2016年10月24日月曜日

火急は浪費にあらず

通訳するベック兄(日本語→ドイツ語)2003.10 By Katagiri※

王の命令があまり急だった(1サムエル21:8) 
あなたがたは急いでそのことをしなければならない。」ところが、レビ人は急がなかった。(2歴代誌24:5)
 
 (しかし、)普通のクリスチャンがいい加減に受け取るどんな仕事もありません。彼らはいつも通り一回りせねばなりませんし、手紙を書かねばなりませんし、訪問や他の社会的な要求を満たさなければなりませんし、まかされていることをしなければなりません。そしてそれから、つまり、あれやこれやその他のことがかたづけられてから、王が命じられたことをするでしょう。

 彼らは、間接的であり、そしてまた、王に対してより、「聖職者」に対してより責任感をもってまかせられている王の仕事の一部でない限り、それについて「しなければならない」とは言わないでしょう。 

 このことは果たして誠実でひたむきだと言えるのでしょうか。もしそうだとしたら、もうそれ以上何も言いたくありません。私たちが「イエス様第一」だと言うことさえしなかったのなら、果たして「イエス様だけ」はどのようにして私たちのモットーたり得るのでしょうか。

けれどももしあなたがたがそのことを
第一にとらえることをあえて拒まないのなら
あなたの自我だけが損失であります
なぜならそれが勝利であり 十字架の標準なのです
あなたがたが日陰なる木の下に休み
小さな気休めを愛するための
勝利者の王冠を捨てても
それは害することがないでしょう  

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-24-haste-is-not-waste/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97462です。

※Godhold Beck(63)
 13年前のドイツ。日射しは強く、思わず傘が両側から差し出されたくらいだった。ベック兄の笑顔が素敵だ。日本人に話させないで、自分で話した方がやさしいのに、拙い話はどのように通訳されていたのだろうか。何を話してもいやな顔一つなさらない。すべてを主にゆだねられ、王なるイエス様第一の生活だったのは誰もが認めた。

 昨日も、処分に困り果てているベック兄の無数の写真からほんの一部持ち帰った写真をそれぞれの方にお渡しした。ところがそれらの写真は意外なところで用いられた。その内の一枚はベッドに横たわっている方を二人の方がお見舞いしている写真であった。お二人の方の内、お一人の方が知人であったので引き抜いて持ち帰ったものであった。ところがその方にお聞きしてみると、そのもう一人のご年配の方はお母さんで、そのお母さんの姉妹をお見舞いした時の写真だと言う。もちろんベック兄も一緒にお見舞いに行かれたからその写真が残っていたのだ。

 ところが、何とその方の甥御さんが昨日の礼拝に初めて来られたのだ。何というタイミングであろう。一枚の写真が召されたあともこうして用いられる。主のなさることは素晴らしい。序でにもう一つ付け加えておこう。

 昨日礼拝に自転車で出かけた。鍵はかけなかった。ところが礼拝が終わって帰る段になったら、案の定、自転車はなかった。盗まれたのだ。やむを得ずとぼとぼ20分足らずのところを歩いて帰った。ところが、先に帰った家内から〈家内は自転車がなくなったことを知らなかったのだが〉携帯に、「途中にあなたの自転車らしいのが放置してあったのを見たけれども、今日は自転車どうしたの」と電話が入った。自宅の近くの道路際に放置してあるということだ。

 一体、自転車泥棒君は盗んだはいいが東西南北どの方向をとってもいいはずだ。ところが何と私の家の近くに乗り捨てるとは! どうしたんだ! かくして、わが自転車は私が家に着く頃には無事に私の手許に戻っていた。あわてて自転車の鍵を買いに行ったことは言うまでもない。) 

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