2016年10月3日月曜日

「来なさい」は、「来なさい」です

ホフマン 絵 (聖書物語から)※

イエスは「来なさい。」と言われた。(マタイ14:29)
 
 しかし、いったい「来ること」とは何を意味するのでしょうか。

 霊的なことがらを表現するのに、人がもっとも慣れ親しんでいる用語が用いられると、人はその用語に当惑する傾向があるようです。そして、用語が非常に単純なため、言うならば、ちょうどその背後には何か得体の知れない不思議な意味があるにちがいないという疑惑を人に抱かせるものです。なぜなら、それらの用語はあまりにも平易で簡単でありすぎるので、そのような大きな重要性を持っていないかのようにみえるからです。

 しかし、「来なさい」は「来なさい」です。まさしくその通りです。精神的努力という何か得体の知れない過程のことではありません。もし、あなたが今日それに関するどんな疑いもまた仮定も先入観も持たずに、そのことを初めて聞いたのなら、それによってあなたは何を理解するでしょうか。小さな子どもはそれによって何を理解すると言うのですか。

 それは全くあまりにも単純過ぎるので、いかに説明してもそれ以上は簡単にはなり得ないのです。

ここには「別々に召す」とあります
場所はまことに砂漠であるかもしれません
私たちが忙しさにかまけて
祝福から離れ失っている そこです 

なぜ私がそのことを言わねばならないのでしょうか
心は踊らなかったのですか 即座に 喜びで 
対照的に 満杯のカップを満たして
静かに キーワードが 鈴を鳴らせながら 
同じやさしいことば「来なさい」とこだますることでしょう

父なる神の御住まいから
流れ出る祝福された無数の安全の
「来なさい」であります

「来なさい」 なぜなら 働きは終わったからです
「来なさい」 なぜなら 宴は開かれているからです 
「来なさい」 なぜなら 栄光ある冠が 疲れた頭に冠せられるからです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-3-come-means-come/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97441です。

※Godhold Beck(42)
 今日の挿絵の下の文は次のようになっている。

 「弟子たちは、主が水の上を歩いているのを見て驚きました。最初は幽霊だと思ったからでした。けれどもイエスは『安心しなさい、わたしだ、恐れるな』と言いました。ペテロはイエスに会いたいと心から思って、同じように水の上を歩こうとしました。けれどもその時不安にかられて沈んでしまいました。」

 いささか解読の不可能なハヴァガルの今日の黙想を読みながら、私はベック兄の『来なさい』という標題のメッセージを思い出した。それは『光よあれ』7集の370頁から397頁までに記されているが、その一部を私の聞き書きによって臨場感あふれるベック兄の口吻を以下再現してみた。(録音は何年のものか分からないが、こうして久しぶりにその声に接することができたのは恵みだ。ろばの子サーバーの「ベック兄の暦年のファイル」の「CD#4 洗礼の意味」中の「0061来なさい」を使った。

 私たちはどうしたら、イエス様との親しい交わりに近づくことができるでしょうか。イエス様の啓示に対する私たちの答え方によってです。主が「わたしである」と言って私たちにご自身をあらわされるとき、イエス様は私たちに決定を迫ります。

 ヨハネはイエス様に答えませんでした。ピリポも答えませんでした。ヤコブも同じです。ペテロだけがイエス様に答えました。するとペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」

 ペテロは自分自身にこのように言いきかせました。「イエス様がご自身を現わされるとき、ご自身のためではなく、私のためにご自身を現わされるのだ!」と。

 愛する皆さん! 

 イエス様は言われました。「わたしは道であり、まことであり、いのちであり、光であり、パンである」と。これはイエス様のご自身の啓示です。

 このイエス様の啓示に対する私たちの答えはどうでしょうか。決定しますか。ペテロのように答えますか。

 「主よ、あなたは父のみもとへ行く道ですか? 自由と喜び、罪の赦しへの道ですか?もしそうなら、私にここまで来いとお命じになって下さい」

 もしあなたが今聖書を何も知っていないのでしたら、今日祈ることができます。

 「主よ、あなたは心からの平和への道ですか? もしそうなら私にここまで来いとお命じになって下さい」と祈ることができます。

 「主よあなたは光ですか? そうなら、私にここまで来いとお命じになって下さい、私の真っ暗闇を光にして下さい」「主よ、あなたはいのちですか? そうなら私にここまで来いとお命じになって下さい。私にどうか永遠のいのちを与えて下さい」「主よ、あなたは真理ですか? もしそうなら私をみもとに行かせて下さい、ここまで来いとお命じになって下さい、真理を私にお示しになって下さい。」

 イエス様はご自身を明らかにされました。イエス様はあなたに「わたしである」と言われました。あなたはそれに対する答えを持っておられますか。イエス様はあなたの答えを待っています。

 今日、私たちは我と我が胸に訊ねてみましょう。イエス様の啓示に対していつ私たちは答えたのでしょうか。もしあなたがまだ生まれ変わっていないのなら、あなたは全然答えていません。 ) 

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