2016年10月6日木曜日

Promised Therefore Sure(確かな約束)

がんで香川県三豊総合病院に入院中の金田福一牧師とベックさん※

神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。(ローマ8:30)
 
 もし私たちのうちの誰かが「あなたはどのようにして永遠のいのちを持っていることを知ったのですか」と尋ねられたら、私たちは「それは神様が約束なさったからです」と答えるでしょう。けれどもあなたは神様が約束なさったことをどのようにして知っているのですか。その時、もし私たちが紋切型でもなく、また私たちが言わねばならないと考えていることでもなく、正直に思っていることを答えるのなら、「私はイエス様を信じ、イエス様のところに来たからです」と答えるでしょう。

 そしてこのことは私たちの救いの望みが、私たちのなしたこと、つまり意識してイエス様を信じ、意識してイエス様のところに来たという事実に安んじることのように見えます。次にもちろん、恐ろしい疑いの嵐がその事実とそれから来るあらゆる慰安を覆い隠すのに十分な埃を舞い上がらせることでしょう。しかし、疑いの中にでなく、この小さな人間のつながりさえも、主ご自身の御手によってまず鍛造され、次に維持されると言う栄光ある鎖の中にこそ偉大なる平安があるのです。だから、疑いから離れなさい、疑いには全然価値のあるものは何もありません。

見よ 無数の天の星座を
何という別の栄光に出会うことか
輝ける星々 柔らかくやさしい 
満ち足りて 輝くばかりすばらしい星々
神ご自身の光のうちにすべてが完成す 

その聖なる足は 神に仕えるに忠実
神へのさまよえるたましいを勝ち取り
主の歩かれる道にもっとも近く
もっとも輝く

Brightest they whose holy feet,
Faithful to His service sweet,
Nearest to their Master trod,
Winning wandering souls to God.

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/october-6-promised-therefore-sure/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97444です。ハヴァガルの詩は言うまでもなく韻を踏んだきれいな詩である。それを何も知らない私がこのような日本語に置き換えるのは花園を土足で踏みにじるようなものである。今日の最後の四連句は美しいものだろうが、私には手に負える。したがって原文も併記した。読者、諒とせられたい。

※Godhold Beck(45)
 写真は『絶えず祈れ(上巻)』14頁から転載。

 私たちの手許に次の文章がある。

 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。」「キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されました。」私たちの愛する福一兄弟は今ことばに尽くすことのできない栄光に満ちた喜びで主イエス様を仰ぎ礼拝しておられる事実を覚えてうらやましく思っております。おめでとうと言いたいものです。愛する福一兄弟の人生、また死をとおして、今からも多くの実が結ばれることを確信し感謝しております。
                   吉祥寺キリスト集会 ベック

 これは、金田〈かなだ〉福一牧師が1992年2月25日召されたことをベックさんが私どもの家庭集会〈2月26日〉にお見えになられた直後、四国からの電話で知られ、すぐに電文を打って欲しいと玄関先のその場で家内に依頼されたものである。上記の文章のうち「不滅」をどうも家内は「分別」と聞き違ったらしい。もちろん冷静になれば、みことばなので「不滅」であることは明らかであったのだが、多分大急ぎで言われたドイツなまりの日本語「ふめつ」が「ふんべつ」と聞こえたのであろう。その文章がそのまま残っている。もっともベックさんはそのような細かいことは一切気になさらなかった。私たちがまちがっても神様はご存知だからと安心しておられたのでないか。

 それにしてもこの文章には、出先でその召天を知らされ、間髪を入れず、打電を依頼されたベック兄が、同労者をいかに愛され、また同労者に愛されたかの一面を知るのに十分な事実がある。) 

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