2016年2月29日月曜日

署名と捺印

あなたがたはユダヤ人についてあなたがたのよいと思うように、王の名で書き、王の指輪でそれに印を押しなさい。(エステル8・8)
 
 このことから、私たちの王である方のもう一つの預言を忘却しないようにしましょう。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15・7)

 主はご自身の内にとどまる者たちを保証するとき名前と印を押され、おっしゃいます。「これから起こる事を、わたしに尋ねようとするのか。わたしの子らについて、わたしの手で造ったものについて、わたしに命じるのか。」(イザヤ45・11)「あなたが事を決めると、それは成り」(ヨブ22・28)とあるとおりです。

 このことは私たちがとりなすことを励ますのではないであろうか。恐らく私たちはエステルのように言うでしょう。「どうして私は、私の同族の滅びるのを見てがまんしておられましょうか。」(エステル8・6)しかし、私たちは果たして今まで王の名前と王の指環を完全に有効に使ったことがあるのでしょうか。

主は私たちに変わることのない預言をくださったのだから
光と喜びがもたらす王の命令だ 
栄光ある預言には主の名前が記され 
私たちの心の上にはご自身の印章指環が捺されている

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-29-signed-and-sealed/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97224です。

第2章 光彩(6)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 イギリスからの訪問客と一夕過ごすために招待された一人の若いアイルランドの女子学生は応接間にフランシスが入ってきたときのことを記している。「『鳥のさえずり』が『部屋内をさんざめかせた』。そう、ことばを選んで言いたい。彼女は陽光があふれるように、また丘の中腹のそよかぜのようにきらきら輝いて私たちの前に立ち現れた。美しく快活にカールした髪が肩にかかり、輝く眼は踊るようで、生き生きとした甘い声が部屋を通り抜けて行った。私はその一夕を決して忘れないだろう。決して、決して。彼女がすばらしく美しい声で賛美歌を歌い、ヘンデルの二三の小品、私を徹底的に感動させた曲を弾いた時、完全なとりことなり座ったままであった。私たちは暗くなった街路を家路に向かいながら、誰彼ともなく交互に言い合った。『おお、何て彼女は愛らしいのだろう、彼女は生まれながらの天使のように歌うではないか』『私は彼女が大好きになった、できるものなら私は彼女がイギリスに帰る道に同行したい。』『おお、彼女こそほんとうのコリーン・ブラウンだ※http://www.clarelibrary.ie/eolas/coclare/people/bawn.htm』」
 クラスの別の者は美しい歌い手の心のうちには神ご自身の愛の音楽があるにちがいない、その結果、顔に喜びがあり、ことばにおいても、また様々な方法においても喜びがあるのだと四六時中感じていた。そしてひそかな叫びがその若いアイルランド人の心の中から聞こえてくるのだった。「主よ、私に教えて下さい、私にも、あなたを知り、あなたを愛することを」) 

2016年2月28日日曜日

満ち足りて

紅梅の 路迷いしが 暖かし※

こうして、メフィボシェテは王の息子たちのひとりのように、王の食卓で食事をすることになった。(2サムエル9・11)
 
 王の食卓との結びつきですべて考えられることはイエス様だけを見ることです。イエス様はごちそうを用意しておられます。「あなたは私のために食事をととのえ」(詩篇23・5)とあります。主が招待してくださるのです。

 「私といっしょに渡って行ってください。エルサレムで私のもとであなたを養いたいのです。」(2サムエル19・33)主は私たちを王子として受け入れ、養うようにその地位をくださるのです。

 主は私たちを主の宴会場へと連れて行ってくださるのです。主は私たちに食べるように命令され、言われます。「友よ、食べよ。飲め。愛する人たちよ。大いに飲め。」(雅歌5・1)主は私たちとともに宴に着かれるのです。なぜなら王が食卓の主(あるじ)ですから。

 主ご自身が天からの食べ物、王の食卓のパンや肉であります。「わたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6・51)「わたしの肉はまことの食物」(ヨハネ6・55)まさしく主ご自身なのです。私たちにはそれ以外のものは提供されていないのです。なぜなら、それ以外のものでは真に満足できないからです。

主の義、あらゆる栄光に富んだ、主の祝祭の衣だ 
知識をきわめる愛、あなたの上にひるがえる主の軍旗だ
ほんのしばらく別れていても、覚えよ、待ち望め、愛せよ 
主は栄光のうちに来られるのだ、私たちは空中で主とお会いする 
父の御国で天の宴が開かれるときまで 
見よ、主の麗しさを、主の血潮は私たちのために流された

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-28-satisfied/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97223です。

第2章 光彩(5)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 フランシスは本国に戻り、衰えない勢力で勉学を続けるだけでなく、「ポケットブックス」や「キープセイクス」と言う小さな期間発行物に詩的な文章〈謎解き〉を寄稿し始めた。過去前世紀の半ばごろまでこういう年報は文学賞を求める若い野心のある人々にとってほとんど唯一の登竜門であったが、フランシスは「サブリナ」とか「ゾイデ」というペンネームのもとしばしば賞を獲得した。当時のおしとやかな時代にあってはどの新進気鋭の詩人も自らの名前を出して目立つことは夢考えなかったからである。もし賞をお金で受け取ったら、フランシスは父親が作曲の報酬を神様の働きのためにささげたのにならって、教会宣教団体〈Church Missionary Society〉に送った。
 1856年の春になって、結婚して今ではショー夫人となっているフランシスの姉エレンの家を、アイルランドのキルダーレ地方のセルブリッジ・ロッジに初めて訪れた。当地でフランシスは大変な歓迎を受けた。〈Here she took all hearts by storm.〉最後の訳は誤訳の恐れがあるので念のため原文を掲げた。ただし明日以降の記述を見ると、この訳もあながち間違っていないのかも知れない。

 ※先週の金曜日、友人とALS病臥中の友を訪ねた。入所以来ほぼ一年経過した。友は祈る。「このすばらしい天候のもと、こうして友を加えて親しいお交わりをいただき感謝します。また聖書のことばをとおして心をきよめていただき感謝します。今まで知らなかった方々とこのような素晴らしいお交わりが与えられた恵みに心から感謝します」発病以来寿命は5年と言われていたが、7年経過したと言われる。真綿で首をしめるように、徐々に体の機能が衰えていく、「今日できたことが明日はできない」という厳しくも不安な生活の中での信じられない平安な祈りのことばであった。お訪ねするたびに、こちらが元気をちょうだいして帰ってくる。) 

2016年2月27日土曜日

血の力の働きに驚け

私は雪よりも白くなりましょう。(詩篇51・7)

 しかし、雪はほかのすべてのものにまさって白いのです。特に、もしあなたが、ちり一つ到達できない高い山の頂上で陽光に光り輝く雪を見たら、そう確信するでしょう。かつて人間の目が雪のように白いものを見たことがあります。聖書には、よみがえりの主を知らせる天使の衣は「雪のように白かった」そして変貌山上の主イエス様の輝くばかりの衣は「非常に白く光って」(マルコ9・3)いた、とあります。

 けれども、いったい何が「雪よりも白く」されるのでしょうか。「私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」もし神様が私を洗ってくださるならばです、決して水はこのことをなしません、たくさんの涙もなせません。唯一、一つのことだけができるのであります。そしてそれは確実に、しかも徹底的にそのことをなすのです。

 「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(1ヨハネ1・7)これが罪のために、汚れのために、開かれた泉です。そして、かつて宝血が流されて以来、つねにこの泉は開かれてきたのです。
 
そうです。「今もなおです」
自由で闊達な足を印しましょう 
きよさを持つ王なる方の路に添い
私たちが都の大通りに達するまで 
おお、敷かれた金色の水晶、その時を純粋にほめあげます 
私たちは私たちを赦す主を見ます。主とお会いするその時まで。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-27-wonder-working-power-in-the-blood/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97222です。

第2章 光彩(4)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 フランシスは18歳の時、堅信礼を受けた。彼女はこの厳粛な時をずっと考えもし、心の備えをしてきた。その儀式と彼女自身の思いについては詳細に書かれた記録が彼女の死後、封印されていた書類の間から、姉によって開かれ見つかった。彼女の詩の手書きの原稿の本の中に、記念すべき日付で次のように書かれていたのだ。
 「おお、「(私は)とこしえにあなたのものです」何という祝福でしょうか
  とこしえに、私のために死なれたお方のものであるとは!
  To be for ever His who died for me !
  私の救い主、私は全生涯をあげてあなたの讃美を歌います
  また、私の歌はとこしえにやむことがないでしょう」
 ノートと聖句が彼女の書類の間に見つかったことはこの献身、すなわち、彼女にとって大変深いまた真の献身の行為を、彼女が死ぬまで毎年、新たに覚えるためにその原点に帰ることを習慣としていたことを証している。)  

2016年2月26日金曜日

主はやさしく導かれなかった

主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。(イザヤ40・11)

 人は一瞥して、つまり語句索引を引照することによって、私たちの導き手である方ご自身はこれとは非常に異なった導きを経験されたという感動的な事実を知ります。彼はかつてやさしく導かれたことは決してありませんでした。

 主は悪魔の誘惑を受けるために荒野に導かれました(マタイ4・1)主はまた丘のがけのふちまで復讐の思いで一杯になった人たちによって真っ逆さまに投げ落とそうとされるように導かれました(ルカ4・29)。アンナスのところに連れていかれ、さらにカヤパのところへ(ヨハネ18・13、マタイ26・57)続いて長老、祭司長、律法学者の議会に連れ出され(ルカ22・66)、ポンテオ・ピラト(マタイ27・2)のところに導かれ総督官邸に連れて行かれました(ヨハネ18・28)。

 そしてそれから私たちの主イエス・キリストは小羊として虐殺へと導かれました(使徒8・32)十字架につけられるために引き渡されたのです(ヨハネ19・16)。まことに「彼の道は私の道よりははるかにひどく暗いものでした」。それがイエス様が導かれた方法です。しかし、主の民に関しては主は「ご自分の民を、家畜の群れのように荒野の中を連れて行かれた。 彼らを安らかに導かれたので、彼らは恐れなかった。」(詩篇78・52〜53)のです。

主イエス様、あなた様はかつてすべての者のために歩かれたのです
ヴィア・ドロローサ—それは私たちのためでした
どんな芸術家の力、吟遊詩人の才能をもってしても語ることができないでしょう
あなたにとってひとつひとつが揺るぎない歩みであるその犠牲ですから
知識を知悉した愛があなたを信仰に立たせ神様への真実と私たちへの真実へと導く
あなたの道は喜びの道、そしてすべてのあなたの道は平和であり、
あなたの完全な義の衣を着る者の道は
完全な日に向かって段々光り輝く光のようだ
そしてあなたは、今ではめったに引用されない昔の約束を与えられた
なぜなら、それは私たちの弱い信仰にとってはあまりにも明る過ぎるからである。
「もし彼らが聞き入れて仕えるなら、彼らはその日々をしあわせのうちに全うし、その年々を楽しく過ごす。」(ヨブ36・11)
それにくらべ、あなたの日々は悲しみで満ち、あなたの孤独な年々は嘆きを知ることで費やされた
すべては私たちのためであった

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-26-he-was-led-not-gently/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97221です。

第2章 光彩(3)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 1853年※の夏、オーベルカッセルでフランシスはシュルツ・ベルグ牧師夫妻の家に寄宿した。彼は以前彼女の家庭教師であった。彼のもとでフランシスはフランス語やドイツ文学、詩、世界歴史を学んだ。彼女はこのすばらしい牧師と「frau pastorin〈女性牧師?〉」と一緒に過ごし、幸せこの上なかった。輝ける才能を持ち、魅力一杯の若いイギリス少女はしばしばオーベルカッセルに居館を持つドイツ貴族一家の一員としてその「邸宅」に招待された。彼女はこの機会にドイツ貴族社会の多くの人々と知己になった。
 後年、シュルツ・ベルグ牧師が自分のお気に入りの生徒について、フランシスの姉に書いたレポートによると次のようである。「彼女は最初から大変勤勉で、また大変希有な才能を示し、理解力は抜群であることを示したので、私は彼女の進み具合を非凡なものとして話しうるだけである。彼女の存在の上に気高さが刻印され、彼女の考え方すべてを導いたものは真の敬虔さであり、彼女が自らの主、救い主に対して持っていた深い畏敬の念があった。その証しは彼女の若い生活の隅々にまで浸透していた。」

※註1853年と言えばペリーが浦賀沖に来航した年である。昔1982年であったか私の家に一人の若いアメリカ人女性〈日系二世〉が 一夏過ごしたことがある。その時、私は彼女の全生活を見て、この一人の女性を育てた家庭、母国はいったいどんなところなのだろうかと驚異の目をもって日々過ごしたことを覚えている。彼女が置き土産として置いて行ってくれた"Search the Scriptures a three-year Bible study course"は今も大切にしている。ハヴァガルのこの伝記を訳している間にふとこのことを思い出したので書き添えた。 

2016年2月25日木曜日

主にあってのみ義とせられる

2016年の2.25の朝※

私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。(1テサロニケ1・5)
 
 神学的な理解や信仰によって義とされる教理を正しく把握していることに満足しないようにしましょう。数々のことばから真実なものへ、教義から人なるお方に目を転じ、うれしがり、不思議に思う小さな子どものように単純ですばらしい信仰に目を向けましょう。

 神の義(どれほど高貴なことでしょう)は、信ずる者すべてに及びすべての者の上にあらわれます。それゆえ、この瞬間もあなたや私に、私たちが神様の御前に立てるようにと私たちの汚れたぼろきれに代って美しく装ってくださるのです。そしてイエス様は言われるのです。「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。」(雅歌4・7)と。

 その義は全く全部を覆わず、神様のすべてをお見通しになる目をも十分満足せしめないという限界ある義ではいささかもないのです。単なる義ではなく、神の義です。そしてこの義は抽象的な特質を持つのではなく、真に生ける、愛すべき人格あるお方であります。すなわちキリストイエスご自身がご自身の栄光ある衣服で私たちを覆ってくださり、父の御前で私たちの代理となってくださって、私たちのために義となってくださるのです。このことは今日はもちろんのこと、とこしえにそうなのです。なぜなら主のお名前はとこしえに存続するからです。

イエス様を信ずる信仰によるきよさ、決してあなた自身の努力によるのでなく 
罪の支配は恵みの御力によってのみ破壊されるのです
あなたの内にあるのは神ご自身のきよさ、あなたの眉間にあるのは主の美しさ
これが今やあなたの旅の輝きとなり、あなたの祝福された割り当てとなるのです


(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-25-righteous-alone-in-him/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97220です。

第2章 光彩(2)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 それでもフランシスはこういう芳しくないまわりの状態にあって、別のいい環境下で長年過ごしたとしたら「経験したであろうことに比べ、はるかに大胆に決然として主の側に」立たせられた。
 勉学に関して彼女は大成功をおさめた。最後の試験についての彼女自身の説明は年少の友に宛てた一枚の手紙がそのようすを明らかにしている。「Louisenschuleにおいて,
一人の少女がすべてを学ばなかった時(あなたも知っているように私は学ばなかったが)、彼女は彼女の証言を受け入れるしかないが、序列がなかった(それほどすぐれていた?)When a girl has not learnt everything(as you know I did not), she receives merely her testimony, but no number.。この半年、しかし、全教師は職員会議でイギリスから来た少女の論述と行為に大変満足して、今回に限って決まりを破り、彼らが以前に与えたことのない称号、すなわちNumero 1(ナンバーワン)として表彰することに同意したようである。」

※昨日は午後と夜とそれぞれ家庭集会があったが久しぶりに凍える一日であった。昼間は詩篇37・1〜11、34〜40「主に信頼する者」、夜はピリピ2・5〜11「主の心構え」メッセンジャーはいずれもベック兄であった。
 それだけに朝目ざめての庭の景色は目を見張らされるものがあった。2・26事件ならぬ2・25の朝であった。貧弱であった庭は天から降る雪によって新たな装いを得た。まことにハヴァガルの今日の文章そのままだ。
 「三須臾 雪うっすらと 化粧す
 「雪景色 集い明けての プレゼント
 「ハヴァガル 罪おおう主 証しせん 雪の如くに きよめられたり」)

2016年2月24日水曜日

あなたがなすどんなことであれ大きな喜びだ

こうして、民は自分たちのみずから進んでささげた物について喜んだ。(1歴代29・9)

 この章節で、主にみずからささげた物の結果がどんなことであったかを考えてご覧なさい。民は喜びました。そして何でも行なったのです。それは食べることであれ飲むことであれ大きな喜びをともないました。みずから主に自分自身をささげる人ほど幸せな人は決しておりません。 

 主は民に価値のない小さな自己や主にささげた弱くも小さないけにえに対して千倍の報いをお与えになります。主は彼らに彼らがかつて持ちたいと願っていたものを越える平安と喜び、祝福をお与えになります。しかしこれが全てではありませんでした。そのような喜びの日を経験した人々だけでなく、ダビデ王もまた大いなる喜びをもって喜んだのでした。

 王を愛し、王がどれだけの悲しみを経てきたことか、そしてどれだけたくさんの戦いを戦ってきたことかを、思い出し、民は自分たちが進んでささげたのを、ダビデが喜んでいるのをみて、ほんとうに喜んだに違いありません。

 だから、私は私たちの王である神が私たちに進んでささげることができるようにしてくださった時(14節※)王は私たちを喜ばれると思います。これが何よりも最善ではないでしょうか。私たちのために苦しまれ、私たちの救いの大きな戦いを戦われた主イエス様、私たちの愛する王なるお方は、喜びをもってあなたがたのことを喜ばれるでしょう。主は主の愛のうちに憩われ、主は歌声をもってあなたがたのことを喜んでくださいます。

全き明け渡し、喜びの明け渡しをもって私はあなたに自分自身をおささげします、
全くあなたのもの、またあなただけのもの、それはとこしえなるものですから。 
おお、神の御子、あなたは私を愛してくださいます、私はあなただけのものです。 
それゆえ、私が持っているすべて、また私の全存在はこれからもあなたのものです 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-24-great-gladness-in-whatsoever-you-do/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97219です。※14節まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。

第2章 光彩(1)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 1852年11月にハヴァガル氏はいつの間にか低下してしまった視力がますます悪くなる一方だったので、有名な眼科医を求めてドイツを訪れた。新しく迎えた妻と娘フランシスも一緒だった。
 かなりの期間海外に留まることに決めたので、ハヴァガル夫妻が出かけている間、この幼い少女はデュッセルドルフにある「Louisenschule」に在籍するように手はずがとられた。
 その学校の110人の学生の間にあってフランシスは自分だけが信仰を求めていると信ずるにたる理由を持っていた。ベルモントの福音がしみこんでいた雰囲気とは全くちがったのだ。けれども彼女は「大変すがすがしく」決心していた。彼女は熱心にキリストの証しをし、他の人たちの魂を勝ち取ろうとした。かなりの迫害が続き、仲間たちの間に何ら評判の良い結果も得られなかったのだが。) 

2016年2月23日火曜日

すべてはイエス様のため

知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。(詩篇4・3)

今日の箇所は訳出が難しく歯が立たなかった。したがって本文は省略し、詩の部分のみにした。もちろんそれとても詩にはなっていないし、訳せないところはカットした。また訳も正確でないのをお許し願いたい。

真実な心の持主、救い主様、あなたは私たちのことを知っておられます。 
私たちの心は弱いのです、私たちは今あなたの足元に伏しております 
罪深く信用ならぬ者ですが、ただあなたの栄光のために
私たちの心を癒して罪と偽りからきよめてください 
あなたの愛とあなたの栄光を求めて生きたいのです。 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-23-all-for-jesus/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97218です。

第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(16)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 翌年早く、フランシスは勇気を出してクーク嬢に悩みを打ち明けた。この婦人はすぐのちに彼女の愛する継母となった人である。彼女は希望にあふれて、フランシスに赦しを求める願いが強ければ強いほどすぐにそのことは成就されるのも確かなことだという確かな信仰を納得させ、ただちに救い主に魂をあずけるように勧めた。
 この提案はその子に十四年間経験してきた宗教に関する希望の最初の微光をもたらした。そして日ならずしてフランシスは実際に喜ぶようになった。キリストに魂を明け渡し絶えず新しくされ、喜びを与えられるだけでなくいつもそのことを思い起こすことができたのだった。こうして長く待たれていた「回心」がとうとう起こったと、私たちは、公平にも記録していいことだろう。
 その年の夏休み後、フランシスは新しい学校に進学したが、学期が終わる前に頭と顔にひどい丹毒に襲われ多くの月日にわたり勉学を中断した。
 このことは学問を何よりも愛する者にとって恐ろしい試練であった。しかしフランシスは友人であるエリザベス・クレーに次のように手紙を書くことができたのだ。「それでも私はすべて良かったと確信しています。もし父なるお方の手から良いものを受け入れるなら、私はかような不利益を不利益だということで嘆くのでしょうか。どっちみちこの不利益は私が経験で教えられねばならないことを学んでいることにすぎないのです。
 以上で第1章「表面上の明るさと内面の暗さ」〈OUTWARD SUNSHINE, INWARD CLOUDS〉の項目が終り、明日からは第2章「光彩」〈GLEAMS OF LIGHT〉が始まります。これらの個所は2月8日から順次に訳しているもので、そのおりにも出典を紹介したが、初めてご覧になる読者もいらっしゃると思うので紹介しておきたい。http://www.truthfulwords.org/biography/havergaltw2.pdf これは1904年に出版されたもので、婦人の信仰とその生涯を紹介した作品である。ハヴァガル以外にもスポルジョン夫人についても紹介しているようだ。「Women who have worked and won : the life-story of Mrs. Spurgeon, Mrs. Booth-Tucker, F.R. Havergal, and Ramabai」がその原題。Chappell, Jennieが著者である。)  

2016年2月22日月曜日

打破さるべき誘惑

誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。(マタイ26・41)
 
 主のご命令のどれひとつもお互いに衝突したり、置き換えられるものはありません。祈りは目をさますことに代るものではありませんし、祈りは目をさますことを成し遂げる以外のことをなすのです(※)。目をさましていない祈りは妄想であり、祈りなくして目をさますのは空しいのです。

 それゆえに、場所であろうと人であろうと話の種であろうと、故意にも軽率にも誘惑に陥らないようにしましょう。誘惑はイエス様に対する私たちのくちびる(祈りのことば)を守れない危険にさらす傾向があります。恵みが私たちのくちびるにますます注がれるように祈りましょう、主のくちびるに注がれたように。そうすれば私たちの話はいつも恵みをともなうことでしょう。願わくば、「くちびるは没薬の液をしたたらせるゆりの花」(雅歌5・13)であるように、くちびるを清くやさしく愛らしいものとしてくださいますように。

イエス様、主よ、私はあなたのものです。私の信仰を守り、みそばにおらせてください。
私のうちにあなたの御臨在を輝かせてください、私の天国への全行程を元気づけるために。
イエス様、私はあなたの御足のもとにひざまずきます 。あなたこそ私のすべてのすべてです。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-22-temptation-defeated/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97217です。

短文だが訳出に困難をきわめ、意味不明の文章となってしまいました。 ※誤訳の恐れがありますので、原文を併記します。Trusting does not supersede watching; it does but complete and effectuate it.

第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(15)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 フランシスのもう一人の仲の良い学友は、彼女が「完全に心酔した愛情をもって愛した」と告白していた「ダイアナ」であった。この幼い少女は「学校の太陽」であったが、フランシスに似て長い間、罪の赦しを願い、祈っていた子であった。ある日、ダイアナは学期も終わろうとするころ、救い主の愛を突然悟り、その心が燃やされ、その喜びはただちに目に見える形で顔や声に現われた。
 ダイアナはすぐに友であるフランシスを探し、自分の喜びをすっかり話した。メアリーがもうすでに話していたことだが、「福音」を繰り返し話すのだった。「主のところに行くだけでいいのよ、そうすれば主は受け入れて下さるから。今でも主はあなたを愛しておられるのよ、たとえあなたがそのことを知らなくっても」
 けれどもフランシスはクリスマス休暇の間家に戻っており、「みじめな薄暗さの中におり、相変わらず絶望していた」) 

2016年2月21日日曜日

神の充足は充分以上のもの

何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。(2コリント3・5)
 
 私たちは、自分自身の特別な能力、地位、その他のどんなものにもほとんど重きを置きません。しかし、一人の普通の人であっても、その生活がひとたびほんとうに神様にささげられたのなら、その影響力は単なる見せかけのクリスチャンがどれほど多くいてもその力にまさっていることを神様が何度も示して来られたことを思い出しましょう。

 そのような生活はギデオンの三百人が通常の武器を携えるのではなく、角笛やたいまつや空の壺をたずさえたことに似ています。主は他のものを全然用いず、その人たちによって大きな解放の働きをなさったのです。なぜなら、主は力あるものをろうばいさせるために、この世の弱いものを選ばれたからです。

あなた自身を信頼しないで、主の恵みに信頼しなさい。そうすれば十分です。 
あらゆる試みの中であなたは主の万全の備えのあとを行くべきです。 
自分を信頼しないで、主の愛に頼り、変らない愛に憩うことです。 
そうすれば、生であろうと死であろうと、とこしえの流れが明らかになるだけでしょう。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-21-gods-sufficiency-more-than-adequate/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97216です。

第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(14)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 その年の八月にフランシスは初めて全寮制の学校に入った。彼女の舎監となった婦人はベルモントのテード夫人だったが、献身的なクリスチャン女性であった。彼女はその半年間が彼女にとって長い間勤めた学校の仕事の終りになることをわきまえていたので、生徒たちの大切な霊的祝福の時となるように大層心を配っていた。少女たちとともに集団のときであろうと個人のときであろうとも両方にわたって、それぞれの魂を気づかっては、絶えず祈りもし、話もした。その結果多くの回心者が起こされた。フランシスの親友であった二人も心が特にゆさぶられた者たちであった。
  一人はメアリーという名前の少女で、フランシスに罪責感にさいなまれるよりももっといい方法があることを示す最初の人となったようである。彼女はフランシスに主イエス様はどんな小さな子どもであろうと無条件に招かれていることを思い起こさせ、自分がまだ子どもだと感じているなら是非イエス様御自身のところへ直接行って自分はあなたを愛したいのだが、できないでいるのだと話してごらんなさい、そうすれば主が教えて下さることは請け合いだとやさしく懇願した。この確かな助言をフランシスは「暗黒と恐れおののき」のうちに実行したが、喜びの夜明けとまではまだなっていなかった。) 

2016年2月20日土曜日

あなたの「それ」がどんなことであろうとも

馬酔う木の アセビ使うは 民の知恵※

主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。(2歴代誌25・9)

 ユダの王であるアマジヤはエドム人と戦うために出陣しようとしていた。王はイスラエルの王から10万人の兵士を雇うことにより勝利は確実だろうと考え、今日のお金でほぼ20万ドルに相当する百タラントを支払った。けれども神の人は王にイスラエルの軍隊を連れて行かないように警告した。なぜならイスラエルは主を捨てていたので主はイスラエル人とともにはおられなかったからである。

 そのお金を全部無駄にすることは大変遺憾に思えたのでアマジヤは言った「『では、イスラエルの軍勢に与えた百タラントはどうしたらよいのか。』神の人は答えた。『主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。』」

 そこでアマジヤはそのことばに単純に従い、兵士たちを去らせ、神様が兵士なしに助けてくださることを信じた。その結果、彼がエドム人に対して偉大な勝利を獲得したことはいかなる不思議であったことか。このことは私たちに私たちは正しいことを単純になし、いかなる犠牲を払っても神に信頼すべきことを教えていないだろうか。

 あなたがこのことをなす時、あなたは今まで考えたことのない何百ものやり方で、「主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。」を経験することだろう。

 試みは多くの様々な方法でやってくる。ある人は急いで祈り、聖書を読むようにと誘惑されるかも知れない。なぜなら、朝食前に済ませたい他のことがあり、十分な時間を取れないことを恐れているからである。別の人は神様のはたらきのために何かをささげる要請がある時、財布を閉ざしている。なぜなら、彼女は別の目的のために十分お金を残しておかないことに恐れを感じているからである。別の人は正確な事実を話さないように、または話さねばならないことを隠すように誘惑されている。なぜなら彼はそれによって何かを失うかもしれないからである。

 おお、悪魔に抵抗せよ。そしてあなたが正しいと知っていることを行ない、あとは神に信頼せよ。なぜなら、あなたのそのことがどんなことであろうとも、主ははるかにまさるものを与えることのできるお方だからだ。そして主の恵みと祝福はそれにまさり、ほかのどんなことよりもまさる。

おお、あなたは私にはるかにまさることをなされた 
私が求めたり考えたりすることよりも
私は見て驚くばかりだ
私の主であるあなたが、これまでなされたことを
その上、毎日のようにどんな嬉しい教訓を
教えられることだろうか


(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-20-whatever-your-this-may-be/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97215です。

第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(13)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 そんなふうにして子ども時代の年月が過ぎ去っていった。フランシスは聖書を個人的に読み、規則的に熱心に祈っていたし、自らの大きな心の醜さという絶望的な有罪宣告を克服して夜寝るために叫んでいたこともまれではなかった。それは22歳になっても彼女が特別な感謝の心をもって、自分は「他の人と同じ善人」だとあえて思う「致命的な罪」から守られて来た証拠だとして記録しているものだ。
 こういう隠された悲しみの兆候は、1850年の春にはほとんど憂鬱症に変じたように見える。ちょうど10代に突入する幼い少女の魂の上に「一つのこと」を除いていのちと地上と万物の空しさという奇妙な新しい感覚がやってきては、ひとりでいる時、座ってはそのことをすっかり考えては嘆き悲しむのであった。ベットの中でまんじりともせず、彼女は多くの時間を真剣に過ごしたが、彼女のかわいそうな悩める小さな心にとっては「信仰」の賜物を求めて祈ることは無駄のように見えたし、それと同程度の漠然とした信仰に対する理解があった。すなわち、救いは信仰なしには不可能であると信ずるように教えられてきたのだ。

※庭師の方により何本かの樹木が剪定された結果、伸び放題であった樹木はすっかりきれいになったが、半面寂しくもなった。ただ、こうして春、夏の若葉の季節に備えると思えばまた愉しからずやである。そして庭師の方のさわやかな仕事ぶりは今も余韻となって私の心を支配している。彼のことばを書き残しておこう。「見ず知らずの人間を信用して大枚をはたいて仕事を依頼した人には、自分もその信頼を裏切らないように仕事をしたい」「職人にとって大切なのはまず道具です、いかにいい道具を揃えるか、それによって仕事の出来具合は半ば決まるものです」

 政治家にこのモラルを求めるのはもはや無理なのだろうか。政治家の武器は「言論」と選挙民の負託に応える「信用」である。憲法の根幹をないがしろにする政治が、「電波停止」をちらつかせたり、あげくには「言論統制」とやじったりする今日の言論の混乱を招いていると私には思えてならない。「憲法改正」を主張するなら、「言論の自由」を守りながら与野党が切磋琢磨して討論を戦わせながら行なうのが本来の筋ではないか。) 

2016年2月19日金曜日

神の変らざることば

三須臾 金木犀 もみの木 沙羅双樹 山茶花 椿 山帽子(※)

(神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。)神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。神は祝福される。私はそれをくつがえすことはできない。(民数記23・19〜20)
 
 「私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40・8)この永遠の岩に反抗して泡となって砕かれるしゃがれ声である反動のあらゆる獰猛な波は、「私はそれをくつがえすことはできない。」とつぶやくにすぎない。実際には私たちがもっともそのくつがえしを恐れるようにそそのかされたものの四分の一であったとしても、私たちが自分自身でそれをくつがえすことができないのは、もっとも祝福された慰めを与える考えではないのか。

 というのは、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」(2テモテ2・13)アダムの堕落から今日に至るまであらゆる地で生まれ、また悪魔に吹き付けられた疑いという霧や雲は、神様がご自身の永遠の真理に触れさせず大空に置かれた一つの星のすばらしさに、一指だに触れることができなかったのだ。

全能なる神様 諸国民の王である方 地はあなたの足台、天はあなたの王座 
あなたのものは偉大で、力あり、栄光あるもの あなたのものは王国、主お一人だ 
生と死はあなたの御手のうちにあり、あなたのご意志がすべてを支配する 
あなたの天の軍勢から目に見えない昆虫の死にいたるまで 

 (今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-19-gods-immutable-word/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97214です。

第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(12)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 フランシスは11歳の時、母親を亡くした。彼女は悲しみにうちひしがれたが、残念なことに彼女はひどい打撃のうちに神様の御手を見なかったし、見ようともしなかった。そして霊的状態に関して自らが気づいていた以上に最悪の状態だったと告白していた。しかしこの幼いかたくなであった罪人は(後年になって自らがそのような罪人だったと心から信じていたのだが)当時彼女の小さな詩集に書き記した。

 「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないもの、神が神を愛して信じる者のために備えてくださった祝福されたもの」

 そしてさらに
 
 「おお、私に鳩の翼があったら、すぐにでも飛んで行こうものを、私はそこで休みを得よう。愛する救い主のもとに飛んで行き、その胸元で憩いたい」と。

これらの詩は言うまでもなく、1コリント2・9や詩篇55・6にちなんだものだろう

※昨日朝、珍しくも庭の樹木の剪定を植木屋さんに依頼しようと秘かに考えていた。このことは家内にも話していなかった。ところがそれからものの二時間も経たないうちに、玄関先にどなたかが訪れ、家内が応対に出た。ややあって、「植木職人の方が来たので頼んだ、値段も手頃だ」と言う。お願いした。11時ごろから4時ごろまでお昼抜きで剪定から後始末まできれいにしてくださった。その仕事ぶりはこれぞ「職人」というものであった。お歳を聞くと昭和13年生まれと言う。このところ毎日のように「政治家」が様々な失言をする。そこにプロとしての「矜持」〈甘利〉があるのだろうか。市井の無名の人々が築いて来た文化・美徳を粗末にして欲しくない。)

2016年2月18日木曜日

抵抗できない愛により引き寄せられて

『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』(ヨハネ6・65)
 
 このみことばに尻込みしてはいけない。このみことばに挑戦しようとするな。忠実にして真実な証人であるお方が語られ、聖霊がとこしえに記録したことなのだ。そこでは心がやわらかくされないで、繰り返し頑にされている。なぜなら多くの主の弟子たちでさえつぶやいたのだから。

 そのように私たちがイエス様のところに行くのは私たちから出たことではない。あくまでも神様からの賜物であった。どのようにこの賜物は働いたのか。駆り立てることによるのではなく、引き寄せることによった。「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」(ヨハネ6・44)

 ここにたいせつな「思う者は」(マタイ16・25など)ということばがある。なぜなら、父が引き寄せられない限り、アダムから生まれた人間の中にはいまだかつてイエス様のところに行きたいと思う人はいなかったからである。

 その他には何もなかった。イエス様が私たちを引き寄せられねばならなかった。さもなくば、私たちは決してイエス様のところに行きたいとは思わなかったであろう。それどころか、私たちは異邦人として、あるいは敵としてとどまり、明白に行きたくないと言う態度を取り続けたはずである。

 おお、この恐ろしいまでの堕落の深さは次の鋭い剣のみことばが明らかにした。「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5・40)だからあなたは主が引き寄せられるまで決して主のところに行こうとしなかったことを思い、このような始まりがまさしくあなたの始まりであったことのゆえに主をほめあげよ。

帰れ!
おお、我が愛する者、選びし者
汝を招かれる救い主と視線を合わせることを恐れるな
わたしはどれほど長い間汝の名前を呼んでいたことか。
わたしは知っている
汝が裏切りをもって答えようとしていたかも。
さあ、わたしは汝の道を見て来たが、癒したい
帰れ!汝はまだわたしから遠く離れたままでいたいのか?
わたしの怒りはもはやあなたの顔からそむけられている。わたしは汝をあがなったからだ。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-18-drawn-by-irresistible-love/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97213です。

第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(11)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより

 特に月一回の主の聖餐※の執行は、フランシスが神様に近づきたいという思いをかなり強く起こさせたが、見物人としてその場にいることは許されなかったので、閉ざされた扉越しに聖餐の様子を聞いたが、それは自分のためでないと知ってすすり泣きしたものだ。けれどもかなり多くの神経過敏なこどものようには、フランシスはこういう悲しみをもっとも近しい人や親しい人にも打ち明けなかった。こういう人たちの生活のすばらしさは、彼らの信条の厳しさとくらべて、幼い魂が満たされるための義を追い求める飢え渇きを起こさせる主な助けとなった。

 ※聖餐は主の裂かれたからだを象徴するパンと、流された血潮を象徴するぶどう酒に、主イエス様を心から信ずる者が、洗礼を受けているか、受けていないかを問わずにあずかるもので「キリスト集会では、エペソの教会の人々のように『初めの愛』を忘れることのないよう、毎日曜日、主の聖餐にあずかることにしています。私たちは主の聖餐を通して、主の苦しみと死と恵み、そして愛を思い起こそうとしています。私たちは聖日ごとに、主の恵みに対する感謝の思いを新たにし、心から主に礼拝を捧げています。このことによって、私たちは『初めの愛』に留まることができます。」〈すぐに起こるはずのこと第一巻ベック著151頁より〉)

2016年2月17日水曜日

律法から愛の拘束へ

振り仰ぐ ミモザたわわに 青に映ゆ N氏聖餐 よみがえる如※

主が彼らを私に渡してくださったら、私はあなたがたのかしらになりましょう。(士師記11・9)
神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。(使徒5・31)

 私たちがどうすることもできない罪の重荷をもって、何をさておいても先ず主のところに来たとき、主のところに行くしか手立てもなく、主は捨てられないというおことばを受け取る以外に救いはなかった。そして、そう信じて私たちは魂の安らぎを見出した。主のことばは真実であり、主が罪を取り去ってくださるのはほんとうだと知った。 

 ある者はその場ですぐに主に自らのいのちをささげ、もはや自分自身のために全然生きず、自分のために死んでくださった主のために生き始める。これがあるべき姿である。なぜなら回心と献身は同時に起こるからである。けれども実際にはそんなふうなことはそれほど度々あることではない。突然暗やみからまばゆいばかりの光のうちに移され、もっとも深い対照をフルに経験した人々に限る。

 その働きはさらには出エジプト記で叙述されているヘブル人の奴隷の場合と似ている。かの奴隷は六年間良い主人のもとで仕えたのち、自発的に永久に身をささげ、「私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。」(出エジプト記21・5)と言う。その結果、主人は奴隷を受け入れ、奴隷が律法から解放され愛の拘束下で終生仕えられるように保証する。これは信者がのちに経験する献身と愛の象徴のようにみえる。

私は愛しています。私は私の主を愛しています。自由の身となって去りたくはありません。
主は私の贖主です。主は私のために犠牲を払ってくださいました。
私は主にいつまでもお仕えしたいのです。ご奉仕はあまりにも楽しく、祝福あるものです。
主はもっとも元気のない時に最大の信頼すべき休息を与えてくださいます。
主はすばらしい口調のことばをもって私の願いを叶えてくださったのです。
それゆえ、私はとこしえにご自身に、ご自身だけにお仕えします。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-17-freed-from-law-bound-by-love/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97212です。

第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(10)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 フランシスの明るい魂をしばしば暗くする霊的な飢え渇きと暗黒の様を誰も推し量れなかった。幼い心が大いにして父なる神様との交わりをどれほど恋い焦がれていたか、何人も想像し得なかった。また両親の信仰箇条が主張するお決まりの経験によれば「クリスチャンになる」ことは不可能だと知り、絶えずその感情がどれほど抑圧されていたかも想像できなかっただろう。
 「私の全般的な考え方は」と彼女はこの求道の年月について自伝の中で書いている。「全く神様を愛していなかったこと、そしてかなりひどく、完全に悪であったということである。もし私が熱心に祈り続けようものなら、何かが私の身の上に起こり、突然私を変え、私が読んでいた多くの人や私の出会った少数の人のようになったであろう」

 ※西高東低の気圧配置、寒い中にも青空が広がった。昨日の吉祥寺の住宅街の一角である。ベック兄の学びはエペソ1・20〜23、4・1〜3で「御霊の一致」であった。そのあと89歳のS氏の誕生日記念をともに「心」で祝った。証しはN氏、10年ほど前の石川県の小松で聖餐にあずかった時のことを語られた。感動がよみがえった。その場にS氏も私たちもいた。主にある交友は時空を超えて続く。) 

2016年2月16日火曜日

神様はあなたに語ろうと待っておられる

私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。(ハバクク2・1)

 主イエスがパリサイ人のシモンに、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた時、シモンは、「先生。お話しください。」と言った(ルカ7・40)。神様がサムエルに話そうとされた時、「お話しください。しもべは聞いております。」(1サムエル3・10)

 主イエスは私たちに対してこんなふうに何かを言われたことがありますか。彼は言われます。「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんあります」(ヨハネ16・12)どんなことでしょうか。それは力あり、助けに満ちた、いのちを与えることばです。主イエスは言われます。「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6・63)

 それはまた愛あることばです。「優しく彼女に語ろう。」(ホセア2・14)さらにそれは非常に親切でやさしく時にかなったことばです。主イエスは「疲れた者をことばで励ますことを」(イザヤ50・4)知っているとおっしゃる。

 けれども主イエスはこの私にもほんとうに語ってくださるのでしょうか。はい、語ってくださいます。ただし、あなたが何を語りかけてくださるかを待ち望んでさえいたらです。なぜなら、その声は静かで小さく、耳を傾けないなら決して聞くことができないからです。

主よ、お語りください。私はあなたの前に額ずんでおります、静かに耳を傾けて
おお、私はいつまであなたにこの願望が満たされるように懇願するのでしょうか
あなたは私に一言もかけくださらないのですか。
私の祈りは聞き届けられないのではないですか。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-16-god-waits-to-speak-to-you/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97211です。

第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(9)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 「私の父なる神は自然界すべてをお造りになった」

 ただちにこの子どもの心は目覚めさせられ、こういう詩を自分のものにしたいという強い願望を生み出した。繰り返し繰り返し、到達不可能な喜びの思いに浸され、一日に何回となく「ああ、夏が来るまでに神様が私をクリスチャンにしてくださればいいのに」と言わしめるほどだった。彼女はそれほどまでに神の美しい作品を限りなく楽しむ思いに焦がれていた。
 しかし、悲しいことに、当時流行の神学は、私たちの救い主が弟子たちに教えられたことを無視していた。すなわち子どものようになるために心を入れ替えねばならないと言われた主の教えを無視して小さな者に「回心」として知られている道徳的な変化を求めていた。その結果長年にわたってこの教義が少女ファニー〈フランシスの愛称〉と救い主の待っておられる愛との障壁となった。) 

2016年2月15日月曜日

神様のご用に用いられる器

あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。(ローマ6・13)
 
 あなたがた自身とは何のことでしょうか。それは手であり、足であり、くちびるであり、目や耳その他のものです。私たちはそれらをどう扱うべきでしょうか。それらを差し出すこと、全部一緒にです。神様に明け渡すことです。何のためにでしょうか。

 神様はそれらを義の器として用いようとされているのです。それはちょうど音楽を演奏するためには楽器を手にしなければならないのと同じです。神様は私たちの手足やあらゆる部分を取り上げて、正しい良いことをなすために用いられるのです。

 もし私たちが神様に自分自身をささげたなら、私たちの体のすべての部分は神様の召使、神様のために用いられる道具となるべきです。私たちのすべての部分はサタンに仕えることをやめて神様に仕えるものを見出すでしょう。なぜなら、もし私たちが神様に自らをささげるなら、神様はそれらを取り上げお用いになります。

 もし、私たちがそれらを、また私たちのすべての自我を神様にささげるなら、神様がどんなに多くの方法を用いられるかを知って驚くことでしょう。(ピラトの妻が言ったように)「かかわり合わないでください」(マタイ27・19)と言って決して二度と苦しむことはないでしょう。


あなたは「もはや自分自身のものではない」(1コリント6・19)、神様のものです。大きな犠牲が払われたのです。
なぜなら、あなたのいのちは全地球上の宝石や金の貯えにはるかにまさる
キリストの尊い血、値のつけられない身代金である宝物によって
完全な贖いが獲得され、完全な救いが保証されているからです
 
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-15-instruments-for-gods-use/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97210です。

第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(8)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 フランシスは自然を非常に愛していた。青い空、日光、緑の葉の愛らしさ、波打つ木々、それらは彼女にもっとも強い影響を与え、しばしば彼女の不安を静め、やさしい友だちの励ましがほとんど何の効き目もなくなったときにも神様の平安をもって心が鎮められるのであった。彼女は手にする詩をことごとく読んだ。彼女がウィリアム・クーパー※の神の世界における様々な被造物の美しさについて、それは「私の父なる神様が全部お造りになった」で終る数行の詩にたまたま出会ったのはやっと八歳になった時であった。※クーパーについては以下がくわしい。http://www.hymntime.com/tch/bio/c/o/w/cowper_w.htm) 

2016年2月14日日曜日

全く愛なるお方

M.Y兄の墓碑※

そのことばは甘いぶどう酒。あの方のすべてがいとしい。エルサレムの娘たち。これが私の愛する方、これが私の連れ合いです。(雅歌5・16)

 私たちは雅歌5章16節について言われている方について「どなたのこと」と問う必要はない。こんなふうに言われるのは愛されるお方、聖なるお方、あがめられるお方、栄光あるお方だけだからである。

 イエス様だけを、私たちは愛する。今まで見たこともなかったが、しかしある日、私たちはイエス様のすべての美しさを見る。その日イエス様は聖徒のうちにあって栄光を与えられ、信じるすべての聖徒にほめあげられるために来られる。

 ああ、もし私たちが今イエス様とお会いできたなら、主がこの瞬間にもいと高き方、すなわちご自身が神の栄光の輝きそのものである方の右の座に座られるその時、そのすばらしさはどんなに大きいことだろう。私たちはヨハネと同じように主の足もとに死人のように倒れ伏さねばなるまい

 けれども、もし主が私たちの上に右手をおいて「恐れるな」と言われ、もう一度見上げるなら、私たちは何を見るのだろうか。ああ、何という愛らしさ、ああ、何という美しさよ。人の子どもよりはるかに美しく「万人よりすぐれ」(雅歌5・10)ているお方が私たちの主イエスであるのだ。

 そしてあらゆる栄光のうちに主、「このイエス」(使徒1・11)は現われる。。主の御顔は今や太陽が主の力にあって輝くのと同じ輝きを持っておられるのに、主の子どもに対してはやさしく微笑み、疲れた者に対しては親切に接し、その上、力ある愛のすばらしい姿をあらわされる。その愛をもしも全世界が見ることさえできたなら、どれほど驚くことだろうか。

 さらに傷跡もある。その傷跡は彼の非常な美しさをもっと美しくする。その傷は愛の傷だから。彼は墓からよみがえるとき釘跡を失くしはなされなかった。主のまわりにいる天使たち、贖われた人々は今も見ることができる。なぜなら王座の真中においてさえも主はほふられた小羊であるからだ。

 そんなふうにして、その愛は栄光をあふれさせた。私たちの主イエス様は全く愛なるお方である。私たちの主イエス様。そうだ。全き愛なるお方は私たちのためにご自身を与えられたのだ。その結果、聖徒の中のもっとも小さき者でも「これが私の愛する方、これが私の連れ合いです」と言うことができるように。

ああ 救い主様、たいせつな救い主様、私の心はあなたの足もとにあります
私はあなたをあがめます、あなたを愛します、お会いすることを待ち望んでいます。
あなたの美のうちにあなたを見るのです、顔と顔を合わせて
あなたの栄光のうちにあなたを見て、私はあなたの恵みの笑みを受けます。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-14-altogether-lovely/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97209です。

第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(7)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 こういう数行の詩の韻律の中に見られる顕著な正確さというものは二連三行よりなるかなり多い詩の中でも一音節によって損われているに過ぎないことは注目すべきことだ。このことは「父(father)」ということばがもとは「牧師(the pastor)」の地位を占めて来たことを暗示している。それは真実であることはもちろんのことごく自然であったのだろう。〈「盲蛇に怖じず」で恥も外聞もなくハヴァガルの霊想を訳しているが本来的には韻を踏んで書かれている彼女の詩はそれなりのふさわしい訳が求められているのだが、いかんせん、当方は英詩の教養とて一つもない。関心のある方は「英詩のこころ」福田昇八著岩波ジュニア新書が手頃である。読まれたし。
 フランシスは父に似て、「敏捷」で陽気なたちで、日の光に煌めく妖精のようなこどもでもあり、「時々本能の余り少しわがままになり手こずらせたが、普段は心やさしくどんな小さなことでも感謝する子だった。」

 ※昨日は一足早く春が来たかのような暖かい気候の中、昨年11月16日に91歳で召された方の納骨に家族・親族の方々とともに総勢20名ほどで立ち会った。召された方は北海道から内地に移り住んで後、この募地を購入し、自らの信仰に基づいてこの墓碑を作られた。) 

2016年2月13日土曜日

あなたは買い出された主の持ち物

わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。(イザヤ43・1)
 
 主の贖いは人を束縛と死から買い出すだけではなかった。それはちょうど人が冬の夕べに捕えられたツグミを買って来て、わなをほどいて自由ににしてやるが、あとは食べるために殺して冷えた空きっ腹に入れて、もうすっかり自由にしてやったことを忘れているというものではなかった。

 主は人をご自身のために贖われたが、それはご自身を分与することであり、宝物とすることであり、喜びとすることであった。また、「人々を主の近くに」おらせ、あらゆるご自身の神の愛が喜びの良き機会として注がれる対象とすることであった。

 主のご栄光と私たちの幸せは分かち難く、贖いのうちに結び合わされている。主は「ご自分と一つの同じ名前とするため」に贖われた。私たちはうやうやしく次のように言うことができる。 すべての名にまさるお名前そのものも、このため以外には神の子の昇天の冠とはなり得なかっただろう、と。

ああ、恵みの不思議さよ 
私たちをあなたの御顔の前に立たせるために選ばれ
あなたの特別な宝物とするために
あなたの割り当て、あなたの喜び、あなたのものとするために 
喜びが与えられる 
唯一の望みであるあなたのお名前を恐れる人のうちに 
あなたのやさしいあわれみという限りない方法をとおして

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-13-you-a-purchased-possession/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97208です。

第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(6)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 フランシスのつくった歌(英詩として韻が踏んであるはずだが訳は無視してある

 ♪日曜日は楽しい日よ
    教会へ行く日だもの
     だって、歌を歌い、聖書を読み、お祈りするのよ
      そしてお話も聞くのよ

  日曜日には鐘が聞こえてくる
    まるでこんなふうに言っているようよ
     教会へ行きなさい、牧師さんが話すのよ
      キリストが人のためにどのように血を流されたかを

  もしも祈り、聖書を読むことが好きなら
    幼い私たちもつねに助けられ
      キリストはいのちにかけて
       私たちを守ってくださるのよ     ) 

2016年2月12日金曜日

初めに聞き、のちに語る

「善福寺 長足のあと 舌鼓」※1

主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて仰せられた。(1サムエル9・15)

あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。(マタイ10・27)

 主がつねに私たちにまずメッセージを与えられるということは、主がご自身のメッセンジャーを取り扱われる際にお見せになる特別おやさしい面です。主が私たちに光の中で話すように言われることは、最初暗やみで、すなわち私たちの部屋や、少なくとも私たち自身の心の中の隠れたところで語られることです。

 だから、私たちが主の足もとに座って主が私たちに仰らねばならないことを知ろうと注意すればするほど、私たちはますます他の人々に語らなければならなくなるのです。主は私たちに何も知る由もない、そして関心を持つことのできない封印された文書を渡されるのではありません。

主は暗やみの中で語られた。あなたが悲しみのあまり沈黙しているところに
大変深くやさしい同情を、あなたの心が解放されるために力強く
あなたの悲しみの夜に、励ましと和めることばを話して 
あなたの傷つける心にやさしく、真実またいやしの香油をそそがれる 
主が暗やみであなたに話されること 、日がな一日疲れ果てるまでみことばを見張っているあなたに
感謝にあふれたくちびるといのちは口をついて出て来よう、暗やみは消え失せて。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-12-first-learn-then-tell/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97207です。

第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(5)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 幼いフランシスは、四歳の誕生日に、不思議な話になるが、夕食後のデザートで月桂冠〈※2〉のリースの冠をかぶらされた。それは彼女が将来有名な詩作をする預言的なできごとであった。〈※2 月桂冠と詩作との関連はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%86%A0%E8%A9%A9%E4%BA%BAに書いてある。〉彼女の活発な頭脳はつねに向学心に燃えていて、姉たちが応接間で先生にドイツ語を教わっている間も、気をつけていたので、その言語のかなりな知識を身につけた。七歳で彼女は最初の簡単な歌を書いた。その歌は自然に彼女がいつも聞き慣れていた教えの反映であり、また我が国(イギリス)の教会の間で後年鳴り響くこととなる、彼女の流暢なペン先から流れ出るたくさんの賛美歌を予見する歌であった。

 ※1 昨夕は成蹊大から善福寺まで歩いた。長男と会食をするためであった。誕生プレゼントだと言う。と言うよりも、折角出かけた別の会の帰り道を利用し、こちらから電話をし押しかけた。懐を痛めさせたが、こうして親子水入らずで話す機会が与えられたのは、望外の幸いであった。昼下がりに味わった二十数名の方々との楽しい語らいの余韻もまだ覚めやらぬ時であった。考えてみるとその前の日は二年来の友であるAさん、Mさんと私たち夫婦で手作りのものを持ち寄り、Aさんの寄留先で親しい語らいのときを持たせていただいた。「悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。」箴言15・15〜17) 

2016年2月11日木曜日

贖罪・分離・承認

The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappell95頁より引用

地上のどの国民があなたの民のよう、イスラエルのようでしょう。神ご自身が来られて、この民を贖い、これをご自身の民とし、これにご自身の名を置かれました。あなたは、ご自身の国のために、あなたの民の前で、大いなる恐るべきことを行ない、この民をあなたのためにエジプトから、そして国々とその神々から贖ってくださいました。こうして、あなたの民イスラエルをとこしえまでもあなたの民として立てられました。主よ。あなたは彼らの神となられました。(2サムエル7・23〜24)
 
 三つの思想をふくむ一つの思想が、この神の民の歴史のあらましに浸透しているように見えます。その一つの思想とは「あなたのために」ということです。その一つの中にふくまれる三つの思想とは、あなたを贖われたこと、分離されたこと、承認されたことです。

 第一は神様がその民を贖うために出て行かれたことです。 そのことはただ手をこまねいて座っていることでもなく、犠牲のない命令でもありませんでした。「あなたは、ご自分の民を救うために出て来られ、あなたに油そそがれた者を救うために出て来られます。」(ハバクク3・13)「あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ5・2)ということ、そして私たちが信仰によって「わが王わが神の行列を」(詩篇68・24)見たということです。

  主はあなたがたのために大いなる恐るべきことをなさいました。その大いなることは恵みにおいてであり、恐るべきことは義においてでありました。あらゆる神様の崇高でバランスのとれたご性質をあなたがたの贖いの大いなる働きのために用いられました。「ご自分の民の前から追い払われたのです。」(士師11・23、1歴代誌22・18)私たちが見て、知り、信じ、ほめあげるようになるために。

 第二に、このご自身による贖いは必然的にエジプトから、またその国民やその神々からの分離を伴いました。私たちが「〜から」なしに、「〜へ」を経験できないのは、北極地方から離れずして、赤道へ行けると思うのと同じです。そのように「あなたのところへ」という苦難と証明は、「エジプトから」ということにかかっているのです。

  第三に神様はどれだけ豊かにすべての私たちに対するお取り扱いを印されていることでしょうか。そのように主は私たちをご自身のもとに贖われ、分離されるだけでなく、「こうして、あなたの民イスラエルをとこしえまでもあなたの民として立てられました。」(2サムエル7・24)主が立てられるのです。私たちではありません。主の御手が基礎を築き、また完成もするのです。主は私たちをキリストのうちに築き、「確認の印を私たちに押し」(2コリント1・22)ます。主はまた「私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。」(1コリント1・8)

ああ、あなたがたは、栄光ある、祝福され、かつ確かなイエス様の教会として選ばれ、
とこしえに耐える基礎の上に築かれるのです 
あなたがたの聖さや美しさがあなたがたの力や安全となるのでなく
全能の神が愛してくださるとこしえの愛によるのです


第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(4)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 当時、遊びながら学ぶという幼稚園はまだ知られてはいなかったが、おそらく幼いフランシスは早熟していたのでそのような学びも大した負担ではなかっただろう。むしろ大きな牧師館の庭を利用してペットである犬を連れてははしゃぎまわっていた。〈冒頭の写真がその牧師館である〉フランシスが父のまねをして賛美歌を歌い始めたのは、まだほんの子ども時代にすぎなかった。父は音楽の才能に加うるに「美しい声」の持ち主であった。三歳の時、 彼女はやさしい本はやすやすと読み楽しむことができた。そしてよく夢中になった物語はテーブルの下に隠れては読みふけったものだ。) 

2016年2月10日水曜日

理想の友

by two daughters

わたしはあなたがたを友と呼びました。(ヨハネ15・15)

 誰か理想の友であり、さらにほんとうの友を求めなかった人がいるでしょうか。理想の友とは、私たちのことを正確に理解し、何でも話すことができ、信頼できる人です。また大層賢く正直な人です。その愛と限りない影響に確信を持つことのできる人です。

 また私たちが決して望むことができないであろう別の点もあります。この友は私たちよりはるかにまさっていながら、なお私たちとともにあり、常に私たちのことを考えているもっとも近い人、もっとも親しい人です。すべてのことを理解し動かし、何ごとも忘れることなく失敗もせず、全くもって変わることもなく死ぬことがない人です。その結果この大きな友情は私たちの生活を満たし、これ以上どんなこともわずらう必要がないというものです。

 そのようなお方が私たちの王であり友である方であり、それ以上の方ですらあります。どんな人の友情の可能性も主が「あなたがたは私の友です」と言われるものになぞらえることはできません 。私たちは、私たちでさえ、栄光の王、私たちの主であり私たちの神を見あげて、「この方は私の最愛なる方、そしてこの方は私の友なる方です」と言えるのです。さらに王の仲間、王の友である特権を主張することもできるのです。

私はあなたなしには何もできませんでした、ああ、イエス様、愛する救い主。
私の目が閉ざされる時でも私はあなたが近くにおられることを知っています。
この移ろいやすい人生はどれほど憂鬱でさびしいものでしょうか。
もしもあなたとのすばらしい交わりも、また密やかな休息もなければ。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-10-an-ideal-friend/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97205です。

第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(3)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 彼女のセカンド・クリスチャン・ネームのリドレーは名付け親であるW.H.リドレー牧師によるものである。彼は殉教した司教の血を受け継いだ子孫であり、フランシスはそのため生涯この影響が顕著であった。この思いを彼女は詩の中の一つで次のように表している。 

 リドレーに代表されしもの、
 そは尊敬し、崇めるもの
 ダイヤのごとく
 われをつなぎとめる金の鎖の上にありて
 英国の望み、わが慕わしき主の教会
 忠誠な愛、注ぎたし

  かなり多くの傑出した賜物を与えられた子どもと同様に、フランシスの早熟さは群を抜いていたので、5、60年前の慣習に従って彼女の教育はほとんど口が利けるやすぐ始められた。一番上の姉のミリアムがフランシスにとって最初の教師であった。彼女はそのころ二歳であったこの生徒について、色白で髪の毛がやわらかくカールしていて表情の明るい大層かわいい子どもだったと述べている。その歳でこの小さな子はもうすでに流暢に話ができ、読み書きを教わり、毎朝30分 ほど、ジェイン・テイラー※の歌の一つを教わりもした。午後になると針仕事の2、30のステッチを仕上げることや聖書を読むことが決められた日課であった。
「キラキラ光る」の歌https://en.wikipedia.org/wiki/Twinkle,_Twinkle,_Little_Starで有名。

2016年2月9日火曜日

あなたは神様を喜ばせていますか

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6・10)
あなたのみこころを行なうことを教えてください。(詩篇143・10)

 あなたは誰かが非常な喜びをもって何か美しくかつ楽しい仕事をしているのを見て、「私もそんなふうに仕事をしてみたい」と思わなかったでしょうか。そして、恐らくあなたは「どうぞ私にやり方を教えてください」と言ったでしょう。

 あなたは天使たちが喜びいっぱいにしていることよりももっと楽しくするものを何か思いつくことができるのでしょうか。 楽しい地、上なる美しいふるさとでなされることよりももっと美しいものをも。 さらに、天国の住民が何億年もなして倦み疲れなかったことよりももっと興味深いことを何か想像することができるでしょうか。

 この聖句のもう一つのバージョンは「私にあなたを喜ばすことを教えてください」と言うものです。そのように神様のご意志をなすことは、まさしく神様を喜ばすことを一つずつなすことに他なりません。なぜダビデはこのことを尋ねたのでしょうか。

 彼はなぜかということを続けて言います。「あなたこそ私の神であられますから」 私たちもまた、もし神様がほんとうに私たちの神様であるなら、神様をおよろこばせずにはいられないでしょう。ところで、ダビデは自分でそのことができるとは思いませんでした。なぜなら彼は「いつくしみ深い霊が私を導いてください」と言っているからです。

 いつくしみ深い霊はあなたをも導いてくださいます。その結果、あなたは天使たちが天国でなしていることを、地上においても始めることができるでしょう。

私ができるのは主に対してほんのわずかなことだけです。
ですから、地上の旅路が続く限り主にお仕えしたいのです。
ためいきやつぶやきを吐かないで、主の聖なる御心をなすために。
日々なさねばならないことは主の賢きご命令がかなえてくださるのです。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-9-are-you-pleasing-god/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97204です。

第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(2)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより                         
 ハヴァガル夫人は、彼女の結婚生活の初期の頃親しくつきあっていた人によると、非常な美貌の持ち主で、「表情が明るく、目は輝いて」おり、幼子フランシスはそれを受け継いでいた。彼女が深いキリスト者の性格を備えた婦人でもあったことは往復書簡を見ても、また比較的若い年齢でその生を終えることになった長い痛みをともなう病気の間、忍耐と従順を学んだことを見ても豊かに証明されている。それゆえに、これまでの素描の大要はフランシスがこのような両親双方からかなりの素質を受け継いで生まれたことにある。) 

2016年2月8日月曜日

隠された美しさ

The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappell 117頁より

あなたは、私のまぶたを閉じさせない。(詩篇77・4)

 もし私たちが毎晩、主が愛される者に与えられる主の平安な贈り物を十分に受け入れて、いつも「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。」(詩篇4・8)と言うことができても、眠れない者には、この特別なことばの隠された美しさを学ぶはずはないでしょう。

 しかし、退屈な夜が来ても、それらの夜が主が用意してくださったものであると知れば黙っておられます。このことは主に、より近くなり、親密になることであり、個別的であり独自なものであります。それは私たちの父なる神様が用意されたものであるだけでなく、みわざでもあります。「 あなたは、私のまぶたを閉じさせない。」それは神様が私たちに単に眠りを与えないということではなく、また否定でもなく、別の処遇なのであります。

 疲れた目が眠らない時はいつでも私たちの父が目を覚まさせておられるからです。「眠りにつくことができればどんなにいいことでしょう」と言うのはごく自然のように見えます。しかし、そのことでさえ私たちの父の御手に信頼することにより落ち着くのであって、ふさわしい時間になり眠りに陥るまで、疲れたまぶたをゆるめさせないでささえてくださっているのです。

主は暗やみの中で語られた。夜のしじまのうちに。 
父なる神様がやさしく語られるいのちと愛と光のことばの数々。 
暗い静寂の中に愛される者と愛する方の御声がやって来た
平安と聖なる喜びを、主の子どもたちが喜ぶように話しながら。
主が暗闇の中であなたに語られ、夜に主が与えられる歌を 
朝には起き上がって語り、起き上がって光の中で歌いましょう。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-8-disguised-sweetness/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97203です。

 以下はThe Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellの私訳である。この項はhttp://www.truthfulwords.org/biography/havergaltw2.pdfによる。

第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(1)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより 
 1836年12月14日、ウオーセスターシャ(Worcestershire)のアシュトレー教区で産声をあげた小さな少女ほど幼年時代に好条件で生まれた子どもはいなかっただろう。その女の子フランシス・リドレー・ハヴァガルはウイリアム・ヘンリー・ハヴァガル牧師とその妻ジェーンの一番下の子どもだった。上には三人の姉、二人の兄たちがいた。

 ハヴァガル氏は昔からの教区民の一人が述べるところによると、体が敏捷で 、イギリス人の中でもまたとない敏捷さだったと言う。彼は若い時、三マイルを25分で歩き、「牧場の柵にある踏み板には決して触れることがなく、やすやすと見事に飛び越えるほどだった」と言う。

 精神面でも音楽の作曲に秀でた賜物の持ち主だったので、教会賛美歌の何曲かは曲名を学んでいる人に話す必要はほとんどないほどである。牧師としては、前述の昔からの友人は「彼が週日家々を訪問して、日曜日にはそれらの人々を教会に呼んで来た。また、t'others〈意味不明〉と同程度に非国教徒をもしょっちゅう訪問していた」と証言している。)

2016年2月7日日曜日

終ることのない多種多様な喜び

露にぬれた草の中に光るは主のいのち♪※

あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。(詩篇16・11)
 あなたはいつまでも続く喜びを持ったことがない。あなたは大きな喜びを期待して待っている。そしてその時が来る。ところが 、すぐその時は過ぎ去り、あなたは振り返ることができるのみだ。あなたがかつて経験した中でもっとも長く、もっとも楽しい日が終った。それにくらべて神の右にある楽しみはどんなに違っていることか。

 その楽しみは永遠に続き、終わったり、その終りを見たりすることはできない。なぜなら、終りがないからである。しかもそれは一つの喜びだけではなく、終ることのない多種多様な喜びである。私たちがその喜びについて話すことができるのはわずかなことに過ぎない。その喜びは聖なる喜びで、決してどんな罪も混在していないものだ。駄目になるものは何一つない完全な喜びだ。
 テキストが言っているように持続する喜びである。「彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。」(詩篇36・8)とダビデが言っている豊かな喜びである。その喜びは水たまりではなく川となって流れる喜びであるので、つねに新しくあふれる喜びである。「彼らが飲む」と言われずに、「あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。」と言われるから、その喜びは神様ご自身によって与えられる喜びである。 

限りない大洋のような喜び

神の子たちの目を見晴らせる

無限にして多様な宝物
人間の尺度では測れないほどの

聖なる知識、聖なる喜び

永遠なるお方の大きな自由の中に憩う

その讃美のようにとこしえに新しい


(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-7-manifold-pleasures-unending/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97202です。

 彼女について次のように言われた。「フランシス・リドレー・ハヴァガルはその名を馳せる通常の称号は何一つ持たなかった。彼女が抜きん出ていたことは霊的な体験が完全に身に記されていることだった。彼女の献身には限界がなく、一切の留保もなかった。彼女は自己放棄の秘訣を体得していて、完全に神様にささげ切っていた。この特質ゆえに彼女の書き物はたくさんの人々の魂に届き、不思議な刺し貫く力をもって人々を感動させた。」

 ※今朝、庭の草花のあちらこちらが銀色にキラキラ輝いていた。昨晩うっすらと雪も降ったようだが、それもいつの間にか消えて、輝かせていた。引用したことばは日々の歌34番の一番の歌詞である。続いて「天地を造られた主を讃え歌おう♪」とある。「露のごと 我が生涯 光る主」。 )

2016年2月6日土曜日

自己確信でなく御霊による※

「これらすべては、私に与えられた主の手による書き物にある。彼は、この仕様書のすべての仕事を賢く行なう。」(1歴代誌28・19)
 
 このことは主がダビデに奇跡的に書き記された巻物を与えられたことを意味することではない。なぜなら数節前にすべては御霊によって与えられたと書いてあるからである。そのように、ダビデが書いた時、主の御手が彼の上にあり、ソロモンがその宮廷や部屋や宝物や器具をもって建てることができるように、神殿の全詳細の記述を一文字一文字ごとに正しいことばで書くようにうながされた以外の何ものも意味し得ないのではないか。

 私たちは時々困惑し自らが無知であることを意識し、どう言うべきか教えてくれる人が誰かいないかと祈りながら心を落ち着かせ書いたことがないだろうか。郵便物のための単なる覚え書きであろうと印刷物であろうと、そのような時、人間の手の上に神の手が置かれるこの力強さを思い起こし、同じ主から同じ助けがいただけるように乞い願うことは大変勇気づけられることである。そうすれば必ず与えられるからだ。

イエス様のために私たちはどうあればいいのでしょうか。主よ、日々みことばをお与えください。

必要が生ずるときはつねに、あなたのこどもに何を言ったら良いか教えてください。

私たちに聖い愛と忍耐をお与えください、深い謙虚さをも。

私たちの自我の心が空っぽにされますように。そうすれば心はあなたで満たされます。

私たちに目標と信仰、熱意を与え、私たちに勝利を与え、賢くしてください。

二心なき、強さと恐れなき心に—あなたはお呼びになり、私たちは引き上げられます。

あなたの良き御霊の力によりあらゆる愛のことばが伴い行きますように、

そうすれば備えられ心、開かれた心に私たちのメッセージは必ず届きます。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-6-not-spired-but-inspired/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97201です。※標題は原語でNot Spired but Inspiredとあるが、上記のように訳した。

 病気がちであったにもかかわらず、フランシス・ハヴァガルは空いた時間を聖書クラスに目一杯使い、YWCAのための読書や特に霊的な相談や助言を求めていた少女とは広範囲の文通を行なった。最後まで活動的であったが、1879年6月3日南ウエールズのスワンシーのキャスウエル湾で亡くなり、彼女が生まれた昔の教区の近くのアシュトレーの教会墓地に埋葬された。彼女の墓はhttps://en.wikipedia.org/wiki/Astley,_Worcestershireで見ることができる。) 

2016年2月5日金曜日

主のためにいのちもくちびるも

主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。(詩篇51・15)

 私たちのくちびるが開かれる時、ああ、人はどれだけくちびるをイエス様のために用いたいと願っているでしょうか。イエス様の王国に、イエス様を目当てとして、いい加減な態度でなく、真剣な礼拝をささげるために、くちびるを自由にしたいと願っているでしょうか。もし私たちの言行が悪くないというそれだけの理由で善行をなし、それゆえに善行をなすのは全く容易だというもっともらしい理屈をつけて、イエス様のためにしようとしていることよりも、実際にすることがどれほど小さくなってもかまわないとすればこれほど恐ろしいことはありません。

 私たちはより低い水準を取り、私たちの力を自分自身を納得させ楽しくさせることに費やしているようなことはないでしょうか。それは、宗教の気に入る一般的な好印象を生み出し、私たちは何でもすべての人のためにできるし、天国の住人と見なされる人はこの世に関することも何でもうまくやっていくということを示すことにならないでしょうか。

 これは良いことかもしれませんが、もっとよいものはこれ以上何もないのでしょうか。もし私たちが誰か信仰において門外漢の人にこの良い印象を与え、それ以上踏み込まず、その人を唯一安全な救いの箱舟にすぐお連れできるようにしないのなら、そのことは、どんな益と言えるでしょうか。

 人々はこの種の働きによって回心させられません。いずれにしても私はそんな人に会ったこともないし聞いたこともありません。もし主のためにいのちもくちびるもほんの少しでも用いたのなら、魂を獲得する特別な機会をたくさん持っていた人がいました。しかしその方の一人の親戚の人は「彼は話すことより静かな影響を与える方がすぐれていると思っている」と愛情をこめて弁解しました。

「それでは、過去数年間、彼の静かな影響によってどれだけの魂が神様のもとに回心させられましたか」というのが私の応答でした。そしてそれに対してもはや答えはありませんでした。なぜなら、静かな輝きは理論上は大変美しいが、彼の影響下に特別に置かれている多くの魂は誰も暗やみから驚くべき光の中へ移されることを知らされていなかったからです。もし彼らもはっきり聞かされたなら、知らされたに違いないと思います。と言いますのもそのような光は見られずに済むものではないからです。

ああ、私に教えて下さい。私が他の人に教えられるように。
あなたが授けてくださるたいせつなことを。
そして私のことばにつばさをください、ことばを届けられるように、
数々の心の隠された深みにまでです。
ああ、私をあなたの満たしで満たしてください、主よ。
私の心があふれるまで
望みが燃え上がり、ことばがほてるまで
あなたの愛を語り、あなたに讃美したいのです。
私を用いてください、主よ。
あなたがご意志なさるように、いつどこででも。
あなたの祝福あるお顔を見奉るまで、
あなたの安息、あなたの喜び、あなたの栄光を、お分かちください。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-5-life-and-lips-for-the-master/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97200です。今日の箇所はほんとうにこの訳でいいのかしらと何度も思わされた。しかし、私にはそうとしか読めない文章であった。英文の専門家のご批判・修正を仰ぎたい。もしこの訳がそれほど間違っていなければ、ハヴァガルの書き記したことは百数十年経った今の異国の私たちに通ずる普遍の真理だと思わされた。
 何よりもこの有名な詩篇51篇を私はハヴァガルのような視点でかつて読んだことがなかった。そのことに気づかされただけでも私にとっては感謝である。ちなみにスポルジョンは1834年生まれ、ハヴァガルは1836年生まれであり、ほぼ同時代のイギリスに生を受けていた男女であることに今新たな感動を覚えている。
 ここまで書いて、ふっと1835年生まれの一人の日本人を思い出した。生涯において二生を生きたとされる福沢諭吉である。明治維新は彼の66年の生涯を二分する年にあたるからだ。かつて果敢に英語に挑戦し、それを物にした彼は、晩年に福音にも触れているはずである。 )

2016年2月4日木曜日

あふれるまで満たされること

ですから行ってお弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。

マリヤはイエスといっしょにいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行き、そのことを知らせた。(マルコ16・7、10)

 証言して、言い広めなさい。王なるお方は平和裡にあなたがたのうちに住んでくださいます。 いのちは栄光の思いで満たされ、時は幸福な働きや平安な期待に満たされ、精神は主の美しいことばと考えに満たされ、心は主の臨在で満ち足りるのです。あなたがたは主に満足し続けるのです。そうです、このことを言い広めなさい。

不思議な魂の深み、落ち着かず、広大で茫漠とした

海のように底知れない深みがあった

何か無限の落ち着きを求めてのひとつの限りない望みだった

しかし今やあなたの完全な愛が完全な満たしなのです

主イエス・キリスト、私の主、私の神。

主イエス様、あなたは私にとって十分です。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-4-filled-to-overflowing/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97199です。

 彼女の短詩である「私の金・銀をお取りください」は、彼女が教会の宣教団体に「ほとんど50近い」宝石を送ったことに言及したものである。両親の思い出であるブローチと姪のポートレートのついた首飾りはふだん身につけているので残しはしたが。
  つねに彼女は精力的に詩と音楽の融合を求めていた。誰かが賛美歌を「religiously jolly(宗教的な狂乱?)」と表現した時、彼女は「私の求めているものは、人々にとって信仰が楽しみと喜びの限りを尽くすことであり、喜びをもって主に仕えることなのだ」だと書き記した。)

2016年2月3日水曜日

お金の使い道を神様に導いていただきましょう

「空仰ぐ 紅梅の点 青に染む」※

銀はわたしのもの。金もわたしのもの。――万軍の主の御告げ。――(ハガイ2・8)

 私たちが主に請求して得たお金は、私たちが管理するため主に信頼し続けるなら、買い物は自ずと別のものになることでしょう。私たちは主のお金を用心深く正しく支出できるように主に指示をあおぐからです。それはちょうど主だったらこうなさるだろうというものです。贈り物や衣服は主の目を意識し、主が私たちの主人であることを意識して選ばれます。なぜなら、私たちは主人のために贈り物を与え、主人に仕えるために衣服を身に着けて、主人のお金で支払うのです。そうすることがすべて良いからであります。

たとえ、東方の君主の衣服が

金やオリエントの宝石でそれぞれきらびやかな色に輝き

その輝きが虹の光よりもさらに輝いていても

天の衣は光で織られ、いつまでも新しい

これらのすべては美しい、そして私たちはそれらを愛している

主のすばらしい贈り物だから。 

けれども、ああ、それらは過ぎ去るものだ。

それゆえそれらにしがみついてはならない。それらよりもはるか、はるか上にあるものを求めよ。

ことばに尽くせぬ喜び、衰えることも、腐敗することもない

見て、知り、愛し、とこしえの讃美をするために

私たちが天の御国に生きるために死なれた救い主

そこでは悲しみ、痛み、死が決して入って来ない

そして絶えず新しい目標を学び、新しい讃美の歌をささげるところだ

ああ、何という前途であろうか。

それにくらべれば、どれほど私たちはしがみついていることか

地上の暗い夢に、そのような希望はいつ与えられるのかわからないのに

ああ、私たちはこの時から、信仰の羽毛の翼で

もはや地にしばられることなく、光り輝く天に飛翔したい!

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-3-let-god-guide-your-spending/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97198です。

 21歳の時、デュッセルドルフの画廊で「エッケ・ホモ」と題するキリストの頭を描いた油絵に震撼され、彼女は最初の本格的な賛美歌である「わたしはあなたのためにわたしのいのちをささげた」を作曲した。その作品は父が作曲していたものである。1874年に作曲された後年の賛美歌「私のいのちを取ってください」は詩の形ではあるが事実上彼女の自叙伝となっている。それぞれの対句表現を通して彼女の生涯が明確に歌われている。

 ※昨日は中央線から富士山が遠望できた。ゆとりある吉祥寺の住宅街の一角に紅梅を見つけた。ベック兄の学びは1テサロニケ4章をテキストにイエス様の空中再臨と地上再臨を中心とするものだった。証された方は年来の知人であったが、最後に読まれたみことばは心に染みた。「私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています。」詩篇143・5

2016年2月2日火曜日

今とこれから

私の栄光は私とともに新しくなり、私の弓は私の手で次々に矢を放つ。(ヨブ29・20)

 誰か新たなるものを求める思いを知らない人がいるでしょうか。新鮮な空気、新鮮な水、新鮮な花、生まれたばかりのこども、そして何人かの人々の話や書き物をとおして提供される新しさ—これらすべては喜びと力を兼ね備えた霊的な新しさを例証したり、またそれに通ずるものであります。なぜならヨブの栄光は彼が新しくなった時であり、彼の手により彼の弓が新しくされたことであったからです。

 新しくなることと栄光。しかし、そのようなことばの輝かしい調べはほんの小さな一触れによって、短音階の旋律にまで下げられるのです。「でした」であって、「である」のではありません。輝かしい現在に代わり憂鬱な過去があります。私たちは「ああ、そうです。それがいつもの道です」とうめいて、不必要に悲しむかわりに、いつもそうとは限らないし、またヨブの自白による並外れた体験が私たちのものである必要はないし、そうならなければならないものでもないということが、どのように自分に明らかになるかを知りましょう。

 もし私たちの栄光が私たちの内の新たなものであるなら、すべては私たちの栄光に依存します。もし私たち自身のいかなるものであれ、—私たちのうちにある腐敗して古びていくものであれ、まわりの消えゆくものであれ—もちろんつねに新たなることはできず、夜明けや春の季節の新しさが続くのにくらべはるかに新しくなることはあり得ません。

 物質的な状態も精神的な状態も美しく微妙な魅力を維持できず、霊的状態もよりよくなることはありません。「体格と感覚」は活力がなくなり、鈍感になり、その他、新しさの欠如を表現するどんなことでも本来的に低下する傾向を持っています。尽きることのない新しさの唯一の無尽蔵の源泉があります。それはキリスト御自身です。「あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ。」(詩篇110・3)いかなる熱やほこりによっても乾ききることのない唯一の露。「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」(コロサイ1・27)がそうなのです。

あなたの支配はなお増し加わるでしょう

私はあなたのみことばを握ります

正義と平和

そして聖霊のうちにある喜びが見出されますように

もっともっと豊かに

私のうちに、あなた様、ああキリスト様、私の主よ。

あなたにあなたの御力を帰しましょう

私の主権者であり、多くの冠をかぶせられるお方。

私の心のうちにあなたの王国を確かなものとしてください。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-2-now-and-afterward/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97197です。例により二段落目の文章は私にとり極めて難解でした。英文を併記する必要も覚えたくらいですので、二段落目は飛ばしてお読みください。その前後のハヴァガルの文章を通して彼女の言わんとすることが何となくわかるような気がします。

 フランシス・ハヴァガルは二様の能力を持っていた。彼女の詩作はよく知られているが、音楽にあっても高い技倆を備えていた。音楽は彼女に言わせると「天国の唯一の普遍性を持った言語であり、一種のアルファベットのようなもの」であった。彼女は熟練したピアニストであり、バッハ、ヘンデル、メンデルスゾーン、ベートーベン、ハイドン、シューマン、それにシューベルトが堪能であった。彼女はコントラルトのソリストであったが、後年、「音楽会で独唱して観衆の拍手喝采を浴びる喜び」を捨てて、自らの賜物を聖歌をひとりで讃美するのに用いた。和音や対位法を身に付け、自らの賛美歌を作曲し、父親の死後には彼の賛美歌集一巻を編纂した。)

2016年2月1日月曜日

キリストが答えです

河口湖 2013.12.2 by N.Y※

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。(詩篇62・5)

 神様のお約束を何か遠い未来のことだと思って、取っておかないようにしましょう。こらしめるために主は「ずっとあとで」とは言われませんでしたし、私たちに根拠もなくそのような言い方はなさいません。むしろこらしめが過ぎるやいなや、平安な実が「神の御栄えと誉れ」(ピリピ1・11)をともなって現われることを意味しています。

 圧迫が過ぎ去るやそのあと現われるものをよく見ましょう。この当面する期待が、もし「私の望みは神から来る」と言えるものであって、私たち自身のいかなる実を結ぶ働きからでもなく、「あなたはわたしから実を得るのだ」(ホセア14・8)ということだけなら祝福がもたらされることでしょう。主からもたらされる実は同時に主のための実であります。

ああ、主よ。あなたが「後に」と言われることはどういうことでしょうか。

私は驚きながらも、待ち望んでいます。

あなたのこらしめの手でへりくだされて

何と平安な実が今や熟し、

私のためにしっかりと熟すことでしょうか。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-1-christ-is-the-answer/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97196です。

 フランシスは自然に敏感であった。「日々の木々や日射しの静かな美しさは私の幼年時における主要な影響となった。波打つ大枝や金色の光はつねに私に働きかけ私の心を落ち着かせ、私に神様について語りかけるものだった。」彼女はアルプスを一瞥するやそのとりこになった。「とこしえに輝く雪の尊厳」は詩篇の言い回しを想起させ、「ダビデがスイスにいなかったと信じるのはきわめて難しい」とまで言った。

 今朝のスポルジョンの「朝ごとに」は次の美しい記述があった。When the Lord first pardoned my sin, I was so joyous that I could scarce refrain from dancing. I thought on my road home from the house where I had been set at liberty, that I must tell the stones in the street the story of my deliverance. So full was my soul of joy, that I wanted to tell every snow-flake that was falling from heaven of the wondrous love of Jesus, who had blotted out the sins of one of the chief of rebels.かつて小学校6年の時、模型飛行機大会で「まぐれ」で一位になり、ほんものの飛行機に乗れると言うことを知らされ、そのことを一時も早く母親に知らせようと走って家に帰ったときのことを思い出した。舞い上がるばかりで、足が地に着かないとはこのことかと後に思った。残念ながらこのスポルジョンの救いの喜びとは程遠いものであり、こちらの喜びはきわめて低次元のものだったが・・・。路傍の石にも、舞い落ちる雪片にも自らの救いを語りたいと思ったスポルジョンの心意気の尊さを思う。

 ※試みのうちに、主イエス様に頼り歩みつつある者に、主は今もあらゆる祝福をもって導いておられる。「友よ待て キリストが答 えですよと」)