2016年10月13日木曜日

至る所からすべてを求めて

こだまする 鎮守の森 イエス見よ※

人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た。(マルコ1:45)

 マタイ8章から始めて、福音書をとおしてほかの人たちがどのようにあらゆる種類のそれぞれの必要を求めてイエス様のところに来たかをたどり、これらのうちに、聖め、いやし、救い、導き、霊の開眼、教えについてのあなた自身の霊的な必要性をつきとめなさい。

 それらの人たちは求めているものを知っており、誰を求めているのかも知っていました。その結果、彼らはちょうどいい具合に(主のところに)来ました。主にあなたが求めているもの、また誰を求めているかを示してくださるように求めて下さい。そうすれば、あなたはもはやそれはどういう意味かと話すことはなく、ちょうどいい時に(主のところに)来ることでしょう。

 そして次に、「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです(ヨハネ4:42)。」と言い、「私の主。私の神(ヨハネ20:28)。」と言うことでしょう。

あなたは平安を求めて主のところに来ないのですか
主の十字架を通してだけ平和があります
主はあなたのために大切な血を流されました
その贈り物は無代価で みことばは真理です
主が私たちの平和です 
おお 主はあなたのものですか
あなたは安息を求めて主のところに来ませんか
疲れている者は誰でも 来なさい
主が下さる安息は 深く真実です
今提供されています あなたに提供されています
主の愛に憩い 主の家で休みなさい

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-13-from-everywhere-for-everything/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97451です。

※Godhold Beck(52)
 今日の写真はわがふるさとの鎮守の森の一角である。田舎のここにも福音は伝わった。ハヴァガルの勧めは「至る所からすべてを求めて」という題名であった。ところで、私の実家に「彦根集会」と題する1992年1月12日のテープがあった。聞いてみるとそれこそ過去に(24)の「みこしかつぎ」でご紹介した代物であった。ところがそのテープには肝心のベックさんのメッセージは収録されていず、ベックさんのメッセージを聞きに神戸や埼玉から〈至る所から?〉はるばる出かけて行った三人の男性の話が収録されているばかりだった。そして三人目が私でその話も途中で切れていた。

 いったい、こんな時、ベックさんはどんな話をするのか聞いてみたいと思い、彦根の家庭集会を開いておられる方に問い合わせてみた。「ある。」と言う。しかもその方の手許には私の聞いたテープはなく、二本目のテープがあると言う。早速御持ちいただいて聞いてみた。

 長い長い三人の話、そして最後にやっとベック兄にお鉢がまわってきた感じである。しかも、その最後の私が「(ベック兄の話を)聞きに来たのに(ベック兄は)話せなんて(おっしゃる)冗談でしょう!冗談も休み休みに言っていただきたい!と思わず申し上げましたが、こうして聖書の学びに参加できて良かったです」と殊勝にも言っている。それを受けてであろうか、開口一番ベック兄は次のようにおっしゃっている。

「結局、これは聖書の原則じゃないですかね。証人は少なくとも二人はいなくちゃならない。と言うのは。ひとりでしゃべってはいかん。少なくとも証人は二人必要であると聖書ははっきり言っているんです。多くの教会の場合はやっぱり牧師は専門家ですから、彼は全部初めから終りまでやらなくちゃならない。罰です。これは特権じゃない。可愛そうよ。ほんとうはできません。けど、一人でがんばらなくっちゃいけない。だからみんな疲れてしまう。」

 そしてそのあと一人でなく信者一人一人が「一致する」ことの必要性を具体的にあげられる。主題は「主の愛は決してだめにならない」のようだ。そしてローマ8:32、イザヤ30:15、エレミヤ31:3、ヨハネ13:1、1ヨハネ4:10と順次にみことばが語られ、最後にヘブル13:5〜6「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」で閉じられている。締めの祈りはこれまた残りのもう一人の男性がしておられる。

 わざわざそのテープを届けに来てくださったその方のお礼にと、手許にあった小冊子、それは(45)(46)でご紹介した金田福一さんの書いたものだった。ところが、その方からメールが来た。それによると、実はその方は、以前、あの金田福一さんがおられた伊予三島に住んでおられたと言う。今日の今日までその方は金田福一さんがそこにおられイエス様を伝えられたことをご存知でなかったと言う。当時、全く福音に無関心で、後年ベック兄を通して福音に触れ、彦根の家庭集会を開かれるまでに至った。

 メールは次のように結ばれていた。「思い返しますと神様の不思議ばかりで、決して捨てない、決して離れないと言って下さるイエスの忍耐と憐れみに只感謝あるばかりに居ります。」)

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