2015年3月4日水曜日

一冊の本(5)


 70年前に戦病死された小林儀八郎さんはわずか三十四歳で召された。結婚生活は5年ほどであった。しかし、お二人のお嬢さんに恵まれたことは何と幸いであったことか。もちろん戦争で愛する夫、愛する父の命を奪われた遺族にとって戦後の生活は塗炭の苦しみを伴ったことは想像に難くない。大なり小なり私たち日本人はそのような戦渦の労苦を共にして来たのでないか。

 ところで、不思議なことだが、同じ三井物産に勤務した奥名修一さんという方がいる。この方も30歳になる前に戦死された。新婚間もない愛妻富栄さんを残して。三井物産では小林儀八郎さんの後輩筋に当たる方だ。小説家松本侑子氏はその著書『恋の蛍(山崎富栄と太宰治)』の中で三井物産石炭部の仕事ぶりを、この奥名氏が義父から酒肴を受ける場面で、奥名氏の口を通して次の様に語らせている。

 家へあがると、父が修一に酒をついでいた。毎月二合の配給は大事にとってあった。それを今、海外赴任前の休暇をすごしている婿にふるまっているのだった。
「ぼくは昭和9年に三井に入って石炭部に配属されたんです。がっかりしましたよ、砂糖部が希望だったんです、甘いものがたらふく食べられると思って、ぼくの勘ちがいでしたけど」
 日ごろ口数の少ない信子が、高い声で笑っている。
「でも、石炭は主要燃料ですから、石炭部は花形なんです。もともと三井は、明治時代に官営の三池炭坑をゆずりうけ、上海、シンガポールなどに石炭を輸出して、資本力を高めた企業です。日本は小さな島国ですが、産業と文明の輝く一等国とするため、ぼくは世界交易の仕事に尽力する所存です」
 修一の言葉に、晴弘が感心して耳をかたむけている。
「昭和12年からは、ぼくは本店の電信係と兼務になって、夜間勤務もしました。アメリカ、ヨーロッパ、中東など、世界中の支店とは時差がありますから、夜中に電信がはいるんです。昭和14年からは、石炭部の会計課です。商業学校でおぼえた簿記をいかして、広東支店でも会計一筋、これから行くマニラでも会計課です」
「商業簿記ができるとは、たのもしいなぁ。修一君は外国なれして、英語も達者だろうね」
 父は、おちょこ一杯でもう赤くなり、目尻のさがった相好をくずした顔で、修一を見あげている。(『恋の蛍』86〜87頁より引用)

 三井物産石炭部の会計課は変動はあるが、総勢20数名の世帯である。儀八郎氏が入社したのは昭和5年であり、4年遅れの昭和9年に入った奥名氏にとっては良き先輩であったのではないか。しかし、その後昭和14年に儀八郎氏がロンドン支店、上海支店と転勤し、一方奥名氏は広東支店と相別れることになるが再び両者が同じ勤務場所で机を並べることになる。それが次の辞令である。

昭和19年5月16日 小林儀八郎、マニラ支店会計課課長代理を命ず
昭和19年5月30日 奥名修一、マニラ支店勤務を命ず

(写真は昨日知人からいただいた作品である。実物は30号の大きさのもので、2月に展覧会で発表されたと聞いた。言うまでもないが、画面中央杖を持って歩くのがアブラハム、らくだにまたがるは妻サラ、後方は甥のロトである。その中に書かれているみことばは今日の箇所の儀八郎氏の取られた態度に共通するのではないかと思い、同じみことばを書き記してみる。信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。ヘブル書11・8。)

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