2015年3月21日土曜日

グッドタイミング


昨日の倉松川縁の桜

 今週はこのことを考えさせられることを二度経験させられた。一度目は月曜日のことで、三年近く私たちと交わりがあり、火曜日には帰国されることになった一人のハンガリー人の方との最後のお別れの場を持つことに関してであった。

 この方は事情があり、携帯もお持ちでなく、当方から連絡する方法がない方であった。ただいつもこの方がよく行かれる自宅以外の場所を私たちは三年の長い付き合いの中で熟知していた。本国のお母様とSkypeで話をするためによくここへ行かれていたからだ。帰国前日の慌ただしさの中で、あれこれ様々な用事があるのだろう。自宅は不在で所在がわからなかった。

 だから、自宅に行くより、この場所に行けば最後のお別れができると踏んでいた。その日昼間に一度その場所で彼に日本での滞在期間での思い出になるようにと何枚かの写真をアレンジして「There is one body, and one Spirit.(Ephe.4.4)」と書いたものをプレゼントできた。その後、家内と二人できちんとしたお別れがしたくって夕方その場所に直行した。ところが待てど暮らせどご本人は現われない。一時間が経ち、一時間半が過ぎても来られなかった。もう一人のその方の親しい方に連絡を取ってみたが、その方が自宅に赴いても家の中は真っ暗であるということであった。

 お腹は空く、待ち焦がれた思い、疲労の蓄積の中ですごすごと引き上げざるを得ないと判断し、その施設の三階から二階へと移動し始めた、その折り、玄関入口から足早に入ってくる一人の外国人を見つけた。彼であった。お互いにどちらともなく、こうして最後のお別れができる幸いを噛み締めることができた。記念の写真を撮り、お別れした。思い残すことはなかった。

 ちょうど、三年前彼と出会った時、彼は日本語ができず、英語で話するしかなかった。ところが彼はハンガリー語以外にはドイツ語を流暢に話すが、英語表現は今一つで癖があった。もどかしさを禁じ得なかった。その時、もし彼女が生きていたらと何度も思った。それは一人の教え子で学校を卒業してすぐハンガリーに渡り、ハンガリーで骨を埋めてもいいほどハンガリーが好きになった人がいたからだ。今から4、5年前であったか、久しぶりに日本に帰国した彼女と電車内で再会した。しかし、彼女はすでに病魔に冒されていた。有明のガンセンターに見舞いに行き、一緒に祈り、彼女にイエス様にある永遠のいのちを伝えた。その後しばらくして召された。

 この彼女がいたら、日本で失意のうちに生活している彼の悩みはハンガリー語で意思疎通ができ、問題は氷解したのにと思ったからである。しかし、それは主イエス様が取られた道ではなかった。理解者もないまま、問題の解決もなされないまま、三年の月日が経ち、この3月17日に日本を帰国することになったからである。それは私たちにとっての一つの貴重な訓練であった。

あなたがたといっしょの在留異国人は、あなたがたにとって、あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。あなたがたもかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。わたしはあなたがたの神、主である。(レビ19・34)

その中で実現した私たちの最後の交わりであった。彼から昨日短くメールで便りがあった。

Thank you for the support in this days. Now I will have to be short, as I will have to go to the market , with mother. .......

これで良いと思った。

 もう一つは今週の水曜日であった。お孫さんが二泊三日のスケジュールで訪ねて来られ、今春社会人としてスタートするそのお孫さんに何としてでもイエス様の救いを知って欲しいと祈って来られた老ご夫妻がおられる。私もそのことを知っており、そのお孫さんとお会いしたいと思っていた。たまたまお近くの銀行に用事があって出かけ、そのあと携帯でお孫さんのことをお聞きした。ところがこれから30分後にここを発つ、ということであった。歩いて10分とかからぬところである。急いで駆けつけ、出発間際のお三人に会い、二三言葉を交わし、写真を撮らせていただいた。

 月曜日のことと言い、この水曜日のことと言い、主がなさることは、私の思いを越えていると思わざるを得ない。なぜなら、私は出かける時、あらかじめ必要だと思うものを、鞄の中や洋服のポケットの中にしっかりと用意して出かける。ところが、いざその段になると目的のものが見つからず困り果ててしまい、そのまま空しく帰ってくることがよくある。身近な例で言えば、ティッシュ一つ探すのに右往左往する始末だ。そのようなぼんくら者の私だが、主が用意されると一挙に私の願い事が実現していることを覚えたからだ。

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。(伝道3・1〜2)

2015年3月20日金曜日

一冊の本(10)


一週間前の倉松川の桜

 儀八郎氏がフィリピンの山中で戦友に一冊の聖書を日本にいる愛妻に届けるように託されたが、それは結局届かなかった。私はその聖書をこれまで大部なものとイメージしていたが、昨日ご紹介した大村栄牧師が木村氏の召天を覚えて書かれた言葉により同氏が持っておられた聖書と同じものであったのでないかと思い始めた。実は、そこでは冒頭次のように紹介されていた。

 木村正太郎さんは1914(大正3)年10月30日に、現在の中央区八重洲で、青果仲買人をしていた木村八十九郎(やそくろう)さん夫妻の次男として生まれた。東京府立第一商業学校で学んだのち、1932(昭和7)年に日本勧業銀行に入行。同時に法政大学専門部法律科に入学して、学びながら働かれた。
 11年後の1943(昭和18)年8月に徴兵された際、木村さんは小さな文語訳の詩篇付き新約聖書を戦地に持参した。後に教会の機関誌「はこぶね」(94年8月発行)に「出征の前夜に信仰の友人達が送別の祈りのあと寄せ書きをしてくれた小型新約聖書」と書いておられる。その「寄せ書き」に名のある藤本正高という方は、無教会派の有力な指導者であった。藤本氏は「阿佐ヶ谷聖書研究会」と称する無教会の集会を主宰し、内村鑑三の弟子であった畔上(あぜがみ)賢造も聖書研究の指導に協力した。木村正太郎さんはこの集会に出入りして聖書の学びを深めた。

 たくさん残された儀八郎さんの手紙を読む限り、木村さんの名前は出て来なかったように記憶する。しかし、ロンドンや上海と海外勤務の多かった儀八郎さんにとっては直接接する機会がなかっただけに過ぎず、お名前は存じ上げている信仰の友ではなかったのではないかと拝察する。ところが、その儀八郎さんは1943(昭和18)年7月には上海支店の勤務を終えて、東京本店経理部に戻っている。三井の社報は報ずる。

 1943.6.30 小林儀八郎(経理部勤務)一昨日上海出発、赴任の途に就く
 1943.7.  6   小林儀八郎(本店経理部)昨日着任

 日本に帰るなり、木村正太郎さんの出征に立ち会うことになるのだ。木村さんの送別のための祈りに参加し、寄せ書きにも藤本正高氏とともに名を連ねた。それから一年後、儀八郎さん自身も出征ではなかったが、本店勤務から再び戦渦著しいフィリピンに送られることになる。 又しても送別の集いが持たれ、同じようにやはり文語訳の詩篇付きの一冊の新約聖書を携えたのでないだろうか。再び三井の社報を記してみよう。

 1944.2.  9   燃料部会計課長代理を命ず 石炭会計課長代理小林儀八郎
 1944.5.17   マニラ支店会計課長代理を命ず(5月16日)
 1944.8.22   小林儀八郎(マニラ支店会計課長代理)去13日赴任の途に就く

 もっともお嬢さんの証言によると、「父は英語と日本語の聖書をいつも肌身離さず、河を渡るときも頭の上に乗せて渡ったそうです」また「現地の人たちに聖書を読んで聞かせていたそうです」「病気で動けなくなり木の下で聖書を開いていた姿を見たのが最後」(『国籍を天に置いて』7〜8頁)とある。儀八郎さんはかなり英語が達者であったようだ。戦前すでに英語と日本語が一緒になった対訳聖書があったのだろうか。あれば一度見てみたいものだが、英語を敵性語としていたくらいだから多分なかったのだと思う。それにしても二種類の聖書を肌身離さずとは信じられないことだ。当時のことだから風呂敷に上手に包まれたのであろうか。最後の有様は、私にとってはリビングストンの最後と重なってしょうがない。

 かつてウオッチマン・ニーは許婚にあげた聖書が日中戦争の混乱の中で紛失させられた。それが数年後帰って来た。
http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2010/07/blog-post_30.html
http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2012/03/blog-post_27.html

 儀八郎さんの場合は聖書は戻らなかった。その代わりにお嬢さんに信仰が受け継がれ、今日一冊の証の本の自費出版となった。主のなさることは素晴らしい。

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。(詩篇119・105)

2015年3月19日木曜日

一冊の本(9)

杏花 造化の妙 語りおり

 いよいよ、集団的自衛権が法制化される段階に進んだ。公明党が難色を示し、そう簡単には合意が得られないと思っていたが、予想をはるかに越えて事態は急ピッチに進んでいる。

 物産の社員であった小林儀八郎さんはマニラ支店への駐在を決めるにあたり、戦争に巻き込まれることを十分想定して、その際は自らどうしたらよいか、仲間の岩井氏に尋ねられたようだ。その時、「丸腰がよい」と勧めたと言う。(『国籍を天に置いて』111頁参照)岩井氏はちょうどブレーキーのリビングストン伝を読んでいたのでと書いている。リビングストンのこの本は彼らの交わりの中心にあった藤本正高氏が翻訳した作品であり、このブログでも何度か紹介している。http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2014/03/blog-post.html

 儀八郎さんや岩井さんとともに同じ交わりの中にあった木村正太郎さんという方について記された短文を今回の本制作の過程で私は手にした。この話と関係があるので、一部転写させていただく。

 藤本正高氏や「信仰の友人達」の寄せ書きを得た聖書を携えて、木村さんは1943(昭和18)年8月に中国北部に派遣され、ソ連参戦に備えて実戦訓練に明け暮れしていた。少しでも自由時間があるとその聖書を背嚢の底から取りだし、「便所の中で『くさい所ですいません』とおことわりしてから1篇1章を読み進んでいきました。まこと隠れキリシタンの心境でした」と「はこぶね」に書いておられる。
 死がいつも念頭にあった。国のため、国民のためにやむを得ない戦闘に従事しているんだと一生懸命自分に言い聞かせても、戦闘で殺し合うことへの抵抗は否みがたく、「いざ一人対一人の肉弾合戦の場合は目前の敵兵を刺し殺すことはせず、自らの命を相手に投げ出そうと最後の覚悟を決めていました」とも書いている。
 その文章の冒頭に「軍国主義の泥流を防ぎ止め得なかった痛みと、その流れの中で矛盾に苦しんだり、小さな抵抗を試みたことを思い出します」とある。彼の言う「小さな抵抗」とは武器を持たないことではない。そのようなことが選択し得ない状況において、殺されても殺さないという徹底した「非暴力抵抗」主義だった。(略)
 翌1944(昭和19)年夏、部隊が南方ニューギニアへ出動する直前、上海付近で待機中に、木村さんはマラリヤに罹って入院を余儀なくされた。栄養失調もあった上に肺結核の前兆である肺浸潤も患ったために、戦闘要員の適性を失って1945(昭和20)年の春にやせ細った体で、「張り板のような白衣姿で」帰宅することが出来た。「多くの戦友がその後、南方で血のにじむ苦戦を続け戦死していくことになり、申し訳なく思った」とも書いている。
 聖書に寄せ書きをしてくれた「阿佐ヶ谷聖書研究会」の仲間の一人である小林儀八郎さんは三井物産の社員だったが、1944(昭和19)年10月にマニラ支店へ赴任を命じられ、現地で米を調達する任務にあたった。やがて米軍上陸によって敗走し、弾薬も医薬品も食糧も尽きて多くの将兵と共に戦死した。(阿佐ヶ谷教会文集 大村栄筆より一部引用)

 結局、木村氏も「丸腰」を地で行こうとした。もちろん儀八郎氏もそうであっただろう。それゆえの戦死、戦病死であった。このような生々しい戦争体験を経て、今日の平和日本がある。どうしてそのような経験を政権担当者は好い加減に扱うのだろうか。

 一方、木村氏は小林儀八郎さんより3つほど年下であったようだが、儀八郎さんと同じような経験をなさった上で、戦後生き延びられて、92歳で召天されるまでお元気で過ごされた。そして、岩井氏とともに儀八郎さん亡き後の遺族の面倒を最後まで物心両面にわたって何くれとなく見られたと聞いている。ここにも戦争が残した大きな爪痕とそれに屈し得ないキリスト者同士の交わりがあることを知る。スポルジョンは今日の「夕ごとに」でこのようなキリスト者の豊かな交わりの原点について次のように書いている。

彼女(ルツ)はそれを食べ、十分食べて、余りを残しておいた。(ルツ2・14)

愛の晩さんには余りものが多い。この栄光に輝けるボアズのもてなしをほめたたえよう。(『夕ごとに 』スポルジョン著 松代幸太郎訳)

2015年3月9日月曜日

一冊の本(8)

やはりKさんの庭先、ご夫妻の結婚以来この紅梅はあると言う

 奥名修一氏は妻富栄さんを遺して戦死した。小林儀八郎さんは妻正子さんを遺して戦病死した。そして二人はともに三井物産の社員であり、課も同じであり、大所帯の会社の中にあって恐らく相見知る間柄であったと推察される。奥名修一氏の人柄は作家松本侑子氏によって、その細君である富栄さんがのちに太宰治と玉川上水に入水自殺することから小説の中で創作と言う形ではあるが描かれている。それに対して、儀八郎氏は50通余りの手紙を残された。今回の『国籍を天に置いて(父の手紙)』は愚直にその手紙を掲載したものである。

 そしてその手紙の中にはどれ一つと言ってもいいくらいに主イエス様への信仰の告白がない手紙はない。二三そのような個所を引っぱり出してみようか。1941年の10月30日の手紙の一節だ。
 
閑さえあれば私の思いはいつもマーチャンに行っている。マーチャンもそうだと思う。お互いに無くてはならぬものであることをハッキリと認識することが、之から先の永い生活にどんなに役立つことかを思えば有難いことである。今の日の恋しさなつかしさが、お互いの我儘を押えて更に緊密なる結合への力となることを信じ希望をもって又逢う日を待ち望む。地上の生活に於いて来るべき日の真の結ばれを味わさるるは生活を通しての信仰の註解である。(同書49頁)

 かと思うと、11月12日には次のような記述が見られる。

親父はもう何も要らない。唯子供の為に備えねばならぬ。子を育てることは我等に与えられし尊き義務であり、愚かなる自分でさえかく思いめぐらすことなれば、全能者がその御手になる人の子の一人がいかに罪深ければとて、これを滅ぼすことを喜びたもう筈のないことを学ぶ。育児は最もよき聖書注解たる点になりて実に大いなる恵みである。

父となる日の近づきて初めて神の御手になる我が身の尊さを知った。許婚者と共ならん日を願う者の如く、妻を待ち焦がるる夫の如く、子を探ぬる親の如くエホバ神は罪人を待ち給う。我等祈りを欠いてよかろうか?聖書を学ぶにおいて彼と交わることを怠って善かろうか?彼に至らでは我が魂遂に安きを得ざるは当然と言うべし。我等の子供と言えども無意味に生まれるのではない。ルカ伝1章をお読み下さい。主より与えられし使命に直面せる人に、主よりの力と悦びあらんことを。(同書61頁)

 このような記事に接すると、儀八郎さんの生活のただなかに主イエス様の御臨在があることを覚えざるを得ない。そして1942年の3月10日の上海へ妻子が海を越えて近づくのを待ちながら次のように記している。

大海の上に在す主が波を治め給うて、連絡船も無事である様祈るのみです。仕事も、さしも心配した仮決算もすんだが、決算をのぞんで、混沌たる前途を思えば、如何にすべきと迷いはするが「光あれ」と宣うて、光あらしめ給いしものが、此処にも秩序と順序を建てて下さる様祈りつつ進もうと思います。・・・よき経験となるもならぬも一に彼に頼るか、己に頼るかによって定まる様に思います。(同書91頁)

 作家の造型による鮮やかな人物の再現を見ることはないが、ここには正真正銘の主イエス様に頼り生かされた人の姿が手紙を通して直接生き生きと私たちに語りかける。そして、それを受け継いだお嬢さんたちの証が続き、その中からある点では山崎富栄氏と同じ境遇にありながら、戦後生き延びて一旦は捨てられた信仰(夫君とともに歩んだ)を最晩年再び取り戻し、天国に凱旋された正子さんの証が記録されている。それで十分ではないかと思う。

彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。(ヘブル11・4後半)

2015年3月6日金曜日

一冊の本(7)

 
儀八郎氏の聖書の書き込み

 小説『恋の蛍(山崎富栄と太宰治)』(松本侑子著)には次の記述がある。

 65年前、昭和19年のマニラ支店に勤務していた男性が見つかり、話をうかがった。
 現在89歳になる彼は、修一と同じ会計課に所属していた。だが、名刺交換くらいはしたかもしれないが記憶にないという。修一の着任からほどなく、彼は支店を去っていた。
 「支店長とけんかしましてね、私も若かったですから。それでルソン島の南部、ピガールにある小さな事務所にとばされたんですわ、ウイスキー一本もたされて。でもそのおかげで、戦後、生きて日本へ帰ることができました。マニラに残ってたら、命はありませんでした」
 当時のマニラ支店の名前と所属課を、私は職員録から読みあげた。
 戦前の同僚たちの名を耳にすることで、かつて机をならべた仕事仲間の顔がよみがえり、そこから、職場の様子、町の風景を思い出してもらえるかもしれない。
 「ああ、その人は死にましたよ、この人は、生き残りました、あ、その人も亡くなりましたねぇ」
 男性は、マニラ時代の同僚たちの名を聞くと、急に若い日にもどったように生き生きと声をはずませ、いかにもなつかしそうに、そして無念そうに、死者たちの名をくり返した。それから遠い日の記憶をたどるように目をつむり、長い息をはいた。(同書117頁より引用)

 松本氏が取材された方は当時24歳である。一方小林儀八郎氏は34歳。入社以来10数年力をつけた中堅としてマニラ支店に赴任した。奥名修一氏よりは赴任が二ヵ月半ほど早く、そのポストは会計課長代理だったので、この方が小林儀八郎氏を知っておられた可能性はある。取材された当時、私も儀八郎氏の書簡に出会っており、すでにパソコン内に活字化を終えていたので、私もこの松本氏のご本を知っていたら、この方に様子をお聞きできたのにと思う。何よりも小林儀八郎さんの信仰の友・岩井穂積氏は存命であり、岩井氏にお会いするチャンスはあったが、そうもしなかった。

 そしてあれよあれよと言う間に、戦後70年を迎えることになった。この間、戦争の生き証人はますます少なくなり、限りなくゼロに近づいている。一方それに呼応するかのように、この6、7年の間に政治状況は急速に変わり、戦争体験に何の痛痒も感じない首相に私たちは全権をゆだねている。かつてワンマン首相と言われた吉田茂氏がいた当時、そのワンマンぶりは子どもであった私にまで何となく首相の態度が良くないとする社会の雰囲気が伝わって来たものだ。どんなにワンマンであっても政党の力があり、新聞を始めとする社会の木鐸が健在であったからである。

 ところが今はどうだろう。かつての首相たちが持っていた見識・自省の力とは程遠い首相が自己の思うままに政治を進めて行っても人々は何とも思わない。まして子どもたちがかつての私たちの子ども時代のように、政治に敏感にさせられているとは思えない(それどころか、子どもを巡る痛ましい事件が続出している)。それもこれも、もとはと言えば選挙で政権側に圧倒的勝利を与えた私たち一人一人の責任である。文頭に掲げた写真により、一市井の民であった儀八郎氏のほぼ80年前の聖書への書き込みに思いを馳せたい。この時、すでに日本は日中戦争を始めていた。

いかにして主に奉仕し、いかにしてか主を喜ばせ奉(たてまつ)らんと焦り悩み、己の足らざるを悶えおりし数年を経て、先ず主を愛し、彼に聴き、彼より奉仕を受けて行かねばならぬことを覚える。願わくば今より後、ただ静かに彼に聴き且つ祈るを得んことを。
                    1936年12月

そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(1テモテ2・1〜4)

2015年3月5日木曜日

一冊の本(6)

須臾の木 ほころびて空 仰ぐ夜 召されし遺児の 証聞きたり 

 三井物産の社報は社員の動静が逐一報告されていて、今回小林儀八郎さんの足跡について全く未知であった私たち三人(お嬢さんをふくめて)を驚嘆せしめるものであった。その社報によると、上海支店から本店に帰り、さらにマニラ支店に赴任される迄の有様が次の様に記されていた。

1943.7.6  小林儀八郎(本店経理部勤務)昨日着任
1944.2.9  燃料部会計課長代理を命ず 石炭会計課長代理小林儀八郎
1944.5.17  マニラ支店会計課長代理を命ず(5月16日)
1944.5.32  マニラ支店勤務を命ず 広東支店勤務奥名修一(5月30日)
1944.8.22  小林儀八郎(マニラ支店会計課長代理)去13日赴任の途に就く
1944.9.28  奥名修一(マニラ支店勤務)、一昨日帰京
1944.10.4  小林儀八郎(マニラ支店会計課長代理)赴任の途次去月30日高雄着
1944.11.10  小林儀八郎(マニラ支店会計課長代理)去月9日着任
1944.12.29  奥名修一(マニラ支店勤務)、昨26日着任

 もちろん、社報は三井物産全社員の動静が記録されており、当方が今回の『国籍を天に置いて』発行の視点に則って、関心のあるものを抜き書きして整理してみたのが上表である。

 この足跡を見て二つのことに気づかされる。一つは小林儀八郎氏の人事の不自然さである。上海支店から本店経理部に戻ってきた儀八郎氏に用意されていたポストは本店の石炭会計課長代理であり、のちに拡充改組されたのであろう、燃料部会計課長代理であった。その辞令が出てわずか三ヵ月かそこそこでマニラ支店での同じ会計課長代理の辞令が出たことである。これが『国籍を天に置いて』で岩井穂積氏が書いておられる更迭人事であろう(同書111頁参照)。

 あと一つは、言うまでもなく、松本侑子氏が描くマニラ支店の奥名修一氏には先任上司の一人として小林儀八郎氏がいたことである。奥名氏は宇都宮商業から物産に入った。儀八郎氏は新潟商業から物産に入った。すでに数年前に本店の石炭部で席を並べていた間柄でもあった。ともに商業出身として親しみを覚えた両者に先輩・後輩としての交流がなかったとは言えない(※)。しかし、奥名氏は儀八郎氏より一足早く昭和20年1月17日に現地召集の結果戦死している。

 儀八郎氏がマニラ支店でどのような働きをし、現地召集をいつ受けたのか調べようとしたが、残念ながら社報は昭和20年のまさしく戦地そのままの事情と、物産そのものも戦後の財閥解体の中でまさに巨像傾くかのごとき様相を呈すのみでそれ以上は調べられなかった。

※松本侑子氏によると「戦前の旧三井物産は、商業学校、実業学校出身者を多く採用したが、幹部候補生というより、どちらかというと事務方が多かった。だが昭和11年に取締役会長をつとめていた井上治兵衛は商業学校を出てトップに登りつめている。修一は、日本最大の商社に職務をえている現実に若者の野心をもった。不平不満をもらさず「満足」すること、周囲の人々に「感謝」すること、たゆまず自分をみがいて「向上」することを、みずからに課した。英語を学び、クラシック音楽とテニスをたしなみ、海外勤務を志望して、有能な企業人への出世、本物の紳士への成熟を長い目でめざしていた。」『恋の蛍』107頁より引用。私たちはこの松本侑子氏が造型した修一氏の生き方に儀八郎氏の50数通の手紙を重ね合わせて読むことができる。)

隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。(申命記29・29)

2015年3月4日水曜日

一冊の本(5)


 70年前に戦病死された小林儀八郎さんはわずか三十四歳で召された。結婚生活は5年ほどであった。しかし、お二人のお嬢さんに恵まれたことは何と幸いであったことか。もちろん戦争で愛する夫、愛する父の命を奪われた遺族にとって戦後の生活は塗炭の苦しみを伴ったことは想像に難くない。大なり小なり私たち日本人はそのような戦渦の労苦を共にして来たのでないか。

 ところで、不思議なことだが、同じ三井物産に勤務した奥名修一さんという方がいる。この方も30歳になる前に戦死された。新婚間もない愛妻富栄さんを残して。三井物産では小林儀八郎さんの後輩筋に当たる方だ。小説家松本侑子氏はその著書『恋の蛍(山崎富栄と太宰治)』の中で三井物産石炭部の仕事ぶりを、この奥名氏が義父から酒肴を受ける場面で、奥名氏の口を通して次の様に語らせている。

 家へあがると、父が修一に酒をついでいた。毎月二合の配給は大事にとってあった。それを今、海外赴任前の休暇をすごしている婿にふるまっているのだった。
「ぼくは昭和9年に三井に入って石炭部に配属されたんです。がっかりしましたよ、砂糖部が希望だったんです、甘いものがたらふく食べられると思って、ぼくの勘ちがいでしたけど」
 日ごろ口数の少ない信子が、高い声で笑っている。
「でも、石炭は主要燃料ですから、石炭部は花形なんです。もともと三井は、明治時代に官営の三池炭坑をゆずりうけ、上海、シンガポールなどに石炭を輸出して、資本力を高めた企業です。日本は小さな島国ですが、産業と文明の輝く一等国とするため、ぼくは世界交易の仕事に尽力する所存です」
 修一の言葉に、晴弘が感心して耳をかたむけている。
「昭和12年からは、ぼくは本店の電信係と兼務になって、夜間勤務もしました。アメリカ、ヨーロッパ、中東など、世界中の支店とは時差がありますから、夜中に電信がはいるんです。昭和14年からは、石炭部の会計課です。商業学校でおぼえた簿記をいかして、広東支店でも会計一筋、これから行くマニラでも会計課です」
「商業簿記ができるとは、たのもしいなぁ。修一君は外国なれして、英語も達者だろうね」
 父は、おちょこ一杯でもう赤くなり、目尻のさがった相好をくずした顔で、修一を見あげている。(『恋の蛍』86〜87頁より引用)

 三井物産石炭部の会計課は変動はあるが、総勢20数名の世帯である。儀八郎氏が入社したのは昭和5年であり、4年遅れの昭和9年に入った奥名氏にとっては良き先輩であったのではないか。しかし、その後昭和14年に儀八郎氏がロンドン支店、上海支店と転勤し、一方奥名氏は広東支店と相別れることになるが再び両者が同じ勤務場所で机を並べることになる。それが次の辞令である。

昭和19年5月16日 小林儀八郎、マニラ支店会計課課長代理を命ず
昭和19年5月30日 奥名修一、マニラ支店勤務を命ず

(写真は昨日知人からいただいた作品である。実物は30号の大きさのもので、2月に展覧会で発表されたと聞いた。言うまでもないが、画面中央杖を持って歩くのがアブラハム、らくだにまたがるは妻サラ、後方は甥のロトである。その中に書かれているみことばは今日の箇所の儀八郎氏の取られた態度に共通するのではないかと思い、同じみことばを書き記してみる。信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。ヘブル書11・8。)

2015年3月2日月曜日

一冊の本(4)

『国籍を天に置いて 父の手紙』から

 上の写真は、今回『国籍を天に置いて』の編集作業の折り拝見したものであるが、一時代の落ち着いた雰囲気のいい貴重な写真である。この写真は長谷川周治氏の家で撮影されたものである。その間の事情は以下の長谷川氏が小林儀八郎氏に宛てた手紙にくわしい。頁数の関係で本の中では一部しか引用しなかったが、ここでは参考迄に全文を書き写した(なお、同書20頁以下には当時儀八郎氏の婚約者であった田中正子さんのその折りの乙女らしき気持ちが描かれている。)

 御地は如何でしょうか。彼の地に着く頃は多分戦争が始まっているかも知れぬなど申された予想が事実となりて我が愛する小林さんを戦渦の巷ロンドンに送り込み今年のクリスマスを迎えることと成りました。
 心ならずも久しく久しくご無沙汰致ししもの我知らぬまに早や聖誕日迄僅か一週間を余すのみと成りました。平に平に御宥し給われよ。こちらは殊に実業方面はくだらないことのみに○も日も忙しく、霊的にも心的にも肉的にもそれは余す処ないのですから。幾度か廃業を決意しましてもいざとなればなかなかやめられぬのです。どちらを見ても塗炭の苦しみにあえぐ態を見ながら悠々閑々無職でも居られねば、何かを選ばねばならず、さりとて早や初志不自由のためまさか庭掃きや門番にも雇われず、此の処複雑多岐の状態。凡骨の焦慮お笑い下されたし。昨日某所にて珍しきもの見て参りました。それは内村先生の遺筆です。一尺と二三尺大のもの数枚、「一日一生」「忿怒の神」「花星詩」「不恥福音」外有ったので垂涎やみ難く暮の大切な金を奮発して、否々家財の一切を擲っても求めたく思う。「不恥福音」の額面のものと「花星詩」の二枚を無理に分けて貰い我家の家宝と致しました。外に内村先生愛用のステッキあり、之は太い象牙の振りに籐の杖それと五分ばかりの金象眼の飾輪のハマってるものにです。それも故あって当分我家に移ることと成りました。
 これらのことを記したれば、多分大兄はカトリック的信仰の故なると御嗤い給わん。されどさにあらずです。現代の窮迫せる日本がそうさせたのです。つまり他の未信者の手に移り先生の遺物が世の無情なる連中のさらしものにさるるを憂いて僭越ながら之を引き取った由縁です。このクリスマスには拙宅にて皆さんの集会をいたし写真を得度と存じ居る共常に一枚を額に掲げたく思って居ります。
 次に倅真太郎儀に付種々のご心配おかけ致し ご勤務の大兄に対し社規にもとる様なことおさせ致しては面目之無き御申し越し御尤もと存じます。
 その後何か藤本先生より申し上げるやに聞き及び居かれとも、決して御懸念下され間敷ぬよう。実は十月盲腸炎にかかり大分苦しんだ様子も今回やっと治療費送付の願い叶い、今日送金の手運びと成りました。安心致し次第です。先般はロンドンニュース御恵送下されお礼申し上げます。何かと思い とも極度にレベルの下がった現日本には珍しきものも見当たらず。昨日貰い受けた内村先生自筆の原稿一箋、クリスマスお祝いのしるしにあげます。もっといい原稿ですといいのですが、之しか貰わなかったのでご免下さい。目下の日本は戦争よりも国内の物資問題につき大騒ぎです。一時は毎日の米炭さえ得られぬ状態。統制しまして上を下への混雑です。昨秋川喜田さんが遊びに来て、ビールの空瓶が一個二銭の公定価格だけれど、壊して硝子の潰しに売れば四銭になる。おすしのかんぴょうは一貫目新物七円の公定相場だけれど古物のは公定価格がないからみんな水をぶっかけてかびを生やして古物の様にしてくれと一貫目九円に売るとか申している笑い事のようなことが本物であり、無理が通って道理が引っ込み、闇が横行して光が隠れ、太陽は西より上り、川山に流るるかの如き有様、実に余命幾日もなき如き日本の現状を想えば戦慄を覚えます。
 寒気殊の外き酷しき東京は流感はやり(石炭ストーブ等節約のため)居ると言えども私宅一日さしたることも無くご休心下されたく。
 藤本先生もお元気です。田中さんも近く休暇○○とか申しております。岩井さんにはここしばらく、面会致さず然しクリスマスには来て下さる筈になって居ります。遥かに上よりの御祝福を祈り上げます。
                            早々  敬具
十二月十八日
                            長谷川周治
小林大兄

手紙の書かれた年代は1939年(昭和14年 )である。

遠い国からの良い消息は、疲れた人への冷たい水のようだ。(箴言25・25)