2011年11月29日火曜日

ひとのいのちは・・・

悪者は自分の悪によって打ち倒され、正しい者は、自分の死の中にものがれ場がある。(箴言14:32)

「なぜ正しい人は恐れなく死ねるのか、その理由をご存じですか」——青年たちに、そう尋ねたことがあります。
 そして素晴らしい答えを聞くことができました。ひとりがこう言ったのです。「それは、その人が日々の死に慣れているからです。」
 主イエスに属する人は、地上にある間、死の修練を積みます。
 神が彼らの最愛のものを取り上げてしまわれる——すると、彼らは「どうぞ」と申し上げるのです。神が彼らの願いや計画を、インクで抹消なさる——すると彼らは、つぶやかずに、自分の心を死なせます。
 確かに、聖書はイエスの弟子たる者に関して、不気味なほどに大いなることばを語ります。すなわち、「(彼らは)自分の肉を、さまざまな情欲や欲望とともに、十字架につけてしまった」と言うのです(ガラテヤ5:24)。
 我々には、十字架に死なれたひとりの主がおいでです。主に従う者は、「私」を死に渡すことを、日々学びます。彼は死の修練を積みます。
 それゆえ、真のクリスチャンにとって、息を引き取ることは、さほどのことではないのです。
  さて、しかし、きょうのみことばには、それ以上のことが語られています。ラテン語訳聖書ウルガタには、実に的を得た訳し方がされています。「正しい人は死 ぬときにも望みがある。」そうです。主イエスにつく者とは、死よりよみがえった方を主とする人です。それゆえ、彼には生ける望みがあります。そして死に臨 んでも、このことを知っています。——「わがふるさとはかしこにあって/そこには御使いの軍団がおり/大いなる主を賛美する・・・」
 もうひとつ、付け加えることがあります。泰然と死を迎え得る人は、また、泰然と生きる人でもある、ということです。

 主よ! あなたの死といのちにあずかり得ることを感謝します。
                          アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著 岸本綋訳 11月29日より引用)

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