしょうか 
もし私たちができるならそうしたいでしょうか 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-29-only-and-ever-his/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97467です。

※Godhold Beck(68)
 近江八幡喜びの集いに参加しているが、ある方のメッセージはまさしく今日のハヴァガルの黙想と共通する内容があった。すなわち「永遠」の尺度を持つか持たないか、救いか滅びかの選択を迫るものであった。さて、昨日のベック兄のメッセージの続きを写して見よう。

 病気になることは、ひとつの危機にもなりえますが、いずれにしても休息をもたらし、心の浄化と成熟のための時間であり、心のふるさとへの道しるべを求める時間でもあります。誰でもが切望すべきことであります。

 フランス人の数学者であり哲学者でもあるブレーズ・パスカル(1623-1662 享年39歳)は次のように祈りました。

 「主よ、あなたのみこころのままに行ってください。
  私は、健康も病気も、いのちも死もあなた様に願いません。
  私の健康と病気、また、いのちと死も、あなた様のご栄光と
  私の救いのためにご支配くださいますように。
  私にとって何が益であるか、あなた様だけがご存知です。
  あなた様が主であられますから、みこころを行ってください。
  与えてください。取り去ってください。
  私はひとつのことだけ知っています。あなた様についていくことが
  最善であることを。私にとって、あなた様を
  侮辱することは損となります。
  私にとって、健康か病気か、富か貧困か、そのどちらかが
  益となるのか分かりません。
  この世のこと、すべてについてもわかりません。この決定は人間や、
  みつかいの力を超えたものです。私にとって何が益で
  何が損であるのか、私には隠されています。
  あなた様の秘密なのです。私はそれを解明しようとは思いません。
  ただ、祈り求めるだけです。」) 

2016年10月28日金曜日

時を取り戻しなさい

愛ありて 老いたる母を 抱きかかえ 歩む生活 トレイン載せる※

あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。(イザヤ48:18)

 おお、私たちは主に自由に全面的にまかせることをせず、どんなに多くのものを逃して来たことでしょうか。主は私たちが不注意に成り行き任せにしている自我や空しさを背負った時、何もなさらなかったのでしょうか。

 おお、もしそれらすべてがイエス様のために守られたのであったら、どうなったでしょうか。どのように主は荒廃によって駄目にされた私たち自身の生活を改善し、それらを遠くにまで広がる祝福と力のうちに用いて、主の光といのちでそれらを満たすことができたでしょうか 。

主よ 私たちを受け取ってください
おお 私たちの心とたましいと感情と意志を
私たちを空しくし私たちを完全にきよめてください
そうすれば すべては あなたの完全さで満ちるでしょう
私たちをあなたの王宮におらせてください
王様のために役に立つ器として
あなたの満たしで 私たちの杯を満たしてください
あなたの決して枯れることのない泉から
父なる神様 この祝福された満たしによって
私たちのうちに住んでくださるように
私たちは祈ります
私たちは待っています
あなたが働かれ私たちをあなたご自身で
今日満たしてくださいますように 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-28-redeem-the-time/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97466です。短い文章ではあるが、基本的な英語力が欠けているため、訳が大幅にちがっている可能性があります。原文をお確かめください。

※Godhold Beck(67)
 今日の写真はたまたま乗り合わせた、近江電車松本忠鉄道風景画ギャラリートレイン内の一幅の「絵入り詩」である。認知症をわずらっている母を抱えた娘の視点で詩は綴られていた。病める者の隣人とは誰か教えられる詩だった。
 ベック兄もまた晩年には様々な内外の戦い、特に三つの病を抱えた戦いがあった。そのような中でドイツ喜びの集いは継続された。以下のメッセージは2007年の6月10日にアイドリンゲンでドイツ人に向かってなされた。そのドイツ語を昨日家庭集会でメッセージのご奉仕をしてくださった方の奥様が訳されたものである。

 今日、私たちがまた、ここに来られたことを感謝いたします。
 私個人としては、出発の数日前まで、はたして来てもいいのか分からない状況でしたが、主が働いてくださり、医師の許可が下りました。

 毎週Eメールで発信しているニュースを受け取っておられるドイツの方々は、私たちが今年どのような状況に立たされてきたのか、ご存知と思います。
 次のような詩があります。

 何が起きようとも、わが心よ、静まれ。
 神があなたを祝福したいと思っておられる。今日も神の一日である。
 新しい朝に夕に、あなたは神のもとで安らぎ、見守られている。

 この詩のような体験をさせていただけるのは、大変な特権です。

 私の発病は突然でした。三年前に患った白血病が再発し、その他にもいろいろと問題がつけくわえられました。すべてがまったく予期せぬ出来事であり、突然起きました。
 その時、いつものように予定が非常に詰まっていました。連日、一日につき2、3ヵ所で家庭集会があり、その間に交わりもたくさん予定されていました。少なくとも月曜日だけは休みにしようと思っていても、たくさんの葬儀が入りました。私たちが健康である限り、主は私たちがペースを落とすことを望まれないようです。

 しかし、私の発病によりストップがかけられました。さあ、どうしたらいいでしょうか。予定がしっかり立てられていました。数ヶ月前から結婚式を行う約束をしていましたし、多くの喜びの集いも計画されていました。今年に入って三回入院して、ついに自宅謹慎になり、できるだけ人との接触を避けるようにと言われました。それは化学療法によって免疫力が大変下がっていたからです。

 そこで明らかになったことは、私も時には病気になってもいいということでした。もちろん、幾度となくこの病気の目的について考えを巡らしました。入院した時には、しばしば次のように考えました。

「私が入院しているのは病気のためではなく、医師や看護士に主イエス様を証しするためである」と。

 播かれた多くの種が発芽し実を結びますよう、共にお祈りください。) 

2016年10月27日木曜日

消されることのない愛

秋深く 夫婦手を取り 御名誉める※

愛は死のように強い(雅歌8:6) 
大水もその愛を消すことができません。(雅歌8:7)
 
 主は、あなたや私に対する主の愛は死のように強く、すべての神の大波が主を越えて行っても、それらの大水はその愛を消すことができないことを明らかにされました。主の愛のうちに、そして主のあわれみのうちに、主は私たちを贖われました。同じ愛をもって主は忍耐し、日長一日私たちを背負って運んでくださいます。

 主は「どんなときにも愛して(箴言17:17)」くださいます。それはこの今の瞬間もふくまれているのです。あなたの目がこの頁に注がれている今も主の愛のまなざしはあなたに注がれており、巻き上げられた愛の旗があなたを影としておおっています。主に対するかすかな愛のときめきがほんの少しでもありますか。主は「わたしを愛する者を、わたしは愛する(箴言8:17)。」ということばで答えてくださいます。「わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします(ヨハネ14:21)。」

 だから花嫁が「あなたの愛はぶどう酒よりも快い(雅歌1:2)」と確かに言うように、まさしく天におられる花婿であられるお方は理解しがたい謙遜さをもって確実に応答してくださるのです。「私の妹、花嫁よ。あなたの愛は、なんと麗しいことよ。あなたの愛は、ぶどう酒よりもはるかにまさる(雅歌4:10)」願わくは、このキリストの愛により、私たちが、「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった(ガラテヤ2:20)」お方にあって生きることを生涯得させてくださいますように。

主の影のもとに腰を下ろしなさい
そして大きな喜びをもって休みなさい 
今主を見る信仰は近い将来の約束です
私たちの主の愛を覚えなさい
並外れた偉大さと自由を持つその愛を
喜びのうちに元気を出しなさい
主はあなたを覚えておられますから 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-27-unquenchable-love/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97465です。

※Godhold Beck(66)
 写真は前回彦根に戻ったおり、中堀に臨む彦根城を撮影したものだが、昨日久しぶりに持たれた家庭集会の老夫妻のお証にふさわしいと思い、お載せした。

 メッセージははるばる東京から来てくださった、かつて鬱の病で苦しまれ、そこから主イエス様に出会われ、喜びの人生に移られた方がしてくださった。「本物の喜びの源」と題して詩篇4:7が引用聖句であった。ほんものの喜びは、恵みを体得する者が持つ感情で、この両者は不即不離の関係にあるが、恵みそのものは自分が罪人でしかないと思う者すべてに与えられる神様のプレゼントであることがわかりやすく語られた。

 そのあとは一人の日光市からお見えになったご婦人のお証であった。それは夫が癲癇発作を起こし救急救命センターにかつぎ込まれたとき、主にある友と祈る恵みが与えられて、必死に「いのちを助けてください、(今まで)悪い妻でした、ほんとうにイエス様にあって、一つになって暮らして行きたいから、お願いします 」と祈ったが、その祈りが主に聞き届けられたという喜びの証しであった。

 10分そこそこのお証であったが、誰も否定できない証しであった。なぜなら、その奥様の隣に、ニコニコ顔のご主人がおられたからである。新約聖書の使徒の働きの4章13、14節のみことばそのままであった。彼らは・・・ふたりが・・・、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。」

 その彼女がその証しの中でベック兄の逝去を知って、「とても悲しくて心に穴があいたようでしたが、ベックさんが天国に行かれて喜ばれて痛みも苦しみもない」ところにいらっしゃることを思い、早く私たちも天国に行きたいと思い、ご主人とともに葬儀にも出席なさったことも話された。ご主人は6月から今日に至るまで毎日曜日喜んで主イエス様を幼子のようになって礼拝しておられる様子も伺うことができた。

 まさしくメッセンジャーが冒頭言われた、証しする者の喜びがそこにはあった。「イエス様を信じていながら、暗い顔をして私は信じて良かったと言っても全然証しにはなりませんよね(笑)」と言われたが、まさに逆の良い生きた見本であった。) 

2016年10月26日水曜日

無窮なる神様、しかしその方が私の神様です

天国に 引き上げられし 聖徒なり 和解の恵み 家族伝えし※

しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。「あなたこそ私の神です。」(詩篇31:14)
 
 ある人たちは、結局私たちの神でいます神様は「イエス、我が救い主」という観念ほど身近なものはないという無言の考えを抱くかもしれません。私たちのほとんどは「神様」という観念の広さに目が眩まされるように感ずるものです。そして私たちはもっと手の届く範囲に見えるところへと心の中で避難するものです。これがほとんど常にクリスチャン生活の初期の段階の場合です。

 父なる神様によって主イエス・キリストに引き出されたら、主が私たちになそうと考えられているとおりにイエス・キリストの御顔に神の栄光を見ないで、わたくしたちのほとんどが、御子のうちに父なる神様を見失うのです。実際に、ある者は祝福された三位一体の一人格jだけを意識して知り、私たちが御子をほめたたえるようには父なる神様をほめたたえないものです。

 私たちはイエス様を愛さないではいられないでしょう。私たちはキリストのうちにあって私たちをご自身と和解させてくださった神様を愛することを学ぶにつれて、ますます愛さずにはいられません。 私たちは私たちのために死のうとして来られたイエス様を感謝しないわけにはいきません。しかし、ことばは神とともにあり、ことばは神であった、その過去の想像できない永遠を照らす愛の不可思議をほめあげることが強くなればなるほどますますそう思わざるを得ないのです。

 私たちはまた神の観念と啓示のうちに、私たちの関心の最高点、もっとも強力な時の神様だとする以上に十分な余地がある一方、もっとも疲れ果てた骨組みを持つ人間のもっとも疲労困憊した時のための休みがあることも知っています。なぜなら私の心と私の肉が駄目になるとき、神様は私の心と私の分のとこしえなる力であられるからです
 
変動されない変化により
たどることのできない思想により
そして
目に見えない創造された目によって
あなたの偉大な現存のうちに
受け入れられています
未来のすべて 過去のすべてがです

おお 
私たちのたましいの父なる神様
今や 私たちは あなたを 
私たちの救い主の御顔のうちに
捜し求めています 

信仰とたましいのうちに
私たちは頭を下げ
私たちのたどることのできないところで
礼拝したいものです 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-26-infinite-god-and-yet-mine/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97464です。今日の箇所も私には難し過ぎた。読者のご助言をいただきたいところがたくさんある。

※Godhold Beck(65)
 「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」「罪を憎んで人を憎まず」対照的なことばである。人間の本来持つ性格は前者であろう。しかし、主イエス様の犠牲の愛は言うまでもなく、後者である。ベック兄は長年、多くの罪に悩む人々を相手にされて来た。そして当然だが、「悔い改め」を何よりも重視された。悔い改めている限り、過去の罪はすべて帳消しになるという「みことば」を何度も繙かれた。

 昨日の学び会のあと、また葬儀があった。写真はその会場のワンシーンである。ベック兄が召されるまでは葬儀のメッセージはベック兄の専売特許であった。召された後、もう何回葬儀が行なわれたかはわからないが、それぞれにふさわしいメッセンジャーが与えられている。昨日もみことばから天国の希望が語られた。

 その葬儀のあとのご挨拶は遺族の方々の確かな証言に満ちていた。それは激しい過去の罪の罪責感に苦しむご主人を、愛をもって支えられた愛妻の証しであった。イエス様はあなたの身代わりに十字架で死なれたのだから、苦しまなくってもいいのよ、全部赦してくださったのよ、と励まし続けられたということであった。

 お子さんがたも病を得られた父君が三つの点で変わったと証言してくださった。①お父さんが礼拝でみことばを読んで祈るようになった②里帰りし、お兄さんに自らの苦しみを打ち明けながらも、十字架の苦しみにまさる苦しみはないが、自分の罪は赦されていることを感謝された③病気になってから、入院中やその他お世話になる方で、まだイエス様をご存知ない方にイエス様の福音を伝え続けた。

 自分の信ずるイエス様はすべてのことに責任を取ってくださるお方だ、死は終わりでなく、天国で必ず会える、イエス様早く来てくださいと日々祈り、人々に自らの信仰を伝え続けた、という証言であった。

 ベック兄も生前この方の様々な悩み苦しみ過誤について祈られたことだろう。こうしてすべてを手放して天に凱旋されたベック兄の思いは残された私たち一人一人に受け継がれている。最後にそのお嬢さんが詩篇のみことばを読まれたが、どこかわからなかった。でも恐らく、今日のハヴァガルのあげたみことばとはそうは変わらないと思う。私もまた、主なる神をただほめたたえ、「あなたこそ私の神です。」と告白したい。) 

2016年10月25日火曜日

胸の内

イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。(ヨハネ16:31)

 そこに留まりなさい。次に何が続きますか。信仰ある証し者のもう一つのことばに耳を傾けなさい。思い出すことです。そのことばは、主の別の言葉に劣らないほど真実です。十字架上で「完了した(ヨハネ19:30)。」と発せられた聖なる唇は騙したり、欺いたりするようなことは何一つ話されませんでした。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます(ヨハネ6:47)。」このことは何を意味していますか。そのことばが言っている通りです。それ以外の何も意味していません。

 たとえ、あなたが以前全然信じていなくっても、以前信仰のしるしや希望のかすかな光を見なくても、もしあなたが今イエス様と主の成し遂げられたみわざに心から同意するなら、もうあなたは永遠のいのちを持つのです。その心からの同意が信ずることです。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ(ヨハネ3:36)」そしてこの「信ずること」は(主のところに)「来ることです」そしてこのように(主のところに)来ると、あなたは、まことにすべてのものが備えられていることに気づくでしょう。

真実! 真実!
私たちの尊崇をそのようにあらしめてください
父よ 私たちはあなたを 心から 声高く 寿ぎます 
あなたの圧倒的な選びの すばらしき恵みにより
私たちを 忍耐強く やさしく 探し出して下さったのですから
 

死と疑いの はるかかなたの地にあって
聖霊の御力によって 私たちを キリストのもとへと 引き出し
私たちの目を開き 光を見させてくださり
カルバリの 暗闇落つるところから
不思議な真実のうちに立ち上がらせてくださった

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-25-heart/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97463です。

※Godhold Beck(64)
 今日は定例の学び会であった。エゼキエル3:18〜21、見張り人の使命について学んだ。困難があろうとも私たちの方で水準を下げ主の御旨に逆らうことがないように警告〈ヘブル12:25〉と励ましのみことば〈ヤコブ1:5、イザヤ54:7、10〉をいただいた。

 そのあと一人の方から証しをいただいた。と言っても日頃一緒に礼拝し親しくさせている仲間であった。個人的にそれなりの証しは聞いていたが、初めて、生まれて来てからこの方までの、お証を聞いた。救いのきっかけはベック兄からいただいた聖書にあった。高価な聖書をただでいただき、大変感激されたことにある。その聖書の扉にはベック兄からの謹呈のことばが次のように記されていたそうだ。そしてそのことばを今でも大切にしていると証して下さった。

まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。〈詩篇18:31〉

 詩篇の作者はまことの神を体験しました。それゆえ彼は主を礼拝せざるを得なくなったのです。主なる神は全能者であり、危険と試練のまっただ中で守って下さるのです。主なる神は光であり、主に信頼する者はしっかりとした土台をもつ者です。この比類ない主をより良く知ることができるように祈っています。

 心よりの愛をもってあなたのゴットホルドとミンヘン・ベック

 けれどもその方の証は自らの救いを、長年親しくしていた方が突然病を得られたとき、伝えることができ、救われてその方が天に召されて行った喜びであった。学びで伝えられた、「見張り人の使命」を十分果たすことができた喜びはまさにタイムリーな証しだった。) 

2016年10月24日月曜日

火急は浪費にあらず

通訳するベック兄(日本語→ドイツ語)2003.10 By Katagiri※

王の命令があまり急だった(1サムエル21:8) 
あなたがたは急いでそのことをしなければならない。」ところが、レビ人は急がなかった。(2歴代誌24:5)
 
 (しかし、)普通のクリスチャンがいい加減に受け取るどんな仕事もありません。彼らはいつも通り一回りせねばなりませんし、手紙を書かねばなりませんし、訪問や他の社会的な要求を満たさなければなりませんし、まかされていることをしなければなりません。そしてそれから、つまり、あれやこれやその他のことがかたづけられてから、王が命じられたことをするでしょう。

 彼らは、間接的であり、そしてまた、王に対してより、「聖職者」に対してより責任感をもってまかせられている王の仕事の一部でない限り、それについて「しなければならない」とは言わないでしょう。 

 このことは果たして誠実でひたむきだと言えるのでしょうか。もしそうだとしたら、もうそれ以上何も言いたくありません。私たちが「イエス様第一」だと言うことさえしなかったのなら、果たして「イエス様だけ」はどのようにして私たちのモットーたり得るのでしょうか。

けれどももしあなたがたがそのことを
第一にとらえることをあえて拒まないのなら
あなたの自我だけが損失であります
なぜならそれが勝利であり 十字架の標準なのです
あなたがたが日陰なる木の下に休み
小さな気休めを愛するための
勝利者の王冠を捨てても
それは害することがないでしょう  

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-24-haste-is-not-waste/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97462です。

※Godhold Beck(63)
 13年前のドイツ。日射しは強く、思わず傘が両側から差し出されたくらいだった。ベック兄の笑顔が素敵だ。日本人に話させないで、自分で話した方がやさしいのに、拙い話はどのように通訳されていたのだろうか。何を話してもいやな顔一つなさらない。すべてを主にゆだねられ、王なるイエス様第一の生活だったのは誰もが認めた。

 昨日も、処分に困り果てているベック兄の無数の写真からほんの一部持ち帰った写真をそれぞれの方にお渡しした。ところがそれらの写真は意外なところで用いられた。その内の一枚はベッドに横たわっている方を二人の方がお見舞いしている写真であった。お二人の方の内、お一人の方が知人であったので引き抜いて持ち帰ったものであった。ところがその方にお聞きしてみると、そのもう一人のご年配の方はお母さんで、そのお母さんの姉妹をお見舞いした時の写真だと言う。もちろんベック兄も一緒にお見舞いに行かれたからその写真が残っていたのだ。

 ところが、何とその方の甥御さんが昨日の礼拝に初めて来られたのだ。何というタイミングであろう。一枚の写真が召されたあともこうして用いられる。主のなさることは素晴らしい。序でにもう一つ付け加えておこう。

 昨日礼拝に自転車で出かけた。鍵はかけなかった。ところが礼拝が終わって帰る段になったら、案の定、自転車はなかった。盗まれたのだ。やむを得ずとぼとぼ20分足らずのところを歩いて帰った。ところが、先に帰った家内から〈家内は自転車がなくなったことを知らなかったのだが〉携帯に、「途中にあなたの自転車らしいのが放置してあったのを見たけれども、今日は自転車どうしたの」と電話が入った。自宅の近くの道路際に放置してあるということだ。

 一体、自転車泥棒君は盗んだはいいが東西南北どの方向をとってもいいはずだ。ところが何と私の家の近くに乗り捨てるとは! どうしたんだ! かくして、わが自転車は私が家に着く頃には無事に私の手許に戻っていた。あわてて自転車の鍵を買いに行ったことは言うまでもない。) 

2016年10月23日日曜日

主のためにある私たちの足

通訳するベック兄(ドイツ語→日本語) 2005.5 By Youko. U.
高貴な人の娘よ。サンダルの中のあなたの足はなんと美しいことよ。(雅歌7:1)
 
 主の聖徒たちの足を守る比喩が、走ってもつまずかないという約束をもって守られていることは、もっとも美しい有益な主題です。しかし、それは私たちのそのままの足がイエス様のために文字どおり守られることとは全くちがいます。

 そのことを大変明らかにするのに助けとなる素朴な考えがあります。こういう私たちの足はまさしくキリストの奉仕のために十字架上で引き裂かれ刺し通された主ご自身の足から流れ落ちた大切な血のしずくによって贖われるものです。足は主の使い走りであるべきです。私たちは世や肉や悪魔に、そのような犠牲をもって買い取られた足をいったいどのようにして使わせることができるというのでしょうか。

 この世が足に使用権を持っているのでしょうか。 足は私たちを世が最高権力者であるところ、そして、主のお名前に言及することは明らかに場違いなので、お名前を出すことさえなされないところへと私たちを連れて行くのでしょうか。 私はこのつながりの中でただちに起こる主題は明らかに困難だと知っております。しかし、「すべてはイエス様のために」というモットーを持つ、私たちの輝かしい旗が誠実にも巻き上げらず、明らかにされている時、それらの困難はすべてなくなります。

 あなたは正直にあなたの足そのものが「イエス様のために守られる」ことを望んでいますか。こういう簡潔な言葉「イエス様のために守られる」を、今度踊ることが難しかったり、同種類の何か他の難しさが生ずる時、鳴り響かせましょう。私はその結果がどうなるかを知っています。

 「肉」が足の使用権を持っているのでしょうか。足は私たちが単に行きたいから、また単にこの歩みを取るか、それともこの訪問に使うのが喜びだからという理由だけであちらこちらに私たちを連れて行くでしょうか。その挙げ句は何という失敗が待ち構えていることでしょうか。

あなたの小屋はあなたのうしろに
厳粛なことばを残しました 
厳粛だが困難なうちに祝福をもって
私たちは学ぶことでしょう
私たちがあなたの臨在をどのようにして獲得し
そこであなたを見出すことができるかを

あなたはおっしゃいます
「わたしについてきなさい」
これこそ私たちの大きな関心です
おお かくして
私たちの救い主の足跡を 
それぞれの時間にしるし 
その足跡を私たちが
歩いているかを知るとは
どれほど祝福あることでしょう

その時 希望の花々がより美しく
それぞれの喜びがさらに輝いて光ります
おお私はいつも主のあとにだけ従いました
私は主のものであると知っています
なぜなら私は救い主の王座の前で
平安な信仰をもって額づきましたから
そして 喜んで主に 私の人生 
私のすべてを ささげました
すると 主は私を赦し
咎のそれぞれの汚れを洗い聖め
すぐに立ち上がるように 
毎日毎分主のあとに従うよう
命令されました
そして 主は 私の目の前で
いのちと喜びの冠を飾られました

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-23-our-feet-for-him/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97461です。今日の訳文も歯が立たない英文の連続で、いささか自信がない。読者諸氏のご寛容をお願いしたい。

※Godhold Beck(62)
 1994年10月に、第一陣、第二陣とあわせると総勢四百人余りがルフトハンザ飛行機に乗せられドイツ入りしたことは(20)で触れた通りである。普通はお国に帰ってホッとするのが普通であろう。でもベック兄の故郷はドイツでなかったようだ。

 旅の滞在期間中、ドイツ人には日本人のメッセージ・証しをドイツ語で通訳、日本人にはドイツ人のメッセージ・証しを日本語で通訳された。これでは休む暇がない。しまいには冗談のつもりでもあっただろうが、自らが話される時にはドイツ人に向かって思わず日本語で話されたこともあった。その上、ベック兄は中々のユーモアの持ち主で、およそそのような心のない私には今瞬時に思い出すことができないのだが、とにかく屈託がなかった。

 この写真はやはりアンドレアス・プレッチ兄〈前々回に既出した〉が挨拶なさった時の通訳の一こまであろうと思う。日本への帰国を前にして、宿舎のアイドリンゲンで旅路を振り返って、いつもこのような恒例のあいさつがドイツ人の方から日本人になされた。そういう時も私たちの頼りはベック兄である。その上、旅そのものはできるだけ費用がかからないように注意が払われていた。最初の時などは返金があった。しかもその返金を辞する人が多かったので、その返金をそっくり記念誌、と言っても福音を満載した冊子〈ドイツマガジン〉の作成に使われた。こうして最後の血の一滴までも福音のために使おうとされた。

 まさしく買い取られた足をベック兄もこのハヴァガルの黙想のごとく使い切られた!) 

2016年10月22日土曜日

キリストだけが取り除くことができる重荷

カメラを構えるベック兄 by Toshihiro.H ※

私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。(詩篇38:4)

 あなたにとっては余りにも荷が重過ぎるので、もしあなたがその重荷を下ろすようにというキリストの申し出を受け入れないなら、あなたは決して人生の方向を見出すことも、あとについて行くこともできないでしょう。けれどもイエス様が「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28)。」とおっしゃるとき、なぜあなたはもはや一刻も我慢できないのですか。 

 けれども、待ちなさい。あなたは約束に対して二重の主張を言うことができるかもしれません、いや言わねばなりません。あなたは意識して特別に疲れていない、労していないかもしれません。しかし、意識しているかいないかはともかく、もし罪の大きな重荷があなたから取り去られていないのなら、あなたは重い荷物を背負わされているのです。 聖霊があなたにそのことについて認識させたか、それとも未だに認識させていなくとも、あなたの咎が唯一の泉にあって個人的に洗われることによって取り去られないなら、あなたは詩人が述べている立場にいるというのが実情なのです

あらゆる疲れさせる重荷を持って来なさい
あなたの罪 あなたの恐れ あなたの悲しみを
主は重荷をになう者を呼ばれます
そして彼らにやさしい助けをお与えになります

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-22-the-burden-only-christ-can-lift/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97460です。

※Godhold Beck(61)
 ベック兄が召されて、実に多くの無数の人々の写真が残された。その無数の写真の中には、私の写真も、私の家族の写真も、知人の写真もあった。最初、それらの多くは余りにも忙し過ぎて渡し切れなかった写真の数々だとばかり思っていた。しかし、よく考えてみると、それらの写真はすでに手許にいただいている写真でもあった。その後、考えを変えた。それぞれはご自分の覚えのために手許に残されていたような気がしたからだ。一人の魂も逃がすまじとは、すでにカメラのファインダー越しに覗き続けられたその精神だけでなく、写真を眺めながらとりなしの祈りをされていたのでないかと思ったからだ。短歌を紹介しよう。
 
 心病む若き姉妹の奥飛騨を三度(みたび)()ひ給ひし愛忘れむや 大下直弘

病める方々は、自らもその悩める心情を電話をとおしてベック兄に訴え続けた。それは昼夜を問わなかった。じっくり、その方の重荷をともに荷なってくださったからだ。


 類(たぐ)ひなき(ひろ)き心もてみなひとを導き(たま)ふ師はすでに亡し 大下直弘 ) 

2016年10月21日金曜日

不信仰が暗闇への道を開く

駅舎に 人工灯 夕空に 満月 闇 照らすなり(高宮駅)
 彼らは、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みた(出エジプト17:7)

 不信仰と忘恩は私たちと主の臨在とを隔てることができる唯一の影です。たとえ、一旦引き離され、それ以外のあらゆる他のものが入る余地があったとしても。さもなければ、地の影がまわりに全部落ちても、何一つとして私たちと主との間に割り込むことはできないでしょう。それらの非常な暗さは、私たちが住んでいる仮の住まいの輝き、すなわち主の臨在の秘密を増大させるだけでしょう。

 それらは人が「the unutterable joy of shadow less communion(交わりとまではいかないがその影の言いようもない喜び)」と呼んで来たものに触れることもできなかったでしょう。私たちは今晩、私たちの主に何と言いますか。主はおっしゃいます。「わたしは、いつも、あなたがたとともにいます(マタイ28:20)。」

 私たちは、不完全で二重に拘束されている経験を引用するという、あらゆるあら探しの矛盾を捨てて、主に向かって愛を込め、信頼し、感謝して「あなたはいつも私といっしょにいてくださいます」と言わないでしょうか。

 
主はあなたとともにおられる
いつもあなたとともに
昼も夜も一日中
決してしくじられない
決して顔をしかめられない 
主の親愛でもって
冠をかぶり
あなたの全生活を
賛美にあわせてくださる

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-21-unbelief-opens-the-way-to-darkness/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97459です。今日の文章も私には難解であった。一部、英文も併記した。「通りがかり」の方も必要なご助言を賜わりたい。

※Godhold Beck(60)
 さて昨日の文章の続きである。

 伝道活動の一大ハイライトは、御代田に福音センターが建設されたことである。そこでは数々の喜びの集い、結婚式、葬儀、納骨記念会などが行なわれ、唯一の救い主イエス・キリストを紹介する場として用いられている。ベック兄が始められたこれらのことは、現在、日本の多くの兄弟姉妹たちに受け継がれている。ベック兄がドイツに送り続けた祈りのメールの最終号には、ベック兄にとって伝道活動に最も大切なことは何か、が改めて次のように明記されていた。

 「『主よ、お語りください。しもべは聞いております。』これが日々、我々の願いであるべきであって、主の導きと祝福がなければすべては空虚なものとなる。」と。

 歳を重ねるに連れて、白血病、皮膚がん、糖尿病などの病が与えられたが、定年退職がないということがベック兄にとって喜びであった。

 2016年8月23日、ゴッドホルド・ベック兄は永遠へと召され、今は主イエス様にお会いし、みもとで安らかに憩うことが許されている。兄弟が待ち望んでいたことがついに叶えられたのだ。
 
 彼の徹底した献身振りは、多くのキリスト者、とりわけ日本のキリスト者の模範となっている。ご遺族は妻のミンヘン姉妹、三人の既婚の娘さんたち、9人の孫、4人のひ孫たちである。我々に残されたベック兄の遺言は「我々がキリストに完全に捕えられて、妥協なき献身をもって主に仕えること、それだけが人生に意味をもたらすものなのだ」ということである。

 これがプレッチ兄が書かれたその全文である。 文章中にメールのことが書かれているが、ある時、家内が父の救いのためにせっせと描いた「みことば入りの花のはがき絵」の作品を丹念に見ながら、「ぼくにも欠かさずやっていることがあるんだよ。毎週一回、ドイツの兄弟姉妹にメールを送っているんだよ。」と言われたそうだ。その最終号が上述のものであること、また彦根での家庭集会での最初の頃の長いメッセージが「主の祝福がなければだめだ、何をやっても。」と言われていたことを思い出し、召されるまでの首尾一貫したその生き方に改めて感銘を覚えさせられる。)

2016年10月20日木曜日

Kept From to Be Kept For

ベック兄    by Toshihiro.H※
わたし、主は、それを見守る者。・・・だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。(イザヤ27:3) 
たちまち、私の天幕も荒らされ、私の幕屋も倒される。(エレミヤ4:20)

 献身し、キリストを愛する心はただ消極的な守りだけに満足しません。私たちは主を悲しませないようにと望むだけでなく、絶えず、主をほめあげ続けられるようにと願っています。どんな「守り」も、それと一致し、さらに祝福ある「目的」を持つべきです。

 私たちは一瞬一瞬が単にサタンに使われることから守られるようにというだけでなく、主の御用のために用いられるように望んでいます。私たちはすべての時が罪から守られるだけでなく、主を賛美するために守られるようにと望んでいます。

 あなたは「しかし、主は単なる瞬間・瞬間をどんなふうに用いることがおできになるのですか」と尋ねるのですか。私は一瞬一瞬がそうであるように、一瞬一瞬が織り成す時間や日々もそうなるという明白な真理を証明したり説明したりすることにとどまっていたくありません。あなたはそのことを十分よくわかってくださるでしょう。あなたの質問にあるがまま答えたいのです。(以下はその私の答えです)

 全時代の教会史を振り返り、どれほど絶えず大きな働きや強い影響が一人の神のしもべの単なる一瞬間から成長して来たかに注意を払いなさい。確かにそれは単なる瞬間であっても、神様の聖霊の実を結ぶ働きが影を投げ、満たされた瞬間なのです。その瞬間は五つのことばを口に出すのに費やされたのかもしれませんが、5000人いや50万人を養ったかもしれないのです。いや、全土の心や家庭に光をあてた思想のひらめきや地のもっとも暗い片隅に生まれ灯された松明によって明るくされたのかもしれないのです。

 敏捷な話し手、あるいは孤独な思索者は主がその一瞬を何のご用に用いられたかをほとんど知りませんでした。その思想のためですらそこには余地はなかったのです。もしその瞬間が、たとえ無意識のうちにも「イエス様のために守られ」ず、別の方法で占領されるならば、主をほめあげるどんな収穫が見失われたことでしょうか 

おお かたじけない御血よ 
主よ 私の上にお留まりください
私は 私の王様からの赦しだけでなく
私の祭司から聖めを求めます
私はあなたのところに来ます
ちょうど私が始めて 
罪深く絶望的な時にやって来たように 

おお 救い主よ 私に命じてください
「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。(ヨハネ8:11)」と
ですから いつも私を あなたの永遠の泉の
強い流れの下でお守りください
私は懇願します 私があなたの永遠なる聖めを
完全に知ることができますように 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-20-kept-from-to-be-kept-for/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97458です。

※Godhold Beck(59)
 以下の文はドイツの全集会用冊子「集会便り」に掲載された追悼文をH姉が翻訳されたものである。題して『ゴッドホルド・ベック兄弟はゴールインされた』アンドレアス プレッチ兄 記

  ピリピ3:12途中から「キリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。」使徒パウロの信仰告白は、ゴッドホルド・ベック兄の人生にも貫かれていた。ベック兄をよく知る人々は、彼が「キリストに捕えられた」兄弟だと体験的に知っていた。

 ベック兄は1930年3月25日に生まれ、信仰者の両親の下で成長し、回心後は宣教師として主イエス様に仕えることを最大の願いとしていた。ベアーテンベルグ神学校で基礎教育修了後、主ご自身の教育を受けた。ベック兄自身は、日本にも大都会にも来たいとは望んでいなかったとのことであったが、1953年、リーベンツェラー伝道会から日本に単身で派遣され、1955年12月8日にミンヘン姉妹と結婚。この時から日本で共に主イエス様に仕えることとなった。

 ベック兄は教会に関する考えの相違から伝道会を離れ、一人で主イエス様にのみ拠り頼みながら伝道活動を続けた。このことが彼と家族にとって、どれほど大変な道のりであったかは想像すらできないが、主なる神は常に彼に誠実を尽くし続けて下さった。

 個人的な交わり、家庭集会、喜びの集いを通して、神のみことばは伝えられて行った。当時のベック兄からの報告には「現代でも神が奇跡を起こして人間に新しいいのちを与えて下さる」とあった。63年間の奉仕を通して、新約聖書に記された模範に習う集会が各地で42ヵ所建て上げられた。

 信仰の試練からも決して免れ得ず、娘のクリステルは生後短期間で召され、1980年には娘のリントラウト(リンデ)が20歳でガンを患った。リンデの召天は、ベック兄姉の伝道活動に深い影響を及ぼす体験となり、病気と死を直視したリンデの証しは、日本のみならず多くの国の人々に信仰を促し、イエス・キリストへの一層強い献身を勧めることとなった。1986年には、娘のウルスラが自動車事故で召されている。

 今日は以上の引用で終わりにし、明日はその続きを載せさせていただく。私自身ベック兄の召天を知ったとき、この連載記事の第一回でほぼ同じ趣旨のみことばの引用を行なっている。なお写真は畏友が昨日わざわざ郵送で送ってくださったものである。開けてみたら1986年のお写真と明記してあり、上の記事とあわせて読みたいと思ったが、これはどうみても1996年のもの、あるいはもっと後年のものだと思う。) 

2016年10月19日水曜日

神様はいのち(心)を必要とされます

案内せられ 行きし聖堂 高宮に 嫁ぎし二人 主と歩むか※

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。(ヨハネ6:37)
 
 自分自身にこのことを当てはめることを恐れてはいけません。「誰でも求める者は(マタイ16:25)」と言われることを覚えて、暗黒の中でこの約束の星を見上げなさい。すると、父なる神様は「わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか(エレミヤ30:21)。」とおっしゃいます。

 だれのいのちですか。あなたのいのちではないのですか。もしそうなら、どなたが必要とされたのですか。すべての聖なる願いをただひとりなされる神様以外にいったい誰がはじめられるというのでしょうか。

主の召使を見よ!

あなたがお呼びになります
私はあなたのもとに参ります
あなたの誠実なことばを
おお 主よ 私にください

あなたの愛を 私は理解できません
私はただあなたのおことばが真実であることを知っています
そしてあなたは極みまで愛されるのです
父なる神様があなたのもとに引き寄せられたそれぞれの者を 

おお 
あなたの力を賦与する呼びかけなしには
私がお与えすることがなかったいのちを
今お取りください
あなたのうちに あなたのために
私を生かしてください
私は何者でもありません
あなたこそすべてのすべてです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-19-god-engages-the-heart/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97457です。

※Godhold Beck(58)
 故郷の同門(家の親戚、家の前)の方がキリスト者であった。この不思議な報せに接したのは今から10年ほど前だ。そんな報せが舞い込んで来たのも、私がその方にベックさんの集会に出席していることを伝えたことから判明したことであった。残念ながら、その方は急逝されたが、今も奥様と細々とお交わりをいただいている。つい一週間ほど前、この聖堂のバザーの案内をいただいた。聖公会の司祭の方の話を昨日紹介したので、ふさわしい絵と思い載せさせていただいた。さて昨日の司祭の方の話の続きだ。

 ベッキーの話が終わって、お茶の会になる。私の横に座って、ごく自然に救いの体験ー証しを、真剣に、嬉しそうに語って下さる人がいる。主イエスと共にあることが、他の何にもまして喜びであることが伝わって来る。ただし、それに至るまでにどんな苦しみがあったのか。打ち砕かれる自分がどんなものであったか包み隠すことなく話して下さるのだ。始めて出会った私のような者に対してである。夜八時から十時まで、二時間のうちに三人の人が、自分の証しを、又家族の証しを私に語って下さった。胸に熱いものを感じながら、私は聞き入っていた。

 「私は、こうして、罪を自覚して赦され、救われたのです。」「彼は、このように救われたのです。」「あの人は、三回目ですが、もう救われています。」誰の口からも、確信をもって出てくる「救い」の言葉に、身が引き締まる思いがした。

 「ここに来ている人は、みんな問題を抱えている人ばかりです。どん底に突き落とされて、そこでイエス様に出会うことができました。救われました。主にあることが何にもまして嬉しいことであることが分かったのです。だから、問題をもって、どうしようもないと相談に来られると、よかったね、と言ってあげます。自分の罪を自覚し、その罪が赦され、イエス様に出会って、本当の喜びを知り、誰もが良かったと思うようになるのです。」

 夫婦問題、親子関係、麻薬、アルコール中毒、・・・いろんな問題を抱えながら、問題が解決されたからではなく、問題を抱えたまま、イエス様に出会って救われている人々がそこにいる。ただ主にある交わりだけ。その喜び。牧師、先生はいない。名簿もない。でも、人は、四国、関東、神戸、西宮から距離を苦にしないで喜び集う。イエス様がそこにおられるから。使徒行伝の教会の交わり、信仰の原点に触れた恵みの時であった。

 司祭の方がこのようなコメントを書かれているのは本当に感謝である。ただ、私たちはベック宣教師のことは「ベックさん」「ベック兄」と言うだけで「ベッキー」と言ったことは一度もないのだが・・・) 

2016年10月18日火曜日

The Alarming Alternative(危険な分かれ道)

機関誌『つのぶえ』のカット※

私といっしょにいなさい。恐れることはない。(1サムエル22:23) 
あなたとあなたの全家族とは、箱舟にはいりなさい。(創世記7:1)
 
 洪水物語を繰り返す必要はありません。私たちはこの物語を6歳で知りました。今日、このことば、すなわち「あなたははいりなさい」ということばはあなたに送られているのです。私たちは箱舟の中にいるかそれとも外にいるかのどちらかです。この中間はありません。(箱舟の)外は死であり、中はいのちです。外は確実に避けられない完全な破滅であります。中は確実に完璧に安全です。

 この瞬間、あなたはどこにいますか。恐らく、あなたは自信満々にかつ幸福に「私は中にいます」とは言わないでしょう。しかし、直面する憂慮すべき代わり(すなわち外の破滅)を見ることを好まないで、「私は外にいるのです!」と言っているのです。

 ですから、あなたは自分は正しく知っていないので、そのような質問には答えようもないことを納得していただこうとするでしょう。そして、あなたは恐らくわずかないらだちを覚えて「どのようにして(わたしが中にいることを)知るようになるのですか」と言うでしょう。

 神様の誤りなきおことばは、あなたにきわめて明快に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(2コリント5:17)。」と告げています。

御霊と花嫁の祝福せる呼びかけを聞く者よ
すべてに対する 主のみことばを聞け
あなたの職務とあなたの指針を

これを聞く者は、『来てください。』と言いなさい。」 
はるか遠くにいるすべての人に 「来なさい」と
聞いてはいるが  ぐずぐずしていて 
ほとんどなぜかを知らないでいる人々に
彼らに主は近いと告げなさい
イエス様が通り過ぎて行かれると
今彼らに呼びかけなさい
待たないで 明日では余りにも遅過ぎるから

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-18-the-alarming-alternative/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97456です。今日の英文も一応訳したが、今一つピンと来ない内容だ。題名はどのように訳していいのか分からないので英文のままにした。乞う、読者の助けを!

※Godhold Beck(57)
 『つのぶえ』とは今も存在するのかどうかわからないが、日本聖公会の京都教区の機関誌である。たまたま20数年前にこの機関誌を手にした。1993年の3月20日の発行である。そこに次のような記事がある。題名は「救いの確信」であり、司祭の谷さんが書いておられる。

 最近、あるクリスチャンの集会に顔を出すチャンスが与えられた。そして、深い感動と救いの確信が与えられた。罪赦され、主イエスが共にいて下さる喜びを共有することができたのである。

 京都のあるお宅での家庭集会であった。ドイツ人ベックさんの集まりと言ったらよいのか。特に、教派の名前はない。もと宣教師のベックさんが中心で、今、全国的な集まりとなっているが、みんなは、彼をベッキーと愛称で呼ぶ。そして、お互いを、ごく自然に兄弟姉妹と呼び、全くのザックバランな集まりである。

 京都での家庭集会は、先月から始まったばかりだというのに、40〜50人の人で階下の三つの部屋は、立錐の余地もない程、若者は階段にお雛さんのように座って、マイクを通して聞こえて来る話を真剣に聞いている。所要があって遅れて行った私を、本当に快く迎えて下さる。一人また一人、又一人と親切な声を懸けて下さって、中へ中へと入れられる。私が聖公会の牧師だというと、それで又、別の人が声を懸けて下さる。

 この項明日に続く。私も一度だけこのお宅の家庭集会に出席したことがあるので、この方の描写はよくその家庭集会の雰囲気をとらえていらっしゃると思う。今は別の方の家で集会は行われているが・・・。それにしてもハヴァガルはまさしくイギリスの聖公会の人だろう。まさかこんな形で日本の聖公会の文章と併記されているとは。それもベック兄の取り持つ縁だとすると、クリスチャンの世界は狭い!) 

2016年10月17日月曜日

ことばには限りがない

内堀に 鴨ご一行 楽しげに 絆深けり かくあらん我※

ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。(ルカ24:14)
彼らはあなたの王国の栄光を告げ、あなたの大能のわざを、語るでしょう。(詩篇145:11)
 
 これらのことばは、私たちの唇の端にのぼる一文章でなく、目には見えないが長く続く影響となるにちがいありません。沈黙のうちにだんだん弱まって行くのでなく、他の人々のことばや行ないとなって生きて行くにちがいないのです。もし、私たちがなしたことを知ることができ、私たちが言ったことによってなし続けられるなら、この考えはそれほど耐え難いものではないでしょう。

 しかし、私たちは実のところ何もできないのです。その考えを少したどり、善悪の結果を垣間みることはできるかもしれません。しかし、流れ星が不思議な行跡の足跡を瞬間示して、夜空を走って行くのを眺める以上には、その考えをもはや知ることはできないのです。

 たとえ、まるで流れ星が、大気にぶつかるかのように、次の瞬間、明らかな殲滅に突入しようとも、私たちはほんとうはそうではなく、それは不思議な材質と力がその結びつきのうちに、私たちの知見を越えているゆえに、変更する力、とは言え真実な力が結びつきにいたらしめる材質と力に加えられるに違いないことを知っています。

 そして、このことは大きなことを小さなことと比較することではなく、小さなことを大きなことと比較することなのです。なぜなら、道徳的な力と比較される物質的諸力とはいったい何なのでしょうか。そのために備えられているたましいや永遠と比較される気体や蒸気や元素は何でしょうか。私たちはその件について選択権は持っていません。それを避けることも回避することもできません。もはや私たちにはそれを限定する可能性もなく、遠くで震動している音波を観測したり、目に見えない空中を流れて行く姿を見たりする以上にその境界をたどることさえできないのです。

大変な悩みの表情 

薄弱な矛盾とともに
それとも「真実でない」とする望みをともなってか
人があなたに話したことを
話すとき
 
低く「そうかしら」と言うだけ 
不正なものは全然ないのに

けれども 
ささやきが雷鳴に成長し 
非難の稲妻が落ちる 

それはりっぱな舟のマストが倒され
心が壊されるようだ

一人のキリスト者の生活が崩される
とても考えられないあやまちのために 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-17-words-are-limitless/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97455です。今日の箇所は読んでいて理解しづらいです。恐らく訳がおかしいのでしょう。お気づきの方のご指導をよろしくお願いします。

※Godhold Beck(56)
 ベック兄のご奉仕はどんな人よりも簡潔明瞭であったのではないか。主イエス様の福音を伝えること、ただこの一事であった。しかし、その範囲(空間)、その時間は、選ばず、どこまでも、また人をも選ばずに出かけられた。そして、これを支えるために献身的に車にベック兄をお乗せして一日中運転して仕えられるご婦人方がいた。またそのご婦人方を快く主の御用のために送り出すご主人の主への愛・ベック兄への愛があった。私はそのことを思う時、ベック兄姉とこれを支えられたご兄姉の深い愛の絆を思い、感服させられずにはいられない。) 

2016年10月16日日曜日

真の安息はキリストのうちに見出される

英傑の 眼下福音 告げる人 西南ドイツ より現われり※ 

 神様がそうおっしゃるのです。だから、それを探したり、望んだり、試したりすることは無駄です。あなたは最後はもちろんのこと、最初からあきらめるのがいいのです。鳩は箱舟にたどりつくまで足裏の休み場を見つけられませんでした。だから、キリストなしの全生涯をつらぬく平安のない陰鬱な眺望の結論は「彼らは昼も夜も休みを得ない(黙示14:11)。」のです。

 「諸国の民は、むなしく疲れ果てる(ハバクク2:13)。」あなたはそのことについてどれだけ知っていますか。「彼らは依然として悔い改めない(エレミヤ9:5)。」「あなたは、長い旅に疲れた(イザヤ57:10)。」こういうことばはあなたの骨身に沁みるものでしょうか。それとも「けれども今や、彼は私を疲れさせ、あなたはあらゆる私の仲間とも疎遠にされたのでしょうか」罪や悲しみや空しさや孤独の疲れがどうあろうとも(そして早かれ遅かれそれらは次々続くものだが)、やさしい呼びかけが悩める水の上を漂っています。

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28)。」

すると おお 次に 悲しみは和らげられ
彷徨は過ぎ去り 安息が勝ち取られる 
もうこれ以上揺らぐことのない確かさだ

そして 次に満ち足り揺り動かされない賛美が
喜びと力を生じ いのちは永遠に続く歌の序章となる

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-16-real-rest-found-in-christ/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97454です。

※Godhold Beck(55)
 家庭集会のお宅の近く、スミス会堂から仰ぎ見る昨日の彦根城である。大学人は、小なりとは言えども、よく日本のハイデルベルク城と称して城下を逍遙したものだ。その彦根地方にシュツットガルト生まれのベック兄が足を踏み入れられたのは前にも記した通り、1991年の9月のことであった。そしてその翌月の10月27日からほぼ三ヶ月に一回のペースで家庭集会は行なわれたようである。私も父が1981年に召されてのち、ほぼ10年余独り住まいをさせている継母が心配であり、その救いのためにその家庭集会にあわせて帰省するようにした。しかし、ベック兄が来ていることを知っても宗旨が違うと言うので一度も彦根の家庭集会には出席しなかったが、食事をともにする時、主への感謝の祈りを絶やさなかった。

 ところが、継母は1993年12月にスキルス性の胃がん末期の病を得、初めて私に祈りのSOSを求めて来た。もっとも継母はその時、自らの体調の異変には気づいたが、それほど深刻な病とは知らなかった。翌年正月に69年間生まれて以来一度も離れたことのない湖国(しかも、継母はまさにこの彦根城下に生まれ育った人であった!)を離れ、遠く関東の私のもとに身をあずけた。そしてそれから半年後の6月に主を信じて天に召されて行った。

 その葬儀はベック兄がアメリカに行っておられたか何かでベック兄にはしていただけなかった。国際電話だったか、空港だったか、電話口の向こうでベック兄は「(葬儀の司式は)あなたがやればいいよ」と言われた。そして「それが親族に対する証しになるよ」とも付け加えられた。無我夢中で多くの集会の方々の祈りに支えられて、親族の前でのみことばの取り次ぎとなった。

 考えて見れば、1991年の9月に彦根に家庭集会が始まったのは、ベック兄の大学での講演がきっかけだった。その場所が与えられたのも、当時四国に勤務しておられた方が奥様の実家の彦根に移って来られたことによる。しかも四国には金田福一さんのお膝元と思われる場所におられたのだが、その時には無関心だった奥様が、のちに主イエス様を信ずるように変えられての帰郷であった。

 そして、そのちょうど一年前の1990年の5月には、教会生活で苦しんでいた私たち家族が現在への主イエス様だけを求める集会へと移された。その私たちのふるさとは彦根であった。彦根に縁のある二家族がほぼ踵を接して彦根への熱き思いを持つように変えられていた。そこに降って湧いたように、ベック兄がこれまた縁のある彦根の大学教員の方の仲介を通して講演が実現したのである。僥倖は僥倖を生む?しかし、その根底には主の変わらぬ救いのご計画があることを知る。まさしくハヴァガルが10月14日で語っていた「計画され目論まれる救い」の実現である。) 

2016年10月15日土曜日

二重に押印された

リンデ・ベック※
王の名で書かれ、王の指輪で印が押された文書は、だれも取り消すことができない。 (エステル8:8)

 かような文書は、神様の偉大な恩顧により、すぐれて偉大で大切な約束や、偉大で大切どころかそれ以上の命令や、使徒がすぐれた栄光と天からの声だと感じた証しよりも「はるかにたしかな」預言のことば(もちろん、それはちょっと見方を変えた約束のことばに過ぎないのですが)に満ちあふれた、私たちの天の故郷の栄光、私たちの心の宝物をあらわす書き物です。それは王の名前で書かれているのです。

 イエス様は、父なる神様を明らかにし、宣言し、栄光をあらわすために来られたのですが、そのお方の生けるみことばは、御霊によって書かれたのと同じ証しのもとにご自身のお名前を刻まれました。それは私たちに「神のみことば」として与えられたものです。それは王の指環で印が捺されています。証印は普通でない方法で行使された聖霊の特別なお働きです。

 主はこの偉大な書き物を王の指環でどれほど明確に証印を捺されたことでしょうか。それはご自身の似姿とお名前、まことにご自身からのものだと納得させる印がが刻まれており、変わらざる権威と力のうちに発行されたのです。

 それは内からも外からもなされた二重の証印であります。第一には書き物が「聖霊による」という外観においてはっきりと目に見える形で確かめられる宣言であります。次にすべてのものを納得させる証拠は、私たち自身の心のうちに私たちが知り得る力をもって効果的に働く全能以上のものがあり、それゆえに神的なものであります

おお これは詩よりも 最高度の歌よりも まさるものです
たとえ隠されており 完全で強力であっても 私たちの霊にある証言です
聖徒や聖人に与えられた新しい啓示ではなく
聖なる書物に神からの光が きらきら輝き広がるのです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-15-doubly-sealed/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97453です。

※Godhold Beck(54)
 昨日は40年来の親交のあった方の葬儀があった。ご主人と一人娘を残しての召天であった。葬儀のあとのご遺族挨拶でお嬢さんは親族の内で天国に移された人々の名前を次々上げられ、それぞれの方を短く紹介された。そのお一人お一人はイエス様の福音を何らかの形で受け入れた方たちであった。さわやかな印象を与える幕切れとなった。

 そのあと、友人と一緒に老健施設に入所している方を見舞った。友人は「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」という聖句の自署した筆墨の書を進呈された。そうだ、私たちの国籍は天にありますだよと、入所中の方に私たちは伝えた。その方は「(そんなことを言われても)ピンと来ない」と言われて破顔一笑された。「私たちもピンと来ない、でも信ずることだよ」と話し、友人に祈っていただいた。果たせるかな、その方は大きな声で「アーメン」と私たち二人とともに唱和された。ここにもさわやかさだけがあった。

 さて、天国とはいかなるものか、昨日も彦根の大学でのベック兄の講演会の内容を少し紹介したが、そこでベック兄が紹介されたのは以下のお嬢さんが残された文章であった。20歳で召されたお嬢さんの聖書の中に差し挟まれていたメモ書きとのことであった。お読みいただきたい。

主イエスさま。たとえ肉眼であなたを見ていないにしても、
私は心からあなたを愛しています。
そして、たとえ個人的にあなたを見ていないとしても、
私はあなたに全き信頼をおきます。
この目であなたを見ることが許される時、なんとすばらしい、
言葉にならない喜びで、歓呼の声をあげるでしょう。
その時、私は永遠に安全な場所におかれます。
あなたはよみがえりであり、いのちです。
あなたを信じる者は死んでも生きるのです。
そして、生きているあなたを信じるものは、だれでも永遠に死ぬことはありません。
神のたまものは、私たちの主イエス・キリストとの交わりにおける永遠のいのちです。
私はまだ、この肉の体にとどまる限り、本当のふるさとに到達していません。
私はまだ、主から離れている旅人のような状態におかれています。
私は主と顔と顔とを合わせていませんが、信仰によって歩み続けています。
しかし、私は安らかです。
願わくば、この肉の体を去って私の天のふるさとへ行き、主のみもとに行きたいと思います。
ですから私は、主が来られるまで、主に喜ばれるように、
すべてのことを一生懸命にやりたいと思います。
私のふるさとと、私の目標は、天にあります。

『実を結ぶ命』34〜35頁より引用。リンデの写真も同書より。

 ここまで書いて、ハヴァガルの今日書いている「文書」には、ひょっとして「天の国籍簿」もふくまれているのでないかと思い至り、言い知れぬ感動を覚える。) 

2016年10月14日金曜日

計画され目論まれる救い

「family」 吉岡賢一画 二紀展開催中

この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハネ1:13)
 
 私たちの中には、他の人の救いはある程度私たちの努力によるかのような考えを持つ人はいなかったでしょうか。もちろん、私たちはそんなに多言を要する必要はありませんでした。しかし、もし私たちがたましいを獲得するのに懸命に努力するなら成功するが、もしそうでなかったら失敗するだろうという感覚が何かなかったでしょうか。そしてこのことが私たちの奉仕を不安にし、重荷としました。

 しかし、キリストは何とおっしゃいますか。「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます(ヨハネ6:37)。」彼らは来るのです。なぜなら、父なる神が彼らを引き寄せ、イエス様は招かれ、聖霊なる神様は導いてくださるからです。

 そして計画は約束に先行します。約束が召しに先行し、召しが来臨に先行するにもかかわらずです。かくして神は最初に洪水からノアの救いのための箱舟を計画し目論まれました。次に主はおっしゃいました。「あなたは箱舟にはいりなさい(創世記6:18)」そのずっとあとで万端整った時、主はおっしゃいました。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟にはいりなさい(創世記7:1)。それでノアは入りました。それから「主は、彼のうしろの戸を閉ざされた(創世記7:16)のです。

 さあ、私たちの働きにおいて、私たちの主を、その目的、約束、召しに関して、その通り信頼しましょう。「事を行なえば、だれがそれをとどめることができよう(イザヤ43:13)。」ということに全く満足して、すなわち、主はうっかり誰をも落とすことは決してありません、また父なる神様がイエス様にお渡しになったすべてのものをいかなるものも失くされることはありませんということです。なぜならこれが、父なる神様のご意思なのです。

主はいたるところの人々からの罪を御自身のものとして告白されます
父なる神様の栄光ある御座の前で ホストである御使いの前で
あなたを 新しい創造により 計画により 恵みにより
あなたの顔の前に欠陥のない 完全な贖いの宝庫の力により  

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-14-a-planned-and-purposed-salvation/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97452です。

※Godhold Beck(53)
 今日の絵は畏友の画作。妹は母親に、姉は父親に似ている。左のカンバスにはこれから描かれる? いや目に見えないだけで、familyは今日のハヴァガルの黙想が示すように、ノアの家族として、神の御手ですでに描かれているのだろう。

 さて、昨日の話の続き。このメールの後、その方は翌日新たに三本のテープをわざわざ届けてくださった。一本は初めてベックさんが彦根地方に入られた時の講演のテープであった。市内の短期大学がベック兄に講演を依頼されたのだ。私もその場にいたのだが、内容はよく覚えていなかった。1991年の9月であった。その大学は家内の高校・短大の同級生の父上が要職についておられるという僥倖もあった。

 テープからは二十五年前のベック兄の元気な声が流れて来る。題名は「主に愛されているドイツ人と日本人」にしたいと、たくさんの学生、また学外から集まって来た私たち少数の者をも前にして言われる。話は佳境に入るが、その展開は次のように三部に分かれている。

 (1)ドイツ人と日本人の共通性、(2)相違点、(3)民族を越えて及ぼされる主の変わらぬ愛。(1)は時代区分ごとにその共通性が明らかにされる。すなわち、第二次世界大戦前、戦争中、戦後の各時代ごとに、無邪気な喜び、狂信的な観念論、人を惑わす物質主義とその時代精神を言い当てておられる。中々の文明論である。以前に明治後期から大正時代にかけて活躍したパゼット・ウィルクス宣教師が欧米と日本・朝鮮のちがいを端的に説明した文章を読んで感銘を受けたことがあるが、それと匹敵する鋭い文明批評である。

 (2)の相違点は、マス・メディアの氾濫による「無関心」、自己中心の生き方がもたらす「順応」、苦しみを避けたいがための「妥協」 これらに日本人は翻弄されているのではないか、「仕事中毒」の日本人に対する大いなる警告がなされている。ここにはドイツ人のおごりから言うのでなく、日本人を愛するがゆえに言うのだと断っておられる。

 しかし、もちろんこれらはベック兄にとっては序論に過ぎない。言いたいことは福音である。ちょうどこの前日かに吉祥寺集会で数学者で東大名誉教授及川廣太郎氏の葬儀があったのだろうか、その葬儀の様子と、及川氏が病床でイエス様の前に頭を下げられ「救われることは簡単なのですね」と言われたことばが紹介され、「永遠のいのち」が明らかにされる。また、最後の方で同じ年頃の女子学生にもわかるように、ご自身のお嬢様リンデが20歳で召された時に、聖書中に挟んでいた祈りのことばが紹介されている。

 これらの圧倒的な福音論証はそれを聞いた一人一人にどのように残ったのだろうか。ましてやうら若き女子学生がその聴衆の大勢を占めていたのだが。当の私が25年後にそのテープを聞いて、ベック兄の類稀な話に今更驚いている次第だ。しかし、ハヴァガルが言うように、父なる神様は招こうとする者をご自身で招かれるのだ。

 ところで、この講演の帰り道を利用してベック兄は家内の実家、私の実家を相次いで訪問されたと言うことだ。〈私はすっかり忘れていたが、家内は鮮やかにそのことを覚えていた。例のビスマルク云々の話(48)はそのおりのことである。〉 )

2016年10月13日木曜日

至る所からすべてを求めて

こだまする 鎮守の森 イエス見よ※

人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た。(マルコ1:45)

 マタイ8章から始めて、福音書をとおしてほかの人たちがどのようにあらゆる種類のそれぞれの必要を求めてイエス様のところに来たかをたどり、これらのうちに、聖め、いやし、救い、導き、霊の開眼、教えについてのあなた自身の霊的な必要性をつきとめなさい。

 それらの人たちは求めているものを知っており、誰を求めているのかも知っていました。その結果、彼らはちょうどいい具合に(主のところに)来ました。主にあなたが求めているもの、また誰を求めているかを示してくださるように求めて下さい。そうすれば、あなたはもはやそれはどういう意味かと話すことはなく、ちょうどいい時に(主のところに)来ることでしょう。

 そして次に、「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです(ヨハネ4:42)。」と言い、「私の主。私の神(ヨハネ20:28)。」と言うことでしょう。

あなたは平安を求めて主のところに来ないのですか
主の十字架を通してだけ平和があります
主はあなたのために大切な血を流されました
その贈り物は無代価で みことばは真理です
主が私たちの平和です 
おお 主はあなたのものですか
あなたは安息を求めて主のところに来ませんか
疲れている者は誰でも 来なさい
主が下さる安息は 深く真実です
今提供されています あなたに提供されています
主の愛に憩い 主の家で休みなさい

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-13-from-everywhere-for-everything/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97451です。

※Godhold Beck(52)
 今日の写真はわがふるさとの鎮守の森の一角である。田舎のここにも福音は伝わった。ハヴァガルの勧めは「至る所からすべてを求めて」という題名であった。ところで、私の実家に「彦根集会」と題する1992年1月12日のテープがあった。聞いてみるとそれこそ過去に(24)の「みこしかつぎ」でご紹介した代物であった。ところがそのテープには肝心のベックさんのメッセージは収録されていず、ベックさんのメッセージを聞きに神戸や埼玉から〈至る所から?〉はるばる出かけて行った三人の男性の話が収録されているばかりだった。そして三人目が私でその話も途中で切れていた。

 いったい、こんな時、ベックさんはどんな話をするのか聞いてみたいと思い、彦根の家庭集会を開いておられる方に問い合わせてみた。「ある。」と言う。しかもその方の手許には私の聞いたテープはなく、二本目のテープがあると言う。早速御持ちいただいて聞いてみた。

 長い長い三人の話、そして最後にやっとベック兄にお鉢がまわってきた感じである。しかも、その最後の私が「(ベック兄の話を)聞きに来たのに(ベック兄は)話せなんて(おっしゃる)冗談でしょう!冗談も休み休みに言っていただきたい!と思わず申し上げましたが、こうして聖書の学びに参加できて良かったです」と殊勝にも言っている。それを受けてであろうか、開口一番ベック兄は次のようにおっしゃっている。

「結局、これは聖書の原則じゃないですかね。証人は少なくとも二人はいなくちゃならない。と言うのは。ひとりでしゃべってはいかん。少なくとも証人は二人必要であると聖書ははっきり言っているんです。多くの教会の場合はやっぱり牧師は専門家ですから、彼は全部初めから終りまでやらなくちゃならない。罰です。これは特権じゃない。可愛そうよ。ほんとうはできません。けど、一人でがんばらなくっちゃいけない。だからみんな疲れてしまう。」

 そしてそのあと一人でなく信者一人一人が「一致する」ことの必要性を具体的にあげられる。主題は「主の愛は決してだめにならない」のようだ。そしてローマ8:32、イザヤ30:15、エレミヤ31:3、ヨハネ13:1、1ヨハネ4:10と順次にみことばが語られ、最後にヘブル13:5〜6「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」で閉じられている。締めの祈りはこれまた残りのもう一人の男性がしておられる。

 わざわざそのテープを届けに来てくださったその方のお礼にと、手許にあった小冊子、それは(45)(46)でご紹介した金田福一さんの書いたものだった。ところが、その方からメールが来た。それによると、実はその方は、以前、あの金田福一さんがおられた伊予三島に住んでおられたと言う。今日の今日までその方は金田福一さんがそこにおられイエス様を伝えられたことをご存知でなかったと言う。当時、全く福音に無関心で、後年ベック兄を通して福音に触れ、彦根の家庭集会を開かれるまでに至った。

 メールは次のように結ばれていた。「思い返しますと神様の不思議ばかりで、決して捨てない、決して離れないと言って下さるイエスの忍耐と憐れみに只感謝あるばかりに居ります。」)

2016年10月12日水曜日

私たちに主の御心は留められる

アルプスへ 夫唱婦随 主の愛※
人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは。また、朝ごとにこれを訪れ、そのつどこれをためされるとは。(ヨブ7:17〜18)
 
 もしもそのすばらしい驚きの表現「人とは何者なのでしょう。あなたがこれに御心を留められるとは」のうちに父なる神様の愛とやさしさが啓示されていなかったとしたら、主がことごとく試みられているという考えほどひどく厳粛で恐ろしいものはないのではないでしょうか。

 まるで私たちが不注意で忘れっぽい子どもであったかのように主は、私たちの上に絶え間なく、み心を留められていることを考えなさい。

 次に、それにもかかわらず一つのことばの綾として与えられている、これら以外の他のみことばについても、文字どおり真実だと考えなさい。すなわち「わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぐ(イザヤ27:3)」とあるのです。

このことに直面しなさい 
苦悩と闘争のあらゆる混乱をとおして 
これに対して あなたのいのちの真の成熟
あなたが来られる幸いな時 
あなたが将来見そなわしてくださるものは 
どれほど高い贈り物でしょうか
そしてそのような奉仕のために 
あなたの神は あなたを準備なさる 
たとえ今日 あなたが あらゆる隠された理由を
たどることができなくても
試みの時をとおして 主の不思議なお取り扱いのために

だから 信頼して従いなさい

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-12-his-heart-set-on-us/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97450です。

※Godhold Beck(51)
 9月24日、本来ならベック兄が司式なさる結婚式でベック兄が召されたため、私は急遽、代役を務めさせていただいた。その折り、アメリカで戦後ベストセラーになった『ピーターという男』の数節を最後に紹介させていただいた。「しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。」箴言31:10以下の現代版だと思ったからである。

 ところが、先頃『主は生きておられる』10号〈2005年刊行〉にベック夫妻結婚50年に寄せてベック兄が話された記事を見つけて、そんなに遠くを探さなくても、ここにその現代版があるではないかと、遅まきながら気づいたので、そのところを以下紹介してみる。〈同書60頁より引用。2005年8月7日、国際福音センターでの収録から〉

 このみことばは、良い妻が得がたいことを示しています。私は、主がミンヘンを生涯の伴侶としてくださったことを心から感謝しています。そして、きょう、皆さんの前でミンヘンに感謝したいと思うのです。ちょっと恥ずかしいけれど、きょう、初めて、彼女をちょっとほめたい。

 私は、主に対して不従順な者でした。詩篇103篇の2節に、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」とあります。主の良くしてくださったことを忘れることは感謝しないことであり、罪です。

 私はもう何十年間、主がくださった結婚、ミンヘンへの感謝を忘れがちで、すべてのことを当たり前のように思ってきました。「悪く言わないのは、つまりほめているんだよ」と自分一人で思っているだけで、感謝を口にせず、いつもミンヘンを悲しませてきました。

 ミンヘンは聖書に書かれているように、私にとって「真珠よりもはるかに尊い」。ミンヘンは生きながらえている間、私に良いことをし、悪いことをしなかった。一度も。彼女は喜んで自分の手で働く者であり、勤勉そのものです。私はいろいろな人に親しくしてもらっていますが、それもみなミンヘンのおかげです。ミンヘンはほほえみながら後の日を待つ。主を見ているから。彼女は思慮深くみことばを語る。彼女は正直で、透き通っている。娘のハイデもビッキーもスーシーも立ち上がって彼女を幸いな者と言う・・・

 変な証しになったかもしれませんが、60年間ミンヘンを知り、そして50年間、心を一つにすることができたのは、本当に主の恵みそのものです。金婚式の年にあたり、主がミンヘンを妻としてくださったことを、心から感謝しています。そして愛するミンヘン、50年間、ありがとう!)

2016年10月11日火曜日

救い主

舌づつみ 懐石の味 時忘る※ 

王は手に持っていた金の笏をエステルに差し伸ばした。(エステル5:2)

 イエス様は「王位についている(アモス1:8)」方です。笏は第一に王の権利と権威の、次に義と公正の象徴であります。「あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です(ヘブル1:8)。」「正しい杖」です。しかし、金の笏は、もしそうでなければ滅びたに違いない者に対する最高のあわれみのしるしとして差し伸ばされました。「生きるために死に行かねばならないというご自身の法」によって。

 かくして、直接の宣言と型の組み合わせによる、この形態のうちに、私たちは、私たちの王の「恵みとまこと」また王国の「義と平和」が美しくも完全に調和されているのを見させていただきます。「王様の敵」にとっては、笏は「鉄の杖」であります。(ヘブル語では笏は同じ意味です。)彼らは自分たちが否定する義を喜ぶことができません。しかし王様にお気に入りの臣下にとっては、笏はまことに金の美しさそのものであります。

 私たちは主の絶対的な義と公正を尊崇し、栄光をほめたたえます。そのことは私たちの道徳存在の深みまで満足させるものです。まことに強力であり完璧であるからです。そして、おお、どれほど「あなたのあわれみは快いことでしょう」そしてまさしく義でありますから、どれほど「確かな」ことでありましょうか。

 エステルは申しました。「私は、死ななければならないのでしたら、死にます(エステル4:16)。」ところが、私たちはそういう必要がないのです。「その恵みはとこしえまで(詩篇136:18)。」なのです。ですから、私たちが王様の拝謁室に入るときはどんな時でも、金の笏が私たちに差し出されていることを知っています。先ず、「私たちが生きるため」に、そして次には好意から好意を得るためであります。

 「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか(ヘブル4:16)。」遠く離れて立たないで、そのことを覚え、王様を待ちましょう。しかし、エステルのように「近寄って、その笏の先にさわ(エステル5:2)」るのです。

もしあなたがそうおっしゃったのなら
私は信じるに違いありません
それは「求める」だけです だから私は受け入れます

もしあなたがそうおっしゃったのなら
真実であるに違いありません
だからもはや私がすることは他に何もありません
キリストのために私にそれを与えて下さい

私はそのように来て求めます
なぜなら私の必要はまことに大きくほんとうですから
あなたのみことばの力の上に
私は来て申します
おお あなたのことばを 今日も真実たらしめて下さい
キリストのために私にそれを与えて下さい。 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-11-the-saviour/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97449です。辞書を調べるとFor Christ's sakeは「後生だから」、「一生のお願い」とある。その訳がふさわしいのだろうが、ここでは敢えて「キリストのために」と訳した。

※Godhold Beck(50)
 法事とは摩訶不思議な時間である。一族が一同に会するからである。その一族が延々と連なるいのちの受け渡しを振り返る時である。私はマタイの福音書のイエス・キリストの系図に思いを馳せざるを得なかった。その系図はイエスの父ヨセフの系図である。ところが言うまでもなくイエスは母マリヤが処女のおり懐胎した神の御子である。ヨセフとは血のつながりがない。けれども聖書ははっきりイエス・キリストの系図と記してヨセフに至る系図を載せている。

 そもそも連綿と続く血族は一方で結婚による姻族を加え、加え、保たれて行く。しかも結婚とはまさしく男女の自由な意志によるきわめて人格的な結びつきであるが、そこには人の罪が連綿として居座り続けるやっかいな問題がある。救いはただ主イエス様の贖いの死を受け入れる罪からの解放だけである。私はそのようにして矛盾に満ちた自己の存在・悪・罪から救われた。その福音を私に伝えたのは、こともあろう、後に結婚することになる家内からであった。

 その福音を受け入れようにも、伝統的な日本仏教の中で矛盾を感じ苦しみながらも伝統ある家の格式を守り地域住民と平和裡に生活しなければならないのが家内の実家であった。その地をベック兄は生前二回訪れて下さったのである。

 一回目は昨日も述べた通り、25、6年前の実家であった。ところが、その後2009年2月に病を得た義母の見舞いに、お忙しいベック兄は今度はわざわざ地元の病院に立ち寄って下さったのである。近江八幡か彦根に移動されるほんの短い時間を利用してのお見舞いであったように記憶する。その時、義母はもはやベッドから立ち上がれず、ほぼ一年後に召された。しかし、25、6年前とちがって満面に笑みをたたえてベック兄との再会を喜んだ。この時、義弟も同席していた。

 昨日の法事の席で義母の写真も飾られてあった。それはその折り、ベック兄が撮られた写真をもとに義弟が作成を依頼したもののようであった。私は懐かしく過去のブログの記事〈蝋梅の花一輪http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2010/02/blog-post.html 、村共同体と信仰http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2010/02/blog-post_02.html〉を思い出しながら、義弟にその話をした。義弟は蝋梅の木は当時母の依頼に答えて10年前に植えた、それがあの時、花を咲かせたのだと言った。母はその蝋梅が咲くころには私はいないかもしれぬ。しかしあなたの嫁が大事にしてくれるだろうという嫁姑の愛に満ちた話だった。

 「天国の かなたに上る 義母ありや 妻と語らう 夕餉楽しき」 )