2016年10月9日日曜日

神はイエスを信頼された あなたは信用できないのか


民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。(詩篇62:8)

 「どんなときにも」の中には、親しい方の救いは私たちのほんのちっぽけな祈りや努力によるものだと、すんでのところで私たちが考える時も入ります。けれども、この信頼はのんきな怠惰に導くものではありません。祈りが真実であるとき決してそのようには導かれないからです。もっとも深い信頼がもっとも力ある行動を導くのです。

 機械が最大の準備と結果をもたらす動力となるのはもの言わぬ油です。それはきわめてしばしば信頼の大きな試みのように見えるかもしれません。しかし、私たちが、機械にとっての油のように、疑いを持たず信頼しなければならないのは、いったい誰なのですか。

 それは、イエス・キリストです。

 私たちは父なる神様が大きな贖いのわざをもって信頼されたお方〈イエス・キリスト〉を信頼できないのでしょうか。主は義なる方でないのでしょうか。私たちはご自身の所有物である羊を世話する良き羊飼いであるイエス・キリストを信頼できないのですか。それどころか、なぜ、主が私たちよりもご自身のものであるものに関心をお持ちであると信用するのが難しく見えるのですか。

おお 私たちが
弱い人 傷つける人 罪で苦しんでいる人を
迎え入れるように 熱心に捜させて下さい
打ちひしがれた人 死にかけている人を
探して あなたのところへ連れ出し 癒されるように
あなたの栄光ある足もとに置かせて下さい

おお 私たちの待ち焦がれている心に
あなたの恵みの聖霊を注いで下さい
私たちは あなたに嘆願して
あなたの顔の輝きを示すことができますように
あなたに無力なみじめさのうちにある 
意志と力と信仰を 聞き入れていただくように 
あなたの御衣のへりに触れて 嘆願しております

次に主イエス様 それらすべてのものに
あなたに 私たちの癒し主 私たちの王に
新しい誉れと栄光を上げ もたらすことができますように
そうです あなたの救う力が 
あらゆる地の果てまで 知られますように
そうして 人々は あなたのお名前 
私たちの救い主 私たちの王を 賛美することでしょう


(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-9-god-trusted-him-can-you-do-less/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97447です。

※Godhold Beck(48)
 1992年2月26日の夜の家庭集会では、引き続いてガラテヤ2:20〈私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。〉について今度は三つの特徴だと言って

 ①ご自身をささげて下さったイエス様について
 ②自己追求的な生活から解放されたパウロについて
 ③私〈パウロ〉のうちに主は生きておられるという事実

を説明されている。

(45)で触れたように、原本とも言うべきテープでは7つの特徴が一挙に語られていたのだが、この昼夜と別れた二回の家庭集会で昼は4つ、夜は3つと分けて話しをされたのだ。その冒頭で、このガラテヤ人へ手紙を書いたパウロを始め、使徒たちがなぜ手紙を書いたかと言う理由を次のように言っておられる。

 新約聖書の手紙を読むと、書いた人の心の奥底を理解できるのではないかと思います。使徒たちはどうして手紙を書いたかと言うと、当時のイエス様に出会った人々は確かに救われていたけど、彼らは絶えず迫害されていて誤解されていたから励まされることを必要としていたのです。患難をとおして主にもっと頼ることができるように、祈り続けるように、結局みこころにかなった生活をすることができるように、これは書かれた手紙の目的だったのです。

 家内と私の婚約指環に刻まれているみことばはコロサイ1章の10節です。まあ口語訳のみことばですけど「主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせる」というみことばです。まあ、パウロはこの手紙をコロサイの信ずる者に書いたのです。

 今読みましたガラテヤ人への手紙は、ガラテヤ地方に住んでいる主によって救われた人々のために書かれたことばです。これはもちろんパウロの説教らしいものでなく、証しでした。

 云々と続き、それからおよそ3、40分近くメッセージの本論に入って行くが、余り自己を語ることの少なかったベック兄が自らの婚約指環のみことばについてはよく語られたことを思い出す。ところが、今回聞き書きをする中で、このことばを口語訳だとこだわっておられるところが面白いと思った。ドイツ人だからドイツ語で覚えているのだから、そんなことは関係ないと思うのだが、来日された当時の日本語がインプットされており、ベック兄には懐かしいのであろう。一方「主に喜ばれ」という新改訳の受動的な訳より「主を喜ばせる」という口語訳の能動的な訳が気にいっておられたのかもしれない。) 

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