2011年11月29日火曜日

ひとのいのちは・・・

悪者は自分の悪によって打ち倒され、正しい者は、自分の死の中にものがれ場がある。(箴言14:32)

「なぜ正しい人は恐れなく死ねるのか、その理由をご存じですか」——青年たちに、そう尋ねたことがあります。
 そして素晴らしい答えを聞くことができました。ひとりがこう言ったのです。「それは、その人が日々の死に慣れているからです。」
 主イエスに属する人は、地上にある間、死の修練を積みます。
 神が彼らの最愛のものを取り上げてしまわれる——すると、彼らは「どうぞ」と申し上げるのです。神が彼らの願いや計画を、インクで抹消なさる——すると彼らは、つぶやかずに、自分の心を死なせます。
 確かに、聖書はイエスの弟子たる者に関して、不気味なほどに大いなることばを語ります。すなわち、「(彼らは)自分の肉を、さまざまな情欲や欲望とともに、十字架につけてしまった」と言うのです(ガラテヤ5:24)。
 我々には、十字架に死なれたひとりの主がおいでです。主に従う者は、「私」を死に渡すことを、日々学びます。彼は死の修練を積みます。
 それゆえ、真のクリスチャンにとって、息を引き取ることは、さほどのことではないのです。
  さて、しかし、きょうのみことばには、それ以上のことが語られています。ラテン語訳聖書ウルガタには、実に的を得た訳し方がされています。「正しい人は死 ぬときにも望みがある。」そうです。主イエスにつく者とは、死よりよみがえった方を主とする人です。それゆえ、彼には生ける望みがあります。そして死に臨 んでも、このことを知っています。——「わがふるさとはかしこにあって/そこには御使いの軍団がおり/大いなる主を賛美する・・・」
 もうひとつ、付け加えることがあります。泰然と死を迎え得る人は、また、泰然と生きる人でもある、ということです。

 主よ! あなたの死といのちにあずかり得ることを感謝します。
                          アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著 岸本綋訳 11月29日より引用)

2011年11月28日月曜日

大統領の祈り

南アルプス by nobuhiko.Y
 前に紹介したことがありますけれども、ちょっと昨日また手に入れたんです。アフリカのザンビアという国の大統領の証しです。その時このザンビアで働いている友達、宣教師としてそこで働いている弁護士からの手紙をもらいました。その手紙を読んだ時、ちょっとびっくりしました。
 本当かな、単なる夢なのではないか、そういう気持ちになったんですけれども、本当でした。すなわち1994年の4月27日で、ザンビアとセネガルの間に、セネガルに向かうサッカー・ナショナルチームの乗った飛行機が墜落して、代表選手18名が亡くなったのです。
 次の日、国としての葬儀が行なわれたのです。葬儀の時、ザンビアの大統領が話されたんです。けれども、彼はその話の前に、全国の住民に言ったのです。 すなわち

話をする前に祈らせていただきます。なぜなら私は、この国そのものを主なる神に捧げたいからです。愛する住民がた、お願いいたします。ご一緒に祈ってもらいたい。

「ああ、主よ。あなた様はアブラハムの神であり、ヤコブの神であり、イサクの神であられます。そしてまた、あなた様を恐れる者の主です。私は今朝、御前にひれ伏しています。この国は、あなた様のものです。あなた様ご自身が私たちを導くことができ、あなた様の御心だけが行なわれますように。

自分勝手に王となろうと思ってもうまくいきません。大統領として生まれた者もいません。あなたは与え、またあなたが取られるお方です。聖なる御名だけが崇(あが)められますように。私は、この世で単なる寄留者であり、旅人です。私たちはあなたを信じ、あなたに信頼しています。

裸で私たちは生まれたのであり、また裸で私たちは死ぬのです。あなたの御名だけが褒(ほ)め称(たた)えられますように。私たちの愛するあの若い人たちは、自分の召される時が、そんなに早く来るものであることを知りませんでした。彼らは、私たちよりも罪深い者ではありませんでした。

主よ。あなたの尊い御名を褒め称えます。私たちも、いつ召されるのか解かりません。 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」※1「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。『わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。』」※2

主よ、私たちは感謝いたします。

主よ、私たちはあなたを褒め称えます。主よ、この国の住民たちを顧みてください。今、私たちは何を考えるべきか全くわかりません。どういうことが起こったのかわかりません。しかし、あなた様は、私たちの近くにおられます。御使いたちは、私たちを守るために遣わされた者です。

主よ、私たちは愛する人々を亡くしたのです。しかし、あなた様は必要な助けを必ず与えるお方です。主よ、あなた様だけが与えられる平安をいただきたいものです。この世の与える平安を私たちは欲しくない。あなた様ご自身の平安を私たちは必要とするのです。あなた様の平安は、人のすべての考えにまさる真の平安です。

私たちは、この国でまさにこの平安を味わい、慕いたいものです。主よ、私たちはあなたを賛美し、褒め称えます。主よ、私たちは自分の持っているものをすべて、あなた様に明け渡します。私も他の人々よりも立派ではありません。あなた様に遣わされた者にすぎません。あなたの御名を褒め称えるために、私は大統領になったのです。」

 それから大統領は祈り続けようとしたのですが、大きな声で泣きはじめました。それから続いて祈るのですが、

「主よ、私は今ここで国の住民の前、またあなたの前に約束いたします。私は続いてあなたの御名を誉め称えます。あなたを宣べ伝えます。

何があっても私は、真理を語ります。私はあなた様を主として誉め称えます。私たちの経験した理解しがたい導きは、今日から始まるものではありません。あなた様に愛されたヨブも、一日で10人の子供を亡くし、財産、富もいっぺんに失くしたのです。

今の真っ暗やみの中でも、私たちは主よ、あなたに信頼します。この国の住民たちと共に、私は今告白します。主イエス様、あなた様こそが私たちの神であ り、主であり、この国を支配したもうお方です。私は勝利を得るようになります。イエス様によって、私たちは勝利者となります。主の御名によってお祈りいたします。アーメン」

 このように祈ったのです。このような大統領を持つ国は、おそらくないのではないでしょうか。

(吉祥寺の11/15の火曜日の学びで、ベックさんがザンビア大統領の祈りを読み上げ、紹介されました。以前にも聞いたことがあるのですが、感銘を受けましたので載せます。※1新約聖書 ヨハネ3:16、※2旧約聖書 詩篇91:1〜2

2011年11月27日日曜日

どのように聖書を読むべきか

生家の井戸のつるべ、昔は一日に何回も回転し、その都度豊かな水を汲み上げた!
 さらに私は、あたかもイスラエルの子らが日ごとにマナを集めたように、日々聖書を読みます。あなたが知っておられるように、イスラエルの子らは毎日その日の分だけのマナを集めたのみで、一日に二日分のマナを集めることはできませんでした。彼らは毎朝毎朝出て行って、マナを集めねばならなかったのです。これがあなたの霊的生活を養う唯一の方法です。あなたは日々御言葉を学ばなければならないのです。神は「昼も夜も」(ヨシュア1:8)と言われまし た。

 あるいはあなたは、理解することができないという理由で、神の御言葉を読まないかもしれません。あなたは意味のわからない章句に出会うのです。親愛なる友よ、あなたは魚を食べる時のように聖書を読まなければなりません。 さて、私はどのようにして魚を食べるでしょうか。私が魚を食べていて骨に出会った時、骨があったというだけの理由で魚を全部捨ててしまうでしょうか。もちろん、そんなことはありません。私は骨を取り出して皿の横へ置き、さらに魚を食べ続けるのです。すると私は別の骨に出会います。私はその骨も取り出して皿の横へ置き、魚を食べ続けます。私は骨があったからといって、魚を捨ててしまうことはしません。あなたは理解することのできない個所に出会ったからといって、神の御言葉を捨ててしまおうとするのですか。もちろん、そんなことはありません。わからない所を放っておいて、御言葉を読み続けてください。しばらくわからない個所を残しておいて、研究を続けてください。魚を食べ続けてください。御言葉を読み続けてください。

 私は手紙を読むように神の御言葉を読みます。私は手紙をもらった時、最初のページを少し読み、手紙を分類棚に投げ込み、一週間後、再びそれを取り出してこんどは三ページから読んで分類棚に返し、さらに数日後署名を見てだれからその手紙が来たかをたしかめる、というような読み方をすることはありません。決してそんな読み方をすることはありません。私は手紙を読む時、はじめから読みはじめ、終わりまで一気に読んでしまいます。このようにして、私はその手紙の内容を知るのです。神の御言葉を読むにも、これ以外の方法はありません。私は「日々の光」やその他の種々な書物が出版されているのは結構なことだと思います。 私自身それらの書物を用いています。しかし、私は、人間の作った「日々の光」その他の書物をもって、聖書にかえようとは夢にも思わないのです。もしあなたがそうするならば、あなたは決して聖書の内容を知ることはないでしょう。あなたは、聖書そのものを読まなければならないのです。

 私は創世記の最初の言葉からはじめて、毎日二章か三章を読み、黙示録の最後の言葉まで読んでしまいます。そして次の日には、私は創世記の最初の言葉に返り、再び黙示録の最後の言葉まで読むのです。私は何度読んだかおぼえていません。私は読んだ回数を数えることを決してしないのです。しかし、私は、聖書全体をはじめから終りまで、何度も何度も、くり返しくり返し読んだことを知っているのです。このようにして、私は聖書の内容についていくらか知っています。もしあなたがほんとうに聖書を知りたいと思うならば、あなたは私がとったような方法で聖書を読まなければなりません。あなたは、聖書をはじめから終りまで読み通さなければならないのです。そうすれば、あなたは聖書に精通するようになるでしょう。あなたが手紙を読む時のように、聖書を読んでください。

(『真理のための戦い』オズワルド・スミス著松代幸太郎訳70〜72頁より。「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」旧約聖書 エレミヤ15:16

2011年11月26日土曜日

あなたは聖書が無味乾燥だと言う

柿がいくらおいしいと言っても、御言葉の「おいしさ」にはかなわない!高宮の柿。
あなたは私に、聖書は無味乾燥で興味がないと言い、それだから聖書を読まないと言います。私はあなたに申し上げたい。あなたが聖書は無味乾燥で興味がないという理由は、あなたがその著者を知らないからです。すでに述べたように、あなたは聖書の著者にお会いになりました。しかし、まだ親しくなっていません。一度あなたが真に聖書の著者を知ったならば、あなたはその著者から来るものは、すべて喜ぶようになります。

かつて、ある若い女性が詩の本を読もうとつとめていました。しかし、彼女はその本が全く無味乾燥で興味がないと思ったので、その本を投げ捨ててしまいました。後に彼女はその本を書いた青年に会い、彼を愛するようになりました。そこで彼女はもう一度その本を取りあげて読みました。ところが驚いたことには、彼女はその詩の本が、これまで読んだ本のうちで一番興味深いものであることを発見したのです。この相違をもたらしたものはなんでしょうか。詩は前と同じように無味乾燥なものでした。変化したのは彼女の側であり、詩ではないのです。彼女はその詩の著者に会い、その詩を読みながら彼のことを考えたので す。

あなたにとっても同様です。もしあなたが、著者である主イエス・キリストを知ったならば、あなたは主の御言葉を大いに楽しむようになるでしょ う。聖書は、あなたにとって、他の本よりはるかにまさってすばらしいものとなるでしょう。あなたが聖書を読めば読むほど、さらに読みたいという願望が起こってくることでしょう。私が一回以上読む本は極めて僅かです。二度読む本は少しあります。三度読んだ本はほんの一冊か二冊です。俗世間の本は、人間の著者によって書かれたものであり、容易に理解することができるから、すぐ興味がなくなってしまいます。

神の御言葉はこれとは全く異なっています。それは超自然的なものです。それは神から来たものです。私は決してその底をきわめることができませ ん。そこには常に何か新しいもの、私がこれまで知らなかったものがあります。それを読めば読むほど、私はそれを楽しみます。私が旧約聖書を読む時、私は近いうちに会おうとしている人々について読むのです。だから、私はそれらの人々についてできるだけ知りたいと思います。それゆえ、私は、新約聖書と同様に、 旧約聖書にも心をひかれるのです。

(『真理のための戦い』オズワルド・スミス著松代幸太郎訳68〜70頁より。「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」旧約聖書 詩篇119:103

2011年11月12日土曜日

近江兄弟社という設計図(下)

信仰もなく、この種の経験を何度も味わったことのない人には、こんな話(※)を聞いても、ただ偶然として抹殺してしまうかもしれない。しかし、 そうした事件の連鎖の中に、神の聖霊による不思議な働きがあると考える方が、単に偶然として片づけるよりも、合理的であり、自然であるかわからないと思っ た。

この種の「事件の連鎖」で、確信を与えられたものは、日本到着に先だつ、三年近くの間のできごとである。このことについては、すでに何回も述べた。あの期間に起こった事情を思い起こしてみると、幾千マイルをへだてた太平洋の両側で、偶発的なできごとが、驚くほど正確に、しかも、あとあと累積的効果を発揮しようとは夢にも考えなかった。この間の事情を、もう一度簡単にまとめると、私の大学生活の二年目のとき、卒業までのあと二年間の全学費を、自分で稼ぎながら勉強しなければならない事態になった。これは外国で自主独立の冒険を試みるためには、貴重な経験となった。それから無神論者の級友を、信仰に導くためのテストを受けたが、これも伝道者としての適切な訓練になった。次に明治35年のトロントの会議に出席したことで、自分の生涯の職業として考えていた、自己中心的な計画がくつがえされ、聖霊に導かれる生涯へと転向した。そして外国のどこかで大きな冒険な事業をやるのには、必要な仕事上の一つの完全な連鎖が、次々と心に描かれるようになった。

しかし、アメリカにおけるこの「事件の連鎖」と年代的に並行する、もう一つの「連鎖」、が日本にも行なわれていた。私が、聖霊の導きにまかせきって、外国伝道事業のために生涯をささげる方向を決定したとき、近江八幡においても、一人の若い学生がキリスト教に入信した。彼は英語にすぐれていたので、商業学校の校長の注意をひいた。しかし、校長がその青年に、卒業後学校に残って英語教師になるようにと勧めさせたものは、校長に対して外部から働いた見えざる大きな神の力であったと、堅く信じている。こうして、この事業を成功に導くための必要条件である、英語を話す日本人の協力者が、適当なときに、すでに用意されていたのである。お互いには面識もなく、名も知らなかったが、両方で、そのような協力者の与えられることを祈り合っていたのである。二人はそれまで互いに何の交渉もなかったが、キリストの福音が、若い学生たちの間に宣べ伝えられることについて、共に深い関心を寄せつつ祈っていた。私が近江八幡に着いた第三日に、二人は早くもこのことを発見し、私たちが祈り始める前から、神はすでに二人の祈りにこたえていて下さったことを思うと、驚きと感動とに堪えない。

このような不思議な事実に直面するとき、これをただ偶然として片づけてしまうことはできない。それからの半世紀に相次いで起こった不思議な事件の連鎖が、現在の近江兄弟社にまで進展してきたことを思うとき、人間の計画ではとうてい及びもつかぬことが、見えざる神の手によって計画されていることを認めずにはいられない。もっともさまざまの手段、方法として、人間の手や足やくちびるが必要ではあるが、仕上げの業(わざ)を成就なさるのは、聖霊の能力であり、永遠に働く神の愛である。(略)もし自分の計画を押しつけたり、自分勝手な考えで神の先回りをしたりするときは、きっと不成功に終わるという事実を私たちはよく知っている。

要は、自分の計画によりたのまず、聖霊の導きにまかせきることである。イザヤ書40章の31節には「主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」という聖句がある。これは青年、中年、老年の区別なく、あらゆる年齢層に適用される真理である。

(『失敗者の自叙伝』一柳米来留 William Merrell Vories Hitotsuyanagi著217〜219頁より。福音について使徒17:2〜3は次のように記す。「聖書に基づいて彼らと論じた。 そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、『私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです。』と言った。」 ※筆者が昭和30年の7月汽車旅をする中で混み合う客車で4人の大学生と一緒になり〈うち一人の大学生が20歳を越えており煙草を吸っており、法律上そのことは問題ないことではあるが〉、 タバコの害を指摘し健康と精神と霊魂の関係について話す機会が与えられた。軽井沢で下車する筆者は、話の途中彼らと別れざるを得なかったが、入れ替わり乗り込んできた一人の青年がいた。ところがその青年は七年前父に連れられて近江兄弟社を訪ねた人であり、筆者の日頃の考えを知っていた人であった。筆者はその青年に大学生たちに話足りなかったことをバトンタッチする形で下車できたことを指す。)

2011年11月11日金曜日

近江兄弟社という設計図(中)

Winter Blumen in Deutsch by Keiko.A
(全体の総合計画で大切な要素は、ある種の「失敗」である。そのときは大失敗だと思って意気消沈していたことが、後に、ときには何年もして、それが基本となる、重要な神のよきご計画だとわかって感謝することが、たびたびあった。)

その第一に、かぞえられるものは、明治39年の春から夏にかけての病気であった。私は医師の忠告に従って、保養のため帰米することになった。その間の学校の授業は、京都にいた宣教師の好意で臨時代理をしてもらった。五月から八月にかけての四ヶ月間の帰米は、病気療養の目的を果たした私のためにも、また種々な 面で非常に有益であった。また校内の伝道の責任を感じていた生徒たちにも、よい成長の機会になった。それは、ここまで発展してきた計画の前途に明るい見通しを与える上にも役立ったのである。

ただし次の事件は、もっとも深刻なショックでだった。それは明治40年の春、私が学校教師を解職された事件である。これは二カ年半にわたってやってきた、すべての基礎工事を破壊してしまう心配があった。この事件の影響は、第一に、私が生活の収入を失ったことである。当時私は八幡の学生YMCA会館の建築のために、すっかり財布をはたいてしまったときだった。第二の影響は、私が個人的信用を失ったことである。たとい、解職の理由が、学校当局からどのように説明されようとも、世間では、何か私のがわに不始末があったという疑いを持つ心配があった。第三には、キリスト教運動に、大とんざをきたすことである。会館ができてこれからというときに、これは痛い打撃であった。しかし、後から起こったできごとによって、明らかになってきたように、一見して行き悩みと思われたこれらのことは、かえって推進力となった訳である。もしそんなことがなかったら、私は基礎工事ばかりに熱中して、自己陶酔に陥り、明治35年に私が受けた幻の設計図の中の一部分だげが落着して、全体の総合計画の完成は、見ずに終わってしまうおそれがあった。神はこうした状態から救い出そうとして、充実したプログラムに向かうように、慈愛深く私を投げ出されたのである。

感謝すべきことに、一見失敗と見えるこの事件は、私の若い協力者の上に、健全な効果を及ばした。これらの青年たちは、父祖伝来の家業を継いで商工業で立つために、この特別の学校に送られてきたのである。彼らのいだいてきた理想の精神は、急にくずされて、従来の金もうけ主義の夢から、国家社会のため精神的な奉仕をしようという、新しい理想に彼らを転向させたのである。

そうなると、彼らの親や教師の中には、生徒に向かって、キリスト教はあまりにも理想だけに走り、現実離れのした白昼の夢だという者がたくさん出てきた。しかし、こうしたことに対しても、青年たちは意外な反響を示した。事実彼らはみな私の解職に同情し、キリスト教運動の中止を望む者は一人もなかった。たとい生活の資金はなくても、私と事をともにしたいという生徒も、少なからずあった。しかも、それは、これから有利な職に就こうとする卒業学年の中にあった。その中の一人である吉田悦蔵君は、私と共同生活をしながら仕事を一緒にしようと言ってくれたばかりでなく、一人暮らしの母親を説得して、引き続きもう一年だけ毎月の送金を続けてもらい、私がなんとか生活の道を講ずることができるまで、その金で共に生活しようと申し出てくれた。

私たちの仕事の初期に、これ以上に有用なことはなかったし、いまから考えても、こんなことが起こったことは、実に不思議である。(中略)私たちには、最初失望と見える経験でも、ついには私たちを成長させ、訓練するための建設的な力となっているという事実である。だから私たちの本来のスローガンである「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられる」という聖句に、マタイによる福音書6章の残りの聖句「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことはあす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」を付け加え、文字どおり、いっさい、あすのことは思いわずらわぬようにすべきだと思う。

「きょう」という日が、私たちには、神と隣人に対して唯一の責任ある日なのである。ただ24時間を聖霊のお導きに委ねさえすればよい。そうすれば、神は私たちを用いて神の国 の建設のため、働かせて下さるのである。日常起こる小さな事がら、たとえば汽車に乗り遅れたとか、暑い日であったとか、ひどい風が吹いたとか、突発的な事故のために予定を変更したとか、出発が遅れたとかいうことが、予期しなかったことになり、それが人間の考えにまさる結果を生じる事実は、いくらでも持っている。

(『失敗者の自叙伝』一柳米来留 William Merrell Vories Hitotsuyanagi著212〜215頁より。ヴォーリスさんがいかに神の道具として、また聖霊なる神様に従って来られたかがよくわかる文章であ る。しかし敢えて言わせていただければ、「神の国」建設、「キリスト教運動」と言われることのなかに、すでに主なる神様から離れて自立的に歩む人の姿が見られるのでないかということである。ヴォーリスさんに主なる神様が与えられた幻は、近江の人々が一人でも多く主イエス様を受け入れること、そのためには主イエス様がどんなお方であるかを体験しながら、兄弟社のコミュニティーが成長することにあったのでないか、と私は考えるからである。「そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。』イエスは言われた。『いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』」使徒1:6〜8 主が私たちに下さる幻はあくまでも私たち一人一人が主の証人になることである。)

2011年11月10日木曜日

近江兄弟社という設計図(上)

私の近江における第二年めは、事実は、明治39年の2月1日からであるが、第一年目は明治38年の早々から始まったのであるから、私の在日年次を数えるときは、八幡到着の日から数えるよりは、暦年による方が、はっきりする。

明治38年のクリスマスの行事は、確かにその年の経験中の最高峰であった。もっとも年末から翌年の正月にかけての、いろいろの経験は、何一つ興味のないものはなかったが、それらは多少とも、明治38年の一年間に発展してきた、私の生活様式の延長みたいなものだった。だから最初の二年間は、基礎工事時代とも考えられる。

建築家になりたいとは、私の少年時代からの願いであった。だから私は高等学校時代の思索も研究も、みなこの目的のためにと時間を使ってきた。またデンバー市内の建築中のあらゆる工事を見て歩いた。建物が、だんだんでき上がって行くのを見るのは、私の目には押さえ切れない誘惑であった。それは半世紀以上もたった今日でもなお変わらない。だから近江兄弟社の創立と成長を、一つの建築計画だと考えても、あながち不自然ではない。

近江兄弟社という設計図と仕様書は、宇宙の創造主、本来の大建築家たる神ご自身によって、早くも明治35年から明治37年の間に作られていた。その期間には、神は私を製図者としてお用いになって、その設計図を書かせ、これを私の良心の奥深く青写真にとっておかれたのである。それから明治38年のはじめになって、神は私をこの遠くの地への現場監督としてお送りになり、敷地と基礎工事との準備に当たらせて下さったのである。

これは神の総合計画書の中の、大切な部分であったばかりでなく、私自身のためにも、必要な訓練だった。建築というものは、すぐれた計画者のまぼろしや熱心や経験と同時に、責任を分担する協力者の腕と頭と心が必要である。基本原理を知ることが絶対に必要である。たとい建築主任であっても、新しい建築を引き受ける場合には、建物と敷地との釣り合いとか、その家に住もうとする人の生活様式や職業などを理解するために、十分時間をかけて研究しなければならない。そうでなければ、たとい建築家の評判を高めるような、壮大な建物を作ることができても、かんじんの中に住む人は、建築家の幻想の所産にすぎない芸術作品のおかげで、自分らの生活や職業を、その建築物に合わせて調節せねばならないという不便な結果になってしまう。

明治38、9年に、終生役に立った貴重な教訓を与えられた。その期間に、私は将来の協力者たちを探し求めて、ある程度まで訓練しておくことができた。これらの協力者がなかったら、私は、ほとんど何もすることができなかったであろうし、多く取りかえしのつかぬ大失敗をしたことと思う。

私が教師として教えていた期間は、私が教えられた期間であった。あとで明らかになってきたことは、大建築家たる創造主は、実施設計図や詳細図を作っておかれただけではなく、同時に、もっと大切な働き人を備え、その協力が必要な場合がくると、一人ずつときに応じてこれを派遣して下さったのである。こうして歳月を経るに従って、兄弟社の事業の拡張と、同時に、特別の才能を持ち、無私の情熱をもった多くの男女が、次々と加えられてきた。

全体の総合計画で大切な要素は、ある種の「失敗」である。そのときは大失敗だと思って意気消沈していたことが、後に、ときには何年もして、それが基本となる、重要な神のよきご計画だとわかって感謝することが、たびたびあった。

(『失敗者の自叙伝』一柳米来留  William Merrell Vories Hitotsuyanagi著210〜212頁より。私の高校の同窓生の中には何人かの近江兄弟社学園の出身者がいる。また現にその責任を負っている方を数えることもできる。彼らは私と違って直接晩年のヴォーリスさんの聲咳に接しており、今も限りない尊敬を持っている。しかし、押し並べて主イエス・キリスト様に対する信仰は表面を見る限り持っておられないように見える。ほぼ100年以上前の創立者を支えたものが創造主による「近江兄弟社という設計図」であったとすれば、 このことは何と説明すれば良いのか。私が前回ヴォーリスさんの愛弟子吉田悦蔵氏の「近江の兄弟」を連載しながら途中で中断した疑問が、このヴォーリスさん自身の筆になる自叙伝を写すにあたって再びよみがえってきて、この連載を続けるかどうか迷い始めた。ただ一つだけ言えるのは、ヴォーリスさんは意識されなかったことかもしれないし、不遜な言い方になるかもしれないが、父なる神様、聖霊なる神様への言及は多いのだが、主イエス・キリスト様への言及が少ないように私には思えてならないのである。「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」新約聖書 ガラテヤ3:3。とは「近江兄弟社」という世にも稀なるネーミングをヴォーリスさんに与えられた創造主の声ではないだろうか。)

2011年11月9日水曜日

近江での最初の春(下)

さざんか さざんか さいたみち
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
しもやけ おててが もうかゆい
(この二日間のお祭り〈左義長祭りのこと〉に、)私の家に二つの特筆すべき事があった。一つは、すでに上に男の子があった私のコックの妻が、女の子を生んだことであり、今一つは、土地の大工に頼んでおいた私の家の、一部改造の見積書ができてきたことである。前に、台所の模様替えをしたが、今度は屋根裏へ上がる階段をつけ、そこにある二つの部屋に手を加え、一つを私の寝室に、もう一つを同居希望の生徒の居間に改造したいと思ったのである。これまで、私は居間を寝室に兼用していたので、毎夜寝る時間になると、生徒をうながして帰ってもらっていたのである。

この見積もり総額はいまから考えると、うそのような話だが、わずか十二円五十銭(当時の米貨で、6ドル25セント)であった。

春休みには、暖かいホームを開放して、待ち受けていてくださるフェルプス夫妻のいる京都へ、前よりももっとゆっくり行く機会をあたえられた。フェルプス氏は京都YMCAの名誉主事で、私が隣の県に来住したことを、最初に歓迎してくださった方である。夫人は、近江での私の仕事に興味を持って下さり、近況報告を書いた私の手紙を、いつも好意をもって読んで下さった。手紙ではそう沢山の事は書ききれないので、山積するニュースの荷をおろすために、ときどき京都へ出かけて行った。

休暇中京都へ二回行った。一度は三日間滞在し、今一度は 一日二晩おった。それから神戸と大阪へも行ったが、これは初めての土地であった。京都では七宝焼、陶磁器、青銅器、象がんなどの工場を訪れ、焼物師のろくろや、こまかい念の入った手仕事や、ほんとうの工芸品とも言うべき品々を見て感心した。いずれの都市へ行っても、市青年会や学生青年会を訪問した。京都と大阪との青年会では、英語会話のクラスを教えるよう依頼された。私は、まだ英語教師をはじめてから数週にしかならないのに、ひとかどの専門家のようにあしらわれた。

神戸では、学生青年会の地方部会が、メソジスト派の関西学院で催されていた。それから半世紀ののち、その学校が、新しい敷地に全校舎を新築するに当たり、私がその全体の設計を引き受けることになろうとは、そのときには夢にも考えなかった。

どこへ行っても、キリスト教青年会の人々や宣教師たちは、私の訪問を歓迎し、近江での仕事の発展を驚き、喜んでくれた。ある宣教師は「私たち宣教師をみんな集めて、あなたに、その方法を教えてもらいたいです」と言った。

私は「ただひと言に尽きます。それは、教室の内外を問わず、すべての生徒を心から愛することです」と答えた。生徒たちを引きつけているものは、私自身ではなく、神の御霊が、ただ私と生徒との接触を通して、働き給うのである。私は前からそれを承知していた。

学生バイブルクラスのこうした反響は、米国でなら、どこででも起こり得ることで、たいして驚くに足りない。しかし、私には、つい数週間前、東京で聞かされた警告的予言が、いつも思い出された。それによると、近江八幡のような場所で、こんな事が起こることは、不可能と言わないまでも、ほとんど考え得られないことであるということである。

しかし、私には、その当時以上に明らかに、 その真相がわかっている。すなわち、当時「予言」されたことは、今も絶対に真理である。事実、そのようなことは、決して起こり得ない。何人でも、このような場所で、わずか二ヶ月の間に、こんな結果をもたらすことができるはずがない。まして絶対に、私がしたのではない。それは、神がなし給うのだ。神は、ただ喜んで、その道具になろうとする人間を必要とされるのである。

(『失敗者の自叙伝』一柳米来留  William Merrell Vories Hitotsuyanagi著138〜141頁より。ヴォーリス氏のこの自叙伝の文章を写して見て感ずることは彼の日本語の自由闊達な駆使ぶりである。 「予言」は絶対に真理である、と書いてあるが、この「予言」は人間の「予言」であろう。それにくらべ神の「預言」はちがうのでないか。人の思いを越えて事は成るのである。文末の彼の文章はそのことを語ろうとしているのではないだろうか。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」新約聖書 ローマ5:5「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」旧約聖書 イザヤ55:11と聖書にある。)

2011年11月8日火曜日

近江での最初の春(上)

二週間ほど前に(10/20)近江からどっさり柿が送られてきた
三月四日、私が学校で教えはじめてから、ちょうど一ヶ月がたった。この日の放課後、初めて学校の運動場で、一人の生徒が、聖書のある箇所について私に説明を求めた。その晩、私の家へ遊びにきた何人かの生徒が、私と一緒に教会へ行きたいと言った。次の朝十一名の生徒が、教会の礼拝に出席して、私が話す聖書の話を聞いていた。その午後、求道者会を催したところ、十五名の生徒が出席した。みな熱心であり、私は目前に迫る卒業をひかえて、何かの形でこの信仰を実らせねばならないと話し合った。

三月七日、聖書研究会の出席者は六十三名にのぼった。私の米国国旗につり合うような、大きい日本の国旗を購入したので、白地に赤く染めぬいた光栄ある日章旗を、生涯を通じて断じて汚すことなく、守り抜くようにと話した。生徒たちは、肝に銘じたようであった。

三月八日から四月十日までは、関係していた三つの学校の学年試験、入学試験、卒業式、春季休暇などのため、授業は休止状態であったが、私にとっては休業どころか、仕事を拡張するよい機会であった。というのは、その期間、私は近所のあちこちを訪問することができたばかりでなく、個人伝道のための、自由な時間とすることができた。これらの旅行を通じて、私の生徒たちとも深く交わり、京都、神戸、大阪などの学校の生徒たちとも、個人的に接触する機会が与えられた。

八幡・彦根・膳所の三校で、卒業する学級に、最後の授業をしたときは、ほんとうに悲しかった。別れのつらさは、私だけではなく生徒たちにも深刻で、いずれも深い感情をあらわしてくれた。彼らを教えたのは、ただの五週間に過ぎなかったが、一年以上も共に学び、共に遊んだように感じた。一人一人が、私にとっては大切な人物となった。そして彼らの心に、はっきりとキリストを植えつけずに別れてしまうことが、遺憾でならなかった。彼らは、真理と光と道とを発見したわけである。彼らの生涯は、ある程度まで改変せられた。少数ながら、あるものは永遠の道を見い出したであろう。私は、彼らが卒業後、どこへ行っても、私と連絡を失わないために、マンスリー・レターMonthly Letterと称する、謄写版刷りの手紙を作って、毎月各人に送ることにした。

三月十一日、学年最終のバイブル・クラスを催した。私は、ヨハネによる福音書第六章六十六節以下から、多くの弟子たちが、イエスを去って行った後に、イエスが忠実な弟子たちに向かって「あなたがたも去ろうとするのか」とお尋ねになった箇所を教え、私も生徒たちに対し、この質問をもって話を結んだ。このとき、 通訳の雨田先生は(この人はまだキリスト信者ではなかったが、みずから進んで、上級組バイブル・クラスの通訳をしてくれた)言葉を添えて、生徒に信仰を勧められ、自分もキリスト主義の実行を、心がけていると言われた。

翌十二日の日記に「今晩、天と地が一つになった。求道者会において、このたび卒業する三人の生徒が、これから一年間キリスト信者になってみようと言った」と書いた。その会で私はヨハネによる福音書十四章と同じく七章十七節などを引用して「キリスト者生活」の話をした。そして、実験をしてみないで、理論を受け入れる必要はないということを話し、とにかく一年間ためしてみることを勧めた。

この三人の生徒は、ためしてみることに賛成し、会の終わりには、膝まづいて一緒に祈りをささげた。そこには、聖霊のご臨在が明らかに感じられ、涙をたたえつつ、堅く手を握りしめて別れた。その学年の終わりに、私は英和対訳新約聖書を、関係している三校の最高学年と、次の学年の都合六組の生徒たちに、一部ずつ勉強のごほうびに贈った。

(『失敗者の自叙伝』一柳米来留 William Merrell Vories Hitotsuyanagi著135〜138頁より。彼は二月二日に近江八幡に到着して一週間後の水曜日二月八日には、第一回バイブルクラスを始めているが 「せいぜい十余名ぐらいと思っていたのに、四十五名もの生徒がきてくれた」と言い、その夜の感激をポケット日記の狭い紙面に、ただ一語Doxology! と書いたと言う。Doxologyとは『神を賛美せよ』である。結局急遽東京に四十五冊の聖書の発注をした。日本に滞在して間もない、まだ海の物とも山の物とも分からない、この徒手空拳の若者を主は用いられたのである。結局このとき彦根、膳所の学校をふくめて都合三百二十二冊を分けたとも記してある。実に驚異的である。私の18年前の高校の同窓会名簿が手許にある。それを眺めてみると明治38年卒業生数は54名とあり、生存者四名の方のお名前が記してあった。何らかの意味でこの人たちはヴォーリスさんの聲咳(けいがい)に接しておられた方々であろう。ヴォーリスさんが引用したヨハネ7:17の聖句は「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」である。)

2011年11月7日月曜日

われは神の道具たらんか

神社の境内で撮られた記念写真のようだ。ヴォーリス氏の姿を見られたし。
当時の日記のおもだった出来事を読みかえしてみると、一個の未経験な青年開拓者が、事業経営のための、何の道具立てもなく、形にあらわれた、何の資本ももたないのに、無謀にも大胆な計画に突進しようとする、危険な様子を、ひやひやしながら眺める見物人のような気がする。彼は適当な準備もなく、経験のある、その道の専門家たちから「そんな努力は無駄である」とか、「物事は、そんなふうに行くものではない」とか言って、注意や警告をして下さる、ご好意をも退け、身のほども知らずに、大それた冒険に乗り出したものである。

何が彼をそうさせたのか。この質問に対して、私に与えられる解答は、この全パノラマのよってくる理由でもあるが、私が一個の人間となる代わりに、一個の道具となろうとして、真剣な努力をしたことによる、自然の帰結であったということである。

言い替えれば、すべての人間的な計画や願いを神に委ね、日々聖霊のお示しのままに、自己の隅々まで、残りなく神の聖意に従わせ、ひたすら、かかるにぶくかよわい道具でありながら、神が、これをどのように用い給うかということにのみ、心を砕いていたからである。

これが明治38年(1905)の新年の第二日めに、私が家を出発したときの中心目的であった。そして現地に飛び込んで、初めて現実にぶつかり、激しいテストを受けながらも、神が前もって私のために、協力者となり、通訳者となった宮本氏を備えておいて下さったことを知って、その確信を新たにした。それが私自身も驚くほど、成績をあげた初期の活動に対する、熱情の源泉となったのである。

この記録を読まれる方は、ぜひ記憶していただきたい。これは、決して私の知恵や才能や努力や、また幸運を現わすものではなくて、ただ静かな小さい御声に聞き従った結果に、ほかならないという一事が言いたいのである。道具としてお使いになる神の力は、無限であるから、もっと上等の道具であれば、もっとすばらしい結果になっていただろう。

今一つ断言したいことは、だれにかぎらず、同じ事情のもとに、同じ過程を経て、同じ創造主の意志に服従するならば、その人は、必ずこれと同じ結果を招くために、用いられるに違いないということである。

私は、かたく信ずる。すべての「成功」は、意識するとしないとにかかわらず、完全に神の意志の道具になりきった者の、到達する境涯であり、すべての「失敗」 とは、創造主との接触を失うか、神の導きに従わずに、自己の欲望や考えに従ったために、神との連なりが遮断された者の行きつく到達点なのである。

私は、この物語の本筋に入る前に、まずこの点を明らかにしておきたい。

(『失敗者の自叙伝』一柳米来留 William Merrell Vories Hitotsuyanagi著118〜120頁より。何度読んでも行間から浮かび上がって来るのは彼の「成功」物語である。しかし彼は自らの自叙伝を記すのに「失敗者」と称している。別のところで彼はこうも言っている。「たいへん見込みのありそうに見えた事がらが、少しも見栄えのしない結果に終わってしまったり、その反対に、失敗と思ったことが、あとで祝福となったことがある。失敗は個人にとっても、社会にとっても、思わぬ福祉をもたらすための、生みの苦しみや試練であることが多い。」同118頁。その根底には彼が自らを神の「道具」であるとする心があった。新約聖書には「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」2 テモテ2:20〜21がある。)

2011年11月6日日曜日

八幡到着(下)

咲き競う「天使のラッパ」の群生
ワード先生というのは、親切な中年の紳士で、そんな寒い旅館なんぞにわざわざ行かないで、今晩は、ぜひここで泊まれと言って下さり、しかも、自分の寝室を私に提供して、自分は日本の習慣に慣れているからと言って畳の上で寝られた。こうして新参者の私をいたわって下さった。そのため、八幡の第一日の疲れと煩いは、この小さな家のあたたかみの中に溶けて行った。この家は、その後、相当長く私の住居となった。

ワー ド先生は、翌日午後一時半に八幡を去り、私はついに文字どおり天涯の孤客となった。その夜中に地震があった。もちろん私には、はじめての経験であった。 ちょうど毛の長い大きな犬が泳ぎから上がって、水を払うために、身震いをしているときのような感じを受けた。それまで私は一度も危険を感じるような地震に出逢ったことがなかった。

ワード先生は立ちぎわに、使っていた家具を私に売ってくれた。それは軍隊用寝台一個、たんす一個、安楽椅子一脚、普通の椅子二、三脚、ストーブ一個と敷物一枚であった。先生もそれを前任者から買い受けたのだと説明し、それだけを六十円(当時の米価三十ドル)で譲りたいと言った。私は、八幡に来るために借りた金も、すっかり使いはたしてしまったので、 あとは給料を前借りさせてもらわなければならなかった。後に生まれる近江兄弟社は、こうして資本金どころか負債(旅費及び家具代)をもってはじまった。

二日めの夕方、たしか四時と五時の間だったと思う。私にとっては一つの重大な事が起こった。それは暗黒の世界に光明をもたらし、心の恐怖を払いのけて希望を与え、巨万の現金や銀行預金にもまさる、大資本といえるものであった。それは一人の青年の来訪であった。その名は宮本文次郎といった。彼は私より二つほど年下であった。彼は私の赴任する学校を二年前に卒業し、在学中英語の成績がずばぬけて優秀であったので、卒業と同時に英語教師として母校に残ることになった。彼は、私の赴任を喜んで訪ねてきてくれた。彼の最初の質問は、天と地をひっくりかえしたほどに、私には思われた。それは「お尋ねしますが、あなたはクリスチャンですか」というのであった。

この簡単な一つの問いが、どんなに天地を揺り動かしたかは、とても筆舌では伝えられず、どういっても、十分諒解してもらえないだろう。

しかし、この場合、たとえ前夜の地震が、実際に八幡全体を揺り動かしたとしても、私にとってはこの一語の方が、はるかに大きな震動として伝わってきた。

思えば、太平洋上、チャイナ号の甲板で、ひとり寂しくささげた私の祈りは、すでに、ここで求める前に応えられていたのである。私は、この最初の一年間に、少なくとも一人の求道者が与えられて、私の事業に協力してくれることを祈り求めていた。それが、すでにその祈りにまさる応答が与えられていたのである。彼こそ備えられた通訳者であり、かわらざる友、あとあとまでもの協力者であった。それが宮本さんであった。

彼の語るところによると、私と時を同じに、期せずして同じ祈りをささげ合っていたのである。彼は校内ただ一人のクリスチャンであった。どうかして彼の受けた尊いキリストの福音を、学校や町の人々にも伝えたいとの念願に燃え、そのためには、今度アメリカから来る英語の先生が、どうか熱心なクリスチャンであって、彼と協力してくれるようにと祈っていたのである。

あとは何の問題もない。積極的に計画をはじめるために、歳月を待つ必要もない。今までの暗い影も、寒さも、今はみな神の摂理の前に、消え去ってしまった。私が八幡の日に着いた最初の日の孤独と寂しさの打撃が、あまりに深刻だったので、これではものごとが、軌道にのるまでに何週間も何ヶ月もかかるような思いがしたまでであ る。

(『失敗者の自叙伝』一柳米来留 William Merrell Vories Hitotsuyanagi著95〜97頁より。ややこれとは違うが、聖書中の記事には次のような記述がある。「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、『マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。』 と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、 と確信したからである。」新約聖書 使徒16:9〜10 しかし、太平洋をはさんで見知らぬ人同士が同じ祈りをしていたとは驚かされることであり、聖霊の働きという点では無縁ではないのでないか。ちなみに我が先代は登場する人とは全く別人だが「文次郎」と言う。)

2011年11月5日土曜日

八幡到着(上)

近江八幡、右側の山が八幡山、遠く見えるは湖西の比良山系の山並み(10.3.14)
そして、2月1日の夜10時、汽車に乗って、いよいよ近江八幡に向かった。当時は、まだ東京駅はなく、私の出発したのは新橋駅であった。近江八幡駅も、八幡駅と言った。駅名が近江八幡となったのは、ずっと後年のことで、それは、日本のあちこちに八幡という地名がいくつもあるので、滋賀県の旧称である「近江」という言葉を加えて、区別するようになったのである。(中略)

三時半ごろ、汽車は一つの駅に着いた。それは小さな駅で、付近には運送店と、小さな旅館と、一、二の店など、都合十数軒しかなく、今まで通ってきた中で、一番小さな駅のように思われた。ここで列車の車掌は、私というこの荷物を下ろそうとやってきた。

私の心は、恐ろしい思いに沈んだ。これが将来のホームなのだろうか。赴任する学校は、どこにあるのだろう。その他のものは・・・。

寂しいプラットホームにおりて、私は茫然自失の状態であった。そのとき、中年の親切そうな日本人が、私の方へ急ぎ足でやってきて、英語で話しかけてきた。彼は、私が彼の探している本人であることを確かめて、自分は、私の赴任を待っている学校の英語の主任であって、学校を代表して私を迎えにきたのだと自己紹介をした。町は、北の方一マイルのかなたにあって、そこまで案内しようというのである。こうして私は、とうとうここまでやってきた。

あたりには、ほんの一握りの人家しかない、寂しい八幡駅に降りた私は、雨田先生に案内されて一マイルほど北の八幡の町へ向かった。私たちは徒歩だったので道すがら話すことができた。私の荷物を乗せた人力車は、後ろからついてきた。新しい外人教師への興味と好奇心から迎えにきてくれた生徒たちも、少しはなれて私たちについてきた。かい道は、肌をつんざく寒い北風が、容赦なく吹きつけていた。町の南端にさしかかると、少し左へ曲がって、雨田先生は私を学校へ案内して下さった。そのころには、胸に燃えていた大計画の熱情も、急に冷えだしていた。学校の玄関に着くと、暖房もない、ひえびえとした建物の中へはいるのに、靴を脱いでスリッパーにはきかえねばならなかった。これにはびっくりしたし、まごつきもした。スリッパーというのは、代表的な日本特有の履物で、踵 (かかと)の部分には、何の囲いもなく、足先の方にポケットのようなものがついて、その奥へ爪先を突っ込んではくのである。すこぶる簡単で能率的である。 慣れると便利ではあるが、足で自動的に、その履物をあやつるこつが覚えれるまでは、なかなかやっかいなしろものである。

私はこの難物を引きずりながら、冷え切った廊下を案内された。たびたびスリッパーが脱げるので、なんども行きつもどりつ、はきなおしながら、ようやく校長室にたどりついた。その日は運悪く、校長の安場先生が不在で教頭の山崎先生に出会った。

下宿で読んでおくようにと言って、教員職務規程のような印刷物をもらった。それには「教師の道楽は、学校の職責に支障を来さない範囲で」という、意味の文句があるのをみて、私はへんな気がした。

それから雨田先生は、私をその夜の宿へ案内して下さった。雨田先生によると、前任者のワードWard先生が、明日までこの地を去られないので、学校の方で町の一等旅館を契約しておいて下さったということであった。

これはどうも私にとって、ありがたからぬ前途の見通しになった。

すでに寒さと湿気で冷え上がらんばかりになっていたのに、紙障子にかこまれた冷蔵庫のような畳の寝床で、一夜を明かそうとは、思うだけで身の毛がよだってきた。英語の諺に、背負い切れぬ重荷を積んだらくだは、わら一本を載せてもくたばるという。この場合の私が、まさにそのとおりで、わら一本どころか、なれない日本旅館に敷きつめた、何十枚というわらの畳が、一挙に頭にかぶさってくるようで、生きた心地もしなかった。

この悪夢の道中に、雨田先生は、もう一度街角を曲がって、私をワード先生に紹介するため、その住居へ連れていって下さった。それは三百年も経った代表的な田舎家で、土間の部分に玄関と料理場とがあり、しめっぽい地面から一尺ほどの高さに床があって、畳が敷かれた幾つかの部屋があった。その家は道路に面していて、両がわは同じ形の家に、はさまれているので、外気に接するのは表の道路に面した部屋と、裏庭に面した部屋だけであって、その間にある幾つかの部屋は、 窓なしであった。従って、内部は暗くて、しめっぽい。しかし、何よりありがたかったのはストーブのあることだった。ワード先生は裏庭に面した部屋と、その手前の部屋の間のふすまをはずして、居間兼寝室にし、ブリキ製の薪ストーブをたいていたので、部屋は、気持ちよくあたためられていた。私ははじめて生きかえった。わずか半時間であったが、なんともいえぬやすらぎを味わった。(続く)

(『失敗者の自叙伝』一柳米来留 William Merrell Vories Hitotsuyanagi著90〜94頁より。はるばる太平洋をわたり1905年の1月29日横浜に到着した彼が眼前にしたのは富士山であったようだ。その後一週間もしないうちに滋賀県の一寒村八幡へと新橋から汽車で赴任地に赴く。 汽車の中の様子は残念ながらカットしたが、彼の滋賀県との出会いがいかに不安・恐れに満ちたものであったかがわかる。しかし教員職務規程の内容をへんに 思った彼の心がある。当然であろう。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」新約聖書 コロサイ3:23。彼の心はかつての幻と現実との違いに心は千路に乱れていたかもしれない。しかし全能の主は絶えず彼とともにおられ、この近江の地に導かれた。明日の続きはそのことを明らかにすることだろう。)

2011年11月4日金曜日

最初のテスト(下)

久しぶりに鳥を追い、辛うじてカメラに納まった一羽。慧眼の諸子、名前の教示を!
一週間ほどたったある晩、仕事を終え、部屋に帰ってくると、彼は出発の準備をしていた。これ以上、私の好意にあまえてはおれないと言ったが、この12月の寒空に、しかも、一文なしで、いったいどうするつもりだろう。単刀直入に、もしや私が何か気にさわることをしたので、突然、こんな夜中に出かける気になったのではないかと聞いた。

彼の唇は震えはじめた。そして満身の力をこめ、「いいえ、全然反対です。あなたがあまりに親切にして下さるのでこれ以上ご好意にあまえ、いつかあなたを大きな危険にまきこむことになっては、申しわけないのです」と答えた。「それはいったいどういうことですか」と尋ねると、初めて、実のことを語りだした。彼は東部のある大学の総長の息子であるが、突然ある事情のため、秘密で家出してきたのであった。その理由というのは・・・ここまで言って、彼はまた身を震わした。彼の話によると、好奇心から、たいへんなあやまちを犯したという。たった一度だけだが、遊里に足を踏みいれ、その結果、梅毒に感染したというのである。それで彼はお父さんの名誉や責任ある地位を思うて、家出をしてきたが、これ以上いっしょにいて、私にまで病をうつすような危険にさらすことはできない・・・と言った。

このことは、私にとって一つのテストであった。このテストのために、私は天職が与えられる時期が遅れていたのだとおもった。この青年を救うために、神の器として役だつのでなければ、外国の青年に新生命をもたらす運動などはない、あるいは私が外国においても、こうした場合、必要なら、生命をも惜しまぬ覚悟ができているかどうかを、確かめるためであったのか。いずれにせよ、私の道程は、まさに一つである。それで部屋の錠をおろし、その青年に、むろん今夜も一つのベッドで寝ようと言った。

朝になって、彼に医師の診断は受けたのかと尋ねた。受けたと言う答えだった。その医師は、お父さんの信用する医師かと重ねて聞いてみたところ、「いいえ、お父さんの知っているような医者にかかろうものなら、すぐお父さんに知れてしまいますよ」と答えた。それで私は市内で知っている、あるクリスチャンの医師に、紹介状を書いて精密検査を頼んだ。そして青年が、まだ途中にある間に、医師に電話で詳しい事情を話し、彼の診断を封書にして持たせてほしいと依頼した。

半日ののち、彼は帰ってきて、私に医師の手紙を渡した。私は恐れと希望が錯綜した気持ちで、その封を切った。精密検査の結果、梅毒感染の事実なしという診断であった。彼が、はじめにかかった医者は、秘密治療や闇商売で、多額のお金を患者から巻き上げようとした、インチキ医者であったことが分かった。無言で、その手紙を彼に見せた。そのとき、私の顔色を見ていたら、それを読む必要もなかった。これまで悪魔にとりつかれていたような、彼の顔は瞬間、別人の顔に変わった。

「ど・・・ど・・・どこに電信局がありますか」
 
彼は、さっそく家へ電報を打った。そして夜までに家から、返信がきて帰宅の旅費が届けられた。それとほとんど同時に、一通の手紙を入手した。その手紙は、私に日本への門戸を開き、私の幻の町で、近江兄弟社を創設させる道をつけてくれたのであった。

(『失敗者の自叙伝』一柳米来留 William Merrell Vories Hitotsuyanagi著80〜82頁より。以前ヴォーリス氏の働きについては彼の一番弟子、かつ同労者とも言うべき吉田悦蔵氏の「近江の兄弟」をこのブログの始めに数回ご紹介したが、中断した。それは引用者に考えるところがあったからである。それはヴォーリス氏の働きは初期はともかく、八幡商業の英語教師の道を追われた後、建築設計を始めとする事業に邁進して一人の人のたましいのための働きがお留守になったのでないか、という疑問があったからである。いや、彼自身ほんとうに聖霊の働きをどの程度自覚しているのか、当時読み始め現在も「泉あるところⅢ」として訳業を展開しているオースチン・スパークス氏の生き方と照らし合わせて疑問を覚えたからである。ところがこの知人から貸与していただいた本を最初家内が読み、巻措くあたわざる状況を見、私も手に取ってみて、その内容に驚き、自分の皮相的な見方を恥じざるを得なかった。外国人が異国にあってその地に骨を埋める、それは並大抵のことではない、神の後押しが彼にあったからできたみわざであった。続篇の引用でさらにそのことを示すつもりである。「人が友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」新約聖書 ヨハネ15:13「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」ローマ 5:8

2011年11月3日木曜日

最初のテスト(上)

私は、大学卒業に際しては、たいした表彰にはあずからなかったが、神の授けたもうた、かたい使命感をいだいて校門をあとにした。その使命とする 仕事に、すぐとりかかれる直接の端緒は、まだ開かれなかった。それは、私が、もう一度その使命に、ふさわしいかどうかのテストにパスしなければならないためであったと、わかるときがきた。私は一時的な仕事として都市YMCAの副主事の仕事をやり、青年会の新館の管理や、青年の下宿や旅行者の宿泊のために設けられた、ホステルの世話をすることになった。その仕事は、尊い経験を与えてくれた。そこで6ヶ月間の奉仕が終わりに近づいたとき、そのテストにぶつかるときがきた。

ある夜10時ごろ、仕事を終わって自分の部屋に帰ろうとしていると、意外にも、夜ふけの来訪者におどろかされた。相当な身なりをして教養もあり、育ちもよさそうな20歳ぐらいの青年であった。何かためらうように、私の机に近づき、こちらで就職の斡旋をしてもらえないかと尋ねた。

私は、ここには職業紹介部があって、昼間はその事務をしています。もしあなたの技能と住所を書いたものを残しておいて下さったら、明日何とかお返事しましょう、と言った。ところが、彼は、「今この町に着いたばかりで、まだ宿も決まっていません。実は、YMCAに泊めてもらいたいのですが」といった。部屋のリストを調べたが、どの部屋もふさがっているので、どこか他の旅館へ電話をかけてあげようか、と言った。ところが、困ったような顔つきをして、「実は、持っていた最後の一ドルを、ここへくる汽車賃に使いはたしてしまったので旅館には泊まることができない。それで何とかして職にありついて、金が支払えるまで、 青年会で泊めてもらえないだろうか」と言った。

そこで私は一つの新しい問題に直面した。この上品な顔つきの青年は、家庭を遠く離れて職にありつくまでは一文なしである。青年会には部屋がない。もちろん一つの可能性はある。それは、社交室に大きな長椅子があり、暖房も通っているから、そこなら12月の寒風にさらされることはない。しかし、この青年は見ず知らずの人間である。あるいは巧妙な泥棒であって、全館が寝静まった後、手当り次第に、値うちのありそうなものをかきあつめ、堂々と玄関から持ち出して行かぬともかぎらない。私はこの建物の管理の責任者である。二つの思案にあまった。その青年を、断って寒風の中へ追い出すこともできる。しかし、その結果、凍え死にか、犯罪者になる道をたどらせることになるかもしれない。さもなくば、私が自分の部屋へつれてはいり、その見ずしらずの青年と一緒に、一つのベットで寝るという道もある。私の職務に対し、またこの青年に対する責任感は、後者の道を指し示した。私はその場でただ自分がきめさえすればよかった。もし将来の使命とする仕事をはじめる場合、これ以上の大きな冒険に直面することを覚悟せねばならないと思った。そこで心は決まった。

次の朝、その青年にどんな仕事ができるかと尋ねた。彼はまだ大学の中途だから、これという技能はないが、大工道具を使って本棚のようなものをこしらえることは好きであり、多少の経験はあるから、そういう仕事なら喜んでやってみたいと言った。

私は、自分の家に一組の本棚がほしいと思っていたやさきであったから、彼に材木屋を教え、10ドル札を渡して、それで私が設計した本棚に必要な材料を買いととのえてくるように言った。内心これが、青年に対して一つのテストになると思った。もし青年に働く気がないとか、その仕事ができないとかであれば、彼はその金でデンバーまでの切符を買って出てしまえば、そちらの仕事を探す間の二、三日分の生活費は、あり余るはずであった。

私は、たいへん興味をもって、彼の帰りを待っていた。彼は材料と、つり銭とを持って帰ってきてくれたので、心から満たされて迎えることができた。

会館の小使が、大工道具を持っていたので、それを借りて彼は二日がかりで、立派な一組の本棚を作った。しかし、求職の方は電話や直接交渉など、いろいろしたが、都合よくゆかなかった。私は彼が仕事によって、食費と室料を支払ったものとみなし、引き続き部屋に住まわせた。(続く)

(『失敗者の自叙伝』一柳米来留 William Merrell Vories Hitotsuyanagi著78〜80頁より。考えてみるとこの話は1904年明治37年のこと、彼の24歳の時の話である。米国ではすでに電話はこのよ うに日常茶飯事であり、彼我の差は避け得べくんもなかった。それにしても一柳氏の日本語の文章の巧みさである。この文章は1951年昭和26年、彼 の71歳のときから逐次書き継がれて行ったものである。私は当時すでに小学校に入学していたが、我が故郷・近江で福音宣教のために尽力し骨を埋め、天に凱旋した主にある友・兄弟を知る由もなかった。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしまし た。」新約聖書 ヘブル13:2

2011年11月2日水曜日

病床の友と決別

途中もう一つカルフォルニヤのパサデナに立ちよった。私の家族は、9年間もアリゾナに住み、そこから数回東へ旅行した。私が、カルフォルニヤを見たのは、このときが初めてであった。乗船する前の三日間を、このパサデナで過ごしたのは、かつての大学の同級生であり、懐疑主義から脱けて、信仰生活に転向してくれた(※1)、かのH・C・Aに面会するためであった。私が少しでも外国伝道に適する生涯に導かれたのは、彼を改心させようと努めた影響だといえる。その私が、外国伝道に出発する途上で、彼と地上で再会を許されたのである。彼は、元来健康上の理由で、シカゴからコロラド大学をえらんできたのであった。その後、病状が思わしくなく、カルフォルニヤに転地療養していたところ、最近病勢が、さらに悪化したので、母親がシカゴからかけつけて、病床に付き添っていた。

私はサンフランシスコから、日本行の汽船に乗り込む前に、彼の病床を三回も訪問することができたのは、ほんとうによかったと思う。

この事も、故国を離れるにあたっての深い思い出となった。彼が、卒業を前に、病気のため大学を中途退学して後も、私と彼とは文通はしていたが、ここ二年間というものは相会うことが無かった。もし私が、彼に親しい別れを告げずに、アメリカを去らねばならなかったとしたら、さぞ心残りだっただろう。

私が、日本に到着して幾日もならないのに、彼は早く世を去った。だからこの会合は、私にとって意義深いものとなった。私たちの友情の記念碑として、今も近江八幡に、ハーバート・アンドリュース Herbert Andrews・YMCA会館がある。これは、近江兄弟社の事業のために建てられた、最初の建物であり、昭和25年(1950)までに設計監督した、千二百に余る建築の、最初のものである。現在のYMCA会館は、後年改装になったが、その建物は、今なお彼を記念する意味で彼の写真をホールの正面に飾り、その感化は、私たちの中に働いている。

私が、しばしば感じることは、私という人間は、大学の同窓H・C・AとA・C・H(※2)と、それに私を加えた三人の仕事を、一身に委託されているようなものである。あとの二人は、公生涯にはいる前に、早逝したので、私一人が現地に派遣されたというわけである。しかし、この二人の感化と助力なくしては、今日の私の仕事も、おそらくなかったであろう。

※引用者註1 ハーバート・アンドリュースは学内きっての懐疑主義者であり、誰も彼に福音を伝える人は出て来ず、ヴォーリスだけが学内の代表として彼のところに友人たちの手により派遣されたのであった。つっけんどんな彼に近づくために恐る恐る部屋をノックして入ったとき彼は部屋の片隅にある一台のギターを見逃さなかった。何の共通点も見出せない彼との間で音楽を橋渡しとして用いたからである。その後、さらに病臥中の彼の便器を進んで処理した。さしものキリスト嫌いの彼もやっとヴォーリスに心を開き始めたのであった。(この項は47〜48頁による)

※引用者註2 A・C・Hはヴォーリスのもう一人の親友で学内きっての優等生で建築家志望であった。しかし、若くして彼は死に、その志は遂げられなかった。ヴォーリスはその分を果たそうとしたのである。

(『失敗者の自叙伝』一柳米来留 William Merrell Vories Hitotsuyanagi著83〜84頁より。これほど友情に厚い人はいないのでないか。真の友情の源流は言うまでもなくイエス様にある。その愛を受けたパウロの言。「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりまし た。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下 にある人々を獲得するためでした。・・・弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」1コ リント9:19〜23

2011年11月1日火曜日

歴史的会議

近江の家並み(by Nobuo.Y)
私は明治35年(1902)の初頭、カナダのトロントに開催された学生伝道運動の大会に出席することになった。私は単にコロラド大学だけではな く、コロラド全州からただ一人の代員というわけであったから、自分に負わされた責任と使命の重大なことを痛感せしめられた。私は数日にわたる、豊かなプログラムに、漏れなく出席して、私を選出してくれた地域の学生たちに、その報告をせねばならないと思った。

ところが、一週間の会期が残すところあと三分の一ぐらいになったころ、中国に伝道している婦人宣教師(Mrs F. Howard Taylor)の講演があった。彼女は、二年前に起こったかの団匪事件について物語り、その中で暴徒が、中国からすべての外国の勢力を駆逐しようとし、とくにキリスト信者に対し暴力を振い、多くの信者が、つぎつぎに主の御名のために殉教の死をとげたことどもを、静かな、しかも、目に見えるような口調で物語ったとき、5千人の会衆は、さながら水を打ったように静まりかえり、さしも広い大講堂のふんい気は、急に一変したように思われた。

それがほかの人々にはどう響いたか私は知らない。しかし、私にとっては、その一瞬、あたり一面がまっくらになり、講堂の5千の会衆の顔が見えなくなって、そこには、私だけしかいないような気がした。そして、その講師は、まるで私だけを対象に語りつづけるようで、キリストへの信仰を捨てることを拒み、神の国への忠誠を貫くために、虐殺された何百人かのクリスチャンたちの遺業を継承するために、ひたすら外国伝道に献身することを訴えているように感じた。

ある瞬間、その講師の顔は、キリストの顔に変わり、キリストご自身が、壇上からその愛のまなざしをもって、私の心を刺しとおし、私に、「おまえはどうするつもりなのか」と尋ねていらっしゃるように感ぜられた。この幻は、ほんの瞬間に過ぎなかったが、その感化は、いまもなお私の中に、はっきり残っている。その瞬間、私は自分の姿をはっきりと見ることができた。そしてひたすらキリストの聖前にざんげするより他はなかった。従来の私のひとりよがりの態度を、キリストはどのようにみそわなしていたであろう。私は自分の取るに足りない、生涯の個人的な計画のために、神の召命を避けていたのである。私はそれを否定しようとしても、否定しきれなくなった。

同時に、私がこの大会の代員に選ばれたのは、単なる偶然の出来事ではなかったということを知った。もはや絶体絶命、最後の土壇場に追いつめられたとき、突然、私はおそろしいごう慢の罪を犯していたことに気づいた。私は神への服従の道を避けようとし、神の永遠のご計画にさからって、自分の意志や考えを押し通そうとしていたのである。だから私はキリストの弟子だということを捨ててしまうか、絶対無条件でキリストに従うか、この二つに、一つのどちらかを選ぶよりほかに道はなくなった。

建築は、もはや私の一生の職業としては捨てねばならない。長年思いつめていた建築家志望を放棄することは、寂しいことであったが、不思議なことに、予期していたほどの失望や苦痛を覚えずに、建築学専攻を思い切り、新学期からは、大学の履修課程に、いくぶんの変更を加え、学習時間以外に、趣味または娯楽として 建築の研究を続けた。ところが、これが後年になって、さらに役にたった。まことに神のご計画の不思議さを思わせられるわけである。

最初私は、将来いわゆる「宣教師」となるための準備として、大学卒業後、神学校の課程を修めることが必要であろうと考えていた。しかし、将来の仕事に対する幻が新しい現実の見通しとなって現われるにつれ、私に与えられた使命は、むしろ種々な職業を通じて、人間生活基準となるような、キリスト的生活の徹底的な実践にあるということが、明らかになってきた。なぜなら、世の多くの実業家や、農、工、その他に従事する人々は、ある特殊な職業は別として、自分たちのような仕事の中で、キリスト精神にしばられては、とても満足な世渡りができないということを考えたり、語ったりしているが、はたしてキリストの精神が一般の生活に適用できないか、自分が一つ実験してみたいと考えた。そこで大学卒業後、神学校に学ぶことをやめ、普通の宣教師のような課程をたどらないことにし た。

こうして、徐々に、将来の近江兄弟社となるべき事業の輪郭を、幻のうちに見るようになり、ついに太平洋を越え、日本内地の田舎、ナザレにもたとうべき近江八幡に導かれるに至ったのである。ここは保守的で、なんら重要性を持たぬ土地として、内外人がひとしく軽んじていた町である。この地を中心に、宣教事業を企てるなどとは、少なくとも当時の宣教師や伝道界の識者の判断からすれば、骨折り損のくたびれもうけとしか考えられなかった。

(『失敗者の自叙伝』一柳米来留 William Merrell Vories Hitotsuyanagi著66〜72頁抜粋引用。この不思議な本は最近知人から貸与していただいた本である。「失敗者」とは何か。果たして、一柳氏のどこに失敗があるのか、彼は功成り名を遂げた人でないかという、表面的な見方しか、私はしていなかった。しかしこの324頁にわたる本を読み終えて、神がこの人を1905年2月2日に近江に遣わされとしか言えなくなった。これから数回にわたって引用紹介させていただく。私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」イザヤ書6:8